どこからが病気なんだろう
※画像はお借りしました
病いが見つかった。
今の今まで持っていたものでも、明らかになると「病気」になるのが不思議で、
明らかになることですぐに、じかに、しっかと向き合わないといけなくなることが焦りになる。
「病人」の私と、まわりにいる人との違いってなんだろう?
今すぐ命に関わる病いではないけど、不調の原因になっているものもあって、手術することになった。
まだなにも決まっていないが、ひとつずつクリアしていかなくちゃならない。
今は手術は3ヶ月先というのはザラだそうで、知ったからには早く、と焦るのは自分だけであり、世の中にはそれだけ待っている方がいるということだろう。
気がはやることと、足踏みしてしまうことは矛盾しないのか、気持ちは今まさに逡巡している。
だから、数ヶ月先になることは、気持ちを落ち着かせる期間だと思うと、それだけ冷静になれる時間があってホッとしている。
どうして病気になったんだろう、ということは考えない。これから考えてしまうかもしれないけど。
それより、自分はようやく健康になれた、と思っていたから、そんな自分がバカみたい、というか、恥ずかしい感じ。
見つかってなかったら今も健康だって思ってただろう。
今のところは不調はあるものの、痛みや苦しさはないのがまだ救いだ。
それに、時間はまだ与えられているので、不安のひとつひとつ、恐怖のひとつひとつ、疑問のひとつひとつを、少しずつ解消していけるかもしれない。
病気になったとたん、病いというのはごく個人的なものなんだとわかる。
だれにも代わってもらえないし、自分が受け止めて見つめないとならない。病気に臨むのは自分の仕事だ。
医師の診断や指示を聞くことと、自分の望むことを伝えることをあわせてしていかないとならない。
つい、もうだれか決めてほしい、と思う。自分でぜんぶ決めるのは面倒だと思う。だけど、していかなくちゃならないね。
自分の胆力を試されてるような気がする。怖い。
泣くこと
冬くらいまで、勝手に泣けることがあった。
胸がぐっとなってノドもギュッとつぶれたようになって溢れる涙と、パラパラ勝手に流れる涙とあって、どちらかというと勝手に流れるものが多い。わんわん泣くんじゃないんだ。
昔、化粧品(SK-II)のCMで桃井かおりさんが鏡に向かって「よし!泣くぞ」って言ってお風呂に入る、というようなシーンがあって、その時すごく共感したけど、同じ思いの女性は多かったと思う。
外(社会)へ一歩出たら、自分の身を守るのに精一杯で、攻撃、防御、息つく暇もない。自分の弱いところはおいそれと出せない、女性ならではの心情をうまくあらわしてるなぁととても感心したCMだった。あぁ、ここにもがんばってる女性がいる、一緒だ、と。
ものごころついてから自然と泣けなくなって、さらに働き始めてからはCMと同じように「よし泣くぞ!」と決意しないと泣けないし、明日が休みで目が腫れても気にならない時でないと、泣けなくなった。
今は歳を経て、自意識過剰さも収まり、人にどんなふうに見られても「ま、しゃーないか、こんな私だし」と、諦め半分開き直り半分で気にしないようになってきたけれど、
今度は「泣く」ということを忘れたか、感性が鈍くなったかで、泣かなくなっていった。
小さいころって、手放しで泣いていたかな?
奔放な妹の、甘えるように泣き、機嫌が悪いと泣き、思い通りにならないと泣く姿をうらやましく思っていたくらいだから、あまり親の前では泣かなかったと思う。泣くことは恥ずかしいと思って、こらえていたことは覚えている。
最近の涙は「こわい」「悲しい」といった感情が湧いて、たったひとりでうずくまるような気持ちになって、そして泣いたからといってスッキリもしなくて「また泣いてしまった…」と余計に落ち込む。
自分の世界に入り込んで、脳内で作った「人の目」それから「自分の目」を気にして怖がっている。
自分が自分の味方ではないんだ。責める対象なんだ。
そうした状態が冬くらいまでで、今はまた泣けない。
感情が鈍麻したような、怖がっている自分が奥の方へ隠れて震えているような、そういった感覚がある。
泣けたら少しは楽になるだろうに、と思うけれど。
次は“赤しそジュース”!
梅シロップを作ることができたのに気をよくして、次は赤しそのジュースに挑戦!
自然にこんな色が出ることが不思議だ。
できあがりは、クエン酸を多めに入れてしまったようでだいぶ酸っぱかった。そのまま飲むには濃すぎる感じなので、水や炭酸水で割って、あと少し砂糖を入れたらさわやかなんじゃないか?!
ヨーグルトにかけたところ。
今回もクックパッド様にお世話になったが、クエン酸を入れた時にさぁーっと色が鮮やかに変化するのが楽しかった。
鍋やフライパンに入らないんじゃないかというくらいワサワサした赤しそを煮出すと、しそ自体がどんどん緑色に変わる。
しそをあげて…、
わかりにくいんですが、黒っぽかったのが、クエン酸を入れたところ、濃い紫色へ!
全部で1リットルほどできました。
これから梅雨に入り暑くなる季節、身体の湿熱を追い払うために役立てます。
絞ったしそは、「ゆかり」にして食べよう!
こんなふうな“手仕事”が、自分でもできるとは思ってもみなかった。若いころはしようとも思わなかった。自分がなにかを作り出す、という概念がなかった。
今の自分は昔の自分よりも「楽しむ」内容が変化して、外へ求めることから内側へ入っていく時期になったのだと思う。
時間の使い方自体はそんなにうまくないし、自由なお金も若いころほど持っていないかもしれないけど、こころは今のほうがよっぽど豊かだ。
たいがいのものはお金で買えるのかもしれないが、そうした娯楽や刺激に対し、だんだんと興味が薄れてきた。アレ欲しいコレ欲しい、という気持ちがどんどんなくなっていく。モノはもうあまり要らない。
自分でやってみること、作ってみることって、面白いことなんだ。ようやく気づいてきた。
梅を漬けた
人生初・梅を砂糖に漬けた〜!梅シロップ完成まであと少し!
簡単だった…なんで今までしなかったんだろうか。楽しみが待ってるって思うとこんなにわくわくするのに。
できたら炭酸水で割って飲むんだ。
夏バテ回復にぴったりだ。(まだ早い)
ヨガを始めて無事半年過ぎて、通うのに日々歩いてるため、できることなら徐々にでも夏バテしないような身体になっていてほしいけど、まだまだやっぱりしんどい時もあるだろうから、一歩ずついくんだ。積み重ねていくしかない。
身体がしんどいこと多いなぁと思うけど、そして身体がしんどいと心もつらくなるんだけど、小さいことでも楽しみがあると一息つける。
梅は、いったん凍らせて(その方が失敗せずに漬けられます、と買った時についてたプリントに書いてあった)、氷砂糖とてんさい糖を混ぜた。
甘くて酸っぱい梅のシロップ、ほんとに出来上がりが楽しみだ。
優しさの配分を決める
私の中の優しさの総量はそんなに多くない。
無尽蔵に優しくできるならいいのだけれど、それほど人間できてないし体力も気力もないのが実状だ。
自分にとってどうでもいい人に、気を使い顔色を伺い愛想よくし、そういった「優しさ」を振りまいてたら、本当に大切な人に優しくしてないということに気づいた。笑いかけることもしていない。なんだこれは。
要らないものにエネルギーを使い果たし、集中すべきところに使う時にはもう残っていない。配分が悪い。
自分にとって意味を持たない人に使う暇があるなら、自分と自分の大切な人に使ったほうがよっぽどいい。
さ、方向転換するぞ。
みうらじゅん氏いいこと言う
みうら:何事も続けることが一番大事です。俺もいろんなジャンルに首を突っ込んできましたけど、それって「好き」であり続けるために重要なことなんです。
好きになるまでやり続けることも俺の基本スタイルですから。というのは、はじめから好きなものって飽きるのも早いでしょ。まず、自分から積極的に好きになるスタイルを貫くことも大切です。いま自作の「SINCE」のTシャツを着てますけど、大好きなわけじゃないですよ(笑)。「こんなの誰が着るんだ? 俺だ!」って思ってやってますから。
みうらじゅんが自らデザインした、「Since DYLAN」Tシャツ
―身も蓋もないですけど、たしかに(笑)。みうら:でも続けていく内、ノイローゼみたいになってくるとね、そのものの面白さがようやく出てくるんです。一時期は「SINCE」が好きになりすぎて、ヒヤシンスの球根を育ててましたから。「SINCE(シンス)」つながりでね(笑)。ある種の暗示を自分にかけていくことで好きになっていくんです。
こわいもの見たさで長年動向を追い続けているみうらじゅん氏、いいこと言ってます。
続けることって、当たり前にできることだと思って生きてきて、でも実際はそうでもないの…? だってまわりを見ても、みんな当たり前のように仕事をし、家事をし、生活をしていること、これは継続だと言えるだろう、だからどの人も当然できることだと思ってきた。
そうでもないの? 続かないことも多いの…? 続けていても、やりきった、と思ったらやめるのはどうなの…?
「続ける」ということがよくわからなくなって、あいまいな感覚に陥っていたけど、みうらじゅん氏、この人が信念をもって続ける、をしているんだ。
好きだから続けること、好きでもないけど続けること、その「続けること」で見えることわかること、気づくことはたくさんある。
でもそれは、そつなくこなす、で続けていては見えないものだ。
もういやだいやだ苦しいできないかも、と思いつつ、ぐーっと入っていって、ある時パッと世界がひらけるようにわかることがある。
どうしても合わないなら続けたってつらいだけだからやめたらいい。だけど、そればかりだと自分が薄い上澄み部分だけの存在のように感じてしまうから、もう一歩踏んばって深いところへ入っていけたらいいな。
みうらじゅん氏は好きなものをいっぱい持っているんだろうな。
この記事とは別に、糸井重里氏との往復書簡ならぬ往復インタビューもおもしろかったです。
うつ状態だったころ
うつ状態だったころ。
今から14〜5年ほど前か。
まだうつとか休職とか傷病手当とか、そういったメンタル系の言葉がそれほど認知されてないころだった。心療内科も今見るほど多くなかった。スマホなんてまだなかったから、駅の看板とかで探さないとどこにあるのかわからなかった。
「一般的」とはまだ思われておらず、違う支社の人が休職したというウワサに周りがヒソヒソ、なんてちょっと偏見の目で見られていた。
でも自分がなってみて「これは流行るだろうなぁ」と強く感じた。
実際私が復職してからは、同じ会社のあちらこちらの人が、倒れたとか休職したとか聞き始めたし、徐々にメディアでも取り上げられるようになった。「一般的」になった。
自分が伏せっていた時は早くなんとかしたくてうつについての本を探したけど、たとえば「認知療法」の本なんて、専門書以外は1、2冊くらいしか売ってなかった。
なにかあればまずは本から当たる私には情報が少なすぎて不安で仕方なかった。もちろんネットの情報も薄いものだった。
いわば私は流行りを先取りしたわけだ。いやいやただ流行りに乗っかっただけ。
私が「もうダメだ、一歩も会社に足が向かない」と駆け込んだその辺の心療内科では、予約なしのクリニックだったけど待合いにはだれもいなかった。
その1~2年くらい後に、調子が悪くなったと感じて、違うクリニックに行った時、待合室には順番が来るのか不安になるくらいわんさか患者さんが待っていた(そこも予約制じゃなかった)。
急速に流行ったなぁ。。
*
実家に出戻っていた私は、いざ休職となった時に休める場所があって感謝したけれど、同時に居場所を取っていることに申し訳なく、自分の状態の説明も淡々と事実を述べるくらいしかできず、心情を話す気力もなく、ただ眠っていた。
父母はなにも言わなかったけれど、妹に「お姉ちゃんはうつじゃないよね」とすがるような目で言われた時は、「信じたくないんだろうな」と感じ、理解してもらえないと思い、なにも話せないとうっすらした寒々しい気持ちで心を閉ざした。
その頃の記憶はあんまりない。
私はよく眠る(過眠)方で、寝ても寝てもだるく、寝ても寝ても眠れた。
眠っていてもずっと神経は起きていたと思う。うつ用の薬を飲まなければ自分を責めるか「死にたい」という声が頭の中に常にあったから。
さいわい、会社の年配の先輩に知り合いの診療内科を紹介してもらい、産業医もついて、回復に向けて安心して休んだ。
いや、安心できるわけないわ。
だって仕事休んだら給料出ない。健康保険のなんじゃかんじゃがあってしばらくは給付された(傷病手当か)けど、たぶん数ヶ月経てばそれも無くなる。死活問題だ。こうして動けなくなったって税金は払わなければならない。病院代だって払っている。
弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂。
人ひとり生きていくのってこんなに苦しいんだなぁとよく思った。休んではいけない社会。まるで死ねと言わんばかりだな、とつくづく思った。
そのころの記憶がない、と書いた。
だから、うつ状態だったころの話を書き留めておきたいのに思い出せない。
あのころ、私はなにを考えていたんだろう。身体の状態はどんなだっただろう。
薬を飲んでちょっと気力が持ち直し、焦り、元気になったつもり、という時もあった。
動けないし動かないから食欲もなくなり、なにかを食べても味がよくわからないこともあった。
食事することも楽しいと思えず、サプリメントだけで生きられたら楽でいいのに、と思うこともあった。
空を見て、こんな自分が生きているのが辛く苦しく淋しく、こころの中は荒れ狂う嵐なのに、表情には出ず身体もどんよりとして動けない状態だった。
あれはなんだったんだろう。身体の中ではなにが起こっていたんだろう。
この文章、たぶんまとまらないしまとめられない。
いつか整理して話せる時がくると思うけど、14〜5年経った今でも順序立てて話せないもんなんだな。
でもこうして残そうと思えたことは、私にとっていいことだと思う。
私が私を否定しなくなってきた、ということだと思うから。
また思い出したら書いてみよう。
私なりのバランス
朝、コーヒーを飲んでいて、飲み切る少し前に「あっもう要らないや」と飲むのをやめた。
すると旦那さんが「そういうのは大事やね」と言った。
「もう要らないと思った、その自分の(身体の)声を聞くのは大事」
ふだんなら、あと一口であれば残さず飲み切ることが多いけれど、その習慣よりも、そして「残しちゃダメ」「ふつう飲むでしょ」といった頭の声よりも、「もう要らないな」と自然に思ったことを優先した。
旦那さんは、「そういう直感のような、身体の声というのはとても小さいから、気づくのが難しい。
でも、ふと思った、ふと感じたことをないがしろにしてると、あとで「あぁ、あれがそうだったのか」とよく思う。
流してしまわずに、その小さな声に従うと後悔がない」とも言っていた。
*
食べるものでは、とにかく身体にいいから、と本当に食べたいかどうかもわからないまま摂っていたりする。
毎日の食事では、栄養的によさそうなもの、旬のもの、身体への不足過剰も考えつつ献立を考えたり料理をする。とても大切なことだと思う。それにいつもいつも好きなものだけ食べてはいられないと思うからそうしてるのだけど、どうしても頭で作った食事は「摂取」という感じだな。
だからといって、今の身体の不足過剰を把握しないままに好きだと思うものだけ食べてたら、それはそれで「ただ食べるのを許している」という感じになる。
どちらに偏っても、身体の声を聞いているとは言いがたい。
ふだんから身体からの小さな声を聞けているわけではないから、本当に必要なのか、本当に食べたいと思ってるのか、と問いかけても、答えはしっかりわからないことが多い。
*
身体の声を聞くには、せっかく気づいたこの小さな声をできるだけ毎回大切にして、少しずつ自分(の身体)を知っていくことなんだな。
*
でもまぁそんな難しく捉えなくても、おいしく食事できたらそれが身体にはよろこびとなって伝わるだろう。私というものは、頭と身体だけじゃないから。心もあるから。
この頭と身体と心が、私なりのバランスでいられたら、私は自分というものをもっとよく感じられるんだろうな、と思う。
感電してみたかった
『13歳までに感電した経験があると、問題解決能力が高くなる』という記事です。
私の旦那さんはコレだそうだ。
この記事を見つけた時、同志がいる!と喜んだそうな。
え? 子どもの頃に、そんな感電するようなことするの?
と私は思ったが、だがしかし、好奇心旺盛でいろんなことしてみたくて、しかもどんなことでも自分でやってみたい、と思うなら、そもそも問題解決能力は高くなると思うんだ…。
体験したことで、なんでこうなった?と考えて、自分なりの発見があって、経験値に変えていける人は、そうやって体験だけでなく想像力や創造力、把握する力、疑問に思う力、などを駆使してるんだ。
子どもは、好奇心の塊なんだと思う。でもどこかの時点で、ストップさせられることがある。
私はたぶん、する前から親に止められた。そんなん危ないからさわったらあかん!
さわらないうちから、さわれなくなった。
自分で失敗して、なんでなのか検証して、結果が自分に返ってくる、という体験は、とても貴重だと思う。人が生きていく上で。
それを、しないうちから止められたら、それでも懲りずにする子どもではなかった私は、親の言うままイイコでいただけで、経験値は増やせられなかったんだな。(親のせいにしてるけど。ま、親のせいだと思うけどな)
中年になっても怖いことが多い(したことがないから)というのは、自分にとってはとても恥ずかしいし情けないと感じている。カッコ悪いと思っている。
今さら経験することは、子どもの時よりも何倍も勇気がいるんだ。怖いんだ。でもまぁぼちぼちでも勇気出していくしかない。自分の人生に、自分で責任を持つために。
だけど、怖いんだけど、わくわくすることや楽しいこともいっぱいある。なにより、経験したことでわかることがいっぱいある。目を開かされることもいっぱい。
自分で失敗してみるのは、おもしろい。
息をすることに集中する
なんてことないことでも、頭の中で思い巡らせていると「息が浅くなる」。(もしくは止まっている)
ハッ、また息してなかったわ!
と気づいて、慌てて大きく息をつく。しばらく息をする。お腹を大きく膨らませて、ぐぅっとへこませるくらい息をする。
そうしていると、あーだこーだ頭の中でワイワイ言っていたことが、なくなる。
頭の中であーだこーだ思っていることは、たいがい「今」のことじゃない。
ただの想像が暴走したものだったり、過去のことや未来の不安だったりする。
過去や未来や、暴走から自由になるには、息をするのが良い方法のひとつ。
今、穏やかになることを選択する。自分のために。
自分が思ったよりアホだった件
自分は人並みには生きていると思ってたけど、違ってた。
自分が思ってた以上に、アホだったことがわかった。
要らぬ知識を詰め込んで、知っているだけで知恵として使わない。
役立ててほしいと人に伝えても、自分ができてないならそんな助言は不要だ。ただの押し付けだ。
経験したことがないことも多くて、それはする勇気がなかったからだ。
しなくてもいい、したくない、できない、という言い訳で、今までせずに来れただけだ。怖くてしなかっただけだ。
自分で決めてこれなかった。人の真似をして、しないでいいならとズルをして、外ヅラだけの体裁を整えて、自分の表面だけしか見ずに来たんだ。
こうして書くと大げさに聞こえるけど、小さいことの積み重ねだ。
一つの例として健康診断。
忙しいから、時間がかかるから、お金がかかるから、といって見ないふりをしてきた。健康診断なんかで何がわかるの、と斜に構えて、そんなの受けなくていいなんて言っていた。
健康診断は、結局は自分のために受けるんじゃないんだ。
もちろん自分の状態を知るために受けるのだけど、
結局は、人に(周りの大切な人に)いざという時迷惑をかけないようにするために受けるんだ。
ということがわかった。
自分の理解力のなさ、想像力のなさ、思いやりのなさ、もろもろひっくるめて、アホだということをしっかり認識した、つもりである…。(まだまだわかってないかもしれないな)
40代後半にもなって、かっこ悪い。
自分のメンテナンスは、自分で責任持ってしなきゃ、もう生きてることも恥ずかしい。
アホだったから、いろんな人にいろんな迷惑をかけてきたんだな。
今もアホだから、まだわかってないこともいっぱいあるだろうな。
今回のことは、人がその人自身のこととして言ったことで気がついた。チクッと痛かった。情けなさと恥ずかしさで、下を向いてしまった。
情けないことだったけど、もっと謙虚になろう、と思えた。自分のことに集中しよう。人のことを気にしたり、見たりしてる暇はないんだ。
自分ができることをしよう。
どうしたって鳥を選ぶ
よくある心理テスト。
森の中を歩いていたら、動物に出会いました。どんな動物だったでしょうか?
とか、
空から何かがあなたに向かってきました。なんだったでしょうか?
といった、3択や4択の心理テストで、例えば森の中の動物なら、「うさぎ」「鹿」といった哺乳類から「フクロウ」などの鳥類、
空から向かってきたものなら「鳥」「飛行機」「風船」というような選択肢が提示されています。
しかし私は、その選択肢の中に「鳥」があったら、なにをどうしたって鳥を選んでしまい、これでは心理テストにならないんじゃないかと最近思うんです。
なんなら、「空」といった時点で「鳥」が頭に浮かび、「動物」と聞けば「鳥」と反応するのですから、
選択肢の中に「鳥」がないと急にやる気をなくすこともあるのです。
これって熱烈な鳥ファン、鳥好きあるあるなんじゃないかと思ったりするんですが、そうでもないのかな?
鳥好きさんに聞いてみたいところです。
習慣のありがたみに気づく
この間の朝、起きたけど頭はまだボーッとして、でも身体は自動的に朝の用意をしていた。
お湯を沸かし、食器を並べる。コーヒーを淹れる。
小鳥たちの暗幕を外し、おはようと声を掛け、水やエサを入れ替える。
そのうち目がしゃんとしてきて、頭のスイッチがオフでも勝手にやることやってくれてる身体がある、って気づいた。
身体、すごい。
習慣ってすごい。
少し前に、その習慣ほんとに要るの?と、自分の行動をちょっと見直してみていた。
なあなあのただの惰性で要りもしないのにしてることいっぱいあるだろうから、心からそれをしたい、それが欲しい、と思ってるのか、という見直しをして、自分でその都度選ぶ、ということをしていた。
今も少しずつ続けている。時々まだ、これは本当に食べたいの?別に欲しくないの?どれなの?と訳が分からなくなるけど、それも面白い。
私はどこにいるんだろう、今考えている私は私なの?どの私なの?どの役割をしようとしてるの?もしかして何人もいるの? そんなことまで想像を膨らませて笑っている。
私の好き・嫌いを見つける練習をしている。
極端な動きをすると反動で大きく揺り戻す、ということはどんなことにもあると思うのだけど、
その練習のなかで「習慣=悪」って思い込んでいた。
でも今回、「習慣」はただの習慣で、善でも悪でもない。悪どころか、自動的にすることをしてくれる、けっこうすごい機能だということに気づいた。
習慣に呑まれ、そればかりして余裕がなくなることは自分の身にとっての悪に近いかなと思うけれど、「普段の生活を普段の通りに送れるように自動操縦してくれる習慣」は、私を守ってくれてるんだ。
そして、習慣になるまで身体を動かし続けたことは、継続力と根気が自分にもあると気づかせてくれた。私は飽き性でよくないな、と思っていたけど、けっこう続ける力があるんだ。
身体、すごい。
習慣、すごい。
習慣に助けてもらってる。
塩麹とぬかの末路
以前、無印のぬか床を買って、独特の風味すぎて(塩辛すぎ、しょっぱすぎて)私たち夫婦には食べられなかった。エグみが強く、飲み込むのがつらいなんてそんなぬか漬けあるのかな…と、卵の殻を混ぜたりどうにか工夫しようとしたけれど力及ばず、捨てた。
ネットのレビューや漬物を特集したムック本を見るに、高評価だったので私どもの舌がヘンなのか、たまたまそのぬか床ひとつだけに難があったのか。舌がヘンなのだとしてもこの舌しか持ってないし、自分たちが食べられないなら無理だ。
とにかくもうぬか漬けにチャレンジするのに意気消沈。今はハードルが高いんだなと判断した。いつかまたやってみたいけど、せっかくの材料をあんなにおいしくなくさせてしまうことが怖くてできない。
そして数ヶ月経ち、今回は「塩麹」を作った。こちらはうまくいきました。ホッとしております。
塩麹は各メーカーの製品を買っていた。しかし自分で作れると知って、あんなおいしいものが自分で?これはやらねば、とトライした。…と鼻息荒く言うほど難しくはなくて、それにもホッとしております。
さっそく漬けたダイコンとキュウリのおいしいこと!塩辛さより、じわ〜っとするうまみと後味の甘さに感動だ。鶏肉も漬けている。はやく食べてみたい。
作った塩麹はその後半年ももつそうだ。そんなに経たないうちになくなりそうだ。
ぬか床の乳酸菌よ、ごめん!そしてさらば!
新たな救いの神、麹菌よ、助けてくれてありがとう!!
粉もんキャラテスト
お好み焼き・たこ焼き・焼きそばの少量ずつが入った「粉もんトリオ」なるものがスーパーの惣菜コーナーにありまして、でもこの連休中は製造サイクルが違うのかまったく置いてなかったために、主人がとてもがっかりしてたんですよ。
それで思いついた「粉もんトリオ」のキャラ設定。(なんだそれ)
「お好み焼き」…王道。粉もんの王者。キャベツもたっぷり、満足感を与えてくれる。豚肉、イカだけでなく餅、チーズ、明太子などなど、いろんな具に対応できる懐の深さ。
「たこ焼き」…丸くてコロコロ、若男女に愛されるムードメーカー的キャラ。一口で食べられるように気遣いもできる。外がカリッ、中がトロッというように、楽しめる二面性。青のりを歯につけるイタズラ好き。
「焼きそば」…お好み焼き屋さんやたこ焼き屋さんはあっても焼きそば屋さんはないように、影のあるちょっと偏屈キャラ。食べるにも麺がバラついて食べにくかったり、麺と具がうまくまとまってくれないことも。ソース味だけでなく塩焼きそばなんかがあるように、個性を打ち出している。そしてここが肝心なところだが、焼きそばは厳密には「粉もん」ではない。いったん「麺」にする、という一手間がかかっている。ここから推察するに、ちょっとめんどくさいキャラなんではなかろうか。
…なんだか…、焼きそばにだけ悪意があるような説明になってる…!
思いこみ全開でイメージしてみました。それぞれ魅力的なキャラだと思うんですがいかがでしょう(自画自賛)。
ではさて、自分はこのトリオの中なら、どのキャラに近いでしょう?
私は、食べる時の好みとして、このトリオなら焼きそばを選ぶんですが、キャラもやっぱり焼きそばだ、とみずから認めざるを得ません…。