ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

生い立ち

私の生い立ちについて書くことにする。

アダルトチルドレンについて理解しようとしたことがきっかけだ。

知らないことを知ることは自分自身を知ることにつながると思うので、アダルトチルドレンを理解していくことは自分への理解の助けになる。

と思ったのだけど、自分の幼いころを思い出していくと、知らぬ間に涙が出てくるもんなんだな。

それに、書いていて思い込み全開だな、という思いもあった。だけど…それは今の私には真実なんだろう。それを踏まえてこれからも歩いていくしかない。

 

私は、父、母、私、妹の核家族四人の家庭で育った。

父方の両親は離婚していて祖父の顔は知らない。祖母は性格が強く、母にキツく当たって泣かしていたのを見て覚えている。父は5人兄弟の次男。サラリーマンだったが、兄弟で一緒に商売をするようになる。やがて兄弟間で父だけのけ者にされ、あとに父は独立。

長男である伯父は新年の挨拶に酢昆布の小さな箱ひとつを差し出すようなどうしようもない輩だったのを覚えている。あとの弟妹たちもなんか変な感じだった。だけどこれは母から苦労や悪口を聞かされ続けてきた刷り込みかもな。

父は独立したことで兄弟とは疎遠になっていったようだが、年老いてからはやりとりをしていたらしい(数人はもう亡くなったようだ)。

母は6人の兄姉妹の下から2番目。田舎だったので集団就職で出てきた。長兄が田舎の果樹農家を継ぎ、姉妹たちもみな都会へ出てきたため、私が子どものころは姉妹間で行き来がたくさんあって、従姉妹たちと遊んだ。

 

思い出せるのは、父が独立後、工場を持ち従業員を雇い、家を店にして母が手伝っていた。引っ越しは数回あったが、私が物心ついてからの期間は、長く店舗付き住宅での暮らしだった。

父は仕事が忙しくほぼ顔を合わすことはなかった。昭和半ばの時代だし、土日連休などなく、店の休みは日曜だけだった。父も母もよく働く人だった。それで、私や妹は商売を手伝うこともなくのほほんと好きなことをして過ごせた。

母は仕事と家事でいつも大変なようだった。パートさんを雇って来てもらっている間も、店と家は繋がっているわけで、心身ともに安らぐ、ということはなかったのではないかな。

 

よくある、不在の父・透明な父と、母子の癒着、という構造が透けて見える…。

 

高校生のころ、母が胃がんで倒れた。入院、手術、いろいろあっただろうに、あまり記憶がない。食材を買ってきてくれたりしたパートさん、父も早めに帰って、といった、生活激変の時だったと思うのだが、私はそんな状況でも危機感もなく呑気に暮らしていたんだろうな、と思うと、幸せな子ども時代だったんだろうな。

(私は日々の出来事にはきゅうきゅうとして視野が狭く必死になる。だけど、いやだからなのか、総じて全体を俯瞰して見ることができない。その性質はまったく今も変わっていない。

ここのところようやく数年前のことを思い出すことで記憶を定着させるようになってきたけど、幼児〜高校生くらいまでの記憶がとんとあやふやなままだ。思い出そうとしても、なぜかストップがかかったように思い出せない。)

 

父26歳、母23歳で結婚、子(私や妹)ができるまでは、ペットをたくさん飼ったり、ステレオでレコードを聴いたり、サイフォンでコーヒーを淹れたりと、生活を楽しみ、ほかにも趣味は多くあったようだ。若い夫婦の暮らしは希望もありキラキラと楽しかったんじゃないかな、と想像できる。自ら商売をするまでは。

父は仕事人間、母も仕事と家事で忙しく、休みが少ないとはいえ、旅行が好きで、いろいろ出掛けたようだ。(ほんとうに幼かったころの旅行について聞かれた時、忘れてしまった、というと、あんなに連れてったのに、とか言われたな。)

このあたりまでが伝聞だが実際の話。

そしてここからは、私がずっと気になっていて整理もできていないこと、思い感じていることだ。

 

きょうだいは私と妹、と書いたけど、私は第一子ではない。姉がいた。

5歳離れた姉だった。私が生後8ヶ月の時、トラックに撥ねられて亡くなった。

そこからの数年は、私はもちろん覚えていないけれど、この家は悲しみと苦しみのどん底だっただろう。

はじめての子、母の手作りで母娘おそろいの服を着て、可愛がられていた女の子がいきなり死んでいなくなった。

自分がもしそうだったら…と想像するに、胸が痛んで苦しくなる。怖ろしい。つらい。

しかしつらくとも、1歳にもならない私がいる現実があり、仕事があり、生活があり…、何もかも投げ出し悲しみに浸りたい思いが叶えられなかっただろうな、と思う。悼む時間がじゅうぶんには取れなかっただろうな、と思う。

事故とはいえ、昨日まで生きていた5歳の子がいきなりいなくなったのだ。ショックだし呆然とするだろう。底無しの穴に突き飛ばされたような感覚だろう。なぜなのかさっぱりわからないだろう。なぜあの子が!?なぜ私たちが?

生きる気力も、希望もない暗闇のなかで、ただただ生活する、息をする、という状態が確実に数年はあっただろうと思う。

 

姉の死については、小学生になって意思疎通ができるようになった頃か、親から聞いた。正直、ピンとこなかった。

私は姉の顔を知らない。

はじめての子でたくさん撮ったという写真もほとんど当時のショックで捨ててしまったそうだ。ほんの数枚残った写真を見ても、なんの気持ちも湧きようがなかった。なにも覚えていないのだから。

もちろん父母には姉と暮らした年月がある。思い出がたくさんあるだろう。姉は利発で素直で明るい子だったそうだから、楽しい日々だったと思う。

そんな姉がいなくなった暗闇の生活のなかで、ただ呑気に赤ん坊として生きていた自分を想像すると、「なんの役にも立たない子」だったんだな、という思いが迫り上がってきて、悲しく淋しくなる。

ひとりでは何もできない赤ん坊で、姉の思い出話を一緒にできるような子ではなかった。お父さんお母さんは苦しいのに、私は何も知らなかった。お父さんお母さんの役に立てなかった。そんなふうに思うようになった。知らなかったのだからしょうがない、とは思えないのだ。

 

私の赤ん坊のころの写真は数枚しかない。

それは仕方ないこと。父母は私の写真を撮るどころではなかったのだから。もう考えても詮ないことだ。そうは理解しても、5年後に産まれた妹の写真の多さと比べると、私はいらない子だったのかな、と思うようになった。

事実を歪めて捉えてしまうようになった。

 

私の写真で、私も驚くものがあった。小学低学年のころか、にっこり笑顔で顔の横に両手をパーにしてポーズを取っておどけている。

こんなの珍しい、と母に言われた。

私は小さいころから写真を撮られるのが苦手で、いつもしかめ面か真面目な顔つきで写っていた。陽の光が眩しくてしかめ面だったのかもしれないけど。

たしかに珍しい写真だった。だけどね、こんな面もあるんだよね私、とも思うのだ。いい天気の日、お日様にあたってツヤツヤしている笑った顔。とても楽しそうな顔をしている。

だけど、母にただひと言珍しいねと言われただけで、真面目な顔、しかめ面、そっちのほうが私らしいんだ、と思うようになった。なんの気ない言葉だっただろう。だけども、母は絶対的存在だった私からすれば、そんな小さいことの繰り返しで、どんどんと狭い捉え方をせざるを得なかったのだろうな、とも思う。母の望む姿にならなければ、と。いい子でいなければ、私は見捨てられる。常にそう感じていた。

 

母も余裕がなかったんだろう。ちゃんとしなさい、しっかりしなさい、お姉ちゃんでしょ、我慢しなさい、と言われ続けてきた。

私は押さえつけられている、ということにうっすら気づきながら、ここを出ていけない、見捨てられたら生きていけない、と幼いながらも生きることに必死だったんだ。

表面上は呑気に遊んでいたが、心のなかは淋しく空っぽな感じが普通の状態だった。

 

毎日は、小さな出来事の積み重ねでできていて、そのなかでどんどんどんどん認知は歪み、私という人間を形成していった。