ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

私が私でいるためには、私もうんしょと力を出さなきゃならない

落ち込んだり、しんどい時、自分を追いつめずに逃す方法

・書き出す

・自分の感情、気持ちを受け止める

・時間を気にせず眠る

・信頼する誰かに聞いてもらう

・音楽を聴く

・お風呂に浸かる

・好きな香りを嗅ぐ

・料理する

・縫い物をする

・自然の中を歩く

・ヨガやストレッチする

・動物の動画を見る

・動物や宇宙や、知らないことを調べる

・好きな場所を思い浮かべる

・好きな場所へ行く

・好きなものを食べる、飲む

・本を読む

 →日常から離れたことが書いてある本

 →推理小説

 →好きな作家のエッセイ

 →まんが

 

思いつくものはこうしていろいろあるけれど、では実際どれくらいやっているか。

ほとんどしていない。

何かしながら別のこともして、結局どれも中途半端な、ながら作業でごまかしている。

書き出すことや、感情・気持ちを受け止めること、眠ること、これらは自分にとってとてもだいじなことだと思うのに、自分のための時間をとっていない。

 

文句、怒り、イライラ、悪態、恨み、しかめっつら、口元も下がる。

そんな負の感情で胸がいっぱいに詰まって、破裂しそうになる。

破裂したら怖いから、ぎゅうぎゅう押さえ込んで見ないようにする。

胸が重くなって、固くなって、苦しい。(実際に前屈みになりがちだから、胸は硬くなる。)

数日そんなでやりすごして、だんだんと抜け出る。それの繰り返し。

とっても時間の無駄をしている。

負の感情に取り憑かれたまま、貴重な自分(の時間)を浪費して、消耗している。

 

嫌なことがあった時、たいがい誰か絡んでいる。要は人間関係だ。

嫌なことをされた、と私が感じるその人は、私に何かしたなんて思ってもみない。

だから私がさっさとその負の感情から離れれば、私は平和でいられる。

だけどなかなかそれができない。

気にしたって仕方ないのにね。

 

私が私でいるためには、私もうんしょと力を出さなきゃならない。

・書き出すこと

・感情、気持ちを受け止めること

・眠ること

ここはひとつ、自分自身のために。

私が落ち着いて平常心を取り戻せば、周りの人にも優しくできる。まずは自分から、って本当にそうなんだ。

理想の生活

私の理想の生活は、

朝4時過ぎに起き、夜明けを待ちながらまだ薄青い空を眺め、コーヒーなんか淹れて、ぼんやりする

 

本格的に朝になったら、仕事をして、日中をよく動いて過ごす

できる限り集中して、余計なことは考えない

 

夕方4時くらいから、台所で「楽しみながら」料理したり、なにか飲んだりつまんだりして、のびのびとした余裕ある気持ちで過ごす

 

6時過ぎ、早めの軽い夕食を済ませたら、まだ明るい外に出て、気楽に気ままに散歩する

本屋に行く

 

8時ころ、これからの夜を静かに送る

ゆっくり入浴する

空を見上げてみる

本を読む

 

気持ちはそれ以上乱されない

だれも私の時間の邪魔をしない

私の大好きな作家と作品(過去)

忘れないように。

今の時点での大好きな作家と、そのなかでもいちばん好きな作品を挙げる。

 

小川洋子ブラフマンの埋葬』

梨木香歩『渡りの足跡』

北村薫『秋の花』

川上弘美『蛇を踏む』

高村薫マークスの山

横山秀夫『64』

石田衣良池袋ウエストゲートパーク

恩田陸六番目の小夜子

赤川次郎三毛猫ホームズの追跡』

宮部みゆき『理由』

村上春樹アフターダーク

松尾由美『バルーンタウンの殺人』

武田百合子富士日記

北森鴻『花の下にて春死なむ』

新井素子『あたしの中の…』

近藤聡乃『ニューヨークで考え中』

高野文子『黄色い本』

楳図かずお漂流教室

大友克洋童夢

フジモトマサル『二週間の休暇』

夢野久作ドグラ・マグラ

 

伊坂幸太郎(いろいろ読んだがまだ出会っていない)

河合隼雄(いろいろ読んだがどれか覚えていない)

種村季弘『徘徊老人の夏』(エッセイ以外、語れるほど読んでいない)

荒俣宏(最近の本は追えていない読めていない)

 

20年前くらいから更新が滞っている。

本好きを標榜している割にはあまりに少ない。なんだこれは。忘れたのか。

 

もうずっと、新しく知らなかった作家の本を読んでも、忘れ、印象に残らず、追いかけなくなった。

これは本を読む時間が少なくなったこと、読み続ける根気が減ったこと、本を買う労力を惜しむようになったこと、そもそも本屋に行かなくなり知らない本に触れる機会が減ったこと、本は読んでもハウツー本だったりで「物語」を読まなくなったこと…いろいろ原因はあるけど、

本に入り込む心の余裕がなくなったんだと思う。

とても淋しいことだ。

 

どっぷりと本に浸かっていた、浴びるように読めていた時期は過ぎ、ぽつぽつとしか読めなくなった。

あんなに多くの作家を追いかけ、新作を心待ちにし、次から次へ読む楽しみを満喫していたのに。本を読むことは私の生きがいだとも思ってたのに。

あぁ、こんなことではボケてしまう。

だけどまた始めたらいいか。ぽつぽつとでも。

好きな本が増えていきますように。

『かもめ食堂』『東京オアシス』

小林聡美さんのファンなのに、そしてあんなに話題になってた時には観なかったのに、『かもめ食堂』のDVDを買ってようやく観た。

なんか、じんわりした。

聡ちゃんの存在感はすごい。すごいこの人。

表情かなぁ。抑えたような、言いたいことはあるけどあえて言わない感じ。呑み込んでる感じ。自分を律する感じ。

 

動画配信サービスで『東京オアシス』も見たんだった。

これも、人との距離感が聡ちゃんにしか出せないように感じたんだ。

近くはない。でも遠すぎもしない。

呼びかければ応えてくれる。でも時々は知らんぷりする、そういう感じ。

見てるよ、でも見てないよ。

押しつけのない、サラリとした感じが、それこそサラサラ流れる風のようだ。

 

前に、聡ちゃんの出演するお芝居を滋賀まで観に行った。生で聡ちゃんが観られることにうれしくて高揚して、ドキドキした。

映画やテレビで観る聡ちゃんだった。

そのお芝居はあまり台詞がなくて、身体の動きがたくさんあった。動きもなんか、聡ちゃんだった。ぜんぶまるごと聡ちゃんだった。

お芝居のあとに特別にトークコーナーがあって、話す聡ちゃんの声を聞けてこれまたうれしくて高揚して、ドキドキした。

お芝居が終わって話しているけれど、どこからどこまでがお芝居で、どこからが素なのかぜんぜんわからない。

 

その前にも、大阪で聡ちゃん主演のお芝居を観た。これもそんなに台詞が多くなく、流れるような舞台設定を流れるように動いていたのが印象に残っている。

 

どれも、受け止めてくれる度量や器量、みたいなものを感じたんだ。

軽やかでサラサラしているんだけど、ぐっと肚に力を溜めて、覚悟をしているように思えた。

流れの中に深い箇所がある、渓流のようだ。中に潜れば渦を巻くような深い部分があって、視界も薄暗く圧力もあって自由自在には動けない。

だけど川の表面に出れば、流れは清くて速くて、陽の光を反射してキラキラしている。

 

来たかったらおいでよ。

見ていてあげるよ。

でも無理強いはしないよ。

 

いつも聡ちゃんからはそんなふうに感じる。

いつのまにか、聡ちゃんの人となりなど知らないままで、聡ちゃんならどうするのかなぁ、と想像するようになった。

そしてそれはうまく想像できないままだ。でもまぁそれでいいんだ。

 

憧れの人がいるって、いいな。

『西荻夫婦』やまだないと

「一人でいると二人を感じる」

そう書いてあるのを読んで、

「二人でいるともっと一人だ」と感じていた私は、この漫画の、淋しくて悲しくて虚しい感じが好ましいと思いつつ、主人公の言うようには思えないな、と思った。

すうすうとずっと風が吹き続けているような、人と人が一緒にいることの不可思議さに立ち止まるようなこの感じ。

生活に取り紛れていれば考えないですむことが、気づいたらじわじわと黒く迫ってくるような感じ。あぁ気づかなければよかったのに。

主人公と同じではないけれど、寄って立つもののない者のぐらぐらとおぼつかない空虚感をよく表していて、共感した。

淋しい淋しいと言い続けて誰にも届かない虚しさや、どこにも行けない行き詰まり感を読むたびに感じ、

人間はひとりで生まれてきてひとりで死んでいくんだなぁとも思った。だれかと一緒に死ぬことはできない。

 

10年以上前にはじめて読んだとき(そしてしばらくこの物語が胸を占領した)、私は、自分と夫の間の「なにもなさ」を毎日感じ、不安になりながらそれを見ず、話し合うこと以前に話すこともしなかった。

日々の生活を送ることで精一杯で、精一杯に頑張っているということにして問題から目を逸らしていた。

そうしているうちになにが問題かもわからなくなった。こうなったきっかけや原因はなんだろうと今さら考えても仕方ないことをぐるぐる思い巡らせていた。そうすれば現実を見なくてすんだから。悩んだふりをしていれば今のこの怖さに対処せずにすんだから。

常に「二人でいるのに一人」だと感じていた。

こんな状態で夫婦になれるはずはなかった。腹を割って話すことをしない夫婦。ただ一緒の空間にいるだけの夫婦。こんなので未来なんかない。

夢がない。希望がない。なりたい姿もない。ふたりでしたいこともない。

ただ毎日を過ごすだけ。そんな夫婦があるか? そんなので何十年もやっていけるか?

目をつぶって、なにも見えない。

 

最後の主人公はいったいどうなってしまったんだろうか。

はじめに読んだときは、精神的にやられてしまってドロップアウトしたんだと捉えた。

自分で自分を追い詰めて、苦しさに囚われてしまって、内側の誰にも触れられない場所に逃げ込んだ主人公が、「おかしくなってしまったことで」少しの間だけ平穏な状態や気持ちになれたシーンが描かれているんだと思った。

今はちょっと違う。

どうなったかということよりも、どんな状態に陥ったにせよ、今そばにいてくれる人と一瞬一瞬を少しでもあたたかく優しく心地よく過ごしていたらいいな、と思う。

そばに人がいてくれる、ということは、切実に貴重なことだと思うから。それが夫婦ならなおさらだ。親よりも友人よりも近い。

だから、あの最後の状態になってから、主人公たちの夫婦というかたちがスタートしたんだ、と思いたい。

一人と一人が添うことで、二人になった。

二人でいて、二人を感じてほしい。

 

西荻夫婦』やまだないと

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今だから思えること

二十歳のころ、未来がたくさんありすぎて

得体の知れない社会に出るのが怖かった

茫洋としてなにがあるかわからない未来が怖くて

まだなにものにもなっていない素のままで

踏み出していくのは本当に怖かった

失敗する勇気も持っていなかったし

傷つくだろうことがわかってたから

 

昔のように失敗を怖れて経験してこなかったことがたくさんあるけれど

それでもそうそう死にはしないことはわかったから

あいかわらずトライすることに二の足は踏むけれど

怖さは少しずつ薄れてきた

 

二十歳のころ、未来は恐ろしいものだと恐怖していたから

傷つくことがたくさん起こった

これは、自分が招いたことでもあるね

でも仕方ないね

まだなにも知らなかったんだから

 

なにものにもなれなかったけれど

二十歳のころよりもよほど自由だ

 

ようやく

自分のゆるめかたもちょっとは見つけられて

好きなものも嫌いなものもぜんぶじゃないけど知っている

 

自分を知る意識や行動は

まったく無駄じゃなかった

 

自分を知ることで

自分の枷から外れることもできる

自分のことを大事だと思うこともできる

 

未来はもうたくさんはないから

かえって自分の身体を大事に扱おうと思える

今まで半世紀近くいっときも休まず頑張ってくれている身体

要らぬことも思い巡らせるけど

飽きずにずっと付き合ってきた頭

 

私の代わりはいない

私が私を認めてあげるよ

私は私以外になれないから

仕方ないもんね

 

おもしろくない私

いつも穏やかにいたい、と思ってたけど、どうやら違うみたい。

私は怒り(いかり)たいようだ。

我慢してることを見てないフリして蓋をして、ルールを守らない人や好き勝手してる人に怒りをつのらせる。

私はちゃんとしてるのに。ルールを守ってるのに。…なんて、自分でギッチリ縛ってる。

 

いつも穏やかでいたい、と思ってたけど、毎月の生理での体調の乱高下や、気候に振り回される日々。疲れるほど動いてないし眠ってもいるのに溜まる澱のようなもの。

どんよりする。もうしんどい、しか言葉に出てこない。

 

いつもなにかに興味を持って、してみたいことをしてみる、って憧れるけど、身体がついていかない。お金も潤沢にあるわけじゃないし。

すると、それを言い訳にして動かない私なんて無価値だ、なんのために生きているんだ、と気持ちがささくれ。

ふさぐ心。そうしてなににも興味を持てなくなってくる。そうして面倒くさい、が口癖になっている。

 

つまらない日々。つまらない人生。

どうにも気力が出ず、すぐに疲れ、休めば罪悪感。

頭の中では自分を責め、怒る自分が騒いでいる。

勝手に作っている人の目におびえ、手負いの犬のように攻撃的になり、いったい私はなにをしたくて生きているんだろう、と直す気力もなくただ思うだけ。

 

したいことなんかない。

ずっと眠っていたい。

面倒ごとも馬力のいることも、したい人がすればいい。

ごめん、できないわ。

 

こんな人間と付き合って、だれが得する?

自分でも持て余してるのに、自分でもこんな人いやだなと思ってるのに。

表面だけ笑顔でいたって、それはウソだと自分が騒ぐし断罪しようとする。

 

私を責めない私はいないのか。

 

そうやさぐれてた時に『フジモトマサルの仕事』を読んだ。

「人ごとと思えばむしろよい点も、その対象が自分に近すぎると冷静な判断力を失ってしまう。
これから先、心穏やかに生きたければ、なにごとも遠い視点から、のんびり俯瞰しなくてはいけない。焦るな、その傷もいつかまた味になるのだ、と。」

 

対象は自分自身だから、近すぎて近すぎて離れられない、と思ってたんだろうな。

でも本当にそうかな?

私は私に近づき過ぎなくていいのかもしれない。

いつまでも自分べったりでいてはいけないな、と思った。

ただ私は、私自身やだれかにかまってほしくて、不機嫌に当たり散らしてただけだったのかな。

自分のことだけにかまけて暇つぶししてる。ほんとに暇なんだな。

なーんだ、やっぱりおもしろくない人間だな。おもしろくあろうとしてできないから拗ねてんだ。

 

それはもうしかたない。

今はもうしかたないこと。

ちょっと置いときましょう。

 

 

 

無気力・無関心・無感動

無気力・無関心・無感動

1980年代の若者を表す言葉として流行った「三無主義」ってこれだったかな?と検索してみると、違った。

無気力・無関心・無責任、だった。

のちに、この三つに無感動・無作法を足して五無主義などとも言われたとネットに出てきた。

 

1980年代の私は小学生〜高校生で、三無主義の年代ではないのだが、まぁこんな心持ちになることはあるよ。

 

あれをしなきゃ、これをしないと、と追われるように生き、でもそれをしなくてもどうってことなかった、ということに後で気がつき、燃え尽き症候群のように途方に暮れるんだ。

 

今日も、世の中の不安、不満をわざわざ自分から見に行っては勝手に眉をひそめ、気分も機嫌も悪くし、では見なければよいのに手元が落ち着かなくて数分も置かずに覗きに行く。

自分で不安を煽っているんだね。

 

ふとして「疲れた」という言葉しか出てこなくなって、ぬけがらみたいに横になった。

三無主義の権化みたいになった。

 

しばらく経って起き上がったら、ちょっと楽になっていた。

それからルールやルーティンに縛られ勝手に苦しくなっていることも腑に落ちたので、自分に課したルールやルーティンを破ってやっとこさ少し地に足がついたような気持ちになっている。

 

気持ちよく、気分よく過ごそう、ということでさえ、ルールやこうすべき、というガチガチの思考が入り込んでくる。

自由にするってむずかしいもんだね。やれやれ疲れました。

真っ暗ななか

 

真っ暗ななかを

 

さまざまな優しい色合いで

パウル・クレーのモザイクのような

たくさんのタイルが浮かぶ

 

稲妻が走る

木の根っこのような形をしてる

 

昔のパソコンの

スクリーンセーバーのような模様が

うねりながら回る

 

かすみのような

もやのような

けむりのような

時折フラッシュのような

 

真っ暗ななかを

遠くまで見通せるように思える

 

まぶたの裏の劇場

五味太郎さんの言葉

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6356231

五味太郎さんのインタビュー記事をYahooニュースで読んだ。

感染症がおさまらない現在、不安で居心地の悪い状態が続くが、それはこんなことがなくても普段からいつも不安で居心地が悪いし、逆にこんなことがあったからこそ表面にでてきた不安や恐怖なんだと言っている。

不安や不安定は常なるもの。「ふつう」のこと。

そうなんだよね。

 

五味太郎さんは「自分で考える頭」と「敏感で時折きちんとサボれる体」が必要だと言っている。

 

「自分で考える頭」はいついかなるときも必要だと思うけど、体のことはあまり聞かなかったし気づいてなかった。

 

この「敏感で」という言葉が肝だと思う。

多少しんどくてもつらくても気づかなかったり、忙しさに流されて感じ取ることもできなくなっていたりする。

イヤだな苦しいなと思っても、当の自分がそれを無視する。

しんどく感じたことを無いことにする。

ほかの誰も代わりに感じ取ってはくれないのに。無いことにしたってしんどさは消えないのに。

 

「自分の今の状態に敏感」であること。

そして、「敏感」でいることに恥や自責、自己否定の思いはいらない。

自分の状態に敏感であることは、自分で自分のこころ、自分の身体、自分の世界を守る、ということだ。

 

 

 

響かない言葉

先日、知り合いからガンジーの言葉を送られた。

ぜんぜん響いてこなかった。もうすでに忘れている。

いくら偉人賢人の言葉だからって、必要としてないときはなんにも感じないんだな。いや、そもそも私から要る、って言ってないしな。

なんて少しひねくれて考えた。

 

私は偉人賢人の言葉には心を動かされない。

以前、犬の表紙がかわいかったから『人生はワンチャンス!』を買ったんだ。水野敬也さんの編著だったし、装丁もきれいで見た目のよい本だった。

いろんな有名人が言った格言を集めたものだった。

内容はいっさい覚えてない。かすりもしてない。

 

こういう「格言集」は、なんだかモヤっとしてるとき、しんどいときについ手を伸ばしてしまう。状況を打開するためのヒントがないかとすがるように読む。

今の自分の状態に当てはまる言葉を探す。

ぴったり当てはまればいい。ちょっと救われたように思うときもある。

でもほとんどの言葉は欲しいものじゃないからすぐ忘れる。欲しくない言葉なんて、ただの文字の羅列にしか見えてない。

そして啓示を受けたように感じた言葉も、読んだことで安心してしまい、その後の行動につながらない。

いったい何のために読んだんだ。

 

だれかにそこだけ切り取られた言葉だけ読んでも表面を撫でるように流れてしまう。

その人がなぜその言葉を言ったのか、前後関係や状況がわからなかったら理解できない。

なぜそう言ったの? 

そのひとはなにがあってそう思ったの?

そのひとはいったいどんな考え方をする人で、どんな思いを持ってるの?

私にとってはこちらのほうが重要項目だ。

 

ことわざや慣用句や四字熟語は大好きだ。

よく口をついて出てくる。言いたくて仕方ないからことわざ集をいつも手に持っておきたいくらいだ。

ことわざは好きなのに、似たような格言は嫌い。なんでかな。

 

だいたい、たった一人の言ったことがほんとうに真理なの?

 

ことわざと偉人の格言との納得感の違いは、言った・思った人の「数」なのかなと思う。

名もないたくさんの人々の思いの集まったことわざや慣用句だから、知恵の集結のような言葉たちだから、説得力もあるし納得するんだ。

だから同じような理由で、俳人歌人の有名な俳句短歌より、川柳のほうがおもしろい。

 

あ、そうか。送ってきた知人は、自分が今その言葉が必要だったんだ。それでその言葉を見て欲しくて私に送ってきたんだ。とわかった。

贈り物、と捉えたらいいのかな。

でもね、わざわざ格言を送ってくるのは説教くさいし押し付けがましいよ。私はそう感じる。

私は偉人賢人の言葉より、あなた自身の言葉を聞きたい。

幡野さんの本(感想のやりとり)

『なんで僕に聞くんだろう。』の感想を知り合いに聞いた。

私はまだその時は読んでいなかったが、視点や捉え方がまったく違っていて、それはそれで面白く感じた。


知り合いの感想は、内容のことではなかった。

「リアルタイムで読むには良い回答者だと思います。でも、折り詰めの寿司のように、人生相談というものはまとまるとつまらない」といった趣旨だった。

それは回答者がだれであっても同じだと。本というまとまった形になることで新鮮さが失われるからなのか、返答はもらえなかったからわからないけれど、文脈からそう判断した。

折り詰めのお寿司…? わかるような、わからないような。

この「折り詰めの寿司」に対しての思いも知り合いと私とではまったく違っているんだ。

知り合いは、たぶん、新鮮さが失われた状態だと言っている。お寿司は握ってくれるその場で食べるのが最上だといっているのだ。

しかし私には折り詰めのお寿司は、宝石箱のように感じられる。いろいろなものがギュッと詰められていて、色とりどり。新鮮ではないかもしれないけど、持ち帰って食べるぶんには十分な鮮度だし、カウンターで握られた寿司を緊張しながら食べるより持ち帰りの方がかえって好きかもしれない。

いずれにせよ、幡野さんの言葉たちについての感想ではなかった。私はそれを聞きたかったんだが。


幡野さんのネット上での人生相談→回答は今も読んでいる。とても面白い。なにが面白いのかわからない。胸をえぐるようにつらく感じる時もある。

だけど私は、幡野さんのやり取りは人生相談ではない、と思っている。

そういう形式をとっているだけで、相談者は幡野さんに具体的な回答を求めているわけではないと思う。

もちろんこの人ならどんなふうに答えてくれるだろうか、とは思うけれど、でも、それぞれの答えというものはそれぞれの中にすでにあるものだ。

それに気づいていないだけか、自分では言い出せないから引き出してほしいのか、気づいていることへの後押しをしてほしいのか。

いずれにしても、回答をしてもらってその通りに動くとは思えない。考えるきっかけにはなるだろうけど、考えるかどうかもわからない。決めるのは相談者だ。


言いにくいから言わない、見ないふりしている、聞かないふりしている、

そういう「耳に痛い言葉」がある。本質的な、ズドンとくる言葉。

人はそれを、幡野さんの言葉に求めてるんだと思う。


まぁまぁそれは言わずにおこうよという政治家の答弁のような、論点をすり替え結局何が言いたいのかわからなくさせるような、ケムに巻くような言葉の数々。

人々はこれに飽き飽きしているんだ。


幡野さんの人柄が信頼できるから相談する、ということでもないと思う。だってほとんどの人が幡野さんのことをなにも知らない。私だって、幡野さんが今までどんなふうに生きてきて、どんな考え方をし、どんなものを好むのかまったく知らない。そして知らなくてもいいと思っている。


ただ、寿命がわずか数年ということを受け止めざるを得ない人の、無駄なことなんてしてる場合じゃない人の、とても貴重な時間の中での言葉の重みは強い。

そしてそれが厳しいものであっても、嘘ではないだろう、心の奥から出てきた言葉なのだろう、というすがるような気持ちで読む人は捉えているんだと思う。


幡野さんなら何を言ってくれるのか。

耳の痛いことも言ってくれる=心の底の話をしてくれるのでは、と思うから、

ふだん人に心の話をすることのない人々は、勝手に期待するのだと思う。


心の奥の話なんて、友人同士の間でもめったにしない。

親兄弟なんてなおさらしない。少なくとも私はしない、決して。


そんな心の奥のことは、人はそれこそ心の奥底にしまいこんで、育てる。

ふだんは見ないふりしてやりすごして生きている。でも消えたわけじゃない。

言えない・話せない分、どんどん育つ。

そしてどうなるのか…出てこないままか、自分の内におしつぶされそうにパンパンになって苦しむか、暴発してまき散らすか…どうなるんだろう。


幡野さんに言う=自分との対話、なんだ。

自分の考えに囚われていきづまっている人に、ちょっとした視点の違いから風穴を開けてくれるのが幡野さんという存在だ。


たいがいの答えは自分の中にしかない。

耳に痛い言葉だって、自分の中にしっかりある。みんなわかっている。

だけどごちゃごちゃになって混乱していると見えなくなるので、ちょっとした気づきの言葉があると、ようやく冷静になれるんだ。

 

よくよく考えたら、私に残る寿命など誰も知らない。今日のうちに死ぬかもしれない。幡野さんが余命数年だ、と聞いてつい深刻な気分になったりするけど、まったく大きなお世話だ。人のことを心配する前に、自分のことをしっかり見ろ、と自分で思う。

しかしどうしたって今日に続く明日、を信じてしまうし、何よりも貴重な時間を無駄遣いすることもしてしまう。

だから、体も心も自由に動けるのはあとどれくらいか、と具体的に計算し行動する、「生きる」ことを輝かせようと動く幡野さんの姿勢はまぶしいし、目を見張らせる。


いろいろな内容の人生相談だけど、だいたいの内容はうわべのことだ。

今起こっていること。今まで解決できなかったこと。もう起こってしまったこと。

そのうわべの内容にいくら回答があっても、問題の本質はそこではないのでまた同じことが起こるだろう。

そしてそのうわべのことに囚われて逃れられなくなってしまうほど、混乱しているのだと思う。

 

みんな、話したい、聞いてもらいたい、吐き出したい、ということなんだと思う。

私の話を聞いてほしい、ということなんだ。

だからあの本は、「人生相談本」ではない。


話して放すことで、自分を立て直したい。

その手助けが幡野さんからの言葉なんだ。

ひとつひとつのケースが重要ではなくて、相談者と回答者とその間の空気感を見る読者、の3つでできあがるものなんじゃないかと思う。

 

私は写真にはまったく興味が湧かない。

でも幡野さんの著作を読んで、日々発信している言葉を読んで、

それらの内容や言葉から、何を写真に焼き付け、どんな言葉を添えるのか、ということには興味を持った。ファンではないが、動向を見ていたい人のひとりだ。

生きることをどう表現するのか、を見ていたい。

この人の「感覚」に自分をすり合わせ重ね合わせると、自分はどうなるのか、ということに興味が湧く。主体は自分だ。

 

#なんで僕に聞くんだろう

#幡野広志さん

自分の感じることがいちばん

「搾取子」「愛玩子」という言葉を知った。それぞれの特徴について調べた。
私は「搾取子」だった。


ここ最近、親(母親)について考えている。もう関係を切りたいからだ。
日本の法律では、子から親を切り離すことはできないそうだ。(なんて遅れている国だろう)


具体的にあったことを思い出す。
だけど思い出して頭の中で記憶をふたたび上映しても、それはただの出来事ではなく、自分の「思い」も絡まったものになっている。だから事実ではない。思い出で補正されているから。
だけど、自分が思い出して感じていること、それが自分にとっての真実だ。
自分が感じていること、湧き出す感情、ギュッと縮むような感覚、よぎる思い、自分だけの思いは自分のものであって、それがいちばんだ。


一度は、親も親になれてなかったのだから仕方ない、と流そうとした。流せると思った。
無理だった。
親への怒りが再燃し、怒りを感じる自分にも怒り、とてもとても嫌な気分だ。


できるだけよかったことを思い出そうと努力した。
だけどどんなに小さなことでも、
つらかったこと、淋しかったこと、嫌な思いをしたこと、バカにされたこと、認めてもらえなかったこと、ここにいてもいいと思わせてもらえなかったこと、決めつけられたこと、頭からできないと止められたこと、信用されなかったこと、人の人生に口出ししてきたこと、
苦しい思いをしたことが心から離れない。
だいたい、一回だけでこんなに恨みに思い、憎く感じるはずがない。
何度も何度もされたからだ。


日常生活に紛れてほんのささいなことでもそういう毒が言葉のはしばしに、行動に現れていたんだろう。
ただでさえ子どもは親の動向、顔色を見る。敏感に察知する。
親の思いを察して、自分がピエロになってまで親を笑わせ満足させるようにする。
自分の気持ちなんてそっちのけだ。


ごく幼いころから社会に出るまでの長い期間、ずっと閉じられた家庭という場で、繰り返し繰り返してきたんだ。呪縛だ。


離れている今でも、記憶という刃物になって私を傷つける。あの心ない言葉や表情が憎い。それをはねのける力がなかった自分が憎い。悔しい。


自分にもよくないところがあったから…、自分がいい子にしてなかったから…、
もうそんなこと思うまい。


私は、私の感じていることをいちばんにする。
私が嫌だと感じれば、嫌なんだ。
私がきらいだと思うなら、きらいでいいんだ。
私の心は私が守るんだ。
そして、私は私の思うように立つ。

 

#搾取子 #愛玩子

子どもを産みたいと思ったことがない

ひどく怖い夢を見た。

夫が子どもを作って、遊びたい時や世話したい時にどこかから連れてきて、いらなくなったら箱にでもしまっている、という感じの夢だった。

いったいどういう状況だ。

子どもは、産まない私に代わって別の女性との間に設けた子で、私がその存在を知らないうちにその子どもは走り回るくらいの年齢になっていて、夫が「ちょっと外に出して世話してみよう」と思い立ったから連れてきた、みたいな状況だった。

めちゃくちゃだ。

 

夢だからつじつまも合わないし、前後関係も設定も無理がある。だけど、ありえないとは思えない。しょせん自分の頭でこしらえる話だから、そうそう突飛なことは出てこない。そして、その時の会話も普通だった。

そんなペットみたいな扱いして、世話もできないんなら産むな!と私は言い募っていた。

子どもは走り回っている。車の通る危険な場所でも構わずに生き生きと笑っている。

でも我々には追いかけたり、危ないからと引き戻す体力も気力もない。

危ない、と思いながら走っていく子どもをハラハラと見ている。

ほら!自分に世話する力量もないのに簡単に子どもなんか持つから!と怒っていた。

勝手に作った設定だけど、私はよそで作ったということに傷ついていた。私が産まないからこんなことになったんだ。私のせいなんだ。

私は子どもを産みたいと思ったことはないけど、結果夫にはその意向に従わせてしまったことになるから、申し訳ないという罪悪感がある。私と一緒にならなければ、子どもを持つ人生があったかもしれないのにね。

今思えば、夫も、子どもも、私自身の投影かもしれない。

 

なんでこんな夢をみたか。

昨日私はあらためて、今まで子どもを欲しいと思ったことがないな、と思い出し、同じことを思う人がいないかネットで探していたんだ。

 

子どもがいない女性には、ひとりひとりありとあらゆる思いがあって、それは子どもがいる、もしくは子どもを欲しいと思っている女性の思考とは雲泥の差だ。

ひとりひとり違うからだ。

子どもが欲しいと思う女性は、つきつめれば「ただ欲しいから」、なんだと思う。

生物としての本能?

種としての存続?

家庭を持ったら当たり前?

いろんな理由づけをしているけど、それぞれなんだかよくわからないけど欲しいと思うから欲しいんだ。

だけどその思いは絶対的だ。絶対ではないけど数量が多すぎて、今のこの世の中や世界でのスタンダードだ。

 

子どもが欲しいと思いながら産めないもしくは産まない女性もいる。

子どもがいないことは私と同じ。

だけど私からすると、それらの女性は「産みたい」という思いを持っているから、私とはぜんぜん違う。

産みたくて産めない女性も、産みたくて産まない女性も、私からすれば世のスタンダードでジョーシキだ。

 

このスタンダードから外れるとどうなるか。

私は自分がおかしいんだ、と思って生きてきている。絶対的多数のジョーシキの前には声も上げることはできない。否定され、狭い価値観を押し付けられ、追いやられるだけで、理解なんてお互い無理だ。

そうでなくても絶対的多数になれなかった私は、自分をものすごく責めている。

え、せっかく女性として生まれてきたのに子どもを産まないなんておかしいんじゃない?

え、家庭を持ったら子どもを持つことがフツウなんじゃない?

え、女性ならだれでも子どもが欲しいと思うんじゃない?

社会のために産まなきゃならないんじゃない?

自分の遺伝子を遺したいと思うんじゃない?

愛する男性の子どもなら欲しいと思うんじゃない?

 

どれひとつ思ったことがない私は、この世界で生きてはいけないのかもしれない、と思うほど自らを責める。

生きていく上でのジョーシキは持っているけど、人間としての情緒に欠けるのではないか。

 

自分を責める自分も、世の中の価値観に縛られているってことなんだろう。

フツウ、当たり前、と人々が言うそのフツウ、当たり前は、あんたたちがその少ない経験の上から言ってるだけで、聡明な人はそんなしょうもないことは言わないよ。

しかしがんじがらめになってしまっている私は、まだこれを個性だとは思えていない。

自分で自分を蔑み、下に置き、知らぬふりをする。

子どもを産みたくない、と思う私が自分はそれでいい、と思えるようになるために今日も生きるしかない。

 

↓これがスタンダードな世界になったらいいのにな。

◎「子供を持たない選択」をした人について、知ってほしい5つのこと

https://www.google.co.jp/amp/s/www.huffingtonpost.jp/amp/entry/childfree-decision_a_23344135/

◎「結婚はエラい、子供がいればもっとエライ」と思う人へ...

さわぐちけいすけさん

「まとめられる筈の無いこと」

https://twitter.com/tricolorebicol1/status/870971066595778560?s=21

 

人間関係のバランス

自分にとって相手が過剰にプラスだと、自分がマイナスになってバランスを取ることがある。

相手の過剰さ加減にもよるけれど、今の“低く下がっている”自分に対して、あまりに情報過多だったり、キラキラと輝いていたりしたらダメだ。自分は卑屈なほどにマイナスに「なろうとする」。

それは逆の立場になることもあって、こちらが元気いっぱいな時、相手に負担をかけてしまっているかもしれない。そんなことがないか、自分の行いをできる範囲ででもチェックすることは、礼儀と思いやりだと思う。その礼儀と思いやりは、相手だけでなく自分にとってもだ。

しかしなぜ、まるで「あなたの輝かしいことに私は釣り合いませんよ」と言わんばかりにマイナスに低く下がってしまうのか。そんなもの、相手はただ言いたくて言っているだけのことなのだから、聞き流せばよいし、そもそも聞かなくたってよい。過剰な状態ということは今のところ向かうところ敵なし状態ということだ。私が合わせたり聞いてあげなくたって敵なしだ。

自分にとって守るものは自分なのだから、過剰さにやられて「どうせ私はそんな話には乗れない」「楽しい話を楽しく聞けない」なんて感じる前に、自分のことをいつくしんであげるほうがよほどよい。

だいたい、人間関係はバランスだ。どちらかが一方的に強すぎると続かない。

いつもなら、ひとつのボートにふたりで乗って、ゆらゆらバランスしながら関係を続ける。ひとりがボート上でジャンプしたり踊ったりしたら、一緒にボートに乗れない。

あ、今日相手は過剰だ、と感じたら、その楽しげな情報過多なキラキラな会話に乗れないことに、申し訳なさや苦しさや自責は感じなくていい。ただそんな時に遭遇してしまっただけ。

今の自分は低く下がっていて重いかもしれない。でもいつもじゃない。

そして、高く上がっていて軽い相手にこちらがわざわざ合わせて、より低く下がらなくていい。今よりマイナスにならなくていい。

苦しいのに無理やり上がらなくてもよい。今の自分ができることを、自分のためにすればいいんだ。