ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

久しぶりの生演奏

高槻ジャズストリート2019に行ってきた。

今年で21回目にもなるとは…知らなかった。私が20代半ばからはじまったのか〜(はじまった当初はすぐなくなるだろうくらいにしか思ってなかった…失礼!)

でも音が大きいのは苦手なのであまり寄り付くことはしなかった。

駅を出たら、駅の下、少し離れた広場、高架下、などでジャズ特有の派手な鳴り物がバーンとなってるんだから、耳が慣れてないとその音の分厚さや圧力に身体ごと、どん、ぐいーっと押されるように感じる。音の層が次から次に襲ってきて、圧迫感で苦しくなる。心臓もぎゅっと潰されるように感じる。

耳栓をしてちょうどよい。驚き慌てて片方だけ耳栓をしたら少し落ち着いた。

そんな状態になるのをおしてまで聴いてみたかった森 大輔さんの生演奏と声。

Kさんとのコラボで、どっちかというとKさんの方が認知度は高いだろう。

でもFM COCOLOTwitterでアップされてた画像では森くんがたくさん写ってた。実際には遠くて見えなかったのでありがたい。

会場は野外で、出店もあって人でごった返していた。お昼前から入れ替わり立ち替わり演奏が続いているから、こんな晴れた日、音楽を聴きながらビールなんて最高だ。出来上がってる人々がたくさんで、それぞれ和やかに楽しんでいる。

 

f:id:piyosuketochocotoume:20190503223100p:image

開演は19:00だったから、ちょうど夕暮れ、空が少しずつ暗くなって雰囲気のあるなか、それぞれのバラードではじまりました。

バラード…なんで?選曲間違えた?!この会場の雰囲気にバラードはちゃうやろー、と内心思いながら静かにかしこまって聴きつつ、登壇のおふたりとも「バラードは合わない」ということはわかっているようで、「でもわれわれバラードで食ってんですけどね」というKさんの一言が面白かった。

どちらもキーが高く、ピアノも弾けて、声質も割と似ているからか、互いにコーラスに入っても違和感なく、合っているように感じた。

私は森くんの弾くピアノが好きで、いつかピアノだけのCDを出してくれないか、と切望しているが(いや声ももちろん好きなんですけどね)、

今回おふたりが一台のピアノに並んで演奏する(しかも曲はビリー・ジョエルの『piano man』)のが聴きごたえがあってワクワクした!

 

弾いている(歌っている)間に何度も、横を走る線路の上を阪急電車が通って、電車の明かりが少しあたりを照らして、空は澄んだように晴れていて、気持ちもほぐれるようなひとときでした。

 

MCのクリスさんと、助っ人に尾上さとこさんが駆けつけてしゃべってたのにもだいぶ感激した。尾上さんのファンとしては嬉しい驚きだった。オノエマーン、いつも楽しみにラジオ聴いてるよ!!

 

あっ、森くんとKさんの演奏では、ピアノが主だったのでそれほど身体にこたえることはなかったです!ホッとしました。

穏やかに楽しんでる人が多くて、それもホッとしました。

久しぶりに生演奏体験ができて、少し心と身体が弾むようでした。

どんなことでも、自分の捉え方しだい

トピックスに載った知らない人のブログ記事を読んだ。

うーんそうかな?という内容に感じたので、コメントを寄せる人はどう思うのか、とそのコメント人数に慄きながら読んだ。

私と同じようにトピックスに載ってたから来ました、という人も多かった。

そしてそのコメント欄は荒れ放題だった。

うわーー怖い、と思いながら読んだ。気分が悪くなってきて全部は読まなかったが、さーっと流しただけで毒気に当てられた感じがした。読んだ私が悪い。反省だ。

人のことめっちゃジャッジしてるなぁ、「正しい・常識」のオンパレードだ。

「私は正しい・私が常識」の砲丸を投げまくってる。

これは記事を書いた人も、コメントを書いた人も同じこと。意識はしてないかもしれないけど、誰に対してだかわからないけど、攻撃してる。

砲丸だから、重いしコントロールはきかないしどこへ飛んでいくかわからないのに、とりあえず持ってるのがイヤだから投げる。または当ててやろうと投げる。それで、なにも思ってなかった人に当たる。当たった人はびっくりするしなんでそんなことされるの?と怒りを覚える。攻撃する。そういったループのように感じた。

人を正してあげる風、私が当然だ風、あなたのために言いますよ風。

「正しい・世間の常識」論(なんてものがあるか知らないけど)で人を敵とみなして「やりこめる」ことって、自分が正しいと思えて爽快ですよね。でもそれをしている姿って醜いですよね。それにそんな爽快感、一過性のものだ。

「正しい」ことを言うと、自分がキラキラしてるように感じるのかな。姿勢を正して、すっくと立って、わたくしなにも恥ずかしいことはしたことありません、というふうに思えるのかな。

でも実際は、言う人も、言われる人も、どちらも傷つくだけだろう。

言う人は、自分の言ったその言葉で自分が傷つくんだ。それはキラキラしてるのか?

あぁもう、読んだ私が悪かった! ごめん! 反省!

 

「正しい・世間の常識」なんて、地球がくしゃみしたようなことで、ほんのちょっとのできごとで揺らぐし変わるものだ。

毎日は、日常は、当たり前の生活は、与えられて当然のものじゃない。

たった今、自然災害が起こったり、テロが起こったり、地球に隕石がやってこようとしているとしたら、自分が大事に抱えてる「私だけの常識・正しさ」なんて、吹けば飛んでしまうくらいどうでもいいことだ。人のことあれこれ言ってる場合じゃない。

知らない人にわざわざ文句を言うことは、今に続く明日を無条件に信じてるということなのかな。明日が来るかどうかなんて本当はわからないのに。

 

そして、こうやって人の記事を読んであれこれ思い、判断している私も同じこと。

私の価値観、ルール、思いこみ、自分勝手な判断だ。

人の記事であれこれ「反応」しているということは、なにか自分自身に引っかかることがあって、それを刺激されただけだ。(もともと無いものには反応できない)

刺激に対する反応 = 正しい・常識に対する嫌悪感 ということか。

嫌悪感を持ちつつ、それに迎合する自分にも嫌気がさしている。私は私だ、と強く言えない自分を責めている。

コメントに書きこむことはしないけど、おかしいと感じ(私というたった一人の人間の価値観やルールや判断で)、なんでそんなことするんだろう?と疑問に思い、「自分勝手な常識」でもって人を裁く。同じことしてる。醜い。カッコ悪い。

ヒマだからって、トピックスに載ったからって、そもそも知らない人のブログは読まないことだ。何を書いてもその人の範疇だし、私にはいっさい関係ないのに、わざわざ寄っていって不快な気分になるなんて、なんのマゾだ。自業自得だ。

ほんとにもう、読んだ私は反省する。そうした言葉の応酬には慣れていないから逃げる。怖い場からはしっぽ巻いて逃げる、ただの醜い小さな存在だ。

しかしこういう強く反応するできごとから、自分を縛っているあらゆる価値観やルールに気づくんだな。今回の失敗は、立ち止まって考えるチャンスなんだな。

そう思うと、どんなことも自分次第なんだと理解できる。

 

理由探しはいらない

今朝ラジオを聴いてたら、セスナ機の運転体験がハワイでできる、と言っていた。

セスナを運転!!? うわー楽しそう!

乗せてもらうだけでもすごく楽しそうなのに、自分で運転できるなんて! 自分で操縦して、大空を飛べるなんて!

 

そういえば、やってみたいこと、あったな、と思い出した。

気球に乗ってみたい!

富士山の五合目まででいいから「富士山の中にいる」感じを味わいたい!

東京タワーと都庁にもう一回上りたい!

 

今すぐ挙げられる望みがぜんぶ「高い場所」に行きたいなのは、セスナ運転に引っ張られたからかな…。

買い物に出かけても車を停めてもらうのはいつも屋上で、空を見ていたいから、抜けている場所が好きだから、なのか。

いやもうそんな理由探し、もういいか。

ただ好きだから! それでいっか。

 

でもたったこれだけ? そんなに少ないの?

それほどむつかしくない望みなのに、ほかに浮かんでこないなんて。

 

してみたいこと、もっとあるはず。見つけたい。見つけよう、自分の中から。

その前に、

見つけようとする前に、

どんな小さいことでもいい、してみたいと思ったら、「そんなの思いつきだ」と押しつぶす前に手のひらで包んであげよう。やさしく、大切にしてあげよう。なんといっても自分自身の望みなんだから。

ヒマなんだな、アタマは。

身体も休めてて、ごはんもおいしくいただいて、時間に余裕もあって、なにも考えることなく、気持ちもとっても安定してた時、

ザワザワッと、モヤモヤっと、不安のタネみたいなものが湧いて出た。

 

あ〜コレは、わざわざ不安を探して、掘っくり返して、なんでもいいから不安の元を見つけようとしてるんだな!!わざわざ!

あ〜、ヒマなんだな、私。わざわざこんなことして。

 

平和で、満ち足りていて、できることはして、いやなことはしない。身体も楽だし、詰め込もうとする食欲も収まっていて食べることで満たそうとする衝動も出ていない。

なのに、そんなではいかん!と、なにかを必死でさせようとするアタマが、わざわざ不安や焦りを持ち込もうとしてる。

この、アタマってのは休むのがきらいみたいで、次から次へ不安やら焦りやら怒りのタネを見つけてくる。

それで、一瞬ごともしくはその「議題」に飽きるまで、ブツブツと独り言を言って囚われまくる。

 

不安というのは、体力のある、根性のある、耐える強さを持つ、そんな人が持てるものだと思っている。

私は根性なしだし、耐えたいともみじんも思わない! だから、不安なんて持たない! 不安なんかに私の貴重な時間を明け渡してたまるかぁぁ! 今の自分ができることをするんだ! と強くはねのけた。

「不安のタネ」から離れることができた。今までにないことだ。いつもそううまくはいかないけれど、今日はできた。私にもできるんだ。

 

不安や焦り、罪悪感、深刻さ、視界の狭さ、ストレスといったものたちは、ほとんどが体調のよくない時に出る。

まず体調が悪くなってきて、アタマはまだそれに気づいていなくて、気合いなどでなんとかなる、と思ってる。

しんどいな、と思った時にはもう身体も心も重症化してる。

だから、疲れる前に休め、と言われるんだね。

そのあたりのさじ加減は、どうやったらわかるんだろう? いまだに失敗ばかりだけど。

 

今日はたまたま、身体にも心にも余裕や隙間があって、風通しがよかったから気づけただけかもしれない。でもたまたまであってもできたんだ。

できたことひとつ。私にはけっこうな進歩だ。こうやって、不安のタネを育てない練習をするんだ。

ヒマなアタマには付き合わない。

 

 

ダウンドッグだこれ

 ※絵柄がちょっと怖いので、閲覧注意?!かもしれません(笑)

f:id:piyosuketochocotoume:20190403181110p:image

 漂流教室』(楳図かずおさん/8巻より)

未来人類と、未来人類になってしまう未来キノコを食べてしまった美川さんたち。

未来人類のアジトである地下鉄の駅構内での様子。

 

翔ちゃんがほかの生徒たちから「学校を爆破させようとした。その爆破がきっかけとなって大地震が起こったんだ」と疑いをかけられ、折悪しく関谷が正気づいてしまったことと重なり、翔ちゃんはしてもいないことで責められ、言い分は聞き入れられず、ほかの生徒たちと対立状態になってしまいます。

ひとりアメリカが助けにきてくれると信じ、それまで自分だけは生き延びてやると息まく関谷に、翔ちゃんと、翔ちゃんの味方をした仲間は砂漠の井戸掘りをさせられます。

いくら掘っても水は出てきません。ここは水も枯れてしまい、風も吹かない陽もささない未来なのです。

しかし、地面から数メートル掘り進めた時、横穴ができていることに気づき、そこを掘ってみると地下へ降りる階段が! 地下鉄の線路に出たのです。

そしてその線路を進んでいくと・・・

 

さて、いきなりはじまりました『漂流教室』劇場。

サンデーコミックスのこの8巻では楳図さんの描く地球の「未来への道筋」をしっかりと読むことができます。未来人類が、現代の日本や世界がそのまま進むとこうなってしまうんだ、ということを説明する大事なシーンだと思います。

楳図さんはこの『漂流教室』を、はじめからおわりまですべて緻密に計算して描いた、とおっしゃっていますが、その時代1972年ころ。その時点でまさに今の日本をここまで想像できたのか、と驚嘆します。天才。

 

そして実は、今回のブログは『漂流教室』について話したいのではございません。

今私のなかでとても流行っているヨガをしていて、このポーズ…、なんかに似てる…、なんだっけ…なんだっけ…  …これだ!! と気づいたのがこちら ↓

f:id:piyosuketochocotoume:20190403181123p:image

ダウンドッグ!!

そう、このポーズはまさにダウンドッグ! 

私は腿裏が硬いのでひざを曲げないとできませんが、美川さんたちはさすが小学生、身体が柔らかいですね。

あ~すっきりした! でもこれからずっとダウンドッグをするたびにこの絵柄が目に浮かぶな…、ま、それもいいな…。

ということで、こんな話にお付き合いいただきありがとうございます(笑)

強烈な母の呪いの言葉 パート2?

元号について、発表される前からなんだか大騒ぎだなーと思って、大阪は選挙も重なっていて空気がざわついていた。少しうんざりとした気分だった。

しかし、

実際に新元号が発表されて「令和」と知った時、気分がスカーーーッとした!

品があってきれいな、清々しさを感じる言葉だな、と思った。私はこの言葉を好きだ。

実は「平成」になった時、このなるべく意味を持たせない二字の言葉を、だれが言ったのか「最悪の時代だ」なんて、占い師なのかマスコミなのか◯◯党なのか、言葉に責任を持たないもんが言ったらしいんですよ。

そしてそれをテレビで聞いた母親が、私にそのまんま言ったんですよ。

「平成って最悪やねんて」

…うっさいアホか。

と、今なら言える。でもその頃はまだ高校生。母親の影響バリバリで、なんなら母親の言うことは当然だなんて思ってた頃だったから、私もそのまんま受け取ったんですよ。

ほんで、呪いの言葉に化した。化けた。

 

ほんと、言わなくていいことをわざわざ言って、いやまぁ口から出るのはもう仕方ないけど、でも言い捨てたまま、または自分がそれについてどう思うのかを考えず言わず、マスコミが垂れ流したことをそのまま人へスライドさせるのはどうなのよ? ただの世間話のつもりだったから? 自分の発言がどう捉えられるか考えたことある? 平成に謝れ。

 

最悪だって思ったら、それを証明するために証拠探しをしてしまう。

災害や事件事故、そうしたことは時代関係なく起こるのに。

それに、

最悪の時代だろうと、私は生きていかなきゃなんないんだよ。

そう、「生きていかなきゃなんない」と今は自分の意思で思う。

だけど思い出した。

一番強烈な母からの呪いの言葉。

私の姉が5歳で交通事故で亡くなったことで、私は死ねなくなった。

「あんたは親より先に死んだらあかんよ」

楔のように、私を動けないように縛りつけた。

常識として〜、世間では〜、云々。そういうのは要らない。本当に、親より先に死んだらあかんの? いつ死ぬかなんて、誰にもわからないのでは? 死にたいって思うこともあるのでは? 実際にそうすることと思うだけのこととでは、とても距離のあることだとは思うけれど。

母の言葉で私は「自分の意思で死ぬ自由」を奪われた、と物心ついた時、思ったな。

でも、その言葉で今も死なずにいます。母の必死さ、切なさ、つらさ、といったものも、呪いだと思うと同時に強く感じたから。お母さん、私はお母さんお父さんより先には死なない。生きます。

なぜなら、自分の人生を生きたい、と思っているから。

周りの意見や感想やただのつぶやきを真剣に聞きすぎて、よくわからない影響を受けまくり、自分の意思って何だっけ?と思っていた私だけど、人生後半になってようやく自分を生きたいって思うようになったんだ。

だからお母さん、数々の、私に影響を与えた言葉(それを私は「呪いの言葉」と呼ぶ)を、思い出すたび棚卸しして、どんどん捨てて参ります。

自分で選ぶこと。これこそ強力な断捨離だ。

人の言うことは聞かなくていい

つい先日腹の立つことがあった。

近所の顔見知りってだけのおばちゃんから無礼なことを言われた。

おばちゃん(というかおばあさん)って、人の気持ちとか状況とかに頓着せず、想像もせず、自分が言ったことがどんな風に受け取られるかもわからず、アホみたいなこと平気でいいますな。

恥と思う心(自分の言動を振り返って、ですよ)、慮る心、表情、言葉づかい、そういった「外に出ている自分」になにも注意を払わない、

そんなこと自分の娘に言える?と思えるようなことを平気で言う。

老い衰えたからなのか、鈍くなったのか、もう怖いもんなんかないからなのか、ただ単にそういう人間だったからなのか、あ~こういう人が多いから「老害」ってひとくくりにされるんだよ、そんなことないひともまとめられて。

それで、腹が立って、その場で言い返すことは自分のタイプでは無理なので、あとで考えた。

もし、自分が言いたくなったら、言いたくなった時に、「この前こう言われて不快だった、アンタ無礼なこと言ったね」と言う、と決めた。

でもその時は訪れないかもしれないし、その頃にはどうでもよくなってるような気もするけど、「私は、私のタイミングで言いたいことを言う。そいつの都合?そんなもん知るか」と決めたら少しスッキリした。

まぁそんな仕返しみたいなことしなくても・・・とか、言い返せなかったクヤシー、とか、なんでそんなこと言われるんだろう私が悪いのかしら、とか、昔ならウジウジ考え続けて2~3週間囚われまくってたけど、

その時間が、その「私にとって取るに足りない、無礼な、失礼な、想像力のない人間」に囚われているってこと! 自分の時間がもったいない! 何かあったとしても助けてくれたりしない人間のために! アンタが年金を無駄づかいしてんだよ早く死んでくれない?と思うような人間のために!

人の言うことはまずはきちんと聞く。

私はこういう性質を持っている。

まずはその人の言うことを理解しよう、できたらそう言ったことの背景や心情を理解し共感しよう、という行動がほぼ自動的に出る。

これは使いようを間違えるとすごく自分を傷つける。

今回は使い方を間違えた。聞かなくていい種類の人間の言うことに耳を傾けた。

そして人は、そんなに人の言うことを聞いていない。聞いてるふり、聞いてるつもり。私がどれほど真剣に聞こうと、それは相手には伝わらないことの方が多い。そういうもの。

人の言うことはまずはきちんと聞く。

これは私の性質だ。ただの性質だからよいも悪いもないけど、よいも悪いも使いよう。

ということにしっかりと気づいた。私は、自分の大事だと思う人についてだけ、その力を使おう。練習だ。

この怒り、悔しさ、情けなさ、そういう渦まくモヤモヤを、今までなら見ないように、あまり考えないようにしてきた。そのために、そうとう後になってぶり返しのかゆみみたいにチクチク胸を刺されてきたけど。

嫌なことがあった時に浮かんだ痛み、つらさ、感情、息の浅さ、背中の丸さ、そういうことをもう見ないふりしない。

痛みやつらさをがっちり感じ切る。ムカつくことも、気のすむまで考え続ける。頭がグルグルしたって考える。そして吐き出す。出し切る。

この「やりきる」をする。

今だって書いていて頭に血がのぼって腹がムカムカするけど、やりきる。吐き出す。

私はそうやって自分を大切にして、メンテナンスする。練習だ。

 

まぁ、問題がこんな小さいものでよかった。

そして、そのおばちゃんは私の見える世界、私が私を作る世界といったものから消えてもらうよう意識の外に置くことにしました。私の世界には、私の大切に思うものしか入れない。

…ちょっと違うか。私の世界、と周囲と切り取りたくても切り取れるものではないから、私自身がそのおばちゃんに執着することがなくなれば、私の世界はあたたかなままだ。そのおばちゃんは私になにかの気づきを与えてくれたんだよねー。感謝はしないけどそれに気づけてよかったんだ。

なにごとも、自分次第。

 

また母から呪いの言葉をかけられてた

先月にと会った話を以前書いた。その時言われたことを思い出した。

「50代はしんどいよ」

あぁ〜また呪いの言葉かけられてた〜!

 

そういえば30代のころは「30代って一番いい時やね」と言われ、

40代になって「私の40代はめちゃくちゃだったわ(胃がんで入院、胃を切除した)」「いろいろ出てくるから気をつけて」と言われた。

 

それ…、ぜんぶ母自身のことですよね…。

私も真に受けて30代なら「そうか、いい時代なんや」40代に入り「体調に気をつけないとあかんのか」とふんふん聞いていた。

母が胃がんになった年齢を超えたら、なんとなく安心してホッとしていた。

でも、違いましたから。

 

30代は私にとって「一番いい」ものでもなんでもなく、しょっぱなから離婚したし仕事が忙しすぎてうつになってすべてのことがストップしたし、ただ、そうした経験があったからこそ今の私がいるので「私自身の体験」として大切にしたい。

40代になると、気持ちは若いころよりよほど落ち着いてきて、私自身は今がとても過ごしやすく楽しい。

どの年齢の時にも思うことだけど、私にとっては今が一番だ。そして特に、今の40代がなにより楽しい。

それに、これから老いていくにつれて身体にいろいろな不調が出てくるのは当たり前で、メンテナンスはしていかないとあかんのですが、

それ以前に。

母が自分だけの経験からすべてに押し広げて私に断言するのはただの「呪い」だ。

私は今までずっとその呪いにかかってしまって、30代、40代を過ごし、これから迎える50代を暗黒時代のように捉えてた。

違う違う、その考えは母のもの。

私じゃない。

私には私の身体があるし、私だけの心がある。私の方法で、私の思うとおりに進む。

 

私、今めっちゃ幸せなんですよ! 母は母でいろいろ大変だったんでしょうけど、私は自分で選ぶ、決めるってもう決めたんだ。だから、母の入る隙なんてないんですわ。

呪いにかかりそうで危なかったけどまぁいいわ、母の言うことは参考くらいに聞いておくよ!

先週の虹と、昨日の梅

 

f:id:piyosuketochocotoume:20190322120731p:image

先週の夕方、また虹を見た🌈

大きな虹だった。

あっという間に消えてしまったけど、気分がすっきり晴れたようだった。(右上の小さく丸い白色は「月」です)

 

そして春分の日ツグミがいるか探しに行った公園で桜がちらほら咲き始めるなか、梅がまだ咲いていてくれた。「枝垂れ梅」でした。淡いピンクが和菓子のようで、とてもかわいらしかった。
f:id:piyosuketochocotoume:20190322120740p:image

ツグミはなんと、1羽だけ来てくれていた! 

数年前は数えるのをやめるくらいたくさんお越しだったツグミさん、今年はお着きが遅かったようで、でも会えないと思っていたから幸運でした。

 

ヤナギの若葉が黄緑で柔らかく、鳥たちの鳴き声も春を迎えてからどんどんと高らかに複雑に美しくなって、すごいスピードで季節が移っている。

自然は、有無を言わさないんだなぁ。

今あるものを、その瞬間瞬間に、見て、聴いて、感じ取るしかできない。一瞬たりとも停止していない。

その時の自分にわかる、感じる部分しか捉えられない。自分の枠を広げなければ、感じ取れる部分は少ないままだ。知らないことは、知ろうとしない限り知らないままだ。

私も私の考える私を超えていこう、と思えた時間だった。

なってみた

 

なってみた、なってみたんだ。

通っているヨガスクールで、

ゾウに、トラに、コブラに、バッタに、飛行機に(生き物じゃないけど)、そしてに!

こういうのは、身体のあらゆる部分を効果的に動かすただのポーズとしか考えてなかったけれど、

「自然の中にいるイメージ」を描きながら身体を動かすレッスンがあって、インストラクターさんのガイドと音楽で動くのだけれど、イメージは人それぞれでどんな風に想像してもいい、と言われて安心したからか、

自分がどんどん自分の中に入っていくのがわかった。

あれ?いつも冷静な私が(冷静だと自分で思っている笑)、周りを気にせず自分の内側に入っていっている。

そう気づいたことにもびっくりしたし、

イメージすることが苦手と自分で思い込んで「難しい」「できない」と勝手に足枷はめてたけど、

今わたしは砂浜に寝転がっているし、今わたしは森林の中にいて草をかき分けて進んでいるし、今わたしは鳥になって風を受けて揺れながら地上を見下ろしている。

なにこれ面白い! とすごくワクワクした。

 

鳥になって、空から地面を見ている。身体は揺れている。草も、川も、ほかの動物も小さく見える。

前を向いて、もっと空高くを目指す。空にまっすぐ飛んでいく。

身体の上にも横にも何も見えない。風だけ。遠くの景色だけ。

すごく爽快で、自由で、少し怖い。

 

今まで、じっと想像するだけでは、よくわからなくなって、やっぱりイメージするのは苦手だと思っていたけれど、

こんな風に実際に身体を動かしたり、身体の感覚(足がグラグラするとか、手や脚を大きく伸ばすとか)と合わせてイメージすると、頭の細胞が起きる、ような感じがした。

身体と、心と、頭と、ぜんぶ使うと、わたし自身がとてもよろこんだことがわかった。

身体を使う、ってこういうことを言うのかな、と少し思えた時間だった。

 

言葉の意味を決めつけていた

「可能性」という言葉。

どんな風に使いますか?

 

私は「可能性」という言葉に、「未来」「進歩」「成長」「開ける」「広がり」「できる」「明るさ」といった意味を、勝手につけていました。

だから、犯罪や災害が起こった時のニュースで、「再犯の可能性がある」というように「また悪い(恐ろしい、嫌な)ことが起こるかもしれない」ことに「可能性」という言葉を使われるとものすごく違和感があって不快でした。

災害や犯罪がまた起こる可能性、と言うのなら、また起こる「おそれ」がある、と言えばいいのに、とずっと思っています。

 

ほかにも使える言葉があるのに、違う言葉を使おうという気はないのかな、語彙はないのかな、と思うくらい、言葉使いが貧弱だとニュース原稿に対して感じるのですが、これも決めつけです。

要は、ひとつの言葉である、そしてひとつの言葉でしかない「可能性」に、自分の思う意味づけをしていた、ということです。

決めつけてしまっていた。

私の思う意味づけは、「よい」意味だからいいものなんだ、こうあるべきだ、なんて悦に入ってたのかもしれない。

自分の枠も、狭めてしまっていた。

 

ただやっぱり、「可能性」を使うなら、せっかくなら気分のよくなるような意味合いで使いたいな、という気持ちは変わらないんですけどね。これが私の変えたくないところなのかな。

 

人と話していて同じ言葉を使っても、それぞれがその言葉に対して持つ意味が違ったら、話が噛み合わないくらいになるのかも。

すれ違いってこんなことからも起こるのかもしれない。少し怖く感じる。

でもだからこそ、それぞれの思うことを知ることは面白いんだろうし、とても興味がある。

笑顔は人にも自分にも

 

ほとんどの人が、新しい環境や状況、人間関係といった「場」や「空気」に慣れるのに3ヶ月くらいかかると思う。

慣れたと感じるまではなんとなくしっくりこないし、私の動きこれでいいのかなとぎこちないし、もぞもぞする感じがする。

そして、表情。自分の自然な表情ができるようになるまでやっぱり3ヶ月くらいかかるなと思った。

慣れるまでは、人に向ける笑顔がぎこちない。自分でぎこちないと思ってるから、表情も固まってる、って思ってるけど、でもはたから見たら、そんなことはなかったりする。それに、ぎこちなくていいんだ。

 

もしこれから、新しい人間関係・環境がはじまったなら、もういっそのことぎこちないままに「ニカッ」と思い切り笑おうと思った。

そしたら、その「ニカッと笑顔」が私だと認識されるし、なにより人に笑顔を向けることが、自分にとっても、とても気分がいいから。

エヘ、でもニコ、でもなんでもいいけど、自分自身の気分がよくなって、人に対することそのものも気持ちよくなる。

 

笑顔は人のために向けるだけじゃないんだな、自分にも向けているんだ、と気づいた。

笑顔を向ける人がいる、ってことも、幸せなんだなぁと気がついた。

ふむふむおもしろそう

f:id:piyosuketochocotoume:20190307163204p:image

なにこの本、おもしろそう…と図書館で喰いつき気味に手に取った『2時間ドラマ 40年の軌跡』(大野 茂さん著作・東京ニュース通信社・2018/4/30発行)

こんな本あるんや…とページをめくると「はじめに」で著者がこの本を書こうと思われた理由が3つ書かれていた。

・40周年を超えた2時間ドラマの元祖「土曜ワイド劇場」。再放送も含めて地上波、ネット、など数多く放送されているのに、番組の沿革を記したものが見当たらないことから、40年間の流れを追う

・2時間ドラマといえばワンパターン。なんて、なぜ、いつから言われるようになったのか探る

・みんながよく知る2時間ドラマ。でもあまり評価されないのはなぜか。制作に携わる方々の話を記録する

制作者側という“舞台裏”から見た内容だそうです。(だから個々のドラマについての言及はしないとのこと)

 

土曜ワイド劇場、火曜サスペンス劇場…、短い期間ならもっといろいろあったように覚えてるけど、40年なんて、そんなに長く続いてたんだなぁ。(私は「木曜ドラマストリート」のミステリーものが好きでした)

学生の頃は略し方を知らなくて「土曜ワイド」「火曜サスペンス」って言っていたけど、友人に「どよワイ」「火サス」って言われた時はなるほど!と思った。著者は「土ワイ」って書いてますね。まぁ略さなくてもいいんですけど(笑)

 

こうした、次々と消費されていくものをまとめて、分類して、体系立てていく、というのは、苦労も大きいけどすごい仕事だと思う。だれもそれをしなかった、という点でも着眼がすごいんだ。

こちらの本では、あまり評価されにくいエンタメ番組への作り手の誇りについて知ることができるようだ。楽しみに読ませてもらいます!

心配と信頼(母の話)

先月の誕生日に、母がごちそうしてくれると言ってくれたので出掛けて行った。

(母の話をしはじめると収拾がつかないくらい長くなるので、ぼちぼちにしていこうと思っている。そりゃそうだ、私の人生の長さに次いで、なんだかんだ思うことがあるから)

 

しかし母というのは心配したいんですね。

私がまだ20代~30代のころは、健康のこと、結婚生活のこと、子どものこと、、あらゆることが心配みたいでした。

いちいちうるさいなぁ、私だって独り立ちしてなんとかやってみようとしているのに、信用されてないんだなぁって思ってました。

そう、「信用」「信頼」されてない。

信用、信頼されてないから、私も信用、信頼されないように、母の前では振舞っていることもあった。

5年くらい前、いろいろとひどいことを言われてきたと感じた私は、母とは会いたくないし理解もできない、とつっぱねた。

私が昔感じていたことについて話し、それに対して真摯に向き合ってくれなかった、と責めた。

母と距離を置くようになり、距離を置いていることが心地よく、だんだんと自分が冷静になり、母も大変だったんだろうと思うようになった。でも私も子どもながら大変だったんだよ、だからおあいこだ。

私は毒出しできたけど、母は消化不良だろう。ごめんね。でも私も必死だったんだ。

私は今さらまた母に心のうちをすべて話し理解してもらおうとは思っていない。今はしんどい。たぶん理解できないだろうし。

自分の思い(淋しい、悲しい、甘えたいのに甘えさせてもらえなかった、ひとりだった)というのは、母にはもう理解してもらえない。

だから、母が何を思って生きていたのか、想像力を働かせるんだ。

30代のころは、離婚もしたし、うつにもなったし、心配をかけた。

でもそれは実際に起こったことへの心配、というより、「母が自分で心配を作り出してる」「母は心配したい」ということだったんだろうな、とこの日に気づいた。

40代後半になった娘に何度も「今はちゃんと幸せにやってるんやね」と言う。

ふだん会っていないから、心配する内容が漠然としすぎてる。ちょっと笑える。

これがいつもいつも会う仲だったら、生活のこと細かなことまでアレコレ言われるんだろう。あれしたら、これしたら、って。

私があまりべったりしない、必要がなければ会わない人間だってようやくわかったみたいで、なぁなぁにせず実力行使で離れたことは私にとって非常によかった。精神的に健やかでいられる。

でも母は心配はしたいから、漠然としたことでも口に出すんだ。

この日もまた何を言うんだろう、と身構えて行った。けど、たいしたことなかった。

いつもいつも感じてたもどかしさや苛立ちというのは、私を信頼して!という気持ちから出たものだったのかもしれないな。

 

でも私は、どうせ母には理解できないだろう、と母を信用してない。問題に向き合うなんてしないだろう、とバカにして軽く扱ってる。

ということだ。どっちもどっちだ。

だけど、実際の生活を父とふたりで乗り越えながらやってきている、生きてきている、ということは信頼している。すごいことだと思う。だからその点では心配はしてないよ。

お母さんからの信頼は得られなかったし、私もお母さんを信頼してないけど、お母さんが心配することで心を保てるのならば、心配してください。

あとは私が母の今までを想像して、理解に努める。ここからのスタートだ。

 

怖いの正体

今日、たくさんの人がいる場所へ行った。10~20名くらいの人々。

時間まであと少し、どんどん増えてくる。

それにつれて、自分がどんどん怖くなってくるのを感じる。

顔には出さないけど、脳内はうるさいくらい怖がっている。

あれ?どうしてこんなに怖がってるんだろう。

 

周りの人々が、私を見ているような気がする。

なにかヘンな動きをしたら、ちゃんとしろって怒られそうな気がする。

みんな黙ってるけど、私をヘンだと思っているような気がする。

大げさだってわかってるけど、私を監視しているように感じる。

怖い、怖い、人が怖い。

 

これ、全部自分が周りの人々に対して思ってることだね。

私が、周りの人々を見て、

私が、みんながヘンな動きをしたら、ちゃんとしてほしいって思ってる。

私が、ヘンな人を探してる。

私が、監視してる。

私が、周りの人々は敵だ、と思っている。

 

違うよ。周りの人々は、私に対して興味なんかない。見てない。監視してない。

それどころか、みんなそれぞれ自分のことをして、リラックスしたりしてる。

みんなは敵じゃない。味方だ。

 

みんなが味方だ、という意識に持っていくことは難しくて、まずはみんなはフラットだ、と思えたらいいか。

私が見ているように世界は作られている。

すべて、私の脳内の劇場だ。

思い込みはありすぎて全部をクリアにはできないなら、

それならその思い込みを私の思うように変えていくんだ。

私が見たいように世界は作られるんだから。