ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

卵の数

卵を1パック買うと10個入っています。

昨日のこと、主人が軽くお昼を食べようと1つ卵かけごはんにしていました。私は食べませんでした。

私「あっ、卵、今は9個なんやね」「じゃあひとつケーキを焼くのに使おうかな」

主人「? そのままではダメなん?」

私「卵は偶数でないとあかんから…」

主人「???」

私「???」…はッ!

なぜ?? 私、卵は偶数でないとダメ…って思い込んでた?!?

 

そうなのです。

私は卵を使う時、残りが割り切れるように偶数にするクセがあって、奇数になると慌てるのです。なんでなんだ? 自分でもわからない。

残りが3つ、とかの時がすごく嫌で、なんとかして形がなくなるメニューに使い切ろうとする。すなわちスクランブルエッグやかきたま汁とかにする。

そして、偶数になるとホッとする。

目玉焼きを3つ作ってそのうちの1つを分ける、ということはしたくない。

ふたりぐらしだから、ふたりで卵かけごはんを食べようとした時に1つしかなかったら分けづらいから…? 目玉焼きを真ん中で分けるのは切りづらいから…?

へんな思い込みだなぁ。

幼いころ、なにか自分でそう決めたくなるような出来事があって、ルールになってしまったんだろうな。

卵は1パック買うと10個入っています。

この個数が割り算しやすくて把握しやすいから特にこだわったんだろう。

 

ちなみに主人は、3つの目玉焼きだったとしてもふたりで分けたらいいんじゃない?派です。

ほんと、ヘンな思い込み、いっぱいあるなぁ!

 

 

木綿の呪い

ラジオから流れてきた太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」。珍しく主人が歌詞を聴いて「この男腹立つなぁ」と言ってきた。

そうそう、そう思ってたことある。都会へ出て行った若い彼が、都会のきらびやかさ華やかさに呑まれて、田舎に置いてきた彼女から心が離れる。なんて身勝手な!と思ってた。

そう思ってた頃からもう10年くらい経ったか、今ではこの彼にはなんにも思うことはなくなって、彼女の方が怖いと感じている。

彼が戻ってくれるのをずっと待ってて、素直に待ってるだけのようだけど、ただ待ってるだけ…。

スーツ着た僕の写真を見てくれと言われてるのにいいえあなたと拒否…。

はなやいだ世界だけではなくて、きっと仕事でしんどいことだってあるけど、それでも自分から行動している彼は、自分の責任で苦しみも楽しんでるように思う。

でも彼女は彼がどんな場所で、どんな思いで日々過ごしてるのか知ろうとしない…。自分から訪れて、確かめようともしない…。彼と思いを共有しようとしないし、彼の思いを理解しようとしない…。

僕があげるといっているプレゼントはことごとくはねのけて、最後の自分からのお願いには、「木綿の」、化繊とか絹とかじゃなくて、おそらく素朴さとか純朴さとかを象徴してる「木綿の」涙拭く「ハンカチーフ」をくださいって、もう呪いみたいやん!!重いわ!

戻ってこない彼のせいで泣くんだ。…って、いやいや、自分の責任でしょ!自分がそれを選んだんでしょ。人のせいで終わってるところが気持ち悪い。

自分は変わらない…。変わろうとしない…。頑固やな〜。こんな人近くにいたら、こだわりありそう過ぎて話できんわ。

彼のことを好きだったんではないんだな。

自分のことが一番好きで、それはそれでいいと思う。思うけれども、自分のことを幸せにするのは彼だと思ってるのが違うんだろうな。

自分を幸せにするのは自分だよ。

 

さて、また10年後、感想がどのように変わっているであろうか…。たぶん、方向性の違いだね、のひとことで終わってそうな気もする。

 

積ん読は幸せのかたまり

 

最近、本が読めてない。

というよりも、本を買えない。節約だ。

図書館に行こう。なんでもよくはないけども、とりあえず読むのだ。とりあえず、というのは違うかな…。本に失礼かな。この焦っているような気持ちを何とかする方が先だ。

 

積ん読」ってありますね。

私のお友だちも、旦那さんも、読みたい本がたくさんあって、でもなかなか時間も取れないようで、仕方なしに溜まってゆく本たち。

私はそれって、とっても幸せな、贅沢なことだなぁと思った。

読み切れないほど読みたい本がある幸せだ。

興味を惹く本、日々に役立てる本、仕事の本、娯楽の本・・・

読む前だけど、その楽しみにしている気持ち、踊る心、わくわくする好奇心、これらがすでに幸せのかたまりだと思う。

なんにも読みたいものがない、なんて本好きにとっては、心にからっぽになったような淋しいことだから。

 

本を手にする幸せは、個人的なもの。

自分と対話するようなもの。

本を通して自分を見る。

本を媒介に自分がどう感じ、どう考え、どう思うかを知る。

こんなに心が満ちる時間はない。

 

積ん読になるのが苦手で(時間に追われて、しなければならないことが山積みになっているように思えて)、

読みたい本を覚えておいたりメモしたりすることをやめていたけれど、

「楽しみが待ってる」「幸せが待ってる」と思えるから、これからは少しずつ書き出していってみよう。

 

石井ゆかりさんの言葉のすばらしさ

 

https://lineblog.me/ishiiyukari/archives/9364161.html

石井ゆかりさんの本日の占いで、

魚座はあたためていた卵が孵って、素敵な小さなドラゴンが出てくるような日。」とあった。

なんて素敵な表現!

なんて気持ちを楽しく、楽にさせてくれる言葉だろう!

日々いろいろあって、しんどいこともあって、前なんか向けない、という日もあって、なんで自分はこうなのかっていやんなることもあって、でも、でも、それでも…

それでも希望は持っていいんだ。楽しく感じてもいいんだ。私は私の感性や感情や感覚を大切に思ってもいいんだ。

石井ゆかりさんは、そんなことがあったらうれしいな、と、少し空を見上げて一息つかせてくれるような言葉を渡してくれる。

言葉は表現。それは、石井ゆかりさんの世界観を表している。なんて美しい世界を持っているんだろう!

情報断捨離!

 

ネットを流していて突然、動物への暴力の映像が目に入ってきた。

画像でなく、動く映像だった。自動的に再生されてしまって、見てしまったらもうダメだ。

心臓がひゅっと冷えて縮んだような気がした。

気持ちが沈んだ状態で、自動で再生できないように設定し、胸の中の黒いどろどろの渦が去るまで耐えるしかない。

情報はなんでもかんでも目の前に、耳の中に流れてくる。油断しているとそれらに「やられて」しまう。

情報の波の中から好きなものを探すことだってしたい。でも気分の沈むニュース、記事、コメントが、まるでそんなのしかないのかと思うくらいに蔓延してるような気になる。

炎上、文句、「べきねば正義」を振りかざす変なコメント…

私に必要なのは、ネットの大波に呑まれないスキルだ。流されているニュースはたった一部。メディアが操作してあいつらの勝手に流してるだけ。大多数のように感じてるけど、本当に多数かどうかなんてわからない。

それから、自分に必要なのかを選別するスキルも。

暗いニュースだけではなく、よいと言われるような情報や記事の中にも、自分にとっては不必要なものが溢れてる。

つい、いいものなら読んでも害はないだろう、と思ってしまいがちだったが「身体にいい」「健康によい」からと、そんな情報をバカ正直に聞きすぎて、あれこれまみれ過ぎた。

よいと思ったものがストレスになる。

いろんな食材や調理方法を試したり、時季的、年齢的になるべく摂るようにしているものがあるけれど、

いや待てよ、本当にソレは本心からよいと思ったの?

私に合うとなんで思ったの?

第一、今の私に必要なものなの?

こう思ったときはチャンス。ルーチンにしてしまったことを、もう一度はじめに戻したらいいってこと。身体にいい健康にいい病にかかっちゃったんだな。

 

情報に目をやりすぎると、自分のこころの声が聞こえなくなる。知っておかなくては、なんて損得で考えないこと。

HSP本みっけ!

 

私の大切な友人に、感性が非常に豊かで、心のあたたかな優しい女性がいます。この漫画を読んだとき、まさに彼女のようだ!と感じました。

『タカコさん』(新久千映さん作/徳間書店

人より少し耳がいいタカコさん。小さくてかすかな音や気配を感じ取ることができる。

タカコさんの世界はしなやかで優しく強い。人や世間というものを根本から信ずる人なんだと感じました。嘘のつけない人。「自然」に生きている人。「自然」にしか生きられない人。作られてない「自然体」ってこんな感じなんだ。そんな印象です。

人や世界を信頼する人は、人からも安心され信頼されますね。

HSPの方なら共感する内容ではないかなーと思います。

ウェブコミックサイトでも読めます!

http://www.zenyon.jp/lib/top.php?id=13

f:id:piyosuketochocotoume:20190127233107p:image

そして、HSPだから生きづらいのではなくて、HSPだからこんなにも世界はいろどり豊かで輝いているんだ、と素直に言えるような、そんな人になりたい。

 

#HSP

ないもんはない

 

元気って、出すものじゃなくて、湧いてくるものなんだなぁ、と元気を出そうとしていたら気がついた。

元気出そうとしてると、身体は重たいのに頭だけが先に進もうとして、目はどよんとしてるのに口元だけヘラッとした笑顔になったり、足元がおぼつかなかったり、思ったように手足の筋肉が動かなくて、頭の中も空回りして、どうにもちぐはぐになる。

まさに今は元気がないんだ。

ないもんを出せ、って言ったって、ないもんはない。

元気とか、感謝とか、自分や人のことを思いやる気持ちって、出すんじゃなくて自然に湧くものなんだなぁとわかった。

ツグミが来てくれた、ホッとする

 

今朝、近所でツグミを見た!

先週わざわざ大きな公園に行って、一羽も見つからずガッカリして、今年は会えないかもしれないと思っていたところだったから、あの赤茶色(えんじ色)の姿を見た時は嬉しくてたまらなかった。

つい先日から、朝からやたらヒヨドリが集団で騒いでるなぁと思ったけど、そしてさらにヒヨ同士が何羽も集まって会合を開いていたようだけど、つぐみんが来たことを警戒してたんだな(笑)?

今朝だって、つぐみんのいる場所から間近なところの木に止まって、牽制してるというのか、見張ってるというのか、…ヒヨちゃんいつもその木には止まらへんやん!と突っ込みたくなるくらい「新顔」への挙動が大げさでおかしい。あたたかく迎えて…あげられへんねやろなぁ…。

 

毎日、鳥を探しながら歩いたり、空を見上げながら、雲の行方やら、風の冷たさやらのことを考えて、鳥の飛ぶ様子または川に浮かぶ鳥をじっと見ている。どこへ行くんかなぁ。何食べてんのかなぁ。鳥の飛ぶ姿はきれいやなぁ。

今日は気温はましだけど空気が冷たいなぁ。雲がいろんな形してるなぁ。川の水が少なくなってるなぁ。こないだはあっちの山に雪が積もってたなぁ。……

そういうことばかり思っている私はアホなのかなぁ。どんどんどんどん、人の社会から遠ざかっていくような気がする。

憧れのひと

 

市原悦子さんが亡くなってしまった。

出演する2時間ドラマも、連ドラになった「家政婦は見た!」も欠かさず見ていた。この方は、声や風貌にだまされるけどすごく厳しい人なんだろう、と感じていて、でも声と風貌にも惹かれて憧れてた。ひとり歌いながら踊るシーンが多くあって、無防備に見えるのがチャーミングだと思っていた。歳を重ねられたほうがもっと虎視眈々とした表情を見られて、私も思わず「ウシシ」と変な笑いをしてしまっていた。市原悦子さんが出る番組はおもしろくないわけないから、録画しても見ていた。

ふんわかしてるけど、でも実は怖い、と思うひとはもうひとりいて、それは詩人の石垣りんさん。この方も、見ためがかわいらしくだまされそうになるが、詩といえば市井の人々の厳しさを描いたものが印象に残っている。亡くなったときにハッとしたことを覚えている。私の中ではふたりを重ね合わせているようだ。

市原悦子さんの本も読んだことがある。以前に読んだインタビュー(と写真)の本では、思っていたよりも芯の通った厳しさだった。身体を悪くされて表舞台から少し離れていたけど、リハビリもしてると記事で読んでいたので安心していた。

 

葬儀の日、ネット記事で「樹木葬」にされると知った。

 

樹木葬」は私もできたら希望する埋葬の仕方だ。海への散骨、山への散骨、どれでもいい、とにかくお墓の中には入りたくないんだ。死んでまで、あんなコンクリートの狭いスペースにいたくない。墓は「ここに居るんです」とクサビを打つようなものだ。骨がここにあります、と周りにわざわざ知らせたくもない。死んでまで同じ場所に縛られたくない。私という痕跡は、人工物の中に残したくないんだ。自然の中に溶けてしまえたらいちばんいい。

しかし実際に散骨や埋葬をしてくれるのは私ではないわけで、死んでしまえばもう文句はない。どんな死に方をするかもわからないし、火葬してできる限り細かな灰にしてもらえるならそのあとはどのようにしていただいてもありがたいと思う…。

 

憧れのひとが望む埋葬方法と、自分の希望が同じだと知って、好きなひとを好きでいつづけてよかったと思った。人の生き死にといった根源的なところが自分と重なるというのは、魂の柔らかいところに触れたようで、しかもそれを理解できたような気持ちになるから。共感できる喜び。

こんな、葬儀の仕方とか散骨の話なんて、「普通は」だれとも気軽にはできない。話題にのぼらない。私にとって大切にしている思いでもあるし、人のこころに関わるデリケートな話だからだ。

でも、こうした話をふとした時にできる関係は、私には至福だろうし、とても憧れる。本音を開示し合うことにとても憧れる。

 

好きなひと、憧れのひとというのは、私に進む道を示してくれて、それはきれいなところばかりじゃない、どろりと濁り粘った場所もある、と教えてくれる。その人々を通して、世間を、世界を知ることができる。市原悦子さんも石垣りんさんも、私にとってそんな存在だ。

好きなひと、憧れのひとが何を望み知りたいと思うのか、行動だけではわからない心の動きをこうして知ることが叶い、穏やかな気持ちにさせてくれた。亡くなってからとなってしまったけれど。亡くなってしまったからこそ。

ずっと憧れのひとだ。

ひさしぶりの涙

 

今日でヨガを始めて20回目だった。

少しずつできることが増えていくのが楽しい。

今日は特別クラスで「月礼拝」を教わった。まさに女性のためのヨガだ。

昔ヨガは主に男性がすることだったそうで、身体を縦に伸ばす動きが多いダイナミックなもの。パワーヨガで行うのは太陽礼拝だ。

男性は、ひと月のうち、身体の内部の変化は女性に比べれば少ないだろう。

けれど女性はひと月のうち、生理の準備、生理、排卵、…内側では相当な大きな動きがある。月のリズムと言われたりする。外には見えづらいものかもしれないけれど、男性の外向きのダイナミックさに比して、女性は内向きのダイナミックさだ。

男性のものだったヨガを、徐々に女性もするようになり、身体を横(左右)に広げたり伸ばす動きの多い月礼拝ができたとのこと。

月に向かうため、照明はほぼ落とした暗い中、いつも以上に自分の身体のことを感じながら行うものだった。

 

今週初めから、気分が沈んでいるな、と感じていた。笑えないし、胃の消化力も落ちている。前かがみになりがちで、うるさい音に苛々する。なんか苦しいな、と思う。

こんなに恵まれているのに。こんなに何不自由無く暮らしているのに。日々温かいご飯を食べて、温かいお風呂に入れて。ご飯を作るのは楽しいし、ケーキを作る余裕もある。食べものも飲みものもおいしいと感じられる。青い晴れた空を見上げてきれいだなと思うのに。

こうした気分の時は、そんなすべてが自分自身とはちょっと離れてしまって、

自分ひとりだけが薄い膜のようなものの中に入っているようで、すべてがぼんやりと鈍い。なんかしんどいな、と思う。うっすらした気分。

 

ヨガをするようになって、身体を動かすことの面白さ楽しさ明るさを体感した。気持ちが下向きでも運動すると自然と前へ進む力が湧く。

私は運動は苦手だし嫌いだと信じ込んでいた。違った。自分の身体を放っておいたんだ。興味も持たず、苦手だからと決めつけて。身体を知ることもいたわることも癒すこともしてこなかったことがよくわかった。身体に対して済まなくてつらく思う。

 

今日は、その週初めからの沈んだ気分のまま受けていたら、合い間の姿勢の時に、勝手に涙が流れた。インストラクターさんの落ち着いた説明や優しいガイドを聞きながら、そうなんだねそうなんだ、と身体に向かって話しかけるように呼吸をし、ポーズを取っていた。気分が高まり出るものとは違う、自然にさーーっと流れる涙だった。

流れていたのは数秒だろうけれど、その間、小さい自分が出てきて、「怖い」「悲しい」といった感情が胸の内側に起こり、それはとても熱く、「そうだね怖いね」「つらかった」とまるでもうひとりの自分と話すような心持ちだった。胸の内がぎゅっと熱くなった。

いったい私自身はどこにいるんだろう。毎日毎日、日々のタスクを順々にこなす自分は自分なんだろうか。自動操縦された私は、私という乗り物に乗っているのだろうか。小さな自分ははたして自分なんだろうか。

私は何のために生きているんだろうか。私が生きていていいのだろうか。私が役に立つようなことは今までもこれからもあるんだろうか。

答えのない問いが次々浮かぶ。

答えがないからもう考えないようにしよう。いつかきっと気づく時が来てくれる。

大寒近し

 

さすがに冷える今日この頃です。

今日は、なんてことない話。

今年の成人の日は、大阪はわりと暖かくて、これなら着物の女性は冷えなくてよかったね、と思った。成人の日はたいがいめちゃ寒くて大阪でも雪の日なんてことがよくあったから…。それに着物って…冷やしたらあかんとこ全部スースーし過ぎてるなぁと思う…。

それはそれとして、今年も着物姿の新成人の女性を見て、大きく育ってよかったね、と思ったのでした。

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その暖かい日、大きい公園に行ったのでした。写真は暗くなってしまったのと、写し方が下手くそでわかりにくいかもしれないのですが、

電線にちょうどフウ(アメリカフウ)の木の実が「音符♩♫」のように見えたのです。

今見たらぜんぜん電線に重なってないけど…。°(° ˆᴗˆ °)°。


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包装紙がいろんなデザインの明治チョコレートを見つけてしまった!

たくさん種類があって、楽しくなった(^^♪

上は、街の夜景、

中は、スコッチテリアの愛の告白、

下は、スペースシャトルと宇宙犬!

きっとお気に入りが見つかるでしょう( ﹡・ᴗ・ )b

寒い日はまだ続きそう。暖かな部屋で、のんびりするのが幸せですね。

 

海藻の謎さ

 

冬真っ盛りです(「冬」と「真っ盛り」のそぐわなさがすごい)。

冬といえば東洋医学でいうと「腎」の季節。「腎」は、生命力というか、成長や生殖や老化など、「いのちのもと」を担います。「腎」が弱ると、白髪、抜け毛、腰痛、関節痛、トイレが近い、骨の老化、生殖能力の衰え、などなど、まさに「老化」に関わります。

 

といっても、たぶん「腎」に関することだけをケアしていても片手落ちなんだろうな、と思う。肝心要(かんじんかなめ)なんていうくらいだから大事なところではもちろんあるけれど、その前に、身体をつくるには「脾」だなぁと思っている。

「脾」は胃腸。消化吸収ができていれば、おのずと身体に必要な栄養が行き渡るだろうから、不調を予防するにはまずは胃腸なんだねぇ…。

食べ過ぎて最近だるくてしんどくなってきてるから、少しずつ「通常営業」に戻そう。お腹が空いてる、と感じるくらいのほうが、頭もクリアで身体も動かしやすい、と感じるし、ほんともう、身体をいたわってあげよう…。

 

「腎」の季節は、五味(ごみ)でいえば「鹹」(かん・塩辛さ)。そして色でいうと「黒」。

昆布、わかめ、ひじき、黒ごま、黒豆、といった黒いものを食すと「腎」によいそうだ。

だけど…

昆布もわかめもめかぶももずくもなんかあのクキクキぬめぬめしたところが好きじゃない。

海藻サラダに入っている赤と緑のクリスマスカラーの、漫画の吹き出し(激しめ系)のようなかたちをしたビラビラしたやつ、あれなんか口の中で激しいかたちがガサガサして、でも食感は柔らかめで、噛んでも噛んでもビラビラして、いったいどうしたらいいのかわからなくなる。だいたい、海藻サラダはレタスとかの野菜と海藻との食感がおおいにミスマッチだと思う。あれはほぼドレッシングの味だと思う。

あと海藻じゃないけどキクラゲ。あれも味がよくわからないし、肉の脂身のようにずっと噛み続けてもなくならず、いつ飲み込んだらいいのかわからなくなって混乱する。

私は海藻がなくても生きていけると思う。

 

…だけど、塩昆布なら細くもしくは四角く切って加工してくれてるからまあ食べられるしおいしい、ということで、塩昆布とじゃこの炊き込みごはんを作る。炊き上がったら昆布が思いのほか大量になってるけど(しかもハサミで小さく切ったのに全部は短くできなくて、だらーんとめちゃ長いのもいたけど)、でもクキクキしなくなったのでよかった。

 

ところで海藻を消化できるのは日本人とほか一部の東洋人だけだそうですね。おもしろいですね。

梅はあと少し

 

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お天気雨の降る日、大きめの公園へ。

梅のつぼみを見てきました。あともう少しです(^^)  丁寧にお世話がされているので、きっときれいに咲くでしょうね。楽しませてもらっています。
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林の中に、ミントの大群…!
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ミントは…ミントは…すっごい増えるよー!!

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謹賀新年

新年明けましておめでとうございます。

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(和歌山の新聞記事から転載させていただきました)

上の写真は、若いスズメの群れだそうです。この子たちがそれぞれ、冬を越せたり越せなかったり、外敵に襲われたりして、それでも残ってくれたみんなが、春につがいになって子育てするんですね。実り多い年にするためにがんばってほしい。チュンたちの姿は本当にとても美しい。


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おせち作りは楽しいな〜♬

今年は田作り(ごまめ)も作りました。こんな簡単でおいしいなら、ずっと作っておけばよかった(^^)  かまぼこはお正月価格だったので今年はやめました☆ 

 

今年はどんな年になるかな?  どんな年にするかな?  自分が知っている。自分を信じて動くだけだ。