心配と信頼(母の話)
先月の誕生日に、母がごちそうしてくれると言ってくれたので出掛けて行った。
(母の話をしはじめると収拾がつかないくらい長くなるので、ぼちぼちにしていこうと思っている。そりゃそうだ、私の人生の長さに次いで、なんだかんだ思うことがあるから)
しかし母というのは心配したいんですね。
私がまだ20代~30代のころは、健康のこと、結婚生活のこと、子どものこと、、あらゆることが心配みたいでした。
いちいちうるさいなぁ、私だって独り立ちしてなんとかやってみようとしているのに、信用されてないんだなぁって思ってました。
そう、「信用」「信頼」されてない。
信用、信頼されてないから、私も信用、信頼されないように、母の前では振舞っていることもあった。
5年くらい前、いろいろとひどいことを言われてきたと感じた私は、母とは会いたくないし理解もできない、とつっぱねた。
私が昔感じていたことについて話し、それに対して真摯に向き合ってくれなかった、と責めた。
母と距離を置くようになり、距離を置いていることが心地よく、だんだんと自分が冷静になり、母も大変だったんだろうと思うようになった。でも私も子どもながら大変だったんだよ、だからおあいこだ。
私は毒出しできたけど、母は消化不良だろう。ごめんね。でも私も必死だったんだ。
私は今さらまた母に心のうちをすべて話し理解してもらおうとは思っていない。今はしんどい。たぶん理解できないだろうし。
自分の思い(淋しい、悲しい、甘えたいのに甘えさせてもらえなかった、ひとりだった)というのは、母にはもう理解してもらえない。
だから、母が何を思って生きていたのか、想像力を働かせるんだ。
*
30代のころは、離婚もしたし、うつにもなったし、心配をかけた。
でもそれは実際に起こったことへの心配、というより、「母が自分で心配を作り出してる」「母は心配したい」ということだったんだろうな、とこの日に気づいた。
40代後半になった娘に何度も「今はちゃんと幸せにやってるんやね」と言う。
ふだん会っていないから、心配する内容が漠然としすぎてる。ちょっと笑える。
これがいつもいつも会う仲だったら、生活のこと細かなことまでアレコレ言われるんだろう。あれしたら、これしたら、って。
私があまりべったりしない、必要がなければ会わない人間だってようやくわかったみたいで、なぁなぁにせず実力行使で離れたことは私にとって非常によかった。精神的に健やかでいられる。
でも母は心配はしたいから、漠然としたことでも口に出すんだ。
この日もまた何を言うんだろう、と身構えて行った。けど、たいしたことなかった。
いつもいつも感じてたもどかしさや苛立ちというのは、私を信頼して!という気持ちから出たものだったのかもしれないな。
でも私は、どうせ母には理解できないだろう、と母を信用してない。問題に向き合うなんてしないだろう、とバカにして軽く扱ってる。
ということだ。どっちもどっちだ。
だけど、実際の生活を父とふたりで乗り越えながらやってきている、生きてきている、ということは信頼している。すごいことだと思う。だからその点では心配はしてないよ。
お母さんからの信頼は得られなかったし、私もお母さんを信頼してないけど、お母さんが心配することで心を保てるのならば、心配してください。
あとは私が母の今までを想像して、理解に努める。ここからのスタートだ。