『竹取』
小林聡美さんのことが好きで、タイミングよく見つけたお芝居を観に行った。
さとちゃん(といつも呼んでいる)のお芝居を観るのは2回目です。
今回は現代能楽集シリーズ『竹取』。
(野村萬斎さん企画のシリーズ第9弾。構成・演出は小野寺修二さん)
主演はさとちゃんと貫地谷しほりさん。
竹取物語を題材にしたもので、おおまかなストーリーはそのままだけど、舞台装置も、役者さんの動きも、想像とはまったく違った。
舞台には細いチューブが天井から床へ何本も渡してある。のびるこのチューブを動きに連れ舞台のあちこちに設置して、場面を切り取ったり、空間を作ったりしている。
何もないガランとした空間とは変わって、タテヨコナナメに走るチューブの線は、緊迫感を感じさせる。
照明もあまり明るくなく(だから眩しすぎず)、ここぞという時に効果的に使う。
舞台上に水(池というか、水たまりというか)を置き、光で照らし、描く模様を舞台背面に映し出すなんていう演出もあった。
役者さんの動きは、セリフをしゃべってあちらからこちらへ移動する、というような、ドラマでよく見るようなものではなかった。
ダンスやパントマイムのように、身体を使って大きく動く。動く。走る、走る。歩く、ねじる、倒れる、しゃがむ。
セリフに頼らない。説明しない。たまに歌う。
チューブを動かすのも、小道具を運んでくるのも役者さんたちで、たまに足りなくなるのかひとり助太刀で出てくる人がいた。
ほぼ出ずっぱりの役者さんたちがそれぞれ形は違うけどみなさん「黒」の衣装なのに、その助太刀さんは「上が緑・下が黒」の衣装だった。
なんでだろう?と不思議に思いつつ役者さんじゃなく小道具さんだから?と思っていたら、
終演後の小野寺さん、さとちゃん、貫地谷さんのトーク(30分ほどトークがあったんです!うれしかった)で、「あの人だけなぜ服の色が違うの?」という観客の質問があって(質問を受け付けてくれたんです!面白かった)、
「あれはね…、松なんです」という答え。
現代劇のようだったけれど、これは『現代能楽』! 能の舞台には松がある!
松か!と、ワッと観客の方々の声が上がった。同じことを理解して共有したことで、心が湧き立つように思えた瞬間だった。
お芝居って、説明なく進んでいって、疑問があってもそこにとどまれない。観た人がどう感じるかは自由だけど、こんな風にちょっとした種明かしをしてもらえることで、あなたとわたし、みんなが共有できることがある、という楽しさを感じられた。
そこで、さとちゃんが「えっと、あの方もカーテンコールに出ていいですかね? いつも迷うんです」と笑いを誘った。次回からの公演では、きっと一緒に終演を迎えたと思う。トークも含めてのお芝居、すてきな一幕だ、と思った。
「100%」は私が決める
仕事でも、人と会うのでも、遊びに行くのでも、「100%」の力とペースでないとあかんと信じ込んでいた。
だから、今日天気悪いし頭も痛いんだけど行かなきゃ…で行って、やっぱり調子が出なくて、あ〜あ、体調管理できてないのがダメだったのかな、楽しいはずなのに気分が重いと思うなんてひどい人間だな私…、なんてめっちゃ自分を責めまくってきた。
会社や学校で、100%全力でやれ、とか言われ続けてきたからそうせねばならない!と思ってきた。刷り込みってこわいなー…。
心理カウンセラー根本裕幸さんのメルマガを読んでいて、『100%の力とは「固定値」ではなく「変動値」』という記述があって、私の固定観念を崩してくれたのです。
根本さんのおっしゃる通り、その「100%」の力とかペースって、「自分にとってとても調子のいい時」が100%なんですよね。さらにそこに上乗せして、まだいけるはずだ、やらねばならないみたいに思いがちな私は、理想の100%を追い求めて、体調が悪かろうが気が重かろうが100%の力が出せないなんてあかん!と勝手に追い込んでた。しんどー…。そんな20代・30代だったな…。
そういえば、職場の上司が「毎日105%の力を出せ」とか言ってた。その時なんかおかしい、と感じて、いまだにその違和感は取れない。変だと感じる。注意信号が体内で騒ぐ感じ。
こんなこと言う人って、理想が高いんだろうな。でもあなたと私の体力や気力は違う。そんなのにはついていく必要を感じない。
と今の私だからこそ思える。人に強要された100%なんて奴隷みたいだ。私はもう人の思うままになんかならないぞ!
まだ、自分の中ではザワザワと「そんなんでいいの?」「やらなきゃ取り残されるよ」なんてすごく騒がしい。
だけどもこれこそ今は聞き流すチャンスだ。頭の声は聞き流すこと。恐怖や不安や焦燥感まで連れてくる。うるさくてうるさくて、ものすごく聞き流しがいのある騒音だ。
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続かないことは悪いこと
何をやっても続かない、という意識にこのところ責められている。
仕事だって派遣で最長3年くらいだし。同じところにずっといたのは5年だった。
20〜30代のころは、人間関係だって続かなかった。続けようとしてなかった、という方が合っている。
そういえば、小・中学のころにだれがいたかと思い返せば、ひとりふたりしか思い浮かばない。
高校も大学も、今や友人と呼べる人はほとんど残ってない。
こんなんだから、同窓会とか、行ったことがない。行きたくはないけど、それ以前に私の連絡先をだれも知らないと思う。
えっ、私って本当に存在してるのかな、と一瞬ひやっと涼しい気分になった。
同級生からすれば、私はいないようなもの。積極的に覚えておこうと思われない人間ということかな。あらあら…私は透明人間か。
でもまぁ私だって誰ひとり覚えてないわけだから一緒か。もう50代も近いですね、みなさんお元気かしら。
人との関係も、仕事も、その時その時を必死で、それからある程度慣れ、理解したような勘違いをする。そうすると、また次を見たくなるんだ。新しいことを知りたくなる。
人との関係は、家庭環境の変化もあるし、どちらかがどうこうできるものではないけれど、
仕事については、ある程度必死で行動したあと、やりきったな、と思ってしまう。一段階、二段階、とステップを踏んでいかない。ひとつかふたつめで、もういいや、と思ってしまう。
力の配分もおかしいと思う。ゆっくり時間をかけてができなくて、焦ってしまう。自分が理解力もなく要領も悪いのはよーくわかってるから、早く知らなくちゃ、できるようにならなくちゃ、と追い込み過ぎる。必死過ぎるんだ。
できないことは悪いこと。
続かないことは悪いこと。
こういう思い込みで動いてしまってるんだなぁ。
続いたことを思い出せば、小学6年間通ったお絵描きだけ。小学生の足には少しだけ遠いところに、自転車で毎週通っていた。楽しかった。何をしていたかさっぱり覚えてないけれど、きっと好きなようにさせてもらっていて、大切な場所だったんだろうな。なんでこんなになんでもかんでも忘れてるんだろう…。
続かない、ということにすごく罪悪感を感じるし、自分を不信に思う。なんにもつきつめられないんやん、という責める気持ち。
だからなにかをはじめることも、どうせ飽きるんでしょ?と頭の声が聞こえて、躊躇する。本当にできるの?したいことなの?なんてことも言う。頭の声はとてもうるさい。
世の中に出て行くことが怖かった
子どものころからなんとなく生きにくかった。
怖いことだらけだった。
小・中学生の行動範囲といっても家からほとんど離れないけれど、テリトリーとなりうる学校でさえ知らないところばっかりでなじみづらかった。先生と気安く話す同級生がうらやましかった。友だちの親と話すことももじもじして何を言えばいいかわからなくて怖気づいた。
知らないところ、人がたくさんいるところ、繁華な駅。誰かと一緒じゃないと、もう帰れないんじゃないかと怖かった。
知らない大人も怖かった。大人が多いということも怖かった。大人イコール怒る、みたいに思ってた。
親に甘えたかったけど、甘え方がわからなかった。肝心な時には見捨てられる、とよく思ってた。言う通りにしておとなしくしておけば、生き延びられる、と感じてた。
幼いころの記憶はほとんどない。小・中学生のころさえも。繰り返し思い出して定着させた記憶は、今や事実だったのどうかわからない。よほどぼんやり生きていたのだろうと思う。
世の中のものに押しつぶされそうだった。広い広い世の中に出ていくことが怖かった。この広い広い世界を自分ひとりの力で泳いでいけるなんて思えなかった。なにかを自分で決断することも怖かった。
それから高校生・大学生になって、少しずつ行動範囲が広がって、周りの人々も、自分と同じくらいだとわかってきて、構えすぎないようになった。
私にも息をする場所があるかもしれない、あってほしい、と思った。
でもやっぱり、空想で生きていた幼いころから、嫌でも現実に出ていかなければならない年齢になって、とても嫌だった。それを我慢した。だから我慢が生きるうえでのデフォルトになってしまった。
今振り返っても、なんだか無理矢理生きてたなぁと思う。もちろん楽しいことや笑い転げるようなこと、のびのびと羽を伸ばすようなこと、そんなこともたくさんあっただろうと思う。けれど思い出すのは、「怖い」と感じた、その感覚が多い。
では楽しかったことはなんだろう?
家や、自分だけが入れる隙間みたいな場所で、本を読んだり絵を描いたり、テレビアニメを見たり。妹と遊ぶことも楽しかったけれど、ひとりでいる時がいちばん好きだった。
机やふとんは自分だけのスペースだったから、そこで過ごすことは自分を保つ大切な場所だった。
楽しかったこと、というより、ひとりで息をつける場所が必要だった。
今も、どこへ行ったとしても、早く帰りたい。遊びに行って、それがとても楽しくても、早く自分だけの場所に帰りたくなる。
このところ、なにかに不安なのか、昔のようにまた「世の中は怖い」という思いが襲ってきている。
身をひそめて息を詰めて、怖い怖いと思いながら、やり過ごしている。
変わることを楽しみたい。怖いけど。
ややっ?! 気がつけばアラフィフと言われる年齢になってるね、ワタクシ?
アラフォーとかアラフィフとか、まぁどっちでもいいんだけど、中身は子どものころのものを後生大事に抱えてるなぁ。
日本酒飲んだり、塩辛とか食べられるようになるのかなと思ったけど、日本酒は飲めないし甘いものが大好きなのはそのまんま。
にがいものの旨味を知ってこそ大人の舌だ!みたいに思ってたけど、ゴーヤはやっぱり頭がしびれる感じがしてたくさんは食べられない。
なんかあると考え込んだり、立ち止まるのもそのまんま。
怖い!と思うこともそのまんま。
許せない!と思うこともたぶんあんまり変わってない。だけど、許せないまま、まぁいーや、と思えるようになった。これは面倒くさがりに磨きがかかったんだな。
ちゃんとしなきゃ、早くしなきゃ、と思うクセがなかなか抜けなくて、これはもう私にはいらないものだから早いとこどっかにうっちゃってしまいたいけどタイミングが来ない。
まだ昔にしがみついてるのか!といやんなるんだ。だけどもそれも私を作ってきてくれたものだから、まだ一緒にいてやるか。
*
身体が変わるのは自然なこと。
スペアがないんだから、大事にしなきゃ。よしよし、となによりもまずいたわってあげること、これはきちんと考えていいことだ、と思っている。
人の身体は変わるけれど、精神はあまり変わらない。必要がなければそのままで変わらない。不都合が出て、意識が変わらないと、内容も根本も変わらない。と思う。
身体と精神(頭)を切り離しすぎだ。精神(頭)は身体なくしては生きられないのに。
*
私の思う「変わること」は、進歩や成長のこと。
せっかく今の私で生きてるんなら、なんかやってみたいし、知らない自分に会いたいし、進歩したあとどんな発見があるのか興味津々だから、変わることを楽しみたい。怖いけど。
でもなんでこんな風に思えるようになったんだろう。子どものころは怖いことだらけだったのに。
次回は生きにくかった子どものころを書く。
タイトルを新しく・小鳥たちは移動しました
ブログのタイトルを変えました。
最近頭から離れなかった「人間っていろんな思い込みでできてるよな〜」という実感から、そのままそれにしました。
思い込み、といっても、それがいいとか悪いとか、正しいとか間違いとかじゃないです。
ただただ、思い込みでできてるなぁ〜と実感するのです。
これからも、いろんな思い込みを持ったり捨てたり変えたり、もらったりあげたりしながら生きていくんでしょう。
そして、なによりも愛する小鳥たちの記事が、紛れて埋もれているのがしのびなく、別のブログに移動させました。
ちょっとずつ、もう一度見直してきれいな形にして残したいなぁと思ってます。
『とりさえいれば!』
奥田英朗さん→本城直希さん→大友克洋さん→高野文子さん
ひさしぶりに手に取った、奥田英朗さんの本!
あの精神科医のシリーズがものすごく面白くて次々読んだことを思い出した。(でも内容をぜんぜん覚えてない…このポンコツ記憶力よ…)
この家シリーズも、表紙の写真が印象的で好きなので気になっていた。
表紙の写真は本城直希さん。『small planet』という写真集を持っている。いろんな風景をミニチュアのように撮った面白い写真集。
私は自然たくさんの風景より都市やビルが好きで、だから東京の景色などには心惹かれてたまらない。そしてミニチュアも大好きだ。これはもう好きにならずにいられようか。
都市好きの私は団地の景色も好きで、この団地好きはたぶん高校の時に、これまた追いかけるように読んだ(今も読んでいる)大友克洋さんの影響だ。あの『童夢』を読んだ衝撃ったら! 団地が主人公だといっても過言ではない。もう紙も変色してしまってるけど、何度も何度も読み返す。絵が綺麗すぎて。
紙の色が変わってもずっと読んでるのは高野文子さん。文庫の『るきさん』は手頃な大きさだから、寝る時のおともにいいんだ。『黄色い本』も、一回読んだだけじゃよくわからなくて、繰り返し繰り返し、でもわかろうと思い詰めずに読んでいたら、なんとなく心に染みとおった気がした。内容だけでなくて、絵を眺めているだけでもいいんです。なんでこんな線を描けるんだろう。
…話がどんどんずれてゆく。
それで奥田英朗さんの『家日和』『我が家のヒミツ』『我が家の問題』をこれから読むんですが、この『我が家のヒミツ』の表紙ですよ、ですよ、ですよ!
この団地(大規模マンション?)、そのまま『童夢』じゃないですか?! いったいどこなのかはわからないですが、わからなくてもいい。これは『童夢』だ!
…と、まだ本も開いていないし、内容ともまったく関係なさそうなんですけど、いささかわくわくしっぱなしです。ブックレビューはまた今度!
人生100年時代だってさ
最近、すごく拒否したこと。
人を不安にさせたり、恐怖を感じさせたりすることを口にするのは強制じゃないか。
人生100年時代、なんて、庶民の金を搾りとろうとする財務省やら保険会社やら、その他諸々の、人の人生に責任など持ってくれないところがメディアを巻き込んでぶちあげているけど、本当にそうなの?
そしてそれを真に受けたのか、その作られたストーリーに乗っかって、「だから今行動しなきゃ」とか「今までの古いやり方では成功できない」「AIに仕事を取られる前に、新しいことを勉強して身につけなきゃ」みたいなことを言われる場面に出会った。
そういうことを強く言い募る人って、演説者みたいで、なぜかだいたい説得力があるように聞こえる。思わず「ふ~ん」「そうねぇ」とうなずいてしまいそうになる。
要は、本当はどうだかわからないのに「正論」に聞こえるということだ。(ほんとにそう思って言ってるの? と不思議に思う。それってあなたの本音?)
それは「あなたの」不安であって、「私の」不安ではない。
「あなたの」正しさであって、正しさでものごとを図れるほど、生きることはそんなに単純なものじゃない。
その「あなたの」不安を人に押しつけたり、あなたと私は同じだと思わせて扇動するのは、強要だと思う。
危機感を煽って、どのように行動させたいのか。どう考えさせたいのか。
結果、「あなたの」心配や不安を、「あなたの」願う未来のために、叶えてあげなくてはならなくなる。
「あなたの人生」のために「私の人生」があるんじゃない。
そのことにひと月ほど経ってようやく気づいた。私は私の思うように生きる。
腰痛治まる!
ここ2週間ほど、腰痛でした。
ずーんと重く、動かしにくい。1週間経った時、いよいよギックリか?!という状態に!
ヒェーこりゃあかーん、と慌ててカイロをたくさん貼って安静にして約3日…、ようやく動くようになりました!
腰って「要」って書くくらいだから、ほんとに要所なんですな…。腰を痛めたらなんにもできない。
せっかく何ヶ月越しに会おうと言っていたお友達との予定も繰り延べてもらって、身体を治すことに専念した。とにかく温めて、あまり動かさない。動かせない。
そうして治った時に、身体が楽に動くことのしあわせ!
腰痛もなく、頭痛もなく、おいしくご飯が食べられて(いや最近は食べ過ぎて胃腸に負担かけてるか…。I can’t stop 食欲!)。
身体が淀んで滞っていると、ロクなこと思わない。
さらっと物事を流せなくなるし、いつもなら嬉しい、ありがたいな、と思うようなことも「ケッ、感謝病か」と悪態つく。あ〜いや、感謝病は皮肉だけど、思ってないのにありがたいって「思い込む」のはやっぱり病ですな。
感謝や感動は心の底から自然と湧いてくるもんであって、しなきゃなんないもんじゃない。
ま〜そんな時もあるさ。巡りが悪いってやーね。
hiro-sanのブログ『人の心に灯をともす』より
読ませてもらっているブログで、ハッとすること発見!
hiro-sanのブログ『人の心に灯をともす』より、
「否定することで、あなたはなにかいいことがあるんですか?」という記事。
斎藤一人さんの本の中の言葉を引用されています。
斎藤一人さんを寡聞にして知らないのですが、気持ちが明るく前を向くような言葉を使われる、ということを聞いたことがある。素敵なことだ。
この記事を読んで、こういうことしてしまってる…と反省。
でも、
だって、
どうせ、
えーそんなのヘン、それはこう、これはああでしょ?
こういう言葉、いっぱい使ってきたし、今も使ってしまう。
自分に攻撃されてると感じたのかもね。
自分を否定されているように感じたから、先んじて相手を否定して安全圏にいようとしたのかもね。
ただの話、と思えずに、相手と私の違いを受け入れられずに、相手よりも私の方が正しいんだ、なんて、あがいていたのかもね。
違う違う、そうじゃない(鈴木雅之さんを思い出した)。
最近はそんな気持ちから少しは抜け出て、私自身も楽になった、と思えてた。けれど、時々こうしてハッと気づく出来事が起こる。気づかせてもらえた。
口先で、個性だ、人は人だ、とか言ったって、やっぱりこうして出てくるんだなぁ。腹に落としたつもりでも。
人を否定することは、自分を否定することでもある。
それでもまた、もう一回やってみるんだ。私の気持ちを否定せず、相手の気持ちも否定しない。みんなそれぞれ。
hiro-sanのブログ『人の心に灯をともす』より、
「否定することで、あなたはなにかいいことがあるんですか?」
自分との会話
このブログはいったい誰に向けてしゃべってるのかな、と思った。
誰に伝えたくて書いてるのかがわからなくなってきた。
はじめの頃は、少しでもつながりのある方々に向けて書いていた。顔を合わせるのは難しくても、ちょっとお茶しながら会話する、そんな風な思いで書いていた。今ももちろんそういった読んでくださってるであろう方々に書いている。
けれどだんだんと、もう一人の自分に向けて、確かめるような気持ちで書くことも出てきた。
「もう一人の自分」、これは…、
いつも自分と一緒にいる自分だ。
頭の中で繰り広げる会話合戦でわーわー言い合う自分。赤と言ったら青と言い返す自分。どうしよう?と迷いオタオタするとそれに追い打ちをかけるように急がせる自分。判断が間違っていると責める自分。頭の中で常にフル回転して走り回っている自分。
かと思えば、しんどかったなぁと言ったらしんどかったねぇとなだめる自分。ありがとねと言ったらそんなこといいから休んだら?と言う自分。コーヒーを淹れたり、お風呂に入ったり、本を読んでいると、とても穏やかにおとなしくなる自分。
いつも自分と一緒にいる自分。
ずっと一緒にいる自分。
この人を納得させたり、喜ばせたりするために書いているような気がしてきた。
今までの自分を振り返ったり、少しずつ変わっていく自分を見せて知らせて、たくさんの自分の姿を、ほかでもない自分と共有したいと思っている、と感じる。
これからも一緒に進んでいくために。
眠りにいいらしい?
さっき記事で読んだ。
「眠りに効く身近な食材3選!」というような題だったので、どれどれ?と読んでいくと、
①コーヒー
ふんふん、香りがリラックス効果…、なるほど、では次は?
②玉ねぎ
えっ!?けっこう刺激的では?これも香り成分に効果あり…なるほど…。イマイチ納得いかないけど…、じゃあもう1つは?
③セロリ
うっそーん!!なんで?
セロリ嫌いやのに!成分的に…とかどうでもいいわ!スープにかけらが入っていても察知するくらい嫌やのに無理無理!
コーヒーはさておき、枕元に玉ねぎとセロリが並んでたら悪夢見るわ!!
あとでもう一回読み直そう、と一旦閉じ、ふたたび検索したがなぜか見つからない…私のまぼろし??
私の本質に気づいてしまった
私は真面目で几帳面だと思われている。きっちりしている、とか言われることもある。
もしかしたらそんなとこもあるかもしれない、とか自分で錯覚しそうになってたけど、違ったぞ!
私はズボラで面倒くさがりなんだった!そしてだいぶぼんやりしている。この先なんにもせずにのんびりとぼーっとしていたいという野望を持っている。
早くのんびりしたいから作業をさっさと終え、早くのんびりしたいから手順をわかりやすく整え、早くのんびりしたいから工夫や改善に余念がない。
これが終わったらのんびりするぞー!と常に思いながら仕事や家事やもろもろのことをしているのです。
約束の時間より早めに着くように準備するのも、早く着いてホッと一息ついて自分を保ちたいから。慌てて駆け込むと自分がパニックになるからだ。
明日出かける時に慌てないように、前日から持ちものや着るものの準備をする。
そうしておくとあとはゆっくり休むだけ。あ〜準備してなかった〜と焦らずにすむからだ。
ものの置き場所をざっくりでも決めておくのも、そうしておいた方が考えずに取ることができて楽だからだ。
な〜んだ、私って几帳面でもきっちりしてるんでもないんだ。
ただただのんびり、ゆっくりしたい、がベースにあるんだね。それが私の本質なんだ。ぜんぜん逆だった。ははは、愉快愉快。