痛いのは一体「誰」?
夜中ちょっと雨が降ったらしく、朝見ると地面が濡れていた。
くもり空で、これからまた降るのかもしれない。少し肌寒い。首もとからひんやりした空気が入ってくる。
そういう天気の時はやっぱり頭部が重い。
見えにくいものを力を込めて見つめていて、あまり続けると酔ったようなめまいが起こりそうな時があるけど、そんなふうに目元が張って、凝っている感覚。頭の中をぎゅっと締め付けられるような感じがする。
今のこの頭の痛みを説明しようとして、人にわかってもらうように説明するのはどうにもやっぱり難しいとよく思う。
人によって痛みの感覚や表す言葉も違う。だから私が〇〇と言っても、人は△△と捉えるかもしれない。
そして、たとえば血管、たとえば脳、たとえば頭蓋骨、それぞれの「立場」で感覚を捉えようとすると、それぞれが違うことを言う。
血管なら、膨張する。
脳なら、その膨張した血管に押される。もしくは自分も膨らんでいるから頭蓋骨に当たる。
頭蓋骨なら、脳がぎゅうぎゅう押してくる。
それぞれの「立場」に立つと、痛みを説明する言葉がまったく変わるんだ。
では一体「誰」が痛いの?
血管からすると、膨張してたくさん血液を流そうと思ってるのに膨らんだ脳が邪魔してるから痛み発生。かもしれないし、
脳からすると、血管が膨張するから圧迫されて痛み発生。かもしれないし、
頭蓋骨からすると、脳が膨らんでどんどん押してくるから痛み発生。かもしれない。
三者の言い分だけでなく、他の要因もある。
さっき朝ごはんを食べたから、胃に血液が集まって頭方面はあまり流れなくなってるかもしれない。すると広がった血管にあまり血が行かず、血行が悪くなっている。
血行が悪くなると、上部にある頭だけでなく首や肩にも血が流れにくくなって、酸素や栄養が行かない。冷える。固まる。張る。痛み発生。
今ブログを書くことで余計に目元が張ってきた。痛み発生。いやしかしこれは眼球が張ってるの?目元の皮膚が張ってるの?それとも首のコリが目の痛みに影響してるの?どれ?
痛いって言ってるのは一体「誰」?
それぞれが痛いって言ってると思ってるけど、だいたい頭蓋骨が痛いって感じるのかな。血管もそうだな。そしたら結局は統括する脳が判断してるってこと?
いやいや細胞は身体中にあるんだから、それぞれの細胞が痛いって感じることだってあるでしょう。
足の指を打ったのに、ひじが痛いとかないでしょう。お腹が痛いのにふくらはぎが原因とかないでしょう。
あれが…、これが…、、、、
…なんて暴走を続けるうちに、空は晴れ、地面も乾き、気圧も落ち着きました。
でも頭痛はやまない。
“絶対”って思わなくなった
歳をとってきて心底よかったと思う自分の変化は“絶対”がなくなってきたこと。
絶対のあとには「こうあるべき」「すべき」がたいがい続く。強い語気だ。そして“絶対”と“べき”で、二重に不自由になってる。
不自由だし窮屈だし、自分の小ささやせまさを露呈していてみっともない。
若い(幼い)時はちょっとしょうがない。経験もない知識もない、小さな世界で生きているから想像力も乏しい。潔癖でもある。だからなんでも自分だけのものさしで測って、決めつける。
不安だから。確たるものが自分にないから、外に求める。絶対こうだよね。絶対そうするべきだと思う。絶対、絶対。なんやねん、絶対って。。かっこわるい。
中年になって、そういう枷から自由になって、どんなこともあり得るし、どんなことも起こり得るし、どんなふうでもいいやん、と思えるようになった。
“いい加減”っていいな。とっても楽しい。
みうらじゅんの効用
みうらじゅんが好きなんです。いえ、がっちり好きなんではないけど、昔からずっと気になる存在です。
昔からずっと「サブカルの帝王」だと思ってたのです。
でも違った。
順序が逆だ。そういったカテゴリーには入らない人なんだ。
30代の時東京タワーに昇って、展望台のところのお土産コーナーに、みうらじゅんグッズが並んでたんです。よくわからないものがいっぱいで、ぜんぜん欲しくもならないけど、ついついじっくり見てしまう。
みうらじゅんってなにやってる人なんだろう? なんでもやる人だなぁと思って、雑誌やネットでみうらじゅんという文字を見るとついつい覗き見するような感覚で待ち望んでました。
長髪で、大きめの色の濃いサングラスをかけていたら自動的にみうらじゅんだと認識するようになり、ついにはゴスペラーズの人も、浜省も、鈴木雅之も、みうらじゅんとの差異が曖昧になるくらいになって、頭の崩壊が起きています。目もかすんでるようです。
なんでこんなに気になるんだろう?
みうらじゅん独特の世界、独特の感覚、先見の明みたいなものへの憧れがある。
そして、好きなことを好きだと誰はばからず言い、好きなまま興味の向くままに進んでいたら、きっと自分が満足する、ということを教えてくれてる感じがするからかなぁ。
みうらじゅんはきっと、いつでも自然に息をしているんだ、と想像すると、そんな人がいてくれることにホッとして、勇気をもらえる。持っていることで安心する薬のような効用です。
言葉にならないこともある
生きるってすごいことだ。
先日のこと、年配の女性がごく個人的なことを話してくださった。
「私、病気をたくさん持ってるけど、最近になって、今日も生きてるのかぁっていう心境になってきたわ。そんな風に思うようになるなんて思わなかった。」
「そうですよね、生きているだけで、息をしているだけですごいことだって思います。」
「えっ?! あなたはまだ若いのに、そんな死生観を持ってるの。そういった考えを持つと、しんどいでしょう?」
「はい、しんどいです。でも、これしかできなかったのと、今はこれでよかったと思ってます。」
ほかにも、年齢を重ねて身体が思うように動かないことへのもどかしさや苦しさを話してくださった。
私も行く道だ。
息をすることができて、食べることができて、思い悩むことができて、腹を立てることができて、眠ることができて。
知らない間に、髪も伸び、爪も伸び、肌で空気の移り変わりを感じ、話すことができ、音楽を聴けて、青空も雨の日も空を見ることができる。
私は言葉が好きで、思うこと感じることを言葉にしたい、という欲をもっているけれど、どうしたって言葉にならないこともあることを知っている。それを知っていることは私を正気にさせる。なんでもできるわけじゃない。でもできることもある、という勇気を出せる。
生きることというのは、私に、ゆだねることを知らしめてくれる。
ただ生きているだけで、すごいことなんだ。
人にかける言葉はあったかく明るく優しいほうがいい
人にかける言葉は、あったかくて明るくて優しいほうがいい。
だってそれはぜんぶ自分に返ってくるから。
人に言っているようで、自分がいちばんその言葉を言ってほしいんだと思う。
もちろんグチったっていいんだ。ドス黒い言葉が出たっていいんだ。
どっちもあってあたりまえ、正しい・間違い、善悪、そんなもんはどうでもいいんだ。
あっ、今の私は「正しい」で動いてるな、とわかったらしめたもの、それもありだし、責める対象である人(他人だったり自分だったり)も、その状態でありなのです。
ずるくて、狭量で、浅はかで、だけど それを自分なりによい方向に変えていけるのも自分だから、自分を信じてあげよう。
*
今日の私は頭痛と眼痛がひどく、ちょっと動いてもズキッと脈打つような痛みが突き刺さる。薬を飲んでも治まらない。眠れない。
たまになることだから、以前は無理して病院に行って脳の検査までしたけど、結果なんの異常も見つからなかった。
今まで受診した医者たちは、目の前の私ではなく机上の画面データを見てばかり。要らない偏頭痛の資料をプリントして早く帰れと言わんばかり。医者ってなんなんだ。
すがるような気持ちで原因を知りたいと言っているのに、受け止めてくれるようには感じられなかったから、もうその辺の医者は信用しない、となった。信用するのはまず自分の身体だと思った。
季節的要因、天気、気圧、冷え、食べもの、最近の生活習慣、最近の気持ちの変化はどんな風だったか…
ちょっとした変化をできるだけ見逃さないようにして(見逃すけど)、そしてなるべく自分の身体を責めないようにして、感じてあげたいと思うようになった。
いつかは医者にお世話になるだろう。でも、半分以上は自分の身体と心が治していくものだと思う。
それまで、自分を信用する練習だ。今の自分を受け入れる練習。身体に感謝する練習。痛みは苦しいけど、この痛みは私のものだ。手助けはしてもらうけど、人に任せるわけにはいかない。
言葉は凶器
特に好きでもなく、ふだん頭に登らないし、別に考えないようにしている程度の人のことを、
「好きではない」「嫌い」だと口に出したとたんに、
それが決定事項になって、自分がものすごく嫌っている、という事実に変わる。あらためて絶対的なものに決定されてしまう。アウトプットしたことで、定着してしまう。
それまでたいしてなんとも考えてなかったのに。
言葉を口にするのは凶器なんだ。とても怖いことなんだ。
そんなことを口にした自分は腐っている、と吐き気を感じるくらいに、自分が一番嫌いになる。
そんなことを口にさせられたことに対しても、猛烈に腹が立ち、それからズンと沈むような重たい淀みのようなものを抱える。かなしい。
呪いの言葉
私には姉がいた。写真でしか知らない。
私が生後8ヶ月の時に、自動車にひかれて亡くなった。
私は自分が長女だと思っていた。
母からは「お姉ちゃんとしてちゃんとせよ」と言われ育ってきた。
居心地の悪さを感じながら、妹に対しては、幼いながらもお姉ちゃんとして、必死にその役をしていたように覚えている。
ずいぶん経って、私は第二子だと知った。拍子抜けだった。
私にはお姉ちゃんがいて、でもそのお姉ちゃんはお姉ちゃんの役割をしてないのに。
なんで私だけ?
私には、私を抑えなくてものびのび生きる方向もあったのに。
長女の役割をさせられていたんだ、と感じた。
ある時また、母親から言われた。
「お姉ちゃんのように、親より先に死んではならない」
何度も繰り返し言われた。
私は死ぬ自由も奪われた。
死にたいかどうかはわからないけど、選ぶことさえ、自分で決めることさえ、できなくなった。
人間なんて、死ぬ順番なんて年功序列でもないのに。誰だって明日どうなるかなんてわからないのに。
今になっても尚、立ちはだかる言葉。呪いだ。
そして今になっても尚、呪いは解けない。
おおやけにするのなら
公にして発言していることは、誰が読んでも理解できるようにするのが「人の良心」だと思う。
人がわざわざ真意を推しはからないといけないような発言や行動は、本人が「伝える努力や責任を負っていない」ので誤解されても当然だろう。
本人や周りのシンパが「それは違う」「よく読めば真意がわかる」と言ったとしても、そもそも「他人に対してそれほどの熱量を持って読み込んだりする時間はあるか?」を考えてなくて言葉足らずな表現をしたり、長々と結論が捉えづらく書いてるんなら、表面だけさらっと読んでも伝わるように書く努力はしてもいいだろう。
「おおやけに」発言している人なら(そしてそれをビジネスにしている「プロ」なら)、自分の言動がどんなに影響するか、人にどのように捉えられるかを想像し、考え、押し付けず、無責任にならず、良心を持って行動してほしい。
ということを、この記事を見て思った。
https://twitter.com/badassceo/status/1035878303234572290?s=21
おおやけに活動するなら、最低限の行動だと思う。
誤解されてもいいも〜ん、どんな風に捉えられてもいいも〜ん、なんて思ってるとしたら、それはただの甘えだ。ビジネス以前の問題。大人(人間)のすることじゃない。社会への責任も負えないようならただの自慰行為だろう。地下に潜ってやれ。
…と、私の中のなけなしの社会性が言っています。人間の端くれとして、良心を持っていたいから。
《追記》昭和の時代にもブームになって今もまだ脈々とあるビジネス(霊感商法やらネズミ講やらスピリチュアルな洗脳やら)は、非常に前時代的で古くさく、強い違和感を感じる。これからは流行らないのではないか(まだ続いていくだろうけれど)。
新しいビジネスがどんなものなのかまだ出現していないので私にはわからないけれど、今までの方法では通用しなくなっていくのではないか。
そう、人の痛みや弱みにつけこんだ「ビジネス」なのだ。「サービス」でもないし、「善意」でもないし、「公平」でも「平等」でもない。金儲けの手段なのだ。忘れるところだった。
自己否定は自己防衛
自己否定は自己防衛なんだな。
一生懸命すごい勢いで頑張って否定している。
周りから責められないように先回りして自分を否定している。
そうすることで自分を守っている。
…何から?
*
人や周りの状況を優先する。いえいえ自分なんて後回しでいいんですよ。人を優先してその場をやり過ごし、しかし我がホームへ帰るとすごくすごく疲れていて、苛々して、鬱憤が溜まっている。我がホーム内にいる気の置けない人に八つ当たりをする恐れがあるので、ひとりきりになりたい。でも誰かにそっと見守っていてほしい。ほっといてほしい・見ていてほしい、というわがままな心境になる。
本当の私の心は、自分をないがしろにしていることがわかっているから、苛々し、癇癪を起こして泣いているし騒いでいるし悲しんでいる。
自分に怒っている。自分が萎縮している。感情を持て余す。そんな自分に嫌気がさして、また感情を見ないフリをする。私平気ですから。
身体だってこわばって固まって、首や肩や背中やあちこちガチガチになって、息もうまく吸えてない。そんな状態が「普通」だと信じ込んでいる。
全く緩んでない。常に戦闘態勢だ。これも自己防衛だ。
*
もし、人がそんな状態だったら何と声をかける?
そんなに人に気を使わなくていいんですよ。人のこといろいろと考えなくていいんですよ。
全部できなくてもいいんですよ。焦らずにゆっくり行動すればいいんですよ。完璧なんてないんですよ。
自分を痛めつけないでいいんですよ。小さなことでも、したいことがあったらしたらいいんですよ。行きたいところに行っていいんですよ。
嫌いな人がいたっていいんですよ。腹が立ったっていいんですよ。
それから、身体にとっては緩んでだらーんとしているのがよい状態なんですよ。だるく感じるくらい緩んでいることが、本来の「普通」なんですよ。
……
人にだったら言えるのに、どうして自分には言えないんだろう?
もっと明るくなるようなことを書きたいな…。
よく思われたいのではなく、正しく理解されたい
梨木香歩さんの文章が好きだ。
この方の文章は「森」のようなイメージだ。
森の中の湖面のようにしんと静かでほの暗く、森の中の落ち葉が堆積した土のように豊かで深い。
私のこの精神を、受け入れてくれる、と感じる。
私のこの、ごちゃごちゃとした面倒な精神を。
言葉を、丁寧に、誤解のないように、優しく、でも厳しさをもって扱っていると感じる。簡素に感じるほどだ。
表面に現れるのはきれいで簡潔でシンプル。けれど、おもてに出た氷山の下には、何倍も大きくて深い氷があるように、その底にはつよさや苦しさや喜びや、言葉では言えない感情が数多あるのだろうと思う。
正しさを追求して厳しくしすぎると、つらく切ない思いが湧く。その切なさを読んでいて感じる。文章の中に自分を映し出しているようだ。
*
数年ぶりに「梨木香歩作品集」としての『西の魔女が死んだ』(本編と、それから派生した物語が収められている)を読んで、あぁそうだった、この方はこんな文章を書くんだった、と、居場所に帰ったような落ち着きを感じた。
主人公の少女はHSPなんだろうと思う。(翻って、作者もそうなのではないかな、と考えている) HSPの一側面を記している話だなぁと思う。
私は、HSPの性質というものは「部分や分野により」誰もがひとつふたつは持っていると言えるし、持っていないとも言える、と考えているが、こうした物語があると「その部分・分野では持っていないのでわからない」人に、理解の助けになると感じる。
たとえば、私は聴覚や視覚、嗅覚において、細かな差異を見つけるのがたやすく、見つけすぎてストレスになるが、味覚や触覚では感じない。そんな人間と、味覚や触覚に鋭い人とは、同じHSPであっても相互に理解するのは難しいだろう。持っている分野が違うから。
そんな場合に、こういった物語があると、なんとなくでも相手の感じていることをわかる気がする。
*
お話の中で主人公は、「自分が相手にどう受け止められているのかということ」をとても気にして、「と同時に、そんなことを気にする自分が情けなかった。」そんな気持ちの時に、祖母がそっと言ってくれたのだ。
「自分が相手によく思われたいのではなくて、正しく理解されたいだけなのではないですか」
「そうだとしたら、いちいち訂正したり、念を押したりすることも、意味のあることですよ」
*
誤解のないように。自分の表現することが、そのままの形で相手に伝わるように。
間違い・正解、の「正しさ」ではないだろう。この、モヤモヤとして言葉ではうまく言い表わせられない思いが、誤解のないよう、曲解もされずに相手に届いてほしい。
言うこと・話すこと・表情やしぐさ、それらは「自分を差し出す」のと同じことだから。
相手も自分も傷つけたくないし、相手も自分も丁寧に扱いたいから。
*
よく思われたいと思ったっていいと思う。それを情けないと感じたって問題ないと思う。
人とのやりとりで、意図しない受け止め方をされてしまって、悲しくてやりきれないとやさぐれたっていいと思う。
周りの人や情報に振り回されて、何が何だかわからなくなってもいいと思う。混乱してもいいと思う。
でも。そうしたときに。
事実や真実や現実よりも、人には物語が要る。
事実や真実や現実に疲れたら、物語に帰っておいで、と言われているように思った。
*
『西の魔女が死んだ 梨木香歩作品集』2017/4/25発行 新潮社
私のツキ具合
今日、いえ昨夜、ふいに思い立って映画のレイトショーへ行こう、と『インクレディブルファミリー』を観てきました。
本題はそのことではなく…、帰りついて車から出てふと夜空を見上げると、東から西方向へ流れていくものを見たのです。
今タイミング的に並んで出ているのを見ることができる惑星たち(金星・火星・木星・土星)より余程大きく、
飛行船かなぁ?と思うくらいの大きさで、全体はオレンジ色でした。明るいオレンジ色と暗いオレンジ色が入り混じったような感じでした。
進むスピードは飛行機が飛ぶ時よりもっともっと速く、でもスゥーーーッと音もなく揺れやブレもなく飛んで、地平線の向こうへ消えて行きました。
まさかUFOじゃあるまいし、と思いながら、しかし彗星よりはだいぶ大きかったなぁ、今見えている火星や木星がゴマくらいだとすると、あれは大豆くらいあったなぁ、形もアイロンかけた跡のようなロケットみたいな形だったし、と思い思い、ネット検索していた主人に
「fireball ?」「火の玉?」と聞くと、
「火球か!」とさっそくまた検索したところ、どうやらこれもタイミング的に見られる時期だったようで、「火球を見るなんて流れ星より珍しい」とのこと。
本当に火球なのかどうかはわからないですが、こうしてブログにでも記しておかないとすぐに忘れるのでしっかり記録しておこう。
ふと夜空を見上げなかったら見つけられなかった、主人に知らせなければ天体好きな主人も見られなかった。
これぞインクレディブル!私はほんとにツイている、そのことに驚き!
ことのほか主人が喜んでくれて、知らせてよかった。夫婦で揃って貴重な体験をしました。
……そして、
『インクレディブルファミリー』は、おもしろかったです!
休みスイッチ欲しい
のどがヘンだなと思ったら、風邪をひいた。引き込んでしまったようで咳が止まらない。
翌日からお盆休みだった。
少しまとまったお休みの前にちょうど具合が悪くなるのは、身体のメンテナンスしなさいよ〜ということなのかなんなのか。よくできている…。
倒れ込むくらいに具合が悪くなるのはそれまで無理が重なっていたわけで、こまめに休息しなかったからまとめて出てきたんだろう。
こまめな休息、って難しい。
ただだらだら身体を休めても休息になってないし、私に合ったリラックスとリフレッシュのバランスがあるはずだけど、それがよくわからない。
たとえば、電車に乗っても寝たことがない。10分間休憩してて、と言われてもまったく休めない。仮眠を取ろうと目をつぶっても、頭の中がしゃかりきに働いているから眠れない。部屋の中が明るいと眠れない。旅行なんかで他人と同じ部屋だと眠れない。周りがうるさいと眠れない。疲れ切ってても眠れない。
一瞬で休みモードになるスイッチが欲しい。
身体は変化し進化したい
最近読んだブログ記事に、思っていたけど言葉にしづらかったことが書いてあった。
成長や変化をいやだと思ってたって、細胞は変化し進化したがってる。
自分の解釈が入っているから間違ってるかもわからないけれど、私はそう捉えた。
いくら頭で変化したくないってあらがっても、肉体は、生きるために細胞分裂するし、食べて消化吸収して常に新しく身体を作っていっている。
身体に嘘はつけない。
それが「自然」ということだ。
頭で考えてるつもりで、悩んだり迷ったり落ち込んだりしても、身体の調子を整えていくと、それは消えていく。身体に先に不具合が出て、頭やメンタルは後なんだ。これは本当にそうだ。疑うなら、身体を整える行動をしてみるといい。血が足りてないか流れてないか、呼吸が深くできてないか、筋肉が硬くなっているか。ふだん生きられていて、重篤な病気でないなら、おおかたそんなところだ。そんなに複雑なものではない。自分が特別だとか、頭は万能だとか思いたくなるかもしれないけど、それはまやかしだ。
自分の身体のことは自分がいちばん知らない、と思っていい。調子が悪いことなんて、とっくに周りにはバレバレだ。
不安になるのも、逃げたくなるのも、恐怖を感じるのも、人のせいにしたくなるのも、自分次第です。
自分のご機嫌を取ることは大切だ。いざという時逃げることも必要だ。
でも、自分は変わりたくなくて、変わろうともしなくて、周りに責任を押し付けるようなら、それは自分を生きてない。空想の、ただの想像の、誰だかわからないものに支配されてるだけ。
身体は毎日毎日、ご飯を食べて、眠って、生きるために変化していってるのに。
頭で考えてることはたいがい間違ってるかも、くらいでいい。頭は怖がりだから、変化を好まない。今まで通りの方法、過去との照合や執着、現状維持が大好きだ。だから身体のことを無視して、頭だけで生きてるような顔をする。
頭だけでは、思考だけでは生きられない。実体がないから。実体は身体だ。
聞く・聴く
聞くことはむずかしい。
相手が言っていることをそのまま聞くことはむずかしい。
30代過ぎてから、「聞く・聴く」ことを意識して、できているかどうか振り返り思い出すようにしているけれど、今でも何度も失敗する。
以前は身の回りの一般的社会では、これほど「傾聴」について言われてなかったが、最近とみにそんなムードだ。
流行りの「傾聴」ムードやブームはどうでもいい。そうでなくて、私は私の「聞く」ことをしたい。
受け流すくらいに聞けるようになってみたい。受け流すってただ流すのと違う。まず「受けて」、流すんだ。いったん受けて、でも受け止め過ぎないで、捉え過ぎないで、流れるように聞いている。流すんでなく、流れるように。聞いてないようでちゃんと聞いている。
それには、自分の心が波立たず、フラットで、ニュートラルなのがいい。
すぐなんとかせねばと焦って前のめりにあたふたする今の私にはハードルが高いんだ。けれど、挑戦しがいがあることだろう。
人と話す、ということはなくならないだろうから。そして人と話すことで気づくことはものすごくたくさんあるから。その先の私は、その気づきを得て、とてもとても豊かになっているだろうから。
自然にただそこにいるだけなのに、全体を見て、聞いて(聴いて)いる。私の心は波立たない。ただ自然のままでいる。そんなのが理想だ。
舌の変遷
昔、母がかき氷を食べていて、それが“みぞれ”と言うんですか“すい”と言うんですか、透明の蜜のかかったかき氷で、子ども心に「あんな味ないのん、おいしくないのに」とか思ってたんですが、今の歳になるとあの味気なく感じるくらいのシンプルさで充分ですね。アイスクリームやら練乳やらいろいろのせてゴテゴテしたのはくどく感じるようになってきました。あったら食べますけどね。おいしいですけども。というか、かき氷の蜜(シロップ)は全部同じ味だそうですが、ほんとですか。いちごはいちご味に感じるんですが。いちご味がいちばん好きだったんですが、今はレモンもいいと思ってたのに同じ味なんですか。目眩しに遭っているようです。
*
子どもの頃食べたくなかったものに「酢のもの」があります。今など、酢を入れない料理がほぼないくらいに作ります(大げさか)。おいしいです。レモンより酢の方が胃に優しいそうです。しかし逆に摂りすぎで身体に良くないかもしれません。過ぎたるは及ばざるがごとし。
かといって、子どもの頃嫌いだったこんにゃくやキクラゲや昆布なんかは今も食べませんけどね。三つ子の魂百まで。
それでは今日はこの辺で。