ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

「今」にいること

仕事に出かける前に、「あぁ、不安だ」と思った時がありました。

同時にこの不安感は、

「今までの経験の記憶」から同じように不安や心配になったできごとを探っている、

そして、

まだ起こっていない「未来」を心配して不安がっている、

と気がつきました。

過去と未来ばかりを気にしていました。でもそれに気がついたから、もう大丈夫。

私は「今」に戻ってきました。こんな風に気がつくようになるなんて今まで思いもしなかった。ちょっとずつでも進歩しているな。

ずっとスイッチONの人

いつも聴いているラジオ番組、FMcocoloの「NIGHT AQUARIUM」。

先日の放送で、DJをしているシンガーソングライターの森大輔さんが言ってました。

「(僕は)常にONですから」

…わかる!と頷きまくりました。

今度開催されるライブは夜の水族館のVIPルームだそうで、中に水槽があるそうなのです。

そんな特別感のある、しかも夜の開催で、観客の方もゆったり過ごしてもらえるだろうとのこと。もしかしたら森さんのOFFの姿も見られるかも?!とアシスタントさんがおっしゃったところへこの返しでした(笑)

「常にON」

疲れるでしょう、とアシスタントさんに言われ「疲れますよ」「だから僕10時間くらい寝てるんです」だそうで、これにもわかる!と頷きまくりました。

私も長い睡眠で脳内の処理をなんとかまかなっていたのですが、最近は加齢および眠るのにも体力がいるからか、だんだんと長く眠れなくなってきました。困った。

 

朝起きてから眠るまでずっとONなんです。疲れます。スイッチの切り方がわからないんですよ。だれか教えてください!

今年は花粉症が出ない

私は花粉症です。

昨年の春先は盛大な花粉症症状が出ていました。毎朝起きたら鼻がムズムズして、目も痒くて、顔が熱を持っていて痒くてその熱が抜けず、神経も過敏になってイライラしていました。小青竜湯を毎日飲んでいました。

しかし今年はまったく出ていません!びっくり!

なんでかな?冬の間にしたことが影響しているのでしょうから、何をしていたかなぁと思いめぐらせてみると…、

●冷えないように腰やお腹にカイロを貼った。予防的に貼ることもあった。春先の今もたまに貼る。

●家ではレッグウォーマーを欠かさなかった。「足元は冷えているもの」と意識していた。

●腹巻きを欠かさなかった。

●必ずお風呂に浸かるようにした。

●寒く感じたら我慢せず暖房を入れた。

とにかく冷やさない!あたためる!

…こうしたことが体力が消耗し過ぎるのを防ぐ一番大きな要因となったのでは、と思いました。

寒いのを我慢してガクガク震えることが続けばそれだけ体力もなくなっていくわけで、もともと頑健でもない私は冷えに対する今までの意識を変え、「温めすぎて悪いことはない」くらいのつもりでやってみたんです。

そうすることで、体力が余分に減ることがなく、底上げまでいかなくとも、どん底までは落ち切らなかった。それで、冬の間に風邪もひかず、冬〜春にかけての急な気候や温度変化になんとかついていっているのかもしれません。

おしゃれは足元から、なんて言いますが、冷えも足元から! おしゃれさんにはなれないけど、冷えて身体がしんどくなるよりマシ!

もうおしゃれじゃなくてもいい!

それでついつい、足元が寒そうな女性を見ると心配になります。あとでしんどくならないといいけどなぁ。。

自分が試してみて体感したことは、おおいに納得感と満足感がありますね。それが自己満足であれ、健康でいられると気持ちも明るくいられるので、身体のメンテナンスって大切なんだなぁと人生後半になってつくづく思います。私の身体はひとつだけ。いつも働いてくれてる。ほんとにありがとう。

違う価値観に出合う

違う価値観やものの捉え方は人から教わることが多いですね。

そんな風に考えたことなかった、そんな捉え方をするんだ、そんな反応をするんだ、と驚いたり新しい発見につながったりします。

ひとつの言葉を取っても、人によって捉え方が違ったりする。共有することの難しさを感じます。

 

自分自身では、今まではこんな風に考えてたけどまったく変わったな、と思うこともよくあります。でも人から与えられる衝撃よりはゆるやかな変化です。

例えば子どもの頃はシイタケが嫌いで食べられなかったけれど、今はいろんな食べ方を知っていて、おいしいと思う。

でも昔のシイタケ嫌いの頃の気持ちも知っているから、昔の私を丸ごとくるんで今の私がある感じ。おまんじゅうのよう。

 

人からの刺激は、想像もつかないところからボールを投げられてバシッと受け止めた感じ。体験というベースがないから、驚きと衝撃がある。

そしてその違う価値観やものの捉え方を知った時、私の中で瞬時に舞台が転換する。

驚きとともに世界がバーッと広がる。人によって、自分の世界を広げてもらっているんですね。

変化にすぐにはついていけなくて混乱しながらも、えっ、そんな風に考えるようになったのはどうして? と知りたくなる。

人の体験や、話を聞くことは、自分だけのせまい世界からちょっと抜け出られるような、違う世界を見せてもらえるような感じがする。

色合いも空気も風景も、広さや奥行きもまったく違う、人それぞれの世界。

いつもの景色もいいし、違う景色もいい。

オンリーワンにもならなくてもいい

世界に一つだけの花” 歌詞

NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one

という箇所の「もともと」を、今の今まで「もっともっと」だと思ってました〜恥ずかしい。

さて本題です。

人はひとりひとり違って当たり前だから、人と比べたりせず、自分が今できることをして、自分を懸命に生きること。

そうすればいいし、そうしかできない、という内容の歌だと捉えております。心に寄り添う素敵な歌ですね。

本日読んだ本の紹介記事で、「オンリーワンにならなくてもいい」という記述がありました。本自体は未読のため、記事だけ読んでこうして書くのは孫引きだし片手落ちですが、その「オンリーワンにならなくてもいい」という一言にハッとしたのです。

記事全文/ムダにイライラしないためのちょっとした習慣/『イライラしなくなるちょっとした習慣~60万人の怒りをしずめてきたアンガーマネジメントのテクニック』安藤俊介 氏著

https://ddnavi.com/review/446843/a/

みんな違って当たり前だしそれは頭ではわかってるつもり。でも自分はオンリーワンといわれるような何者かにならなきゃいけない、という気持ちがどこかにあったんです。

ナンバーワンになれないことはとっくにわかってる。でもオンリーワンにもなれない自分なんて、生きてる価値あるのかって、自分を認めない・意味がない・価値がない、と責める材料にしていたのですね。

そのままの姿でオンリーワンなんですが、そのそのままの姿が自分では許せない・認めたくないと思ってしまってるから、何かを成し遂げたひとかどの人物 = オンリーワン、と思い込んでいました。

ひとかどの人物、なんて、そうそうなれないですよね。自分でも何をもってひとかどなのか説明もできないのに。

***

歴史の中にうずもれる一片の石ころ

ナンバーワンにもオンリーワンにもならないしなれない。砂つぶのようなかけら。

いいも悪いも、正しいも間違いもない。そんなものでいいんです。自虐でなく刹那でもなく。

そう思ったとき浮かんだのがこの歌詞。

我 一介の肉塊なり

“諦念プシガンガ” 戸川純 作詞

この歌詞の意味の深さ(もしくは意味のなさ)なんて、今まで実感として考えたこともなかった。

歴史の長くて大きな流れの中の、ひとかけらでしかない。そういうものなんだろうとうっすら感じ始めている。そして、しがみついていた欲望から離れる覚悟を決めなさいよ、と言われているような気がしているが、実際の感覚はまだぼんやりしてなんの言葉にもならない。

この年齢になってはじめて感じている、思っている、考えていることだ。

初めて知ることって、ほんとにおもしろい。いまだ知らないことだらけ。これから死ぬまでにどこまで知ることができるだろう。

ラジオとエレカシ

まだまだ続いている、にわかエレファントカシマシファンのワタクシですが、

30周年記念コンサートも無事終えて、また新しいスタートを切って進んでいかれるのを様々な記事で読み、こちらも気持ち晴ればれとしています(^^)

毎日流しているFMラジオでも、ようやく、エレカシの曲が以前よりリクエストなどでかかるようになってきました。

関西圏のFM COCOLOという、どちらかといえば年配向けのラジオだからか、数年聴いてきたなかでエレカシがかかることはほぼ皆無だったのに、ここへきてたくさんかかってますよ!

特に今は桜のシーズンですので、

桜の花、舞い上がる道を

新年度なので、

新しい季節へキミと

などなど。

とはいえ、、ラジオとエレカシって相性がよくないのかなって感じます。ラジオでは他の曲とのバランスなんかも考慮すると思うので、宮本さんのあの濃く強い伸びのある声や曲調がはまりづらいような、個性が強すぎて浮いてしまうような…。

ラジオは、割合誰にでも耳障りのよい曲が流れるなかで、とがってバランスを欠いた曲がどうしてもなじまない、という感じです。(エレカシファンの方々にはわかっていただけると思うのですが、褒めてます)

でも素敵な曲いっぱいあるので、だんだんと認知が広がることはすばらしいですね。

エレカシStingさんだけはひとりイントロクイズをしてるみたいに、かかると「あっ、かかった!」とハッとして、一曲じっと聴いてしまいます。素晴らしい声にうっとりします。

世界にあまたある曲の中でラジオで一曲でもかかるってことは、すごいことなんだなぁと思わされます。

ともあれ、新しい季節のはじまりを力強く後押ししてくれるエレカシの歌は、やっぱり気分がよくなりますね(^^)

さ、今日もがんばろう。

自分の目と耳と感性で

ラジオでDJさんがリスナーの方からのメッセージをもとにしゃべってました。

最近の言葉使いがなっとらん、と。

我々おっちゃんたちが「正しい言葉使い」をするように注意していきましょう!と息巻いています。

…こういうの、なくならないんだな、毎年のように言う人いるんだ、と思いました。10年前にも聞いた。20年前にも聞いた。聞き飽きた。

だったらいつの言葉が日本語として「正しい」んでしょうか。平安時代? 江戸時代? 文明開化のころ? 第二次世界大戦のころ? 学生運動のころ?

まったく変わらない、確固とした言葉ってあるの?

言葉使いがなっとらん、と怒るのって、だいたい年配の方が多いような。それも、今でいう団塊世代あたり。(思い込みかもしれませんが)

たしかにコンビニ言葉といわれるような言葉は、団塊ジュニア近辺の世代の私も聞いていてあまり気持ちよくはありません。が。

でも、言葉は時代時代で変わるもの。

なっとらん、と怒る人たちだって、きっと新しい言葉を使ったり、今までの使い方を変えたり無邪気にやってきたでしょう。言われなかっただけで、それまでの世代の方々に眉をひそめられてきたと思いますよ。責めてる自分たちだって同じなんですよね。

言葉は変わる。だから「正しい/間違い」で測れるものではない、と思います。

古い価値観やルールは、それ以降の新しい大きな勢力に呑まれるものです。

折しもそろそろ新年度。新しい人や新しい考え方が次々に出てきます。

あぁ、よくない方へ変わっていく、とその時点で思っても、それこそ「世の流れ」として止めることはできない。

その、「よくない方」と捉えている私だって、古い価値観やものの見方をしているかもしれない。新しい考え方になじめず、ただ否定しているだけなのかもしれない。

そして、本当によくない方へいってしまったのかどうかは、もっと時間が経たないとわからない。

大勢のルールに縛られたり、人の目を気にしてこうでなくちゃ、と思い込むのをやめたらいい。

今の自分の目と耳と感性とで、心地のよい言葉を使うように心がけたらいい。

それって、ただ文句言うだけよりよっぽどしんどいです。

まず自分が新しい言葉に歩み寄って、知っていけばいい。

知ったら、自分にとってどう感じるか、で使うか使わないかを決めたらいい。

正しい・間違い、の観念は、人と人との断絶を生みかねない。

知らず、押しつけになっていないかを自分に問うきっかけになったできごとでした。

夢野久作『ドグラ・マグラ』

今日は好きな本の話です。

夢野久作ドグラ・マグラ』をご存知でしょうか。

今から20年ほど前の高校生の頃に、三一書房版の夢野久作全集をひと月に一冊ずつ買って揃えていくことがとても楽しみでした。

筆者の作品はほかにもたくさんありますが、幻想文学だ、猟奇的だ、と語り継がれ20年前には映画にもなったこの作品は、やっぱり空前絶後なものだなぁと思います。

文体も、描かれる世界も、なにもかも夢野久作でしかない独特なもので、文体なら、繰り返しが多くもったいぶっているところもあり、しかしそれがリズムになってどんどん深みにはまっていくような…、そしてはまってしまったら、味わい尽くすまで戻れない、ドロリとした暗い底なし沼のようです。

ドグラ・マグラ』で非常に影響を受けたのは、「身体の細胞ひとつひとつが意思を持っている」ということです。

例えば手が痛い時、痛みは脳で感じていますが、本当は、手の細胞ひとつひとつが痛がっている。

記憶も、人間の細胞ひとつひとつに宿る(そこから、先祖の呪縛や因果のお話になっていくのですが)。

脳髄万能主義の世の中だからな、とは主人公の正木博士が映画で言ったセリフですが、そんな昔から「脳」の第一主義はあったのか、なんでも頭で判断し、脳が一番えらい、とふんぞりかえっていたのか、と感嘆したものです。ずっと変わらないんだな。

今思えば、思考が一番で身体はそれより劣るとする世の中に、それは違う!と物申した物語だと思います。

読んでいるうちはそうした理屈は置いて、ただ面白く愉快で、読むのがとても楽しかったです。

20年前くらいに映画になったといいましたが、映画も秀逸だったと思います。あの長い長い、あっちこっちとっちらかっているようにも思える(それが夢野久作の魅力なんですが)物語を、よくコンパクトにわかりやすくまとめたなぁと思いました。

主演は、桂枝雀さん、松田洋治さん、室田日出夫さん、江波杏子さんなどなど。枝雀さん好きの私はワクワクしながら映画を観に行きました。

ルーズソックスもまだ出現していないような時代の高校生だったので、映画に出かけるのも意を決して、とは大げさですが、学校帰りに1時間かけて映画館まで行き、帰りは暗くなっている、というのもドキドキしたものです(単館上映でした)

その時買ったパンフレットもいまだに大切に持っています。(後ろのページにシナリオが載っていて、繰り返し読みました。やっぱりよくできているなぁ)

枝雀さんの正木博士役は、怪奇、変幻、おどけ、軽妙、冷酷、恐ろしさ、自由自在な妖しい役で、魅力満載だったと思います。

映画の惹句が「どうどうめぐりのめくらまし」だったのですが、『ドグラ・マグラ』をこんなに端的に表せるなんて、と感心した覚えがあります。

夢野久作の本たちは、

よく晴れた土曜日のうらうらと日が照った午後、飛行機雲が浮かぶ空をぽかんと眺めているような、

またはうだるような暑さの中、汗びっしょりで昼寝から覚め「悪夢を見ていたか」と呆然とするような、

なんとも夢うつつの時間を過ごすことができる作品群だと感じます。

あの空気感や世界観の中にすっぽり入っていた時間は、すぐそばに物語が寄り添ってくれているようで、とても贅沢な時だったなぁと感じます。

 

今がいちばんおもしろい

毎日いろんなことがあるけれど、

失敗もするし、途方に暮れたり、やるせなく、身体もしんどく、つらいなぁと思うことも多いけれど、それでも、

今がいちばん、おもしろい。

今起こっている出来事に、まるでゲームのように向かっていってる、と思えれば、たまにだけど苦しさから楽になれたりする。

むやみやたらにがんばらなくてもいい。ゲームのように、ちょっとちから抜いていた方がいい。なるべく緩んで、固まらない方がいい。自分の身体と心のためには。

 

今がいちばんおもしろい。

それは、自分ひとりのちからでは思えなかった、できなかった、感じなかったことだ。

今までに関わってくれた人々のおかげで、今の自分は成り立っている。自分のちからも少しはあるだろうけど、ひとりきりのちからではない。

だからといってすべてに感謝する、と言い切ることはできないけど今は。嫌なこともあったし、許せないこともあった。今でも苦しいこともある。

それでも、今がいちばんおもしろい。

忘れてないよ陳皮

以前、作ったとブログに載せたものの、その後さっぱり使わず放っておいた陳皮

忘れてたわけではありません、放っておいただけです。……。

ということで、今回は使いました報告です!

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ビスコッティを焼きました!

(なんだかそれっぽく見えますね、写真ってすごい)

写真では陳皮は見えませんけれども、一度目焼いて出した時にふわぁ〜っと香りました。みかんのさわやかな香りです。

そしてしかも、ものすごく簡単なんですねビスコッティ。自分が食べるだけだからこだわりもないので、こんな簡単だと助かります。バターも牛乳も卵もなかったけど、できました。小麦粉・砂糖・ベーキングパウダー・水。あとは余ってたフルーツグラノーラやレーズンやクコの実やナッツ。ただ混ぜて焼くだけなんて、面倒くさがりにはぴったり…!

二度焼きをして、焼きたてを食べましたら、やっぱりさわやかなみかんの香りがして、陳皮入れてよかったと思いました(失敗しなくてよかった汗)しかもレーズンとみかんは合うんですね、コレはうまい!

そしてうまくできたことに味をしめて、今度は陳皮&ココア&チョコレートの組み合わせで焼いてみます。オレンジとチョコもこれまた合うんですよね!

これで陳皮を残らず使えそうです(^^)やったー

頭がパンク

パンクした。

ヒューズが飛んだ。

ブレーカーが落ちた。

燃え尽きた。

焦げついた。

頭の中がパンとはじけた。

いっぱいいっぱいになって限界を超えたことを表すのに、思いつくまま書いてみました。

どんな言い方でもいいのだけれど、いったんこうなってしまうと回復が追いつかない。

こうなってしまったあとは、まるでスローモーションみたいに動きが遅くなる。頭の中の動きと、身体の動きはちぐはぐで、「あぁ、落ちたんだ(頭のブレーカーが)」と気がついた。

頭は焦げついて動かず回らず、とりあえず目の前の作業をするけど、目はそれを見てない。素通り。

ボーッとなって、ゆっくり休憩したり眠れたらいいけど、そんな状態ではまったく眠れない。

「なんにも考えずにできる作業」は重要だ。どっかに行った頭を呼び戻す足がかりになってくれたりする。

ひたすらメモ用紙を作る、とか、いつも自動的にしていて、身体に任せておいてもできる動作や作業はとてもとても重要。ものすごく実感した。

 

健康ってどんな感じ?

このところ立て続けに「健康本」を読んでいます。

「健康本」と勝手に呼んでますが、単行本でも、雑誌でも、広告でも、ネットでも、健康にまつわる記事や情報が出ないことがないくらい世の中には、方法やアイデアや運動や食品や薬や機具がどんどん出てきているんですね。

これだけ多いとそれぞれを把握することも難しい。あっちではああ言い、こっちではこう言い、しまいにはどれも嘘くさく感じられてしまうのは私だけでしょうか。

自分の身体が欲しているものがわからなくなっているから、いろんなことを知っている(だろうと勝手に思う)、完璧に健康な(のだろうと勝手に思う)人や書籍などに頼ってしまうんですね。

健康になりたいから、とひとくちに言ったって、人それぞれどんなふうな姿がその人の「健康像」なのか、私の「健康像」ってなんなのか、そういえば考えたこともありません。ただ今が不健康であるという自覚があるからなんとかしたい、とあせっているだけで。

私の思う健康・不健康と、友人の思う健康・不健康は違うんでしょうか。聞いたことないからわからないけど、聞こうとしたこともなかったな。

**

ちまたでよくある健康チェックみたいなもの、面白いからよくするんです。自分の傾向はどんなもんか知りたくて。

「はい・いいえ・どちらでもない」みたいな簡単なものから、点数を足し引きして、といった複雑なものまでいろいろありますね。

いつも自分の答えを知って満足してたのですが、ふと思ったのです。人が同じチェック項目で私と同じ答えになったとしても、その人と私は本当に同じ傾向を持ってるのかなぁ?

例えば「はい:5点」「いいえ:0点」「どちらでもない:1点」として、10項目あるとします。そしてその項目1〜5でA、6〜10でBという結果が出る。

私は1〜5が「はい」、6〜10は「いいえ」だったら答えはAですよね。=25点

同じように、だれかが1〜5に「どちらでもない」、6〜10に「いいえ」でも、答えはAなんですよね。=5点

なんというか…25点と5点の差って?…答えの密度?薄さ?みたいなものを感じたのですが、傾向を見るチェックってこんなものなんでしょうか。

私はすごく当てはまって10点だけど、その人は2点くらいでも他の項目が0点なら、同じ答えになるって…。

健康状態を見る目安としてもこうしたチェックは使われてると思うのですが、同じ傾向だという結果が出ても、点数がぜんぜん違うやん!ほんまに同じ結果?と思ってしまった。

(私は理系人間ではないので、こんなこと自明の理だったとしたらそれも驚くのですが、なんか頭がゴチャゴチャになります。)

**

たまたまアレレ?と思うことがあったからこうして思い巡らすきっかけになったけれど、根本として、こんなふうになれたら、という私にとっての健康な状態、という自意識といいますか、自覚がいるんですね〜…。

いろんな目新しい情報を読んだり、お知恵拝借的に豆知識をやたら増やしたり、やってみようと決心しても三日坊主なんてのは、自分の答えがグラグラだからなんですよね。

「健康にいい!」といわれるものをかたっぱしから試していけたら、どれが自分に合うのかわかるんでしょうか。…私が私の身体を知っていないから、それも違うような気がしますね。

健康への道のりはまだはるか遠く…。それでも懲りずにいろんなこと、やってみます。

人の心のありようは

人の心の怖さ。

なにげない一言をどのように受け止められるかわからない怖さ。

自分が今できることを正直に、必死に、嘘をつかず、押しつけず、相手に届くような思いでしていたとしても、それは自分の都合でしかないのか。

行き違い、すれ違い、タイミング。

人の心の動きは、他人には覗けない。

優しく微笑んでいても、心の中が闇であることもある。苦しんでいることもある。

すれ違ったまま、もう重なることはないのかもしれない。

言葉や態度、表情で、間違いなく相手に伝えることというのは、覚悟を持って臨まないとならないことなんだな。どのような言葉を選んだって、自分から出てきているものならそれは自分の都合で出たものなんだ。

相手に共感したり、気持ちを共有することというのは、おいそれとできることじゃないんだ。そろそろとゆっくり近づいては離れ、距離をはかりながらゆるやかにおこなうことなんだな。

人の心は怖い、と書いたけれど、どうかそれだけではないと思いたい。

人の心は優しくもあり、あたたかくもあり、悲しくもある。

といったことを思った日でした。

HSP : 心が“敏感肌”な人 1

HSPって、心が“ 敏感肌 ”のような感じなのかな、とふと思いました。

肌が過敏になる要因は様々ありますね。「季節」「食べ物」「金属」などへのアレルギーや、「皮膚への直接の刺激」なんかで痒みや痛み、熱を持ってしまい、炎症が起こる。そしてその時の体調によっても左右される。肌表面だけではなく、体内でも炎症が起こるととてもしんどいものです。

私は肌は強い方ですが、春の時期は花粉症で顔がとても痒くなります。鼻の粘膜も弱って出血します。季節だけでなく、胃腸の調子がよくない時は吹き出物も出るし、食べ物が合わなくて痒みが出たりもします。

香料に敏感な方がいて、化学物質である柔軟剤や香水の「匂い刺激」で、肌に発疹が出たり赤くなったりするそうです。匂いは目に見えないし、避けようとしてできるものでもありません。つらいだろうなぁと思います。敏感になっている時は、ほんのちょっと触れただけでも強い刺激になるでしょうから、露出した(露出せざるを得ない)顔や手などを、日々凶器にさらしている感じですね。

そうしたことがその人にとっての「普通」で、ずっとそんな刺激を避けていないといけないというのは相当苦しいことだと思うし、私なら触れられたくなくていつもビクビクしてしまい、周りにバリアを張ってしまうだろうと思う。

痒みや痛みは小さなものであっても、絶えず気になるものであって、気の迷いでもありません。それが常にあると、気持ちも晴れないでしょう。

HSPでつらい、と感じる時というのは、肌が炎症を起こしている時と同じなのではないのかなぁ。

心は目に見えないし、自分でも気づいていない動きや思い込みなんかもあって、ある刺激を受けて反応する、という点では敏感肌と似ているなぁと感じました。

それが自覚している弱い部分に出れば、自分でも傷ついたことがわかる。自覚していない部分に刺激を受ければ、気づかぬ間に傷になって、あとで思いがけない形で噴出したりする。 

どんな人にも敏感な部分はあり、痛みや痒みを感じるポイントが人それぞれ違うのだと思っています。

そもそも痛みに強い人もいる。私は痛みや痒みに弱いけれど、そうでない人もいる。でもその人は私とは違う敏感なところがあるでしょう。

だから私と同じ痛みをわかってもらえないからといって、否定したり批判したりは意味がないんですよね。体質と同じで、人とまったく同じということはないからです。それをすると、翻って自分を苦しめること・責めることになるんですね。

HSPを言い訳にしたくない」と思い込んでいた時は、周りを批判的な目で見て、責める材料を探していました。私は強くあらねば、と克服しようと必死だった時は、批判されないよう自分で自分に嘘をついていました。

自分で自分の皮膚を掻きむしっていたんですね。

いつも自分で自分を見張って、ハリネズミのようなトゲを外側にも内側にも張りめぐらせていたような感じです。

(続きます)