ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

チョコパンのチョコは…

甘いものが好きでついつい食べてしまいます。

チョコレートもあんこも大好きです。

こないだもチョコパンを食べたら、そういえばチョコパンのチョコは独特だなぁと思ったのです。

原材料を見れば、“チョコフラワーペースト”とあります。フラワーペーストは小麦粉や片栗粉といった“粉”と植物油脂などを混ぜて作ったもの。そこにカスタード香料やココアを混ぜると、それぞれクリームパン、チョコパンの中味になるんですね〜。

あのもったり感、なめらか感、ツヤ感が、ぜんぜんチョコレートとは違うのに、チョコパンはやっぱりおいしい。駄菓子的なおいしさなのかもしれません。

今はなき、大好きだったお菓子の話をすると、
松葉チョコという、松葉を模した細い3センチくらいのあられ(おかき?)をチョコレートでコーティングした和菓子風お菓子がありました。パリパリしたおかきが香ばしい、ついつい手が出るお菓子です。

知っている人が周りにおらず、本当にあったのか?!と思うほどなのですが、たしかにあったんですよーーー。


明治の「いも作くん」というお菓子。

さくさくの甘いスナックにうっすらあんをまとわせた上にチョココーティングしてあって、ほんのりあんこの風味がするのがとても優しく、出た当初はこればかり買ってもらっていました。


ポポロン」というシューチョコもものすごく好きでした。

今コンビニで手に入るシューチョコよりも固めの食感で、値段も少し高めだったけれど、その頃シューのお菓子はそれしかなかったのです。でも高いから、私の中では駄菓子とは別格の扱いでした。

***

お菓子も世代によって知ってる知らないが分かれてしまいますね。子どもの頃食べたお菓子が今も残っているのは、とてもすごいことなんですよね。

自分の好きなものが(お菓子だけでなく、お店などでも)いつのまにか無くなっていると、

私の好きなものはたいがい無くなってしまう…とガーンとなるのですが、どんな方も多かれ少なかれそんな経験をされているでしょうね。

いやしかし、いも作くんにもポポロンにもぜひカムバーック!してほしいです!

THE MAKING ひよこ

福岡土産でいただいた「ひよ子」

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いきなり余談ですが、関西に住んでいると「ひよ子」のお饅頭は「福岡土産」ですよね(^^) 東京土産にもあると聞いた時驚きました。

本題ですが、「THE MAKING」という番組をご存知でしょうか。15分ほどで、ものの製造過程がまるまるわかってしまう面白い番組です。

先日まさに「ひよ子」の製造を追って見入っておりました。こまやかな工夫が随所になされています。日本人ってきめ細かい…とあらためて感じたものです。

https://youtu.be/t40c_wS_fLQ

youtubeでもたくさんアップされていて、いろんな製品が「making」されるところが見られます。なんともいえず興味深いです。おすすめ!

かこさとしさん

絵本作家の加古里子かこさとし)さんが亡くなりました。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180507-00010005-huffpost-soci

http://kakosatoshi.jp/news/2018年5月7日-お知らせ/

 

幼い頃に出会って、40歳を過ぎてもたまに手に取る加古さんの本たち。最近も加古さんのエッセイを読んだところでした。

楽しい絵本が多くて、有名なものだと『だるまちゃんとてんぐちゃん』や『かわ』など、たくさんたくさんあります。

『とこちゃんはどこ』(作・松岡享子、絵・加古里子)も、人混みの中のとこちゃんをワクワクしながら探したものです。

学生の頃に『かわ』を読みました。普通は「本」なのでページをめくって見ていきますが、本ではなく、長〜い一枚の続き絵として見た時のおどろき!(そんな展覧会があったのです) 川が流れて海にたどりつくまでを俯瞰して見ていくおもしろさ。

福音館書店から「絵巻じたて」の『かわ』も出ているようです)

自然科学の分野の絵本も多く(それもそのはず、東京大学工学部ご出身の工学博士)、大判の絵本『宇宙』などの科学シリーズもわかりやすくておもしろい! 描き込まれている情報量がとても多くて、1ページ読むのも力がかかります。でもそれだけ満足感もあります。大人にだって楽しめる絵本です。

加古さんの本だけでなく、古典といわれるような絵本を集めて持っていたのに、引越しなどでブックオフに出してしまったことが悔やまれます。心の栄養になっていたのになぁ。

しかし一度処分して、でもどうしても手元に置いておきたくてまた買った「ことばのべんきょう・くまちゃんシリーズ」は、眠る前や、何の気なしにボーッとしたい時に眺める小さな絵本です。

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ストーリーを追うものではなくて、くまちゃん一家の朝から夜まで(もしくは春から冬まで、あいさつの言葉たち、…)、使うものの名前が描かれている“イラスト集”のような雰囲気です。

たとえば、朝起きて着替えるもの…「まくら」「ふとん」から出て、「したぎ」「ズボン」「セーター」「うわぎ」「ソックス」「ぼうし」…というものの名前ひとつひとつに、加古さんの柔らかく、でもリアルな絵が描かれています。

…と、こう書いても「?」だと思います。私にはこの魅力を伝えられる言葉がない!

ないのですが、それでも好きな部分をご紹介すると、『くまちゃんのいちにち』の朝ごはんの絵(のり、大根がリアル!)、かいものの八百屋の野菜、魚屋の魚、夕食の豪華さ(笑)!

見応えがあって、じーっと見てしまいます。食べものの絵ばかり紹介していますが、子どもの遊びシーンも楽しいです。

『くまちゃんのいちねん』では、季節ごとのイベントだけでなく、その季節の草花の絵が繊細で優しく、でもリアルです。

…しばしばリアルと書いておりますが、写真のようなリアルさではないです。もののかたち、色合い、大きさ、など、もうこれしかないという感じで、詳細かつ簡略かつわかりやすい! でも堅苦しくない。

加古さんの絵のタッチは柔らかくやさしい。あたたかい。楽しくなる。わくわくする。笑顔になる。この絵の中に入ってみたい。入ってみんなと一緒に思いきり走りまわって遊びたい。笑いたい。…というような感じなのです。

数多くのすてきなすてきな絵本に感謝します!

ひとりでいることの楽しさ

最近、自分ひとりでいることがますます楽しくなってきました。

人との距離感は大切だ、と思う方で、あまり近づきすぎると引いてしまうのではありますが、

話が合ったり、会いたいと思う人ならば、「自分の限界を越えて」なんとか近づこうとしていました。

わかってもらいたい、気持ちを分かち合いたい、相手をわかりたいといった、私なりに「前向き」な姿勢で臨んでいる人間関係でしたが、

最近はもう、わかってもらいたい→わかってもらえたら嬉しいけど、わかってもらえなくてもいいや。

相手をわかりたい→わかるなんてことはない、一瞬一瞬の相手の輝くさまを見られるだけでいい。

こんな風に気持ちが変わってきました。

どんな人も、一生懸命生きているんだな、と感じることが多くなってきました。

怒っている人も、苦しんでいる人も、泣いている人も、くよくよしている人も、笑っている人も、

みんなそれぞれ、一生懸命自分を表現しているんだな。

私なりに「前向き」に臨んできた人間関係、「自分の限界を越えて」と書きました。

この、自分の限界を越えて臨んできた、ということさえ、気づいていなかった。どこかに無理がかかっていたけれど、わからなかった。

会った後にドッと疲れたり、相手の反応を思い返して悩んでみたり。

それはそれなりに楽しい経験であり、人との関係は苦労もあるものだから、そんな繰り返しだし、これからもそうなんでしょう。

 

相手の意に沿うように考えを巡らせたり、遠慮したり、私も一生懸命に力をかけてしてきたのでしょう。だから空回りした時は失望し、苦しく感じていた。

でもそれは、自分の我を通そうとしていることと同じ。

相手の意に沿うよう動くことは、自分の我をその中で通そうとしていることでもある。

 

知らず知らず、相手が喜んでくれるよう、相手の要求をなんでも叶えよう、という気持ちが、「喜ばせてあげよう」「叶えてあげよう」といった、自分の行動でなんとかしてあげよう、となっていた。そこに相手の気持ちはない。

相手のことを考えているようで、自分を表現したがっているだけだった。

 

過去を振り返れば反省しきりですが、もうそれで自分を責めることはしない。

過去や人間関係は、私になにか大切なことを教えてくれる材料です。気づける時とそうでない時があるけれど、できるだけ「そうだったのか!」と思う瞬間を味わいたい。

もっともっと自分の幅を広げていきたい。そんな欲を自然に抱くようになりました。

私はまだまだ変化するんだな。

のぼせて眠い

今日、大阪はこの春いちばんの夏日でした。

春を通り越して初夏のような強い日差しで、仕事中も汗が流れるくらい。

青空が眩しく、乾燥しているので空気や風は気持ちいいですが、汗かきにはしんどい季節になってきました。

今日は朝からボーッと眠たくて、陽気のせいかな?と思ったらズバリ!そうでした。

急な気温上昇と高気圧で、のぼせたような感じになったんですね。

体内の細胞が外の気圧に押されて縮まり、胸のムカムカや食欲不振が起こる方もいらっしゃるそうです。

私は頭から気が抜けず、湯気が立つような感覚。気が上にあがっているから、足元がふわふわしておぼつかない。

そんな時は、足裏を揉む、とか、足元に意識が向くような行動をするとよいそうです。明日も暑くなるそうなので、意識してやってみよう。

朝からボーッとのぼせて眠い、と気づいて、整骨院の先生に聞いて答えが合っていた時はやったー!と楽しくなりました。

自分の身体の状態をちょっと注意して「見る」「気づく」だけで、いろんな発見があるんですね。しんどいなー、で終わってしまうのはもったいない。

漢方の勉強はお休みしていますが、日々自分の体感として知ることは、テキストを読むこととはまた違った「知る楽しさ」があります。照らし合わせてみて、なるほど!ということもあります。実体験って大きいですね。

本日は身体についてのつぶやきでした。

「今」にいること

仕事に出かける前に、「あぁ、不安だ」と思った時がありました。

同時にこの不安感は、

「今までの経験の記憶」から同じように不安や心配になったできごとを探っている、

そして、

まだ起こっていない「未来」を心配して不安がっている、

と気がつきました。

過去と未来ばかりを気にしていました。でもそれに気がついたから、もう大丈夫。

私は「今」に戻ってきました。こんな風に気がつくようになるなんて今まで思いもしなかった。ちょっとずつでも進歩しているな。

ずっとスイッチONの人

いつも聴いているラジオ番組、FMcocoloの「NIGHT AQUARIUM」。

先日の放送で、DJをしているシンガーソングライターの森大輔さんが言ってました。

「(僕は)常にONですから」

…わかる!と頷きまくりました。

今度開催されるライブは夜の水族館のVIPルームだそうで、中に水槽があるそうなのです。

そんな特別感のある、しかも夜の開催で、観客の方もゆったり過ごしてもらえるだろうとのこと。もしかしたら森さんのOFFの姿も見られるかも?!とアシスタントさんがおっしゃったところへこの返しでした(笑)

「常にON」

疲れるでしょう、とアシスタントさんに言われ「疲れますよ」「だから僕10時間くらい寝てるんです」だそうで、これにもわかる!と頷きまくりました。

私も長い睡眠で脳内の処理をなんとかまかなっていたのですが、最近は加齢および眠るのにも体力がいるからか、だんだんと長く眠れなくなってきました。困った。

 

朝起きてから眠るまでずっとONなんです。疲れます。スイッチの切り方がわからないんですよ。だれか教えてください!

今年は花粉症が出ない

私は花粉症です。

昨年の春先は盛大な花粉症症状が出ていました。毎朝起きたら鼻がムズムズして、目も痒くて、顔が熱を持っていて痒くてその熱が抜けず、神経も過敏になってイライラしていました。小青竜湯を毎日飲んでいました。

しかし今年はまったく出ていません!びっくり!

なんでかな?冬の間にしたことが影響しているのでしょうから、何をしていたかなぁと思いめぐらせてみると…、

●冷えないように腰やお腹にカイロを貼った。予防的に貼ることもあった。春先の今もたまに貼る。

●家ではレッグウォーマーを欠かさなかった。「足元は冷えているもの」と意識していた。

●腹巻きを欠かさなかった。

●必ずお風呂に浸かるようにした。

●寒く感じたら我慢せず暖房を入れた。

とにかく冷やさない!あたためる!

…こうしたことが体力が消耗し過ぎるのを防ぐ一番大きな要因となったのでは、と思いました。

寒いのを我慢してガクガク震えることが続けばそれだけ体力もなくなっていくわけで、もともと頑健でもない私は冷えに対する今までの意識を変え、「温めすぎて悪いことはない」くらいのつもりでやってみたんです。

そうすることで、体力が余分に減ることがなく、底上げまでいかなくとも、どん底までは落ち切らなかった。それで、冬の間に風邪もひかず、冬〜春にかけての急な気候や温度変化になんとかついていっているのかもしれません。

おしゃれは足元から、なんて言いますが、冷えも足元から! おしゃれさんにはなれないけど、冷えて身体がしんどくなるよりマシ!

もうおしゃれじゃなくてもいい!

それでついつい、足元が寒そうな女性を見ると心配になります。あとでしんどくならないといいけどなぁ。。

自分が試してみて体感したことは、おおいに納得感と満足感がありますね。それが自己満足であれ、健康でいられると気持ちも明るくいられるので、身体のメンテナンスって大切なんだなぁと人生後半になってつくづく思います。私の身体はひとつだけ。いつも働いてくれてる。ほんとにありがとう。

違う価値観に出合う

違う価値観やものの捉え方は人から教わることが多いですね。

そんな風に考えたことなかった、そんな捉え方をするんだ、そんな反応をするんだ、と驚いたり新しい発見につながったりします。

ひとつの言葉を取っても、人によって捉え方が違ったりする。共有することの難しさを感じます。

 

自分自身では、今まではこんな風に考えてたけどまったく変わったな、と思うこともよくあります。でも人から与えられる衝撃よりはゆるやかな変化です。

例えば子どもの頃はシイタケが嫌いで食べられなかったけれど、今はいろんな食べ方を知っていて、おいしいと思う。

でも昔のシイタケ嫌いの頃の気持ちも知っているから、昔の私を丸ごとくるんで今の私がある感じ。おまんじゅうのよう。

 

人からの刺激は、想像もつかないところからボールを投げられてバシッと受け止めた感じ。体験というベースがないから、驚きと衝撃がある。

そしてその違う価値観やものの捉え方を知った時、私の中で瞬時に舞台が転換する。

驚きとともに世界がバーッと広がる。人によって、自分の世界を広げてもらっているんですね。

変化にすぐにはついていけなくて混乱しながらも、えっ、そんな風に考えるようになったのはどうして? と知りたくなる。

人の体験や、話を聞くことは、自分だけのせまい世界からちょっと抜け出られるような、違う世界を見せてもらえるような感じがする。

色合いも空気も風景も、広さや奥行きもまったく違う、人それぞれの世界。

いつもの景色もいいし、違う景色もいい。

オンリーワンにもならなくてもいい

世界に一つだけの花” 歌詞

NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one

という箇所の「もともと」を、今の今まで「もっともっと」だと思ってました〜恥ずかしい。

さて本題です。

人はひとりひとり違って当たり前だから、人と比べたりせず、自分が今できることをして、自分を懸命に生きること。

そうすればいいし、そうしかできない、という内容の歌だと捉えております。心に寄り添う素敵な歌ですね。

本日読んだ本の紹介記事で、「オンリーワンにならなくてもいい」という記述がありました。本自体は未読のため、記事だけ読んでこうして書くのは孫引きだし片手落ちですが、その「オンリーワンにならなくてもいい」という一言にハッとしたのです。

記事全文/ムダにイライラしないためのちょっとした習慣/『イライラしなくなるちょっとした習慣~60万人の怒りをしずめてきたアンガーマネジメントのテクニック』安藤俊介 氏著

https://ddnavi.com/review/446843/a/

みんな違って当たり前だしそれは頭ではわかってるつもり。でも自分はオンリーワンといわれるような何者かにならなきゃいけない、という気持ちがどこかにあったんです。

ナンバーワンになれないことはとっくにわかってる。でもオンリーワンにもなれない自分なんて、生きてる価値あるのかって、自分を認めない・意味がない・価値がない、と責める材料にしていたのですね。

そのままの姿でオンリーワンなんですが、そのそのままの姿が自分では許せない・認めたくないと思ってしまってるから、何かを成し遂げたひとかどの人物 = オンリーワン、と思い込んでいました。

ひとかどの人物、なんて、そうそうなれないですよね。自分でも何をもってひとかどなのか説明もできないのに。

***

歴史の中にうずもれる一片の石ころ

ナンバーワンにもオンリーワンにもならないしなれない。砂つぶのようなかけら。

いいも悪いも、正しいも間違いもない。そんなものでいいんです。自虐でなく刹那でもなく。

そう思ったとき浮かんだのがこの歌詞。

我 一介の肉塊なり

“諦念プシガンガ” 戸川純 作詞

この歌詞の意味の深さ(もしくは意味のなさ)なんて、今まで実感として考えたこともなかった。

歴史の長くて大きな流れの中の、ひとかけらでしかない。そういうものなんだろうとうっすら感じ始めている。そして、しがみついていた欲望から離れる覚悟を決めなさいよ、と言われているような気がしているが、実際の感覚はまだぼんやりしてなんの言葉にもならない。

この年齢になってはじめて感じている、思っている、考えていることだ。

初めて知ることって、ほんとにおもしろい。いまだ知らないことだらけ。これから死ぬまでにどこまで知ることができるだろう。

ラジオとエレカシ

まだまだ続いている、にわかエレファントカシマシファンのワタクシですが、

30周年記念コンサートも無事終えて、また新しいスタートを切って進んでいかれるのを様々な記事で読み、こちらも気持ち晴ればれとしています(^^)

毎日流しているFMラジオでも、ようやく、エレカシの曲が以前よりリクエストなどでかかるようになってきました。

関西圏のFM COCOLOという、どちらかといえば年配向けのラジオだからか、数年聴いてきたなかでエレカシがかかることはほぼ皆無だったのに、ここへきてたくさんかかってますよ!

特に今は桜のシーズンですので、

桜の花、舞い上がる道を

新年度なので、

新しい季節へキミと

などなど。

とはいえ、、ラジオとエレカシって相性がよくないのかなって感じます。ラジオでは他の曲とのバランスなんかも考慮すると思うので、宮本さんのあの濃く強い伸びのある声や曲調がはまりづらいような、個性が強すぎて浮いてしまうような…。

ラジオは、割合誰にでも耳障りのよい曲が流れるなかで、とがってバランスを欠いた曲がどうしてもなじまない、という感じです。(エレカシファンの方々にはわかっていただけると思うのですが、褒めてます)

でも素敵な曲いっぱいあるので、だんだんと認知が広がることはすばらしいですね。

エレカシStingさんだけはひとりイントロクイズをしてるみたいに、かかると「あっ、かかった!」とハッとして、一曲じっと聴いてしまいます。素晴らしい声にうっとりします。

世界にあまたある曲の中でラジオで一曲でもかかるってことは、すごいことなんだなぁと思わされます。

ともあれ、新しい季節のはじまりを力強く後押ししてくれるエレカシの歌は、やっぱり気分がよくなりますね(^^)

さ、今日もがんばろう。

自分の目と耳と感性で

ラジオでDJさんがリスナーの方からのメッセージをもとにしゃべってました。

最近の言葉使いがなっとらん、と。

我々おっちゃんたちが「正しい言葉使い」をするように注意していきましょう!と息巻いています。

…こういうの、なくならないんだな、毎年のように言う人いるんだ、と思いました。10年前にも聞いた。20年前にも聞いた。聞き飽きた。

だったらいつの言葉が日本語として「正しい」んでしょうか。平安時代? 江戸時代? 文明開化のころ? 第二次世界大戦のころ? 学生運動のころ?

まったく変わらない、確固とした言葉ってあるの?

言葉使いがなっとらん、と怒るのって、だいたい年配の方が多いような。それも、今でいう団塊世代あたり。(思い込みかもしれませんが)

たしかにコンビニ言葉といわれるような言葉は、団塊ジュニア近辺の世代の私も聞いていてあまり気持ちよくはありません。が。

でも、言葉は時代時代で変わるもの。

なっとらん、と怒る人たちだって、きっと新しい言葉を使ったり、今までの使い方を変えたり無邪気にやってきたでしょう。言われなかっただけで、それまでの世代の方々に眉をひそめられてきたと思いますよ。責めてる自分たちだって同じなんですよね。

言葉は変わる。だから「正しい/間違い」で測れるものではない、と思います。

古い価値観やルールは、それ以降の新しい大きな勢力に呑まれるものです。

折しもそろそろ新年度。新しい人や新しい考え方が次々に出てきます。

あぁ、よくない方へ変わっていく、とその時点で思っても、それこそ「世の流れ」として止めることはできない。

その、「よくない方」と捉えている私だって、古い価値観やものの見方をしているかもしれない。新しい考え方になじめず、ただ否定しているだけなのかもしれない。

そして、本当によくない方へいってしまったのかどうかは、もっと時間が経たないとわからない。

大勢のルールに縛られたり、人の目を気にしてこうでなくちゃ、と思い込むのをやめたらいい。

今の自分の目と耳と感性とで、心地のよい言葉を使うように心がけたらいい。

それって、ただ文句言うだけよりよっぽどしんどいです。

まず自分が新しい言葉に歩み寄って、知っていけばいい。

知ったら、自分にとってどう感じるか、で使うか使わないかを決めたらいい。

正しい・間違い、の観念は、人と人との断絶を生みかねない。

知らず、押しつけになっていないかを自分に問うきっかけになったできごとでした。

夢野久作『ドグラ・マグラ』

今日は好きな本の話です。

夢野久作ドグラ・マグラ』をご存知でしょうか。

今から20年ほど前の高校生の頃に、三一書房版の夢野久作全集をひと月に一冊ずつ買って揃えていくことがとても楽しみでした。

筆者の作品はほかにもたくさんありますが、幻想文学だ、猟奇的だ、と語り継がれ20年前には映画にもなったこの作品は、やっぱり空前絶後なものだなぁと思います。

文体も、描かれる世界も、なにもかも夢野久作でしかない独特なもので、文体なら、繰り返しが多くもったいぶっているところもあり、しかしそれがリズムになってどんどん深みにはまっていくような…、そしてはまってしまったら、味わい尽くすまで戻れない、ドロリとした暗い底なし沼のようです。

ドグラ・マグラ』で非常に影響を受けたのは、「身体の細胞ひとつひとつが意思を持っている」ということです。

例えば手が痛い時、痛みは脳で感じていますが、本当は、手の細胞ひとつひとつが痛がっている。

記憶も、人間の細胞ひとつひとつに宿る(そこから、先祖の呪縛や因果のお話になっていくのですが)。

脳髄万能主義の世の中だからな、とは主人公の正木博士が映画で言ったセリフですが、そんな昔から「脳」の第一主義はあったのか、なんでも頭で判断し、脳が一番えらい、とふんぞりかえっていたのか、と感嘆したものです。ずっと変わらないんだな。

今思えば、思考が一番で身体はそれより劣るとする世の中に、それは違う!と物申した物語だと思います。

読んでいるうちはそうした理屈は置いて、ただ面白く愉快で、読むのがとても楽しかったです。

20年前くらいに映画になったといいましたが、映画も秀逸だったと思います。あの長い長い、あっちこっちとっちらかっているようにも思える(それが夢野久作の魅力なんですが)物語を、よくコンパクトにわかりやすくまとめたなぁと思いました。

主演は、桂枝雀さん、松田洋治さん、室田日出夫さん、江波杏子さんなどなど。枝雀さん好きの私はワクワクしながら映画を観に行きました。

ルーズソックスもまだ出現していないような時代の高校生だったので、映画に出かけるのも意を決して、とは大げさですが、学校帰りに1時間かけて映画館まで行き、帰りは暗くなっている、というのもドキドキしたものです(単館上映でした)

その時買ったパンフレットもいまだに大切に持っています。(後ろのページにシナリオが載っていて、繰り返し読みました。やっぱりよくできているなぁ)

枝雀さんの正木博士役は、怪奇、変幻、おどけ、軽妙、冷酷、恐ろしさ、自由自在な妖しい役で、魅力満載だったと思います。

映画の惹句が「どうどうめぐりのめくらまし」だったのですが、『ドグラ・マグラ』をこんなに端的に表せるなんて、と感心した覚えがあります。

夢野久作の本たちは、

よく晴れた土曜日のうらうらと日が照った午後、飛行機雲が浮かぶ空をぽかんと眺めているような、

またはうだるような暑さの中、汗びっしょりで昼寝から覚め「悪夢を見ていたか」と呆然とするような、

なんとも夢うつつの時間を過ごすことができる作品群だと感じます。

あの空気感や世界観の中にすっぽり入っていた時間は、すぐそばに物語が寄り添ってくれているようで、とても贅沢な時だったなぁと感じます。

 

今がいちばんおもしろい

毎日いろんなことがあるけれど、

失敗もするし、途方に暮れたり、やるせなく、身体もしんどく、つらいなぁと思うことも多いけれど、それでも、

今がいちばん、おもしろい。

今起こっている出来事に、まるでゲームのように向かっていってる、と思えれば、たまにだけど苦しさから楽になれたりする。

むやみやたらにがんばらなくてもいい。ゲームのように、ちょっとちから抜いていた方がいい。なるべく緩んで、固まらない方がいい。自分の身体と心のためには。

 

今がいちばんおもしろい。

それは、自分ひとりのちからでは思えなかった、できなかった、感じなかったことだ。

今までに関わってくれた人々のおかげで、今の自分は成り立っている。自分のちからも少しはあるだろうけど、ひとりきりのちからではない。

だからといってすべてに感謝する、と言い切ることはできないけど今は。嫌なこともあったし、許せないこともあった。今でも苦しいこともある。

それでも、今がいちばんおもしろい。

忘れてないよ陳皮

以前、作ったとブログに載せたものの、その後さっぱり使わず放っておいた陳皮

忘れてたわけではありません、放っておいただけです。……。

ということで、今回は使いました報告です!

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ビスコッティを焼きました!

(なんだかそれっぽく見えますね、写真ってすごい)

写真では陳皮は見えませんけれども、一度目焼いて出した時にふわぁ〜っと香りました。みかんのさわやかな香りです。

そしてしかも、ものすごく簡単なんですねビスコッティ。自分が食べるだけだからこだわりもないので、こんな簡単だと助かります。バターも牛乳も卵もなかったけど、できました。小麦粉・砂糖・ベーキングパウダー・水。あとは余ってたフルーツグラノーラやレーズンやクコの実やナッツ。ただ混ぜて焼くだけなんて、面倒くさがりにはぴったり…!

二度焼きをして、焼きたてを食べましたら、やっぱりさわやかなみかんの香りがして、陳皮入れてよかったと思いました(失敗しなくてよかった汗)しかもレーズンとみかんは合うんですね、コレはうまい!

そしてうまくできたことに味をしめて、今度は陳皮&ココア&チョコレートの組み合わせで焼いてみます。オレンジとチョコもこれまた合うんですよね!

これで陳皮を残らず使えそうです(^^)やったー