ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

ひとりでいることの楽しさ

最近、自分ひとりでいることがますます楽しくなってきました。

人との距離感は大切だ、と思う方で、あまり近づきすぎると引いてしまうのではありますが、

話が合ったり、会いたいと思う人ならば、「自分の限界を越えて」なんとか近づこうとしていました。

わかってもらいたい、気持ちを分かち合いたい、相手をわかりたいといった、私なりに「前向き」な姿勢で臨んでいる人間関係でしたが、

最近はもう、わかってもらいたい→わかってもらえたら嬉しいけど、わかってもらえなくてもいいや。

相手をわかりたい→わかるなんてことはない、一瞬一瞬の相手の輝くさまを見られるだけでいい。

こんな風に気持ちが変わってきました。

どんな人も、一生懸命生きているんだな、と感じることが多くなってきました。

怒っている人も、苦しんでいる人も、泣いている人も、くよくよしている人も、笑っている人も、

みんなそれぞれ、一生懸命自分を表現しているんだな。

私なりに「前向き」に臨んできた人間関係、「自分の限界を越えて」と書きました。

この、自分の限界を越えて臨んできた、ということさえ、気づいていなかった。どこかに無理がかかっていたけれど、わからなかった。

会った後にドッと疲れたり、相手の反応を思い返して悩んでみたり。

それはそれなりに楽しい経験であり、人との関係は苦労もあるものだから、そんな繰り返しだし、これからもそうなんでしょう。

 

相手の意に沿うように考えを巡らせたり、遠慮したり、私も一生懸命に力をかけてしてきたのでしょう。だから空回りした時は失望し、苦しく感じていた。

でもそれは、自分の我を通そうとしていることと同じ。

相手の意に沿うよう動くことは、自分の我をその中で通そうとしていることでもある。

 

知らず知らず、相手が喜んでくれるよう、相手の要求をなんでも叶えよう、という気持ちが、「喜ばせてあげよう」「叶えてあげよう」といった、自分の行動でなんとかしてあげよう、となっていた。そこに相手の気持ちはない。

相手のことを考えているようで、自分を表現したがっているだけだった。

 

過去を振り返れば反省しきりですが、もうそれで自分を責めることはしない。

過去や人間関係は、私になにか大切なことを教えてくれる材料です。気づける時とそうでない時があるけれど、できるだけ「そうだったのか!」と思う瞬間を味わいたい。

もっともっと自分の幅を広げていきたい。そんな欲を自然に抱くようになりました。

私はまだまだ変化するんだな。