ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

頭がパンク

パンクした。

ヒューズが飛んだ。

ブレーカーが落ちた。

燃え尽きた。

焦げついた。

頭の中がパンとはじけた。

いっぱいいっぱいになって限界を超えたことを表すのに、思いつくまま書いてみました。

どんな言い方でもいいのだけれど、いったんこうなってしまうと回復が追いつかない。

こうなってしまったあとは、まるでスローモーションみたいに動きが遅くなる。頭の中の動きと、身体の動きはちぐはぐで、「あぁ、落ちたんだ(頭のブレーカーが)」と気がついた。

頭は焦げついて動かず回らず、とりあえず目の前の作業をするけど、目はそれを見てない。素通り。

ボーッとなって、ゆっくり休憩したり眠れたらいいけど、そんな状態ではまったく眠れない。

「なんにも考えずにできる作業」は重要だ。どっかに行った頭を呼び戻す足がかりになってくれたりする。

ひたすらメモ用紙を作る、とか、いつも自動的にしていて、身体に任せておいてもできる動作や作業はとてもとても重要。ものすごく実感した。

 

健康ってどんな感じ?

このところ立て続けに「健康本」を読んでいます。

「健康本」と勝手に呼んでますが、単行本でも、雑誌でも、広告でも、ネットでも、健康にまつわる記事や情報が出ないことがないくらい世の中には、方法やアイデアや運動や食品や薬や機具がどんどん出てきているんですね。

これだけ多いとそれぞれを把握することも難しい。あっちではああ言い、こっちではこう言い、しまいにはどれも嘘くさく感じられてしまうのは私だけでしょうか。

自分の身体が欲しているものがわからなくなっているから、いろんなことを知っている(だろうと勝手に思う)、完璧に健康な(のだろうと勝手に思う)人や書籍などに頼ってしまうんですね。

健康になりたいから、とひとくちに言ったって、人それぞれどんなふうな姿がその人の「健康像」なのか、私の「健康像」ってなんなのか、そういえば考えたこともありません。ただ今が不健康であるという自覚があるからなんとかしたい、とあせっているだけで。

私の思う健康・不健康と、友人の思う健康・不健康は違うんでしょうか。聞いたことないからわからないけど、聞こうとしたこともなかったな。

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ちまたでよくある健康チェックみたいなもの、面白いからよくするんです。自分の傾向はどんなもんか知りたくて。

「はい・いいえ・どちらでもない」みたいな簡単なものから、点数を足し引きして、といった複雑なものまでいろいろありますね。

いつも自分の答えを知って満足してたのですが、ふと思ったのです。人が同じチェック項目で私と同じ答えになったとしても、その人と私は本当に同じ傾向を持ってるのかなぁ?

例えば「はい:5点」「いいえ:0点」「どちらでもない:1点」として、10項目あるとします。そしてその項目1〜5でA、6〜10でBという結果が出る。

私は1〜5が「はい」、6〜10は「いいえ」だったら答えはAですよね。=25点

同じように、だれかが1〜5に「どちらでもない」、6〜10に「いいえ」でも、答えはAなんですよね。=5点

なんというか…25点と5点の差って?…答えの密度?薄さ?みたいなものを感じたのですが、傾向を見るチェックってこんなものなんでしょうか。

私はすごく当てはまって10点だけど、その人は2点くらいでも他の項目が0点なら、同じ答えになるって…。

健康状態を見る目安としてもこうしたチェックは使われてると思うのですが、同じ傾向だという結果が出ても、点数がぜんぜん違うやん!ほんまに同じ結果?と思ってしまった。

(私は理系人間ではないので、こんなこと自明の理だったとしたらそれも驚くのですが、なんか頭がゴチャゴチャになります。)

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たまたまアレレ?と思うことがあったからこうして思い巡らすきっかけになったけれど、根本として、こんなふうになれたら、という私にとっての健康な状態、という自意識といいますか、自覚がいるんですね〜…。

いろんな目新しい情報を読んだり、お知恵拝借的に豆知識をやたら増やしたり、やってみようと決心しても三日坊主なんてのは、自分の答えがグラグラだからなんですよね。

「健康にいい!」といわれるものをかたっぱしから試していけたら、どれが自分に合うのかわかるんでしょうか。…私が私の身体を知っていないから、それも違うような気がしますね。

健康への道のりはまだはるか遠く…。それでも懲りずにいろんなこと、やってみます。

人の心のありようは

人の心の怖さ。

なにげない一言をどのように受け止められるかわからない怖さ。

自分が今できることを正直に、必死に、嘘をつかず、押しつけず、相手に届くような思いでしていたとしても、それは自分の都合でしかないのか。

行き違い、すれ違い、タイミング。

人の心の動きは、他人には覗けない。

優しく微笑んでいても、心の中が闇であることもある。苦しんでいることもある。

すれ違ったまま、もう重なることはないのかもしれない。

言葉や態度、表情で、間違いなく相手に伝えることというのは、覚悟を持って臨まないとならないことなんだな。どのような言葉を選んだって、自分から出てきているものならそれは自分の都合で出たものなんだ。

相手に共感したり、気持ちを共有することというのは、おいそれとできることじゃないんだ。そろそろとゆっくり近づいては離れ、距離をはかりながらゆるやかにおこなうことなんだな。

人の心は怖い、と書いたけれど、どうかそれだけではないと思いたい。

人の心は優しくもあり、あたたかくもあり、悲しくもある。

といったことを思った日でした。

HSP : 心が“敏感肌”な人 1

HSPって、心が“ 敏感肌 ”のような感じなのかな、とふと思いました。

肌が過敏になる要因は様々ありますね。「季節」「食べ物」「金属」などへのアレルギーや、「皮膚への直接の刺激」なんかで痒みや痛み、熱を持ってしまい、炎症が起こる。そしてその時の体調によっても左右される。肌表面だけではなく、体内でも炎症が起こるととてもしんどいものです。

私は肌は強い方ですが、春の時期は花粉症で顔がとても痒くなります。鼻の粘膜も弱って出血します。季節だけでなく、胃腸の調子がよくない時は吹き出物も出るし、食べ物が合わなくて痒みが出たりもします。

香料に敏感な方がいて、化学物質である柔軟剤や香水の「匂い刺激」で、肌に発疹が出たり赤くなったりするそうです。匂いは目に見えないし、避けようとしてできるものでもありません。つらいだろうなぁと思います。敏感になっている時は、ほんのちょっと触れただけでも強い刺激になるでしょうから、露出した(露出せざるを得ない)顔や手などを、日々凶器にさらしている感じですね。

そうしたことがその人にとっての「普通」で、ずっとそんな刺激を避けていないといけないというのは相当苦しいことだと思うし、私なら触れられたくなくていつもビクビクしてしまい、周りにバリアを張ってしまうだろうと思う。

痒みや痛みは小さなものであっても、絶えず気になるものであって、気の迷いでもありません。それが常にあると、気持ちも晴れないでしょう。

HSPでつらい、と感じる時というのは、肌が炎症を起こしている時と同じなのではないのかなぁ。

心は目に見えないし、自分でも気づいていない動きや思い込みなんかもあって、ある刺激を受けて反応する、という点では敏感肌と似ているなぁと感じました。

それが自覚している弱い部分に出れば、自分でも傷ついたことがわかる。自覚していない部分に刺激を受ければ、気づかぬ間に傷になって、あとで思いがけない形で噴出したりする。 

どんな人にも敏感な部分はあり、痛みや痒みを感じるポイントが人それぞれ違うのだと思っています。

そもそも痛みに強い人もいる。私は痛みや痒みに弱いけれど、そうでない人もいる。でもその人は私とは違う敏感なところがあるでしょう。

だから私と同じ痛みをわかってもらえないからといって、否定したり批判したりは意味がないんですよね。体質と同じで、人とまったく同じということはないからです。それをすると、翻って自分を苦しめること・責めることになるんですね。

HSPを言い訳にしたくない」と思い込んでいた時は、周りを批判的な目で見て、責める材料を探していました。私は強くあらねば、と克服しようと必死だった時は、批判されないよう自分で自分に嘘をついていました。

自分で自分の皮膚を掻きむしっていたんですね。

いつも自分で自分を見張って、ハリネズミのようなトゲを外側にも内側にも張りめぐらせていたような感じです。

(続きます)

 

HSP : 心が“敏感肌”な人 2

(続きです)

だれもがHSPであって、だれもHSPではない。

極端かもしれませんが、見方を変えればそう言えるのではないか、と私は思っています。

感じ取るポイントが違い、感じ取る強弱が違い、意識の向け方が違い、だから体質が人それぞれ違うように、それぞれ「個性」を持っているだけ。

HSPという概念を知ったことで、よりそれを知ろうとしてきました。HSPについて考えることで、それをきっかけによりよく生きたいと思うようになりました。

そして、HSPというひとつの概念を越えて、違う意識に目を向けるようになり、ひとつにこだわらなくてもいいんだな、と理解できました。

今では普段の生活で、HSPだから、といった線引きはしなくなり、考えることもありません。でもたまに思い巡らせたり書いたりするのは、私を知るきっかけとなったHSPに、解明しきれない何かを探しているのかもしれません。知ることはとてもおもしろいから。

私を構成するひとつの要素。でもけしてこれだけではない。私はもっと違う部分からも成り立っている。

HSPは克服するものでもなく、執着するものでもない。大切な部分だけど、小さなかけらのようなひとつの部分。

人と共有して理解し合えたらうれしいけれど、わからないこともある。理解してもらえないからといって、それは否定したわけでも否定されたわけでもない。ただ違うだけ。

人との関係に意味を求めるよりも、私が私をもっと知って、私が私をいたわり、なだめ、味方でいて、信じ、認める。

そちらに意識を持っていくと、あんなに過敏に人の目を気にし、傷つけられまいとよろいを着ていたのに、もっと大切な自分自身というものに気づくようになった。よろいはずっと着けなくてもよくなっていった。そうすると、アレルギー反応のようにピリピリと周りを窺っていた私はいつのまにかいなくなった。一方向だけから見てしまう癖がなくなったとは思っていないけれど、それも私であって、それでいいやと思えるようになった。私はこうだけど、ほかにもいろんな人がいるよね、と思えるようになってきた。

以前より少しはニュートラルにものごとを捉えられるようになったのだったらいいな。そしてこれからどんな風になっていけるのかな。未来は明るく広がっている。

 

誕生日に…

本日2月28日の誕生日に、お友達からたくさんのお祝いのメッセージをいただきました! それぞれその方だけの言葉をくださって、そんな言葉をいただける私は幸せだなぁととても感じました。感謝します!\(^o^)/

そして、いつも聴いているラジオ番組に初リクエスト! 送ってから数分で読んでもらえ、DJさんにハッピーハッピーハッピーバースディ!と3回もハッピーをつけて言ってもらえました(^^)。 これからは臆せずにリクエスト送れます(笑)。送ってしまえばなんで今まで気後れしてたんだろう…って思う。(でもリクエスト曲はかからなかったんですけどね笑)

ちょっとした挑戦だったけれど、ほんのちょっとしたことで、今までいた世界が変わった。感じ方が変わった。見方が変わった。おもしろいな。

今年も進んでいこう。自分に限界を設けずに、できるところまでがんばろう。

自分の目・人の目

自分を責めるのは、人を責めること。

自分への目が厳しいということは、同じ目で人を見ているということ。

人に優しくしていったら、翻って自分に優しくなる。

そして気づく人は気づいて、こちらを見ている。

 

…ということをある方から聞いた。

人はOK・自分はバツ、という意識でいた私は、これらのことをまだよく理解できず受け入れることも難しい。

優しさ、とはなんなのかも理解できない。自分にとっての優しさ・受け手が感じる優しさ、利己的な優しさ・普遍的な優しさ。その線引きだって、確固としたものなんかないだろう。

優しさを表現し伝えることはとても難しいこと。今まで優しくしていたつもりが、ひとりよがりだったのかもしれないと思うと、顔から火が出るようだ。

人に合わせがちで人を優先してきた、というつもりでいたけれど、それもひとりよがりだったのかもしれない。本当は自分のことしか考えてなかったのかもしれない。自分の都合のよいことだけを受け入れてきたのかもしれない。

 

もやもやと引っかかるけれど、引っかかるのは何かに反応しているからで、反応しているということは自分の中に「気づくための種」みたいなものがあるんだろう。

頭で理解するのではなく、心や身体でわかる時まで待とうと思っている。優しさもわかる時がくるといいな。

コーヒーとケーキとおしゃべり

2月は私の誕生月です。同じく2月生まれの年下の友人と久しぶりに会いました。

10年以上もの付き合いのなかでいろんな話をしてきましたが、どんな話であっても、「話す」ことっていいですね。

知らない間に心の隙間を埋め尽くしていた、生活や思考や記憶の残滓のようなこまごましたことが、話を聞き、話をすることで重さや濁りがなくなり取るに足らないものになり、パラパラと体内からはがれ落ちてくれたようです。すっきりしました。

誕生日だしケーキを食べよう、と、ケーキ屋さんを探すけれどどこもいっぱいで、一人でたまに行っていたコーヒー専門店に入りました。

飲食店の並ぶ地下街の一画、通路も兼ねたような場所なので一見落ち着かないところです。

けれど、人の手で入れてもらうところも間近で見られるそのお店のコーヒーは、味はもちろんおいしいのですが、滋味深いといいますか、コーヒーを飲む楽しさも味わうことができます。

客層も落ち着きがあって、一人または二人連れで来られる方が多いので話し声も静かで、そういえばBGMもほとんど聴こえないくらいに絞ってありました。

そして食べたケーキは、華やかな春のケーキが並ぶお店のものと比べるととっても地味でしたが、とってもおいしいものでした。

一人でも気持ちがほぐれるようなコーヒーを飲めるところですが、今回は話のできる友人と一緒にいたから余計においしく感じたのでしょうね。

こういう心が休まる場所、もっとたくさんほしいな。そして、心置きなく話せる友人の笑顔をもっと見たいな。いろいろありながらも、それぞれ一生懸命暮らしているんだな。

優しくあたたかい気持ちがじんわりと湧いた一日でした。

節分、そして立春

新しい一年のはじまりです!

昨年の節分の日に、それまでとは生き方や生活、意識がガラッと変わる出来事を自ら起こしました。

これまでと変わる不安とか心配とか、自分を貶めるような思いとか、気持ちが暗くすさむこととか、なんだかんだ知らない間にがんじがらめになって自分に苦行を課していた、それらぜーんぶとおさらばしました。

さっぱりすっきりすがすがしい気持ちになったことを覚えています。それから一年経って、ほんとうにおさらばしてよかった!と思えています。

自分で決めたこと。勇気を出したこと。我慢はやめたこと。そうしたことはすべて「私を大切にする」ということだった。

「私を大切にする」ことで、失うこともあったけれど、得たものの方が断然多く、実りある一年だった、と満足しています。

「私を大切にする」ことで、自分への意識が変わり、一年かけて少しずつなにかが変わっていきました。

変化する、成長することって楽しいし面白い、と実感しました。自然も人間も、ゆっくりであっても確実に変わっていくし、変わらないものはない。

今まで抱いていた変化への戸惑いや不安より、変わっても変わらなくてもどちらでもいいけど、できたら私はもっと成長し、よい方を目指して変わっていきたい、と思うようになりました。

そして、とても苦手だった「楽しむ」ということも、うっすらとですが心でわかるようになってきましたよ。

これから私はどんな風に進んでいくのかな。気の向くまま、歩いていこう。

楳図さんおめでとうございます!

楳図かずお大先生が、フランスでの国際漫画フェスティバル「遺産部門」で受賞!

受賞作品は『わたしは慎吾』

内容もさることながら、この作品は「扉絵」が美しいんです。楳図漫画が美しいって? 恐い絵のイメージが先行してると思いますが、楳図さんが描く女性はとてもとても美しいんですよ。

この作品は「少年・少女=子どもたち」が大人へ移行する、グラグラするようなあやうさや、成長に抵抗する強い思い、子どもと大人の間の曖昧な時間を描いているなぁと感じますが、こうして“ 時代を超えて残しておきたい作品 ”として認められたということですね!

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180129-00000061-nataliec-ent

才能があり、表現できる力があって、でもそれがあっても継続し積み重ねてきてくれなければ読めなかった作品がたくさんあると思います。コツコツとずっと努力し続けるとは、とても難しく尊いものだと実感します。

楳図さんの絵や物語は楳図さんにしか描けません。もう81歳になられるんですね。これからも好奇心いっぱい元気いっぱいでご活躍を願うばかりです。

こんなニュースを聞けるとは、30年来のファンでよかった。

あのころの自分と

2012年に亡くなったニュージーランドの児童文学作家マーガレット・マーヒー。

学生時代、授業で毎週読書レポートを提出する課題がありました。厳しい英米児童文学専門の教授に唯一そのレポートを褒められたのが、マーヒーの『足音がやってくる』でした。

私にはマーヒーは、『足音がやってくる』と『めざめれば魔女』です。(この2冊より『魔法使いのチョコレートケーキ』がよく知られている作家ですね)

人とは違う力を描き、不思議で、怖くて、不気味で、暗くて、でも力強い。

あらすじはほぼ忘れていますが、強い影響を与えた本で、その感覚は忘れていません。

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児童文学は、つきつめればほとんどが「主人公の成長物語」だと思っています。

主人公が思いがけないことから冒険に出て困難に遭い、それでも挑戦していく。引っ込み思案だった子がその冒険を通して自分の力で自分の道を切り開いていく。ひとりで、または仲間たちと、誰かの助けを借りたりしながら乗り越えていく。

時間は止めることができない。主人公の時間も止められない。否応なしに大人にならなくてはいけない。広い世の中に自分の力で出ていかなければならない。

高校を卒業してもまだモラトリアムだった私には、児童文学を読むことは、いずれは見たことのない世界に行かねばならないんだ、ということを知りつつ、でもいまだ怯えながら、そろそろとその準備をするための震えるような時間でした。

児童文学には古典、名作といわれるものがたくさんあります。それらはいまだに名作で、あまり入れ替わっていない、という印象です。古典は消えずに今でも読むことができて、しかも面白さもそのままです。

くまのプーさん不思議の国のアリスナルニア国物語床下の小人たち、モモ、はてしない物語…数え上げられないくらいたくさんあり、それらは宝物です。

***

いつのまにやら、みずみずしい感性は身の内へと深く潜り、「あのころのように読む」ということは難しくなりました。

けれど今また読めば、あのころの感受性はもうないのだけれど、人生への切ないような心持ちや、知らない世界への畏れや不安を抱えて縮こまっていた自分に会える。それなら本の世界と一緒に、そのころの自分ごと抱きかかえて、そっと大切にしてあげたいなぁという気持ちになるのです。

う〜ん、マーヒー楽しみ!

スクラッチアートの本

けずってスクラッチアート!

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小学生のころ、画用紙をクレパスを使っていろんな色で塗りつぶし、その上から全面を黒のクレパスで塗りつぶし、そうして上に絵を描いたなぁ!と思い出しました。

表面の黒が削られて、中からきれいな色が覗いて、どんな色が出てくるかわからないことと、黒から鮮やかな色への変幻がとてもとても好きでした。

わくわくしながら絵を描いたなぁ。

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絵を描かなくなって数十年、絵心を思い出せない私でも、削っていくうちに鮮やかな色が出てきてくれるこれは楽しいです。

この本は、削らずにそのままでもイラストが絵本みたいで美しいです。

塗り絵が流行りましたね。

色鉛筆をたくさん持っていないし、どんな風に色を塗るか迷いすぎるため、塗り絵より「なぞり絵」がいいなぁと探していたら、実際のなぞり絵は仏像だったりしてちょっと違う…と思っていたのです。

今回買ったこれは「線をなぞる」のではなく、ひたすら削って絵が浮かび上がるのを楽しむ感じです。カリカリ、サカサカ、無心で削っていると手がだるくなってきました笑

 

ではでは、実際のビフォーアフターを…

これが、

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こうなって、

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こう!黒い部分はすべて削れるようです。

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体調がよくないことも大切に

「体調がよくないことも大切にしてください」

目から鱗の言葉でした。この言葉を聞いた時、肩の力を抜いていいよ、軽くなっていいよ、と言われた気がしました。

たとえば仕事を休む時。

体調が悪いにもかかわらず、私が我慢すればいいんだ、と考えたりしました。

体調が悪いにもかかわらず、職場に迷惑をかけるから休んではならない、自己管理がなってない、と考えたりしました。

体調が悪いにもかかわらず、上司に怒られるのではないか、と理由を説明するのも怖くて、電話するのが嫌で嫌で仕方なかったこともありました。

職場でしんどくなった時も、無理して仕事を続けて帰りにはヘトヘトだったり、察知されないように必死で隠していることもありました。

「嘘をつくと自分が一番傷つく」

そんな風に自分に嘘をつくと、知らぬ間に自分をとても傷つけているんですね。いつのまにか自分の身体や心を大切にいたわることを忘れていきました。

身体を撫でたりさすったりさえもせず、暴飲暴食したり、冷えていても気づいていないようなことになっていました。

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人に迷惑をかけてはならない、と自分の痛みも見ないふりして、でも身体は正直だし心も正直だから、そんな無理や我慢は続かない。ちょっとの傷が大きくなって、結局人の迷惑になる…悪循環にはまります。

不調も小さいうちに手当てしたり、周りに伝えておけば、自分への傷も、周りへの傷も少なくて済む。

「嘘をつくと自分が一番傷つく」という言葉も、痛みとともに納得した言葉でした。自分に対してバカなことしてきたなぁ、というチクッとした痛みを感じました。

そしてなにより、周りは私が思うよりもっと、私を見てくれているし心配してくれている。だから、正直に自分の状態を言うことは、してもよいこと。少し甘えたり、頼ったりしてもよいということ。変な遠慮は余計であること。

とてもとてもありがたく、身体と心に素直になりたい、と感じたことでした。

 

お役立ち乳鉢

“ 友人へのちょっとしたお礼 ”とかにあげたい、と思うものがありまして、それが小さい乳鉢です。

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昔、東急ハンズで買いました。いつもごまをするのに使っています。すり鉢でするのと比べれば味わいは変わってしまうのでしょうが、この乳鉢、ほかにも使えるので便利です。

うちは小鳥用にも使います。ペレットやボレーを細かくしたいときや、カルシウムサプリメントも小さく砕いたりします。

小さいのに、意外と重いです。ハンズの、理科用品を置いてあるコーナーで見つけ、三角フラスコやビーカーと一緒に買いましたが、なんで理科用品ってあんなに魅力的なんでしょう。形もシンプルで無駄な装飾もなく、置いているだけで清潔感を感じます。

ごまをするのが面倒だ〜と思う方にはオススメです。小さいからあまり場所も取りません。

もうひとつ、“ 友人へのちょっとしたお礼 ”に渡したい、と思うものがありまして、それはキッチン用品の「ムッキー」です。ゴム手袋状で、手のひら側にトゲトゲした突起がついており、ごぼうやじゃがいもなどの泥つき野菜をゴシゴシこすって落とすことができます。皮をわざわざ剥かなくていいごぼうなんかは、ムッキーである程度ゴシゴシすれば、すぐ調理できます。ムッキーを使うと、水が冷たい冬も手がつらくないです。爪に泥が入ることもないです。オススメです!

“ 友人へのちょっとしたお礼 ”に乳鉢とムッキー。心の中にいつもあるのに、毎回違うものになってしまい、いまだあげられたことはありません…(笑)