ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

ツグミが来てくれた、ホッとする

 

今朝、近所でツグミを見た!

先週わざわざ大きな公園に行って、一羽も見つからずガッカリして、今年は会えないかもしれないと思っていたところだったから、あの赤茶色(えんじ色)の姿を見た時は嬉しくてたまらなかった。

つい先日から、朝からやたらヒヨドリが集団で騒いでるなぁと思ったけど、そしてさらにヒヨ同士が何羽も集まって会合を開いていたようだけど、つぐみんが来たことを警戒してたんだな(笑)?

今朝だって、つぐみんのいる場所から間近なところの木に止まって、牽制してるというのか、見張ってるというのか、…ヒヨちゃんいつもその木には止まらへんやん!と突っ込みたくなるくらい「新顔」への挙動が大げさでおかしい。あたたかく迎えて…あげられへんねやろなぁ…。

 

毎日、鳥を探しながら歩いたり、空を見上げながら、雲の行方やら、風の冷たさやらのことを考えて、鳥の飛ぶ様子または川に浮かぶ鳥をじっと見ている。どこへ行くんかなぁ。何食べてんのかなぁ。鳥の飛ぶ姿はきれいやなぁ。

今日は気温はましだけど空気が冷たいなぁ。雲がいろんな形してるなぁ。川の水が少なくなってるなぁ。こないだはあっちの山に雪が積もってたなぁ。……

そういうことばかり思っている私はアホなのかなぁ。どんどんどんどん、人の社会から遠ざかっていくような気がする。

憧れのひと

 

市原悦子さんが亡くなってしまった。

出演する2時間ドラマも、連ドラになった「家政婦は見た!」も欠かさず見ていた。この方は、声や風貌にだまされるけどすごく厳しい人なんだろう、と感じていて、でも声と風貌にも惹かれて憧れてた。ひとり歌いながら踊るシーンが多くあって、無防備に見えるのがチャーミングだと思っていた。歳を重ねられたほうがもっと虎視眈々とした表情を見られて、私も思わず「ウシシ」と変な笑いをしてしまっていた。市原悦子さんが出る番組はおもしろくないわけないから、録画しても見ていた。

ふんわかしてるけど、でも実は怖い、と思うひとはもうひとりいて、それは詩人の石垣りんさん。この方も、見ためがかわいらしくだまされそうになるが、詩といえば市井の人々の厳しさを描いたものが印象に残っている。亡くなったときにハッとしたことを覚えている。私の中ではふたりを重ね合わせているようだ。

市原悦子さんの本も読んだことがある。以前に読んだインタビュー(と写真)の本では、思っていたよりも芯の通った厳しさだった。身体を悪くされて表舞台から少し離れていたけど、リハビリもしてると記事で読んでいたので安心していた。

 

葬儀の日、ネット記事で「樹木葬」にされると知った。

 

樹木葬」は私もできたら希望する埋葬の仕方だ。海への散骨、山への散骨、どれでもいい、とにかくお墓の中には入りたくないんだ。死んでまで、あんなコンクリートの狭いスペースにいたくない。墓は「ここに居るんです」とクサビを打つようなものだ。骨がここにあります、と周りにわざわざ知らせたくもない。死んでまで同じ場所に縛られたくない。私という痕跡は、人工物の中に残したくないんだ。自然の中に溶けてしまえたらいちばんいい。

しかし実際に散骨や埋葬をしてくれるのは私ではないわけで、死んでしまえばもう文句はない。どんな死に方をするかもわからないし、火葬してできる限り細かな灰にしてもらえるならそのあとはどのようにしていただいてもありがたいと思う…。

 

憧れのひとが望む埋葬方法と、自分の希望が同じだと知って、好きなひとを好きでいつづけてよかったと思った。人の生き死にといった根源的なところが自分と重なるというのは、魂の柔らかいところに触れたようで、しかもそれを理解できたような気持ちになるから。共感できる喜び。

こんな、葬儀の仕方とか散骨の話なんて、「普通は」だれとも気軽にはできない。話題にのぼらない。私にとって大切にしている思いでもあるし、人のこころに関わるデリケートな話だからだ。

でも、こうした話をふとした時にできる関係は、私には至福だろうし、とても憧れる。本音を開示し合うことにとても憧れる。

 

好きなひと、憧れのひとというのは、私に進む道を示してくれて、それはきれいなところばかりじゃない、どろりと濁り粘った場所もある、と教えてくれる。その人々を通して、世間を、世界を知ることができる。市原悦子さんも石垣りんさんも、私にとってそんな存在だ。

好きなひと、憧れのひとが何を望み知りたいと思うのか、行動だけではわからない心の動きをこうして知ることが叶い、穏やかな気持ちにさせてくれた。亡くなってからとなってしまったけれど。亡くなってしまったからこそ。

ずっと憧れのひとだ。

ひさしぶりの涙

 

今日でヨガを始めて20回目だった。

少しずつできることが増えていくのが楽しい。

今日は特別クラスで「月礼拝」を教わった。まさに女性のためのヨガだ。

昔ヨガは主に男性がすることだったそうで、身体を縦に伸ばす動きが多いダイナミックなもの。パワーヨガで行うのは太陽礼拝だ。

男性は、ひと月のうち、身体の内部の変化は女性に比べれば少ないだろう。

けれど女性はひと月のうち、生理の準備、生理、排卵、…内側では相当な大きな動きがある。月のリズムと言われたりする。外には見えづらいものかもしれないけれど、男性の外向きのダイナミックさに比して、女性は内向きのダイナミックさだ。

男性のものだったヨガを、徐々に女性もするようになり、身体を横(左右)に広げたり伸ばす動きの多い月礼拝ができたとのこと。

月に向かうため、照明はほぼ落とした暗い中、いつも以上に自分の身体のことを感じながら行うものだった。

 

今週初めから、気分が沈んでいるな、と感じていた。笑えないし、胃の消化力も落ちている。前かがみになりがちで、うるさい音に苛々する。なんか苦しいな、と思う。

こんなに恵まれているのに。こんなに何不自由無く暮らしているのに。日々温かいご飯を食べて、温かいお風呂に入れて。ご飯を作るのは楽しいし、ケーキを作る余裕もある。食べものも飲みものもおいしいと感じられる。青い晴れた空を見上げてきれいだなと思うのに。

こうした気分の時は、そんなすべてが自分自身とはちょっと離れてしまって、

自分ひとりだけが薄い膜のようなものの中に入っているようで、すべてがぼんやりと鈍い。なんかしんどいな、と思う。うっすらした気分。

 

ヨガをするようになって、身体を動かすことの面白さ楽しさ明るさを体感した。気持ちが下向きでも運動すると自然と前へ進む力が湧く。

私は運動は苦手だし嫌いだと信じ込んでいた。違った。自分の身体を放っておいたんだ。興味も持たず、苦手だからと決めつけて。身体を知ることもいたわることも癒すこともしてこなかったことがよくわかった。身体に対して済まなくてつらく思う。

 

今日は、その週初めからの沈んだ気分のまま受けていたら、合い間の姿勢の時に、勝手に涙が流れた。インストラクターさんの落ち着いた説明や優しいガイドを聞きながら、そうなんだねそうなんだ、と身体に向かって話しかけるように呼吸をし、ポーズを取っていた。気分が高まり出るものとは違う、自然にさーーっと流れる涙だった。

流れていたのは数秒だろうけれど、その間、小さい自分が出てきて、「怖い」「悲しい」といった感情が胸の内側に起こり、それはとても熱く、「そうだね怖いね」「つらかった」とまるでもうひとりの自分と話すような心持ちだった。胸の内がぎゅっと熱くなった。

いったい私自身はどこにいるんだろう。毎日毎日、日々のタスクを順々にこなす自分は自分なんだろうか。自動操縦された私は、私という乗り物に乗っているのだろうか。小さな自分ははたして自分なんだろうか。

私は何のために生きているんだろうか。私が生きていていいのだろうか。私が役に立つようなことは今までもこれからもあるんだろうか。

答えのない問いが次々浮かぶ。

答えがないからもう考えないようにしよう。いつかきっと気づく時が来てくれる。

大寒近し

 

さすがに冷える今日この頃です。

今日は、なんてことない話。

今年の成人の日は、大阪はわりと暖かくて、これなら着物の女性は冷えなくてよかったね、と思った。成人の日はたいがいめちゃ寒くて大阪でも雪の日なんてことがよくあったから…。それに着物って…冷やしたらあかんとこ全部スースーし過ぎてるなぁと思う…。

それはそれとして、今年も着物姿の新成人の女性を見て、大きく育ってよかったね、と思ったのでした。

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その暖かい日、大きい公園に行ったのでした。写真は暗くなってしまったのと、写し方が下手くそでわかりにくいかもしれないのですが、

電線にちょうどフウ(アメリカフウ)の木の実が「音符♩♫」のように見えたのです。

今見たらぜんぜん電線に重なってないけど…。°(° ˆᴗˆ °)°。


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包装紙がいろんなデザインの明治チョコレートを見つけてしまった!

たくさん種類があって、楽しくなった(^^♪

上は、街の夜景、

中は、スコッチテリアの愛の告白、

下は、スペースシャトルと宇宙犬!

きっとお気に入りが見つかるでしょう( ﹡・ᴗ・ )b

寒い日はまだ続きそう。暖かな部屋で、のんびりするのが幸せですね。

 

海藻の謎さ

 

冬真っ盛りです(「冬」と「真っ盛り」のそぐわなさがすごい)。

冬といえば東洋医学でいうと「腎」の季節。「腎」は、生命力というか、成長や生殖や老化など、「いのちのもと」を担います。「腎」が弱ると、白髪、抜け毛、腰痛、関節痛、トイレが近い、骨の老化、生殖能力の衰え、などなど、まさに「老化」に関わります。

 

といっても、たぶん「腎」に関することだけをケアしていても片手落ちなんだろうな、と思う。肝心要(かんじんかなめ)なんていうくらいだから大事なところではもちろんあるけれど、その前に、身体をつくるには「脾」だなぁと思っている。

「脾」は胃腸。消化吸収ができていれば、おのずと身体に必要な栄養が行き渡るだろうから、不調を予防するにはまずは胃腸なんだねぇ…。

食べ過ぎて最近だるくてしんどくなってきてるから、少しずつ「通常営業」に戻そう。お腹が空いてる、と感じるくらいのほうが、頭もクリアで身体も動かしやすい、と感じるし、ほんともう、身体をいたわってあげよう…。

 

「腎」の季節は、五味(ごみ)でいえば「鹹」(かん・塩辛さ)。そして色でいうと「黒」。

昆布、わかめ、ひじき、黒ごま、黒豆、といった黒いものを食すと「腎」によいそうだ。

だけど…

昆布もわかめもめかぶももずくもなんかあのクキクキぬめぬめしたところが好きじゃない。

海藻サラダに入っている赤と緑のクリスマスカラーの、漫画の吹き出し(激しめ系)のようなかたちをしたビラビラしたやつ、あれなんか口の中で激しいかたちがガサガサして、でも食感は柔らかめで、噛んでも噛んでもビラビラして、いったいどうしたらいいのかわからなくなる。だいたい、海藻サラダはレタスとかの野菜と海藻との食感がおおいにミスマッチだと思う。あれはほぼドレッシングの味だと思う。

あと海藻じゃないけどキクラゲ。あれも味がよくわからないし、肉の脂身のようにずっと噛み続けてもなくならず、いつ飲み込んだらいいのかわからなくなって混乱する。

私は海藻がなくても生きていけると思う。

 

…だけど、塩昆布なら細くもしくは四角く切って加工してくれてるからまあ食べられるしおいしい、ということで、塩昆布とじゃこの炊き込みごはんを作る。炊き上がったら昆布が思いのほか大量になってるけど(しかもハサミで小さく切ったのに全部は短くできなくて、だらーんとめちゃ長いのもいたけど)、でもクキクキしなくなったのでよかった。

 

ところで海藻を消化できるのは日本人とほか一部の東洋人だけだそうですね。おもしろいですね。

梅はあと少し

 

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お天気雨の降る日、大きめの公園へ。

梅のつぼみを見てきました。あともう少しです(^^)  丁寧にお世話がされているので、きっときれいに咲くでしょうね。楽しませてもらっています。
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林の中に、ミントの大群…!
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ミントは…ミントは…すっごい増えるよー!!

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謹賀新年

新年明けましておめでとうございます。

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(和歌山の新聞記事から転載させていただきました)

上の写真は、若いスズメの群れだそうです。この子たちがそれぞれ、冬を越せたり越せなかったり、外敵に襲われたりして、それでも残ってくれたみんなが、春につがいになって子育てするんですね。実り多い年にするためにがんばってほしい。チュンたちの姿は本当にとても美しい。


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おせち作りは楽しいな〜♬

今年は田作り(ごまめ)も作りました。こんな簡単でおいしいなら、ずっと作っておけばよかった(^^)  かまぼこはお正月価格だったので今年はやめました☆ 

 

今年はどんな年になるかな?  どんな年にするかな?  自分が知っている。自分を信じて動くだけだ。

 

湯気がごちそう

 

本格的に寒くなってきました。

先日の朝は家々の屋根が白くなっていました。空気も冷たくて、これから冬の寒さをどんどん感じる時季になるんだ。寒い季節は寒いけど大好きだから、楽しみだ。

 

こんな朝は、まだ温まりきっていない部屋に、ごはんの湯気、お味噌汁の湯気、お茶の湯気。

そして、コーヒーの湯気…。

うちはコーヒーメーカーがないので、ドリップしたコーヒーを水筒に入れますが、フタを開けてカップに注いだとき、香りと一緒に湯気。

コーヒーの香りが広がって、白い湯気がそれぞれのカップから立ちのぼる。気持ちが落ち着き、ホッとします。

湯気もごちそうのひとつだなぁ。

きつねそば!

 

待ってました! 

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なぜ今までなかったのか…

「きつねうどん」と「天ぷらそば」はあるのに〜〜!

うどんより蕎麦、天ぷらよりきつねが好きな私はいつももやもやしてましたが!

やっと出てくれた〜〜きつねそば!!

(私の好きなものは人気がないのかすぐ生産終了になるけど、末永く残ってておくれ〜)

よし、これで年越しもバッチリだ!

冬のおやすみの日

 

このあいだのおやすみの日は、冬にふさわしい過ごし方をしたぞ!

すなわち、ごろごろのんびりゆったり!

季節問わずそんな過ごし方をしてるかもだけど!ははは!、

特に冬は、心も身体も「内向き」に。眠れるならよく眠って、あまり汗かくほど動かない。それでいい。

(実際の運動も激しいものは避ける、漢方ではそういうけど、身体だけでなく、心が激しく動くのも避けた方がいいんだろうと思う。

焦ったり、憔悴したり、落ち込んだり、喜び過ぎたり…心の高低差で消耗しないようにする)

すばやい動きも避けて、なるべく所作をゆっくりすると、身体も心も、食器などのものも、丁寧に扱っているように感じられて、とても気分がいい。

サッと、パッと、そんな動きがクセになって、しかも早い方がいいという思いこみがあって、ついついしてしまう。身体感覚は正直なもんで、今ではサッとパッと動くとどこかにぶつかる。自分でアホかと思う。

なになに?すばやく動かなくっちゃ遅れをとるからイカン? いいじゃない、人より遅くたって。それで身体も心も安らぐんなら、なにより私にいいことだ。

心も身体も「内向き」に。それが冬の過ごし方。

 

冬の空はどんより曇っている日が多くて、気分もふさぎがちになって、頭痛もしたりする。飼っている小鳥たちも機嫌がよろしくない。

これだって、季節や天候が原因で起こることだから。気圧のせいだから。

だからやり残したことやできなかったことがあっても、寝てしまおう。

パァッと晴れたら気分も晴れて、動きたくなるから大丈夫。自然にまかせて大丈夫。

『チュンまんが』!フサ!

 

待ってましたー!

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駅近くの本屋では配本自体がなく、移動した先の本屋では1冊のみの入荷…!

でもようやく手に入ったー(^^)

『チュンまんが』dollyさん著(kadokawa

えんぴつっぽい線が的確でとてもうまいと思う。

チュンの表情の変化をこまかく描けるってすごい。

チュン欲しい。

 

#チュンまんが

クリスマスソングは

 

  もーろーびとー  こぞーりーてー

  シュワー  キマーセリー

  ……アレ?…

 

明日はクリスマスです。

クリスマスはケーキを食べて、クリスマスソングを聴いて唄う日! なんていう思いこみがあります。

ケーキを食べて、クリスマスソングを聴く。

だんだんそれに、チキンを食べたい、お菓子のクリスマスブーツが欲しい、ツリーに飾る色とりどりキャンディみたいな電球も欲しい、とか増えたりしてますけど、

暖かな部屋で暖かな格好をして、温かみを感じる色合いのファブリックが目に入るところにあって、不安も心配もなく、守られた空間にいることがいちばん気持ちが安らぐことであって、

それを装飾するものはなんでもいいんです。でもクリスマスは季節や意味合いなんかから心が華やぐ楽しさがあります。

 

クリスマスソングといえば、すぐに浮かぶのが「もろびとこぞりて」!

上の歌詞は間違ってます。いつも間違えます。

 

竹内まりやとかマライヤキャリーとかジョンレノンとか恋人はサンタクロースとか山下達郎とか(ここは夫婦ですごいな)、そういうのはラジオから流れ過ぎて食傷気味。

謡曲より、子供の頃聴いた、昔ながらのクリスマスソングがやっぱり素敵な歌だなぁと心踊るのです。

もろびとこぞりて」だって、子供の頃にみんなが歌うのを聴いて覚えたから、意味も言葉もわかってないまま。

ネットで調べたらすぐにわかるけど、思い出しながら歌うのもいいもんです。

さて今年はケーキ食べられるかな。

ただの象徴・ただの現象だった

 

年賀状と大掃除。

年末の忙しい時期のわずらわしいことトップツー(と思う)、

この「やらねばならない空気」がすごく気が重くうっとうしい時期を何十年間も過ごして、ようやく1〜2年前どっちもやめて、

今年、心がめっちゃ楽!

楽、というより…、すっきりと静か。波立たないし、落ち着いている。スカッと抜けた感じで、肌感覚はサラリとしている。

 

なんとなく…、いつもやってるし…、やらなきゃいけないでしょ!、って惰性で続けてきてたこと。

それらに焦点を当てたら思いのほか自分の内面と会話して考えることになって、しんどかった。

でも自分で考えてみた。

とくに年賀状は、「フツーはするでしょ」「一般常識でしょ」「つきあいがなくなるかもよ」「せめて年賀状だけでも」「そんな一年に一回しかないことをやめるなんて、不義理じゃない?」なんてだれだか知らんけど小うるさい声が騒いでた。

だけど、心で考えて、心で納得して、決めた。

やめる、って決める時に、「なんとなくやめればいっか」てな感じでテキトーに決めてたら、またぶり返してモヤモヤうじうじしてたんだろうと思う。

いったんグッと内に入って「自分にとって必要か」「したくてしてるのか」「周りに流されてないか」を探ったから、迷いもこだわりも執着も、今はもうない。

それに、やめるって決めたけど、ガチガチではない。

したかったら、すればいい。流動的でいい。それくらいの自由さ。

こんな気持ちになるなんて思わなかった。自分の中の空間が広がって、自由さが増した気がする。

年賀状と大掃除を、自分から重荷にしてたんだということも今ならわかる。

そして、年賀状と大掃除はただの象徴で、自分のこだわりやルールは別のところにある。年賀状と大掃除は、ただの現象。それぞれによい悪いはない。だって、年賀状も大掃除も、いいもんだもんね。それらを隠れ蓑にして正義やら善悪やらをくっつけて重くしてたのは自分だ。年賀状や大掃除にまとわりつく、世間の空気、世間の常識、親の常識、テレビの影響…、そういったものがうっとうしくわずらわしかっただけなんだ。

卵の殻をむいていくようにそれらを剥ぎ取って、昔から続いてきたことへの人々ひとりひとりの気持ちや思い、みたいなものを見つけ出したら、その純粋な願いに触れたら、そんな重い殻はどうでもよくなった。

年賀状や大掃除は、ただの現象であり、形式でしかない。

大切なのは、年賀状を通して人を思い気遣う気持ちや、大掃除を通して家や暮らしを整え、新年をよろこびをもって迎え祝う気持ちだ。

だから、形だけやってればいい、なんてのは、人にも家にも、ひるがえって自分にも失礼なんだ。

 

連綿と続いてきたものや伝統や慣習に反抗して、本当にそれは必要なのか考えたけど、ただうわべだけやってた頃はわからなかった。続いてきたものにはそれなりに意味がある、形式や儀式には精神の部分での必要性がある、とわかった。

それがわかったうえで、するかしないかは自分で決めたらいいんだ。

 

自分の心の動きは、自分でもどうなるのかわからなくて、いちばんおもしろい。

嵐を起こすのも、それを静めるのも、自分なんだ。

ぬかどこその後

 

ぬかどこのその後。

買ってきてすぐに大根を入れてみて、丸一日も漬けてないけど、どうなっているのか気になって取り出してみた。

そしていざ食べてみたら…塩からっ!すっぱ!すっぱさが独特!エグい。んぐぐってなる。

あちゃ~味が濃過ぎておいしくない。パッケージを開けたてで一番濃い状態だからだろうけど、ぬか漬けってこんな味だったっけ〜?

ふた切れくらいでもう酸っぱ過ぎて手が伸びない。塩分の摂りすぎになりそうだし、たくさんは食べられないぞ。もう少しサラダ感覚でたくさん食べられるものだと思ってた。

ぬか漬けは好きだったから、市販のものとこんなに味が違うことに驚いた。市販のものはさすが「いい塩梅」になってるんでしょう。

…ということで、説明書きに載っていたように「酸味をやわらげるには卵の殻を砕いて入れる(薄皮は取る)」をやってみよう…。そして味濃い大根は塩抜きして別の料理に利用…トホホ。

はじめはこんな感じかな。ぬかの濃度、漬ける時間、漬ける野菜…、いろいろやってみてわかってくるんだろうな。いくら発酵済みのぬかを買ってきたって、やっぱり試行錯誤するもんなんだな。いやでもしかし…すっぱいなー…泣

我慢や忍耐の使いどころ

 

 「我慢や忍耐は目標や理想のためにポジティブに使いましょう。」

 

はっ ∑(゚Д゚)!

ほんとだな! 意味もなく自動的に我慢して、我慢に無自覚なことめちゃ多い。

我慢したくてしてるのか、我慢するのが楽だから流されているのか、自分でわからなくなる。

そんな風になんでも簡単に我慢してると、我慢や忍耐が必要なここぞという時、自分からやってやろう乗り越えてやろうと思った時、かえって我慢が利かなくなる。その時には我慢する気力体力がなくなってるから。

我慢は身体によくないよ。

 

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