ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

ただの象徴・ただの現象だった

 

年賀状と大掃除。

年末の忙しい時期のわずらわしいことトップツー(と思う)、

この「やらねばならない空気」がすごく気が重くうっとうしい時期を何十年間も過ごして、ようやく1〜2年前どっちもやめて、

今年、心がめっちゃ楽!

楽、というより…、すっきりと静か。波立たないし、落ち着いている。スカッと抜けた感じで、肌感覚はサラリとしている。

 

なんとなく…、いつもやってるし…、やらなきゃいけないでしょ!、って惰性で続けてきてたこと。

それらに焦点を当てたら思いのほか自分の内面と会話して考えることになって、しんどかった。

でも自分で考えてみた。

とくに年賀状は、「フツーはするでしょ」「一般常識でしょ」「つきあいがなくなるかもよ」「せめて年賀状だけでも」「そんな一年に一回しかないことをやめるなんて、不義理じゃない?」なんてだれだか知らんけど小うるさい声が騒いでた。

だけど、心で考えて、心で納得して、決めた。

やめる、って決める時に、「なんとなくやめればいっか」てな感じでテキトーに決めてたら、またぶり返してモヤモヤうじうじしてたんだろうと思う。

いったんグッと内に入って「自分にとって必要か」「したくてしてるのか」「周りに流されてないか」を探ったから、迷いもこだわりも執着も、今はもうない。

それに、やめるって決めたけど、ガチガチではない。

したかったら、すればいい。流動的でいい。それくらいの自由さ。

こんな気持ちになるなんて思わなかった。自分の中の空間が広がって、自由さが増した気がする。

年賀状と大掃除を、自分から重荷にしてたんだということも今ならわかる。

そして、年賀状と大掃除はただの象徴で、自分のこだわりやルールは別のところにある。年賀状と大掃除は、ただの現象。それぞれによい悪いはない。だって、年賀状も大掃除も、いいもんだもんね。それらを隠れ蓑にして正義やら善悪やらをくっつけて重くしてたのは自分だ。年賀状や大掃除にまとわりつく、世間の空気、世間の常識、親の常識、テレビの影響…、そういったものがうっとうしくわずらわしかっただけなんだ。

卵の殻をむいていくようにそれらを剥ぎ取って、昔から続いてきたことへの人々ひとりひとりの気持ちや思い、みたいなものを見つけ出したら、その純粋な願いに触れたら、そんな重い殻はどうでもよくなった。

年賀状や大掃除は、ただの現象であり、形式でしかない。

大切なのは、年賀状を通して人を思い気遣う気持ちや、大掃除を通して家や暮らしを整え、新年をよろこびをもって迎え祝う気持ちだ。

だから、形だけやってればいい、なんてのは、人にも家にも、ひるがえって自分にも失礼なんだ。

 

連綿と続いてきたものや伝統や慣習に反抗して、本当にそれは必要なのか考えたけど、ただうわべだけやってた頃はわからなかった。続いてきたものにはそれなりに意味がある、形式や儀式には精神の部分での必要性がある、とわかった。

それがわかったうえで、するかしないかは自分で決めたらいいんだ。

 

自分の心の動きは、自分でもどうなるのかわからなくて、いちばんおもしろい。

嵐を起こすのも、それを静めるのも、自分なんだ。