ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

はじめてのぬかどこ

これ、ご存知ですか!?

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無印で「発酵ぬかどこ」を買ってみた!

自分でぬか漬けなんて、はじめての体験!まさかできるなんて思ってなかった。

さっそく大根ばっかり漬けた。大根を入れすぎて他のものが入らなくなった。にんじんも入れてみたかったのに!ガーン。大根なら18〜24時間で漬かるって書いてある。親切。

明日には食べられるのか〜楽しみだな〜!

飛蚊症で眼科に行ったけど

 

先月、眼科に行った。

左目に黒い糸くずが見えたから、「飛蚊症」だとわかったものの、なんで急に現れたか怖かったので原因を調べたくて行った。

ネットで調べると、原因にはふたつあって、ひとつは「網膜剥離」(この言葉だけでもう怖い…)、もうひとつは「老化」。

 

眼底検査をした結果、病的原因ではなく「老化」「加齢」でした。よかった…んですが素直に喜べませんね(笑) でもよしとしよう。

 

小学高学年くらいからの近視だから、私は近視のベテランだ。

普段暮らしていて、私の視界がクリアであることはほぼない。いつもホコリとか浮いているし、視界も明るくない。夜目は利かず、たぶん鳥よりも見えてない(通説で「鳥目」といいますが、鳥は割と暗いところ見えてるようです。鴨だって夜中飛ぶし)。

 

強度の近視の人は「飛蚊症」になりやすいらしく、私の場合は加えて「老化」により、硝子体が少しはがれているようです。自分では見えないけれど、視野の端に丸いものが見えているはずだとお医者さんに言われた。目で追うと一緒に移動するのでたぶん工夫しないと見えないけれど。

目の病気への恐怖はずっとある。こんな強い近視だし、最近は老眼で近いところも見えづらくなって、目も疲れやすくなって、大好きな本を読む気力もなくなってる。たぶん早めに白内障にもなるだろうし、ずっと薄氷を踏むような心持ちだ。こんなできないことばっか言うのいやだ。

だけど、怖いけど、だからこそ知るって大切なんだなぁ。知ると、なにか対処するように実際に動くことができるから。不安を抱えたままでも、動くことって大切だなぁ。できることを増やすために。

 

日本眼科学会のページ:

http://www.nichigan.or.jp/public/disease/hoka_hibun.jsp

オムロンのページ:

「飛蚊症(ひぶんしょう)は心配ない」って、ホント? | はじめよう!ヘルシーライフ | オムロン ヘルスケア

 

 

 

集中線!

 

普段から「ガーン!」とか「顔にタテ線」とか、ベタなことを言う私ですが、そういった漫画っぽいことでやっぱりいちばん好きなのは「集中線」!

どんなものにも集中線をつけたら、なんだか面白そうになりそうではないですか?(面白くなるわけではない)

この、バナナに乗るうめさんをカメラで撮る図が…

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ほら!

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なんかちょっと笑えそうな、面白そうになりそうな!(面白くなるわけではない)

なつめのジャムと陳皮干し

陳皮を作る季節がやってきました。

作ると言ったって、みかんの皮を乾かすだけです。食べる前に塩やお湯で洗っておけば、後から面倒もない。

本物の陳皮はもっと長期間乾燥させているのだろうけど、自分で食べるものならあまりこだわりはない。これがなかなか使えるのです!

piyosuketochocotoume.hatenablog.com

そして漢方薬屋さんでもらった「乾燥なつめ」、使い道がなく忘れていたのですが、ようやくジャムにした。煮詰めてもあまりとろりとはならず、ジャムとは言えないかもしれない。

この乾燥なつめ、手軽な薬膳料理として、おかゆにいれたり、鶏肉と煮たりするレシピをよく見ます。

しかし、皮がかためでカシカシした感じが苦手で、味もなんだか独特でボヤけたような気がして好きではなかった。

ただ、なつめの効用は捨てがたい!女性にはよい効果があります! 

なつめの煮込み(ジャム)

・乾燥なつめ 10個

・はちみつ 大さじ2

・レモン汁 少々

☆しょうがを入れてもいい。

☆今回は、陳皮を少し加えた。

 

これらの材料を鍋で煮込むだけ。

さっさと作っておけばよかった…、というのも、ビンに詰めた残りを食べてみると、パウンドケーキに入れるとおいしそうな味(そして食感もケーキに混ぜ込めばあまり気にならないかもしれない)だったのです!

味はあっさりめ、食感は少しシャクッとする感じ、はちみつの甘みでもたせてる感じ。今回は若い陳皮も入れたので、香りがさわやか。

ふわっとしたケーキより、少ししっかりしたケーキに添えるのがよさそうだ(ビンひとつ分しかないんだから全部入れたらすぐなくなる)。これを機会に、せっかくだから使ったことのない米粉で作ってみようかしら!

なぜかいつのまにかケーキと食べるのが前提になってるけど!

そして、なつめの効能です。

乾燥なつめは「大棗(タイソウ)」という生薬で、「補気」…元気をつけてくれるはたらきがあります。血を補い精神を安定させ、食欲不振や倦怠感、不眠、イライラなどによいということです。

身体を温める作用もあるので、これからの季節、あたたかい部屋であたたかい飲みものと一緒に摂るとよりよさそうです。外側からも内側からもあたたかくしよう!

 

#なつめ #陳皮

自分の身体に聴くこと

先日、衝撃的な記事を読み、今もなんともいえない迷いの中にいる。

冬に、ホットヨガはすすめません!〜婦人科トラブル、不妊、血流不足のひとは気をつけて〜 | 堀江昭佳オフィシャルブログ「『こころ』と『からだ』の悩みを解決する しあわせ女子のための処方箋」Powered by Ameba

 

わ~…そうなんだ…。

堀江さんは婦人科専門の漢方薬剤師さんで、私はこの方の著作も持っていて「血」を増やすためにとても参考にさせていただいている。

ほかにも堀江さんと交流のある医師の方などなど、同じように、冷えがちな女性にはホットヨガはすすめない、と言っている。こちらの記事を読んだ、実際に体感した方やインストラクターの方の賛同の意見も読んだ。

私も漢方・養生の勉強をしてみて、汗をかくと一緒に「気」が流れ出てしまうこと、「気」はエネルギー・元気のことでもあるから、汗と一緒に元気がなくなってしまう、ということは、知識から、そして夏の自分自身を振り返っても、暑さとのぼせと汗で疲れが倍増した覚えがあって、納得している。

それに加えて、婦人科疾患を持っていたり、「血」不足だったとしたら、身体を温めると思って高温多湿の環境でおこなうホットヨガに行ったら、身体のためには逆効果だということ。

ただ、「気が滞る」タイプの方(気滞)は、汗などを発散することで改善することもあるから、そういった方には悪くない、とも書かれていた。(ヨガ自体はいいので、常温ヨガなら問題ない、とのことだった。)

実は最近ホットヨガを始めた私、記事を読んだはじめの衝撃からじっと考えること数日…、なんだか怒られている・責められているような気持ちが消えないので、なにを感じているのか書き出してみた。

・まず、まだ10回も行っていないから合ってるかどうかわからない

・常温ヨガはしたことない、ホットヨガもしたことなかった

・私は気虚血虚でもあるが、気滞でもある。誰だってタイプはひとつには絞れないのでは?と思う

・数回通って、肌が乾燥する感じはした(特に手)

・今のところ、のぼせるほど暑いと感じない

・レッスン後のシャワーで身体が冷えてしまう感じはする

・体験をする時点で腰に痛みがあってはじめた。運動習慣のない私が急に身体を動かしたことによって腰痛が悪化。今は回復。→これは、ホットヨガをしたことが原因ではないと思っている

・レッスン中、汗をたくさんかくので水もたくさん飲むように促される。しかし水はもともとそれほど飲む方ではなく、勧められる「1レッスン中に1リットル」はとても飲めない

・水は飲み過ぎてもその逆でもむくみの原因になるから、欲しくないのにガブガブ飲むことはしないようにしよう、と思っている

・その時の体調次第で、レッスン後に頭痛が発生することがある。→元が頭痛持ちであるため、ホットヨガが原因とは言い切れない

・特に「冬」がだめな理由は「補陰」の時季だから。陰はうるおいのことで、冬は静かにあまり動かず、早寝遅起き、よく眠って、身体をあたためうるおす食材を食べ過ぎないように摂ること、などなど…要は、激しい発散系の運動はよくない、汗はかき過ぎない、などなど…

さらに、消耗することで「腎」も傷めることにつながってしまう。冬は腎を特に養生する時季だから、逆効果。

 

ここまでが知識や現実の部分。以下が気持ちの部分。

 

・女性の身体の専門知識や臨床経験のある方、実際のインストラクターさん、などが理解してほしい、という思いで書かれているから、内容は真剣だし重みがあると感じた

・自分なりに身体のことを考えてヨガをはじめたのに、急に目の前でぴしゃんと戸を立てられたように感じた→これは、私の捉え方の問題。また、「冬」にはじめた、という時期がよくなかった

・いろんな条件の中、利便性などでホットヨガスタジオを選んだが、どんなところでも、合う合わないはせめて3ヶ月くらいやってみないとわからない、と思った

・自分の身体をよくわかっていない(そしてそのまま放置している)ことを指摘されたような気がした

!!

あー、この最後の「自分の身体をよくわかっていない(そしてそのまま放置している)ことを指摘されたような気がした」ことが、怒られている・責められている、と解釈した原因だなー…。

だけど、特に実際のインストラクターさんの声なんてなかなか聞けるものではないのでとても貴重だし本当に重い発言だと思う。それじゃないんだ。それじゃなくて、やっぱり専門の方々の発言が、知識や臨床経験からきた「正論」であること、ここが、私の解釈にビリビリときたんだろう。

なぜなら、正論であることを拒否したいと思っている自分がいるから。

そしてなぜなら、正論を押しつけることは人を傷つける暴力だと思っているから。

もちろん、みなさんそんな押しつけで書いているわけではない。私の解釈や思い込みの問題だ。それがわかったことで、だいぶすっきりした。

そして、なぜ正論が嫌いなのかといえば、ひとはそれぞれ違い、体質もひとそれぞれ、気質もひとそれぞれ、価値観も思い込みもひとそれぞれで、そこに正解も不正解も善も悪もなく、みんなが機嫌よく、共感と寄り添う心をもって生きることがよいことだ、という私の大切な思いがあるから。

 

…ということで、もう責められている、と捉えるのはなるべくやめにして、今後のヨガレッスンは、その時々の自分の体調を見ながら、強度が弱めのレッスンに行くことにする(強めはそもそもできないけれど)。

ヨガが合っているか、好きかどうかはまだわからないけど…、

しんどかったら無理しない。頻度は落としても、ちょっとずつやってみる。

冷えると感じたらすぐにカイロで処置する。

お風呂につかった時に足首まわしなどのできることをする。

できる範囲で、肩を回したり深呼吸したり、身体をほぐす。

自分が気持ちよいと感じることを否定しない。気持ち悪いと感じることも否定しない。

自分で決めること。自分の身体に聴くこと。これを意識しようと思う。

 

 

団地だ!

こんなの出たの?!

「住宅団地マスキングテープ」

https://danchi.epa2.net

これは…マスキングテープを普段使わない私でも、買わなきゃならんか?!と思わせられる品ですね…。

いろんなことを考えて実行してくれる人がいるなぁ〜感服です!

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(画像はお借りしました」

気の合う方々と…

 

買ってきましたよぉ〜!

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しいたけ.さんの「ソウルカラー心理学」

 

これを読みながら、気の合う方々としゃべりたい!

どーでもいい話でいいのだ。

 

しょーもない話も、たいへんな話も、おもしろい話も、苦しい話も、

外に出してしまえば、抱えた荷物がちょっと軽くなる。どんなことでも。

たとえ楽しい話であっても自分の内に持っているだけだと、なんだかギュッと締まったような、まだ固いような感じだけど、人に話したり、口から外に出すと違うものになる。

話すことで、思ってもみなかった言葉が出てくる。そんな表現ができるとは、そんな言葉を発するとは、自分でも知らなかった自分が出てくる。

一緒におしゃべり!

『ボヘミアン・ラプソディ』

話題になっているクイーンの映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観てきました。

旦那さんがクイーンの昔からのファンで、私は世代が少しずれていてほとんど知りませんでした。

フレディ・マーキュリーエイズで亡くなったことはうっすら聞いた記憶があるようなないような、それくらいの知識しかなく、

旦那さんはクイーンの曲を、「ボヘミアン・ラプソディ」も数百回聴いて、でも私がこんなだから張り合いがなかったようです。

 

フレディさんの印象が、奇抜、奇特、奇妙、といった、オリジナルでしかないその表現方法や見た目で、なんにも知らない私はただそれだけで退けていました。

歌すごいうまいけど変わってんな〜、という、フレディさんのファンに殴られそうな感想しか持ってませんでした。

 

今回もレイトショーで行きましたが、封切りからしばらく経っているのに座席が半分以上埋まっていて、そして一番驚いたのが、エンドロールが流れてもほとんどの方が席を立たなかった。最後まで見切ってしまわない方は一定数いると思うのですが、この映画は違った。

 

映画を観て、フレディさんの印象はガラッと変わりました。

この人、繊細すぎる。

哀しさを背負って、自ら愛情をたくさん持っているのに、でも「ない」と信じ込んでいる。だから渇望して、求めて求めて。

愛で満たされた瞬間はあったんでしょうか。あるのに、ない。とずっと思い込んで生きていたのかと感じました。

守ってくれる、寄り添ってくれる人々はすぐそばにいて、いつでも見ていてくれてるのに、本人が「ない」と思ってるから通じない、伝わらない、渡せない、受け取らない。悲しいことです。

外に求めても満たされないのかもしれませんね。苦しい日々だったのでは、と思う。

 

見た目やパフォーマンスで誤解されやすい人だったのかなぁと思いました。

内側は、ひどく優しすぎ、弱く、か細く、いつも震えているような、そんな印象に変わりました。

ともかく感動しました。ちゃんとクイーンの曲を聴いてみよう、と旦那さんに借りて、ふたりで聴いています。

 

世をはかなみ、斜に構えて、社会を呪うような歌詞なのかとこれまた勝手に思っていました。ロックってそんな反骨の精神の部分もあると思うから、世の中に抵抗するところを強く出しているのかとイメージしてました。

ぜんぜん違った。なんにも知ってなかった。

世を信じ、人を信じる歌だった。自分を信じる歌だった。

 

フレディさんの最期が、信頼できる人々にそばにいてもらえて救われるような気持ちがしました。

陳腐な感想だけど、私は感動した。

 

ちなみに、フレディさんておとめ座かなぁ?と思ったらほんとにそうだった。

ハマる串

ただの鶏肉が…、ただの豚肉が…、ただの団子が…、

串に刺さってるだけでなぜあんなにおいしそうに見えるんでしょう!?

最近の自分だけの流行が、串です。

お肉も団子も、特別でもない。そのまま焼いてお皿に盛ってもいいんですけど、だけど、串に刺さってるだけで特別感アップ!!

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たぶん国が違っても通じるような、形そのものを表した「串」という字!

そしてこれを作ったのは旦那さん!

 

なにかにハマるとしばらくそれに凝るのはいつものことで、

先日までは春巻き(かにかまとスライスチーズやらを巻くだけ)、その前はトマト料理(スープに入れると酸味がほどよくうまい!)、その前は…、、と続いております。

 

しかしこの串、楽しいし、具がお肉だからしっかり食べられるし、おいしいし。団子も作りたくなるのです。

ふつうに焼くだけに飽きたら、たまには串に刺すのはおすすめ!!

『竹取』

小林聡美さんのことが好きで、タイミングよく見つけたお芝居を観に行った。

さとちゃん(といつも呼んでいる)のお芝居を観るのは2回目です。

 

今回は現代能楽集シリーズ『竹取』。

野村萬斎さん企画のシリーズ第9弾。構成・演出は小野寺修二さん)

主演はさとちゃんと貫地谷しほりさん。

竹取物語を題材にしたもので、おおまかなストーリーはそのままだけど、舞台装置も、役者さんの動きも、想像とはまったく違った。

舞台には細いチューブが天井から床へ何本も渡してある。のびるこのチューブを動きに連れ舞台のあちこちに設置して、場面を切り取ったり、空間を作ったりしている。

何もないガランとした空間とは変わって、タテヨコナナメに走るチューブの線は、緊迫感を感じさせる。

照明もあまり明るくなく(だから眩しすぎず)、ここぞという時に効果的に使う。

舞台上に水(池というか、水たまりというか)を置き、光で照らし、描く模様を舞台背面に映し出すなんていう演出もあった。

 

役者さんの動きは、セリフをしゃべってあちらからこちらへ移動する、というような、ドラマでよく見るようなものではなかった。

ダンスやパントマイムのように、身体を使って大きく動く。動く。走る、走る。歩く、ねじる、倒れる、しゃがむ。

セリフに頼らない。説明しない。たまに歌う。

 

チューブを動かすのも、小道具を運んでくるのも役者さんたちで、たまに足りなくなるのかひとり助太刀で出てくる人がいた。

ほぼ出ずっぱりの役者さんたちがそれぞれ形は違うけどみなさん「黒」の衣装なのに、その助太刀さんは「上が緑・下が黒」の衣装だった。

なんでだろう?と不思議に思いつつ役者さんじゃなく小道具さんだから?と思っていたら、

終演後の小野寺さん、さとちゃん、貫地谷さんのトーク(30分ほどトークがあったんです!うれしかった)で、「あの人だけなぜ服の色が違うの?」という観客の質問があって(質問を受け付けてくれたんです!面白かった)、

「あれはね…、なんです」という答え。

現代劇のようだったけれど、これは『現代能楽』! 能の舞台には松がある!

松か!と、ワッと観客の方々の声が上がった。同じことを理解して共有したことで、心が湧き立つように思えた瞬間だった。

お芝居って、説明なく進んでいって、疑問があってもそこにとどまれない。観た人がどう感じるかは自由だけど、こんな風にちょっとした種明かしをしてもらえることで、あなたとわたし、みんなが共有できることがある、という楽しさを感じられた。

そこで、さとちゃんが「えっと、あの方もカーテンコールに出ていいですかね? いつも迷うんです」と笑いを誘った。次回からの公演では、きっと一緒に終演を迎えたと思う。トークも含めてのお芝居、すてきな一幕だ、と思った。

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「100%」は私が決める

仕事でも、人と会うのでも、遊びに行くのでも、「100%」の力とペースでないとあかんと信じ込んでいた。

だから、今日天気悪いし頭も痛いんだけど行かなきゃ…で行って、やっぱり調子が出なくて、あ〜あ、体調管理できてないのがダメだったのかな、楽しいはずなのに気分が重いと思うなんてひどい人間だな私…、なんてめっちゃ自分を責めまくってきた。

会社や学校で、100%全力でやれ、とか言われ続けてきたからそうせねばならない!と思ってきた。刷り込みってこわいなー…。

 

心理カウンセラー根本裕幸さんのメルマガを読んでいて、『100%の力とは「固定値」ではなく「変動値」』という記述があって、私の固定観念を崩してくれたのです。

根本さんのおっしゃる通り、その「100%」の力とかペースって、「自分にとってとても調子のいい時」が100%なんですよね。さらにそこに上乗せして、まだいけるはずだ、やらねばならないみたいに思いがちな私は、理想の100%を追い求めて、体調が悪かろうが気が重かろうが100%の力が出せないなんてあかん!と勝手に追い込んでた。しんどー…。そんな20代・30代だったな…。

 

そういえば、職場の上司が「毎日105%の力を出せ」とか言ってた。その時なんかおかしい、と感じて、いまだにその違和感は取れない。変だと感じる。注意信号が体内で騒ぐ感じ。

こんなこと言う人って、理想が高いんだろうな。でもあなたと私の体力や気力は違う。そんなのにはついていく必要を感じない。

と今の私だからこそ思える。人に強要された100%なんて奴隷みたいだ。私はもう人の思うままになんかならないぞ!

 

まだ、自分の中ではザワザワと「そんなんでいいの?」「やらなきゃ取り残されるよ」なんてすごく騒がしい。

だけどもこれこそ今は聞き流すチャンスだ。頭の声は聞き流すこと。恐怖や不安や焦燥感まで連れてくる。うるさくてうるさくて、ものすごく聞き流しがいのある騒音だ。

 

心理カウンセラー根本裕幸さんのメルマガはこちらから登録できます。

http://www.mag2.com/m/0001654768.html

続かないことは悪いこと

何をやっても続かない、という意識にこのところ責められている。

仕事だって派遣で最長3年くらいだし。同じところにずっといたのは5年だった。

20〜30代のころは、人間関係だって続かなかった。続けようとしてなかった、という方が合っている。

そういえば、小・中学のころにだれがいたかと思い返せば、ひとりふたりしか思い浮かばない。

高校も大学も、今や友人と呼べる人はほとんど残ってない。

こんなんだから、同窓会とか、行ったことがない。行きたくはないけど、それ以前に私の連絡先をだれも知らないと思う。

えっ、私って本当に存在してるのかな、と一瞬ひやっと涼しい気分になった。

同級生からすれば、私はいないようなもの。積極的に覚えておこうと思われない人間ということかな。あらあら…私は透明人間か。

でもまぁ私だって誰ひとり覚えてないわけだから一緒か。もう50代も近いですね、みなさんお元気かしら。

 

人との関係も、仕事も、その時その時を必死で、それからある程度慣れ、理解したような勘違いをする。そうすると、また次を見たくなるんだ。新しいことを知りたくなる。

人との関係は、家庭環境の変化もあるし、どちらかがどうこうできるものではないけれど、

仕事については、ある程度必死で行動したあと、やりきったな、と思ってしまう。一段階、二段階、とステップを踏んでいかない。ひとつかふたつめで、もういいや、と思ってしまう。

力の配分もおかしいと思う。ゆっくり時間をかけてができなくて、焦ってしまう。自分が理解力もなく要領も悪いのはよーくわかってるから、早く知らなくちゃ、できるようにならなくちゃ、と追い込み過ぎる。必死過ぎるんだ。

できないことは悪いこと。

続かないことは悪いこと。

こういう思い込みで動いてしまってるんだなぁ。

 

続いたことを思い出せば、小学6年間通ったお絵描きだけ。小学生の足には少しだけ遠いところに、自転車で毎週通っていた。楽しかった。何をしていたかさっぱり覚えてないけれど、きっと好きなようにさせてもらっていて、大切な場所だったんだろうな。なんでこんなになんでもかんでも忘れてるんだろう…。

 

続かない、ということにすごく罪悪感を感じるし、自分を不信に思う。なんにもつきつめられないんやん、という責める気持ち。

だからなにかをはじめることも、どうせ飽きるんでしょ?と頭の声が聞こえて、躊躇する。本当にできるの?したいことなの?なんてことも言う。頭の声はとてもうるさい。

 

世の中に出て行くことが怖かった

子どものころからなんとなく生きにくかった。

怖いことだらけだった。

小・中学生の行動範囲といっても家からほとんど離れないけれど、テリトリーとなりうる学校でさえ知らないところばっかりでなじみづらかった。先生と気安く話す同級生がうらやましかった。友だちの親と話すことももじもじして何を言えばいいかわからなくて怖気づいた。

知らないところ、人がたくさんいるところ、繁華な駅。誰かと一緒じゃないと、もう帰れないんじゃないかと怖かった。

知らない大人も怖かった。大人が多いということも怖かった。大人イコール怒る、みたいに思ってた。

 

親に甘えたかったけど、甘え方がわからなかった。肝心な時には見捨てられる、とよく思ってた。言う通りにしておとなしくしておけば、生き延びられる、と感じてた。

 

幼いころの記憶はほとんどない。小・中学生のころさえも。繰り返し思い出して定着させた記憶は、今や事実だったのどうかわからない。よほどぼんやり生きていたのだろうと思う。

 

世の中のものに押しつぶされそうだった。広い広い世の中に出ていくことが怖かった。この広い広い世界を自分ひとりの力で泳いでいけるなんて思えなかった。なにかを自分で決断することも怖かった。

それから高校生・大学生になって、少しずつ行動範囲が広がって、周りの人々も、自分と同じくらいだとわかってきて、構えすぎないようになった。

私にも息をする場所があるかもしれない、あってほしい、と思った。

 

でもやっぱり、空想で生きていた幼いころから、嫌でも現実に出ていかなければならない年齢になって、とても嫌だった。それを我慢した。だから我慢が生きるうえでのデフォルトになってしまった。

今振り返っても、なんだか無理矢理生きてたなぁと思う。もちろん楽しいことや笑い転げるようなこと、のびのびと羽を伸ばすようなこと、そんなこともたくさんあっただろうと思う。けれど思い出すのは、「怖い」と感じた、その感覚が多い。

 

では楽しかったことはなんだろう?

家や、自分だけが入れる隙間みたいな場所で、本を読んだり絵を描いたり、テレビアニメを見たり。妹と遊ぶことも楽しかったけれど、ひとりでいる時がいちばん好きだった。

机やふとんは自分だけのスペースだったから、そこで過ごすことは自分を保つ大切な場所だった。

楽しかったこと、というより、ひとりで息をつける場所が必要だった。

今も、どこへ行ったとしても、早く帰りたい。遊びに行って、それがとても楽しくても、早く自分だけの場所に帰りたくなる。

このところ、なにかに不安なのか、昔のようにまた「世の中は怖い」という思いが襲ってきている。

身をひそめて息を詰めて、怖い怖いと思いながら、やり過ごしている。

変わることを楽しみたい。怖いけど。

ややっ?! 気がつけばアラフィフと言われる年齢になってるね、ワタクシ?

アラフォーとかアラフィフとか、まぁどっちでもいいんだけど、中身は子どものころのものを後生大事に抱えてるなぁ。

日本酒飲んだり、塩辛とか食べられるようになるのかなと思ったけど、日本酒は飲めないし甘いものが大好きなのはそのまんま。

にがいものの旨味を知ってこそ大人の舌だ!みたいに思ってたけど、ゴーヤはやっぱり頭がしびれる感じがしてたくさんは食べられない。

 

なんかあると考え込んだり、立ち止まるのもそのまんま。

怖い!と思うこともそのまんま。

許せない!と思うこともたぶんあんまり変わってない。だけど、許せないまま、まぁいーや、と思えるようになった。これは面倒くさがりに磨きがかかったんだな。

ちゃんとしなきゃ、早くしなきゃ、と思うクセがなかなか抜けなくて、これはもう私にはいらないものだから早いとこどっかにうっちゃってしまいたいけどタイミングが来ない。

まだ昔にしがみついてるのか!といやんなるんだ。だけどもそれも私を作ってきてくれたものだから、まだ一緒にいてやるか。

身体が変わるのは自然なこと。

スペアがないんだから、大事にしなきゃ。よしよし、となによりもまずいたわってあげること、これはきちんと考えていいことだ、と思っている。

 

人の身体は変わるけれど、精神はあまり変わらない。必要がなければそのままで変わらない。不都合が出て、意識が変わらないと、内容も根本も変わらない。と思う。

身体と精神(頭)を切り離しすぎだ。精神(頭)は身体なくしては生きられないのに。

私の思う「変わること」は、進歩や成長のこと。

せっかく今の私で生きてるんなら、なんかやってみたいし、知らない自分に会いたいし、進歩したあとどんな発見があるのか興味津々だから、変わることを楽しみたい。怖いけど。

でもなんでこんな風に思えるようになったんだろう。子どものころは怖いことだらけだったのに。

次回は生きにくかった子どものころを書く。

 

 

タイトルを新しく・小鳥たちは移動しました

 

ブログのタイトルを変えました。

最近頭から離れなかった「人間っていろんな思い込みでできてるよな〜」という実感から、そのままそれにしました。

思い込み、といっても、それがいいとか悪いとか、正しいとか間違いとかじゃないです。

ただただ、思い込みでできてるなぁ〜と実感するのです。

これからも、いろんな思い込みを持ったり捨てたり変えたり、もらったりあげたりしながら生きていくんでしょう。

 

そして、なによりも愛する小鳥たちの記事が、紛れて埋もれているのがしのびなく、別のブログに移動させました。

ちょっとずつ、もう一度見直してきれいな形にして残したいなぁと思ってます。

『とりさえいれば!』

https://piyosuketochocotoume.hatenablog.jp