ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

言葉は凶器

 

特に好きでもなく、ふだん頭に登らないし、別に考えないようにしている程度の人のことを、

「好きではない」「嫌い」だと口に出したとたんに、

それが決定事項になって、自分がものすごく嫌っている、という事実に変わる。あらためて絶対的なものに決定されてしまう。アウトプットしたことで、定着してしまう。

それまでたいしてなんとも考えてなかったのに。

言葉を口にするのは凶器なんだ。とても怖いことなんだ。

 

そんなことを口にした自分は腐っている、と吐き気を感じるくらいに、自分が一番嫌いになる。

そんなことを口にさせられたことに対しても、猛烈に腹が立ち、それからズンと沈むような重たい淀みのようなものを抱える。かなしい。

呪いの言葉

 

私には姉がいた。写真でしか知らない。

私が生後8ヶ月の時に、自動車にひかれて亡くなった。

私は自分が長女だと思っていた。

母からは「お姉ちゃんとしてちゃんとせよ」と言われ育ってきた。

居心地の悪さを感じながら、妹に対しては、幼いながらもお姉ちゃんとして、必死にその役をしていたように覚えている。

ずいぶん経って、私は第二子だと知った。拍子抜けだった。

私にはお姉ちゃんがいて、でもそのお姉ちゃんはお姉ちゃんの役割をしてないのに。

なんで私だけ?

私には、私を抑えなくてものびのび生きる方向もあったのに。

長女の役割をさせられていたんだ、と感じた。

 

ある時また、母親から言われた。

「お姉ちゃんのように、親より先に死んではならない」

何度も繰り返し言われた。

私は死ぬ自由も奪われた。

死にたいかどうかはわからないけど、選ぶことさえ、自分で決めることさえ、できなくなった。

人間なんて、死ぬ順番なんて年功序列でもないのに。誰だって明日どうなるかなんてわからないのに。

今になっても尚、立ちはだかる言葉。呪いだ。

そして今になっても尚、呪いは解けない。

おおやけにするのなら

公にして発言していることは、誰が読んでも理解できるようにするのが「人の良心」だと思う。

人がわざわざ真意を推しはからないといけないような発言や行動は、本人が「伝える努力や責任を負っていない」ので誤解されても当然だろう。

本人や周りのシンパが「それは違う」「よく読めば真意がわかる」と言ったとしても、そもそも「他人に対してそれほどの熱量を持って読み込んだりする時間はあるか?」を考えてなくて言葉足らずな表現をしたり、長々と結論が捉えづらく書いてるんなら、表面だけさらっと読んでも伝わるように書く努力はしてもいいだろう。

おおやけに」発言している人なら(そしてそれをビジネスにしている「プロ」なら)、自分の言動がどんなに影響するか、人にどのように捉えられるかを想像し、考え、押し付けず、無責任にならず、良心を持って行動してほしい。

ということを、この記事を見て思った。

https://twitter.com/badassceo/status/1035878303234572290?s=21

おおやけに活動するなら、最低限の行動だと思う。

誤解されてもいいも〜ん、どんな風に捉えられてもいいも〜ん、なんて思ってるとしたら、それはただの甘えだ。ビジネス以前の問題。大人(人間)のすることじゃない。社会への責任も負えないようならただの自慰行為だろう。地下に潜ってやれ。

…と、私の中のなけなしの社会性が言っています。人間の端くれとして、良心を持っていたいから。

 

追記》昭和の時代にもブームになって今もまだ脈々とあるビジネス(霊感商法やらネズミ講やらスピリチュアルな洗脳やら)は、非常に前時代的で古くさく、強い違和感を感じる。これからは流行らないのではないか(まだ続いていくだろうけれど)。

新しいビジネスがどんなものなのかまだ出現していないので私にはわからないけれど、今までの方法では通用しなくなっていくのではないか。

そう、人の痛みや弱みにつけこんだ「ビジネス」なのだ。「サービス」でもないし、「善意」でもないし、「公平」でも「平等」でもない。金儲けの手段なのだ。忘れるところだった。

自己否定は自己防衛

 

自己否定は自己防衛なんだな。

一生懸命すごい勢いで頑張って否定している。

周りから責められないように先回りして自分を否定している。

そうすることで自分を守っている。

…何から?

人や周りの状況を優先する。いえいえ自分なんて後回しでいいんですよ。人を優先してその場をやり過ごし、しかし我がホームへ帰るとすごくすごく疲れていて、苛々して、鬱憤が溜まっている。我がホーム内にいる気の置けない人に八つ当たりをする恐れがあるので、ひとりきりになりたい。でも誰かにそっと見守っていてほしい。ほっといてほしい・見ていてほしい、というわがままな心境になる。

本当の私の心は、自分をないがしろにしていることがわかっているから、苛々し、癇癪を起こして泣いているし騒いでいるし悲しんでいる。

自分に怒っている。自分が萎縮している。感情を持て余す。そんな自分に嫌気がさして、また感情を見ないフリをする。私平気ですから。

身体だってこわばって固まって、首や肩や背中やあちこちガチガチになって、息もうまく吸えてない。そんな状態が「普通」だと信じ込んでいる。

全く緩んでない。常に戦闘態勢だ。これも自己防衛だ。

もし、人がそんな状態だったら何と声をかける? 

そんなに人に気を使わなくていいんですよ。人のこといろいろと考えなくていいんですよ。

全部できなくてもいいんですよ。焦らずにゆっくり行動すればいいんですよ。完璧なんてないんですよ。

自分を痛めつけないでいいんですよ。小さなことでも、したいことがあったらしたらいいんですよ。行きたいところに行っていいんですよ。

嫌いな人がいたっていいんですよ。腹が立ったっていいんですよ。

それから、身体にとっては緩んでだらーんとしているのがよい状態なんですよ。だるく感じるくらい緩んでいることが、本来の「普通」なんですよ。

……

人にだったら言えるのに、どうして自分には言えないんだろう?

もっと明るくなるようなことを書きたいな…。

よく思われたいのではなく、正しく理解されたい

 

梨木香歩さんの文章が好きだ。

この方の文章は「森」のようなイメージだ。

森の中の湖面のようにしんと静かでほの暗く、森の中の落ち葉が堆積した土のように豊かで深い。

私のこの精神を、受け入れてくれる、と感じる。

私のこの、ごちゃごちゃとした面倒な精神を。

 

言葉を、丁寧に、誤解のないように、優しく、でも厳しさをもって扱っていると感じる。簡素に感じるほどだ。

表面に現れるのはきれいで簡潔でシンプル。けれど、おもてに出た氷山の下には、何倍も大きくて深い氷があるように、その底にはつよさや苦しさや喜びや、言葉では言えない感情が数多あるのだろうと思う。

正しさを追求して厳しくしすぎると、つらく切ない思いが湧く。その切なさを読んでいて感じる。文章の中に自分を映し出しているようだ。

数年ぶりに「梨木香歩作品集」としての『西の魔女が死んだ』(本編と、それから派生した物語が収められている)を読んで、あぁそうだった、この方はこんな文章を書くんだった、と、居場所に帰ったような落ち着きを感じた。

主人公の少女はHSPなんだろうと思う。(翻って、作者もそうなのではないかな、と考えている) HSPの一側面を記している話だなぁと思う。

私は、HSPの性質というものは「部分や分野により」誰もがひとつふたつは持っていると言えるし、持っていないとも言える、と考えているが、こうした物語があると「その部分・分野では持っていないのでわからない」人に、理解の助けになると感じる。

たとえば、私は聴覚や視覚、嗅覚において、細かな差異を見つけるのがたやすく、見つけすぎてストレスになるが、味覚や触覚では感じない。そんな人間と、味覚や触覚に鋭い人とは、同じHSPであっても相互に理解するのは難しいだろう。持っている分野が違うから。

そんな場合に、こういった物語があると、なんとなくでも相手の感じていることをわかる気がする。

お話の中で主人公は、「自分が相手にどう受け止められているのかということ」をとても気にして、「と同時に、そんなことを気にする自分が情けなかった。」そんな気持ちの時に、祖母がそっと言ってくれたのだ。

「自分が相手によく思われたいのではなくて、正しく理解されたいだけなのではないですか」

「そうだとしたら、いちいち訂正したり、念を押したりすることも、意味のあることですよ」

誤解のないように。自分の表現することが、そのままの形で相手に伝わるように。

間違い・正解、の「正しさ」ではないだろう。この、モヤモヤとして言葉ではうまく言い表わせられない思いが、誤解のないよう、曲解もされずに相手に届いてほしい。

言うこと・話すこと・表情やしぐさ、それらは「自分を差し出す」のと同じことだから。

相手も自分も傷つけたくないし、相手も自分も丁寧に扱いたいから。

よく思われたいと思ったっていいと思う。それを情けないと感じたって問題ないと思う。

人とのやりとりで、意図しない受け止め方をされてしまって、悲しくてやりきれないとやさぐれたっていいと思う。

周りの人や情報に振り回されて、何が何だかわからなくなってもいいと思う。混乱してもいいと思う。

でも。そうしたときに。

事実や真実や現実よりも、人には物語が要る。

事実や真実や現実に疲れたら、物語に帰っておいで、と言われているように思った。

西の魔女が死んだ 梨木香歩作品集』2017/4/25発行 新潮社

 

私のツキ具合

 

今日、いえ昨夜、ふいに思い立って映画のレイトショーへ行こう、と『インクレディブルファミリー』を観てきました。

本題はそのことではなく…、帰りついて車から出てふと夜空を見上げると、東から西方向へ流れていくものを見たのです。

今タイミング的に並んで出ているのを見ることができる惑星たち(金星・火星・木星土星)より余程大きく、

飛行船かなぁ?と思うくらいの大きさで、全体はオレンジ色でした。明るいオレンジ色と暗いオレンジ色が入り混じったような感じでした。

進むスピードは飛行機が飛ぶ時よりもっともっと速く、でもスゥーーーッと音もなく揺れやブレもなく飛んで、地平線の向こうへ消えて行きました。

まさかUFOじゃあるまいし、と思いながら、しかし彗星よりはだいぶ大きかったなぁ、今見えている火星や木星がゴマくらいだとすると、あれは大豆くらいあったなぁ、形もアイロンかけた跡のようなロケットみたいな形だったし、と思い思い、ネット検索していた主人に

「fireball ?」「火の玉?」と聞くと、

火球か!」とさっそくまた検索したところ、どうやらこれもタイミング的に見られる時期だったようで、「火球を見るなんて流れ星より珍しい」とのこと。

本当に火球なのかどうかはわからないですが、こうしてブログにでも記しておかないとすぐに忘れるのでしっかり記録しておこう。

ふと夜空を見上げなかったら見つけられなかった、主人に知らせなければ天体好きな主人も見られなかった。

これぞインクレディブル!私はほんとにツイている、そのことに驚き!

ことのほか主人が喜んでくれて、知らせてよかった。夫婦で揃って貴重な体験をしました。

……そして、

『インクレディブルファミリー』は、おもしろかったです!

 

休みスイッチ欲しい

 

のどがヘンだなと思ったら、風邪をひいた。引き込んでしまったようで咳が止まらない。

翌日からお盆休みだった。

少しまとまったお休みの前にちょうど具合が悪くなるのは、身体のメンテナンスしなさいよ〜ということなのかなんなのか。よくできている…。

倒れ込むくらいに具合が悪くなるのはそれまで無理が重なっていたわけで、こまめに休息しなかったからまとめて出てきたんだろう。

こまめな休息、って難しい。

ただだらだら身体を休めても休息になってないし、私に合ったリラックスとリフレッシュのバランスがあるはずだけど、それがよくわからない。

たとえば、電車に乗っても寝たことがない。10分間休憩してて、と言われてもまったく休めない。仮眠を取ろうと目をつぶっても、頭の中がしゃかりきに働いているから眠れない。部屋の中が明るいと眠れない。旅行なんかで他人と同じ部屋だと眠れない。周りがうるさいと眠れない。疲れ切ってても眠れない。

一瞬で休みモードになるスイッチが欲しい。

身体は変化し進化したい

 

最近読んだブログ記事に、思っていたけど言葉にしづらかったことが書いてあった。

成長や変化をいやだと思ってたって、細胞は変化し進化したがってる。

自分の解釈が入っているから間違ってるかもわからないけれど、私はそう捉えた。

いくら頭で変化したくないってあらがっても、肉体は、生きるために細胞分裂するし、食べて消化吸収して常に新しく身体を作っていっている。

身体に嘘はつけない。

それが「自然」ということだ。

頭で考えてるつもりで、悩んだり迷ったり落ち込んだりしても、身体の調子を整えていくと、それは消えていく。身体に先に不具合が出て、頭やメンタルは後なんだ。これは本当にそうだ。疑うなら、身体を整える行動をしてみるといい。血が足りてないか流れてないか、呼吸が深くできてないか、筋肉が硬くなっているか。ふだん生きられていて、重篤な病気でないなら、おおかたそんなところだ。そんなに複雑なものではない。自分が特別だとか、頭は万能だとか思いたくなるかもしれないけど、それはまやかしだ。

自分の身体のことは自分がいちばん知らない、と思っていい。調子が悪いことなんて、とっくに周りにはバレバレだ。

 

不安になるのも、逃げたくなるのも、恐怖を感じるのも、人のせいにしたくなるのも、自分次第です。

自分のご機嫌を取ることは大切だ。いざという時逃げることも必要だ。

でも、自分は変わりたくなくて、変わろうともしなくて、周りに責任を押し付けるようなら、それは自分を生きてない。空想の、ただの想像の、誰だかわからないものに支配されてるだけ。

身体は毎日毎日、ご飯を食べて、眠って、生きるために変化していってるのに。

 

頭で考えてることはたいがい間違ってるかも、くらいでいい。頭は怖がりだから、変化を好まない。今まで通りの方法、過去との照合や執着、現状維持が大好きだ。だから身体のことを無視して、頭だけで生きてるような顔をする。

頭だけでは、思考だけでは生きられない。実体がないから。実体は身体だ。

 

聞く・聴く

 

聞くことはむずかしい。

相手が言っていることをそのまま聞くことはむずかしい。

30代過ぎてから、「聞く・聴く」ことを意識して、できているかどうか振り返り思い出すようにしているけれど、今でも何度も失敗する。

以前は身の回りの一般的社会では、これほど「傾聴」について言われてなかったが、最近とみにそんなムードだ。

流行りの「傾聴」ムードやブームはどうでもいい。そうでなくて、私は私の「聞く」ことをしたい。

受け流すくらいに聞けるようになってみたい。受け流すってただ流すのと違う。まず「受けて」、流すんだ。いったん受けて、でも受け止め過ぎないで、捉え過ぎないで、流れるように聞いている。流すんでなく、流れるように。聞いてないようでちゃんと聞いている。

それには、自分の心が波立たず、フラットで、ニュートラルなのがいい。

すぐなんとかせねばと焦って前のめりにあたふたする今の私にはハードルが高いんだ。けれど、挑戦しがいがあることだろう。 

人と話す、ということはなくならないだろうから。そして人と話すことで気づくことはものすごくたくさんあるから。その先の私は、その気づきを得て、とてもとても豊かになっているだろうから。

自然にただそこにいるだけなのに、全体を見て、聞いて(聴いて)いる。私の心は波立たない。ただ自然のままでいる。そんなのが理想だ。

 

舌の変遷

 

昔、母がかき氷を食べていて、それが“みぞれ”と言うんですか“すい”と言うんですか、透明の蜜のかかったかき氷で、子ども心に「あんな味ないのん、おいしくないのに」とか思ってたんですが、今の歳になるとあの味気なく感じるくらいのシンプルさで充分ですね。アイスクリームやら練乳やらいろいろのせてゴテゴテしたのはくどく感じるようになってきました。あったら食べますけどね。おいしいですけども。というか、かき氷の蜜(シロップ)は全部同じ味だそうですが、ほんとですか。いちごはいちご味に感じるんですが。いちご味がいちばん好きだったんですが、今はレモンもいいと思ってたのに同じ味なんですか。目眩しに遭っているようです。

子どもの頃食べたくなかったものに「酢のもの」があります。今など、酢を入れない料理がほぼないくらいに作ります(大げさか)。おいしいです。レモンより酢の方が胃に優しいそうです。しかし逆に摂りすぎで身体に良くないかもしれません。過ぎたるは及ばざるがごとし。

かといって、子どもの頃嫌いだったこんにゃくやキクラゲや昆布なんかは今も食べませんけどね。三つ子の魂百まで。

それでは今日はこの辺で。

行ったり来たり

 

自分の機嫌は自分でなんとかしよう。

人の言葉や顔色声色、しぐさなんかに「当てられて」、気分が悪くなったり、なんでこの人はこんな言い方するんだろうと考えたり、気を回したりするけど、その人の言動はその人のものだ。

八つ当たりみたいに「当てられる」と、実際に衝撃や影響を受けてしまうけど、本来は私とは関係ないこと。

その人の機嫌は、その人にしかどうにもならない。上げ膳据え膳してゴキゲン取ったって、その時だけの付け焼き刃。クセになって振り回してくる。

不機嫌な人には近づかない。表面上だけ合わせるくらいでいい。

オトナなら、それくらい自分の責任でなんとかしよう。

まずは自分をすこやかに保つこと。

すべて、自分が基準で決めていい。間違ってるなら、それを引き受けるのも自分がする。人のせいにしない。

という考えができるようになって、よかった点も多いのだけど、こんなすっぱり割り切れるもんでもない。私は冷たいんだろうな、と思うけれど、こうしたことを言いながら人のことを思い切り気にしている。

他者に近づきすぎたり離れすぎたり。

ちょうどいい距離感がつかめない。つかんだと思っても、その時々で同じ人であってもまた変わるものだから、毎回捉え直しになる。

まだまだ自分の身を守ることに精一杯で、自分の身の回りにトゲトゲをいっぱい生やしている。

真正面から対しすぎている。横から、斜めから、背中合わせで、人と対することは自由自在なのに。

そして、できないとか、間違いとか、そうした、きちんと決めたがる思考がやっぱり顔を出してしまう。

成長や進歩というのは、行ったり来たり、進んだと思ったら引き戻されて、まったくもって順風に進むものではないんだな。

進んだ! と解放を感じ、自由や喜びを手に入れたと思ったら、こうしてまたブツブツ考え思い悩む時期になる。

しんどい時はこれがずっと続くかもしれない、と怖くなり、苦しいともがく。自分が許せなくてあがく。

でもね、同じ苦しくてあがくのなら、思いっきりあがいて、もがいたらいいんだね。そうしたら、自分の機嫌の取り方や、すこやかにいる方法がわかってくるかもしれない。

逃げることが必要な時はある。でも中途半端に逃げるとまた同じことが起こる。

同じようなことが続けて起こるんなら、そろそろ自分のために懸命にあがく時なのかもしれないな。

 

…ところで、トゲトゲって虫をご存じですか?

月の半分はこんなだから

 

PMSの最中は、やたらと頭だけが働こうとするように思う。

冴えた働きなんてまったくできそうもない期間なのに、空ぶかししてるんだろう。やかんの水が少ないとすぐに沸騰するように、頭もたっぷりの水がないまま必死で動かそうとしてるんだろう。
それで、休憩もせずに考え続けると、頭部が熱くなる(本当に)。「気」が抜けないんだな。

意識が頭ばかりに行って、首から上の症状(炎症)が強く出る。痛み、かゆみ。そして足元がおろそかになる、冷えに気づかない。

月の半分くらいPMSだということは、私はほとんどの時間がこんな状態ということだ。

ほったらかしにしていると自分がどんどんつらくなる。

 

そんな時の対処法。

青竹踏み

・足のツボを押す、揉む

足に意識を向ける

・氷枕

頭部を冷やす

・お風呂に浸かる

・レッグウォーマー

・腹巻

下半身をあたためる

 

夏だからさすがにウォーマーはいらないのでは? いやいや、夏にも必要みたい!

運動習慣もないから、自分で体温を作り出す筋肉も落ちているし、だからといって筋肉をいますぐつけることもできないから、まずは対症療法でやってみよう。

足首、ひざにレッグウォーマーは私にはとってもいい。エアコンをつけていても上半身は暑くて重ねて着られないけど、ひざから下はあたためても「暑くない」。知らずに冷えてるんだなぁ。

慌てて夏用のレッグウォーマーを買い足して、できそうなことから、身体に目を向けてあげよう。

全部できなくったっていい、いい。

苦手な者にとって「夏は生きてるだけですごいこと」って気分で、一個でもできたらよしとしよう!

月の半分がこんなで

 

今回のPMSはキツかった。

・目の痛み(突き刺すような)

・目の奥から頭にかけてのビクビクする痛み

・頭痛

・右耳(外耳あたり)のギュッとする痛み(耳栓がしにくいのでとてもつらい)

・噛みしめで顎のあたりがじわじわと痛い

・顔のかゆみ

・吹き出物

・足首の冷え

・足の指の曲がりにくさ

・足底筋膜炎(朝の痛みと歩きにくさ)

・浅い呼吸(空気が入りづらい)

・おくび

・異常な食欲(食べたいわけではないのに食べずにいられない)

・冷たい飲み物を欲しがる

・胃腸の疲れ、不調

・日光の眩しさへのつらさ

・笑顔が出ない

 

痛みばっかりだな…自分でもイヤになるけれど、書いておくと振り返って対処方法が見つかるかもしれないから書くぞ。

 

6月半ばの地震→急激な暑さ(熱さ)→集中豪雨→台風、、、

と、心や身体がまったく落ち着く暇のない夏を迎えています。

夏はもともと苦手だけれど、急激に暑さが増したこの7月は、まだ温存できていた体力をどんどん奪っていく。

 

たとえば、どこかでお茶をしようとか映画を観ようとか本を読もうとか、ちょっとした気分転換にも心を向けられず、行き場のないなにかが体内で淀んで溜まった状態が続いている。

毎日息をすることだけ、生きることだけで必死で、楽しんでは「いけないのではないか」、どこかに出かけている時にまた地震が起こるんではないか、だから気晴らしなんか「してはいけないのではないか」、もっと大変な人々がいるのに自分だけ楽をしてはいけない、といった思考に自分で「やられて」いる。

・しなければならない

・してはならない

こういう強制で身動き取れなくなっている。

しなければならない、してはいけない、という思考をしていることはわかっているから、そんなこと考えてはいけない、とまた思考がうるさく言ってきて、二重三重に縛りつけている。もうどうすりゃいいんだ〜

 

しかし! たった今、こうしてそんなこんなを吐き出せた。

ぐるぐると行き場がなく、自分をがんじがらめにしていた、と気づいたことを、「頭の中の考え」じゃなくて「文字でもしゃべることでもいいから外に出せた」。

これでもう今回は大丈夫だという気がする。天気、気圧の乱高下にも日々振り回されているし、PMSだけが原因ではないが、やっぱり影響は大きい。毎月毎月、月の半分はこんな感じである。あぁ生きるってしんどい。

***

過剰に神経質になる時の自分と、ぼんやりとアホなことを思い巡らせている時の自分は同一人物である。

悲観的に暗いことばかり考える時の自分と、いけるいける、大丈夫と楽観的に思える時の自分も同一人物である。

しんどい渦中はマイナス部分を増大させ、自分で苦しくなっている。そんな時は余計に自分にも人にもものごとにも厳しくなりがちだから、「やり過ごす」ことをもう少し覚えていけたらいいんだけれど。長年の癖はなかなか入れ替わらず、難しい。

身体がしんどいから心もしんどくなってるのに、つい身体と頭を切り離して考えがちだ。気力や小手先の考えでなんとかしようとしてしまう。

でもとりあえず今日も生きられている。

達郎さんの曲

山下達郎さんが主題歌を歌う映画が公開されたからか、「ミライのテーマ」があちこちで流れ、よく耳に入ります。

山下達郎さんを好きでも嫌いでもなく、でも有名な曲が多くて“自然と知っている”状態です。

 

好きでも嫌いでもないけど、なかでも気に入りの曲はあって、「ジャングル・スウィング」はとても好きです。

見上げた空が、世界が、大きく広がるように感じられて、わぁ〜と気分が高揚したのを覚えています。

 

達郎さんの曲は、私にとって“よく知る”までに長い時間がかかるようです。

たくさん流れるので“自然と”知っているつもり、でしたが、入り込めていないからか、10年以上経って「あぁこの曲はいいなぁ」と気づくのです。

「アトムの子」も「ドーナツ・ソング」も10年以上経った今、よくよく聴いて、ステキな曲だったんだなぁと感じ入っています。

この時間の幅というか時間の距離感には自分が驚きました。

10代・20代の頃では生きている年月が足りなくて、そんな聴き方できなかったでしょうから、年齢を経て、長く長く聴いていけるようになったんだ、そんな曲の聴き方もいいか、と思ったところです。魅力に気づくのが遅いということなんですが、長く生きればそれだけ好きな曲が増えるんだ、とも言えますね。(言いわけ)

 

日曜日にTOKYO-FM系列で「Sunday Song Book」というラジオ番組をもう長く長くされているそうです。

私が聴き始めたのはほんの1年前ほど。達郎さんが話の途中にグフフと一人笑うのが面白くて、紹介される曲も楽しくて、のんびり聞くのにピッタリです。

いつかライブに行ってみたい!

24

 

ものすごく遅ればせながら、「24」をDVDで見ています。実は初めてです。

お笑い芸人さんの“どきどきキャンプ”のネタで「24」のジャック・バウアーに扮するのがありましたね。

お笑い番組でそれを見て、わけもわからずゲラゲラ笑っていました。本物知らないけど、うまいこと真似してるんやろうな〜と思って。

今まだ数話しか見ておりません。だから本家が「すまないと思っている」と言っているのを見てないのです。

いつ言うかいつ言うかとソワソワしてるのですが、それより毎話毎話、こんな緊迫して体力も気力もギリギリまで追い詰められて24時間過ごすのなんかイヤだぁぁ!!と思いながら見ています。

しかし気になって気になって、続きを見たい気持ちを止められません。

くそー! 今日も見てやろうと思っている!!