最近の気づいたこと
こんにちは。いつもありがとうございます(^-^)
今日は、最近気づいたことについてです。
◇自分の範疇にないものでは勝負してない
夜、車に乗っていて、旦那さんが遠くを見やって「山の稜線に(何かの施設の)光が見えるね」みたいなことを言いました。
私は、ものすごく目が悪いです。視力(0.01くらい)だけでなく、軽い乱視、夜はひどく見えにくい鳥目、さらに老眼がやってきた?と最近感じる、目が悪い歴30年以上のおばさんです。(近視だから、老眼がやってきたら中間地点で逆によく見えるようになってくれへんかなぁと都合のいいことを願っています。)
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たとえば眺めのよい場所に行き、遠くの方に何があって…、とか、街中で向こうの方にある標識とか説明されてもほとんど見えていません。
ですので、ほとんど聞いていません。よそ見しながらふーん、ってなもんです(失礼)。
そこで気づきました。「ラクだな」
そう、自分に備わっていない能力では、そもそも勝負してないんだということ。焦りも、嫉妬も、負けたという悔しさもないんだということ。逆に、いたわりといったものも求めていない。
私にとって視力は悪いのが当たり前でして、それがほしいとあがく対象でもなく、といってないからつらいと嘆くものでもない。
だって仕方ないですよね。この「仕方ない」は諦めの言葉ではなくて、「ないもんはないしね」とカラッとしたものです。
これが他のことにも及べば、力を抜いて生きていけるなぁって思ったんです。
◇創作ダンスの苦痛からの立ち直り
大げさなタイトルですね。古い話題なんですが、私は運動全般が苦手で、学生時代の体育は苦痛でした。
「創作ダンス」、やりますよね。あれも、リズム感はないし、頭と身体がバラバラでぎこちなくてガクガクしてました。
練習中、クラスメイトにも動きが変だと笑われました。自意識過剰な思春期の時期でしたから恥ずかしかった。でもまぁそれも仕方ない。他の子と比べれば一目瞭然でしたのでできてなかったのは仕方ない。ただ自分に、「運動ができないレッテル」を貼ったみたいです。
もともと運動(身体を動かすこと)が本当に嫌いなのか? 確かにボール競技やチームプレーなんてとても苦手です。 あんまり興味も湧かず、実家に暮らしていた時家族がバレーボールやら観て盛り上がってるのを見ても、ふーんってなもんです。
しかし先日、映画『SING』を観に行って、たくさんの音楽を浴びて、楽しい経験をしました。家でサントラを聴いていて、自然に身体が揺れました。もちろんダンスのようなステキな動きではないけれど、にこにこしながら揺れたり手振りをしたりして、楽しかったんです。
「あれっ、楽しい。身体を動かすのって楽しいんや」
またまた気づきました。私は、〇〇が苦手・できない→全部が苦手・できない、にしていた。自分で、封印した。できないし苦手だし恥ずかしいし笑われるしチームではみんなに迷惑かけるし……いっぱいいいわけが浮かびます。
でも運動の中の「ダンス、ボール競技、チームプレーのもの」といった一部ができてないだけで、運動ってほかにももっとありますよね。
なーんだぁ。また自分の思い込みかぁ。かちこちやなぁ。
苦手分野から得意分野にはなりませんし、興味が湧くようにもなりませんが、でも気づけてよかった。いろんなものいっぱいくっつけてるから、ひとつでもはずせればそれだけ軽くなれる。いつまでも古いもん背負ってんねんなぁ、私。
もうなくなったよ。また一歩、楽に近づけるね!よしよし!
自由だ!そしてあらためてのお礼
こんにちは。
このたびは、さっそくコメントをくださったり、ID登録してくださったり、とつながりを大切にされる方々に恵まれて、その優しさをわけていただいて、私は自分で思っているよりもはるかに幸福で、気づかないままで優しくされているんだなぁと感じています。あらためましてありがとうございます!
先日、近くの川の橋を渡っていて真ん中で止まり右・左を見たら、水の流れが両方に長くうねうねと伸びています。
その時に、「あぁ、このまま上流に向かい、山の中を分け入り源流まで深く入って行ってもいいし、
下流から大海に出て、広く様々なものを見聞きしに行ってもいいんだな、なんて自由なんだろう」と思いました。
空は青いし雲は白くて太陽が輝いていて、そこに私がひとりでいる。
自分で縛らないで、自分で狭めないで、自分で選んでいいんだな。さぁ、まずはどっちへ行こうか、やってみようか。楽しみです。
生きた声
こんにちは。
今日は本と歌の話です。
先日エレファントカシマシ・宮本浩次さんの言葉たちを集めた『宮本語録集』を読みました。
生きた声だなぁと感じました。
文脈なく、言葉だけをポンと載せているので、意味を追ってしまうと理解不能です。しかしそれでも宮本さんの思考回路のかけらが感じられます。
テレビ出演などで、話を振られた時のあの独特の「間」。はじめの頃は、見ているこちらがヒヤヒヤするというか、息を詰めてしまいました。今は何が出てくるのかな?とわくわくします。
たぶん変えられないそのペース。
人柄のよさ、青年期そのままなところ、真面目で熱いところ、伝えたいという思い、などなど感じることができて、嬉しかった。
『宮本語録集』2冊
それから、なんせにわかファンですから「ROCKIN'ON JAPAN」(5月号)も買ったわけですよ(笑)
そこでもインタビューや宮本語録が載っていてその中にあった、
重いってどういうことですか? 演奏が重いとか。内容が重いとか。
だけどさ、真面目に生きればやっぱ重いですよ。
そういう意味での重いだったらわかる。真面目にやれば必ず重いですよ。
(1989年9月号/『浮世の夢』)
共感しました。
人間として、真面目に生きることのどこに恥じることがあるんだ、と感じました。こういうこと言ってる人だから、ファンになったんだろうと思います。
私は今年に入ってから、「変えていこう」と決心し、わからないままにいろいろと動いたり、わかった上で実行したり、と行動を重ねてきたのですが、その後押しをしてくれた歌手がふたりいます。
ひとりはKREVAさん、もうひとりが宮本さんです。
今までどんな歌を聴いても歌詞を読んでも一過性で、よほど昔からファンでないと心に残らずにきていましたが、このおふたりの歌詞については聞いた時から自分から全注意を向けて受け取ろうとしていました。
出会ったきっかけはそれぞれ偶然のようなものです。でもタイミングがバチッと合った、そんな感じなんだろうと思っています。
KREVAさんなら、「居場所」を聴き、次いで「かも」に心を動かされました。私の中に決意のようなものが湧きました。
「居場所」より
思い描け そこに目がけ
つもりだけじゃなくて動き出せ
無駄な事は無い それはウソだね
ただボーっと眺めるだけの時間を減らせ
(中略)
その手動かせ
黙ることはできないんだろう
壁を動かせ
守るだけじゃ増えない居場所
「かも」より
このままこうしていられるなら 他には何もいらない
そんな風に思えてしまったなら
終わりが近いのかも
あの時本気で挑んでいたら 今こんなとこに居ない
そんな話あなたのその口から
聞きたくないのかも
がーんとしました。KREVAさんの他の曲も、自分で決めて進め!という歌詞が多く、なにかのせいにしてやらない、言い訳してやらない、とただ日々を過ごし、「生きる」ことも借り物のようにしていた私は、横っ面を張られたような感覚でした。
そして、自分自身にこの歌詞を受け取るだけの度量があるのか、という恐れや震えみたいなものも感じつつ、とにかくやるんだ、と決意を固めました。
その後出会った宮本さんでは、「さあがんばろうぜ!」と「俺たちの明日」でも歌っているとおり、まっすぐ、ドーンと、輝きを求めて行こう、という強さ(それは優しさから出るものなのかなぁと思いますが)がありますね。けして「がんばれ」ではなく「がんばろう」というところが、「そうだね、私もがんばろう」と心和ませ、素直に思わせてくれます。
おふたりとも、なによりもまず自分だ、と感じさせてくれました。人のことなんてほっとけ。まず自分なんだ。
そう決意しても、人のことを気にしないでいることはなかなか難しく、自分自身の頭の中では絶えずいろんな声がしていてまさに喧喧囂囂。何人もの自分がやかましくしゃべっています。(人格がたくさんある、ということではなく、同じ自分があっちからもこっちからもああ言えばこう言う、という感じ。)も〜〜うるさいわ!となることも多いです。誰か決めてくれよ〜って。
そのうち、人の目なのか自分の目なのか混乱してわからなくなり、ひとりで消耗しています。よほど暇なんですね〜…、私。
以前のブログでも、誰の目を気にしていたのか、当たり障りのないことを書いて「いいね!」もらってホッ、なんてことしてましたけど、そんなもん、ほんまに欲しいの?自分の心が満足しないままするのって自分に小さい嘘ついてるやん、って思いました。誰のためにブログやってんだか。また出ましたよ、自分で勝手に作り上げた人の目。
…着地点が見えないまま長くなってしまいました。まとまりませんでしたが今回はこの辺で。。読んでくださってありがとうございます。
次の記事では、最近の気づいたこと!を書こうと思っています(^-^)
お礼
こんにちは(^-^)
昨日は突然の申し出にも関わらず、私の意向をお聞き届けくださって、ありがとうございました!
ご連絡くださった方々、私には身に余るほどの光栄で、感謝でいっぱいです。
じわわ〜んと嬉しさを噛みしめています。みなさまの期待を裏切らないようにしなくちゃ…これまたこの気負いがあかんのやっちゅーに!
妙な高揚感、淋しさ、ちょっとした不安感、大したことしてないのに大それたことをしたような気分になっているな、とも感じていますが、それを超えて、清々しさや風通しのよさがあります。
今までの人生で、作っては壊す、を続けてきたかもしれません。
みなさんもそんな時もあるでしょうし、じっくりひとつのことを続けている方もいらっしゃるでしょう。
私は物事を続けられない、例えば一つの会社で何年もやっていけないことに引け目や劣等感を感じていました。(長くて5年くらいです)
続けることはやろうと思えばできるのです。新しい環境、新しい仕事や作業を覚える方がよっぽどつらいし、覚えも遅くてどんくさくビクビクしている自分がいやになるくらいです。
でも、ある程度すると、そこから出ていきたくなる。変えたくなる。
自分が心の底からはたして何を求めているのか・何が大切としているのかを見つめることをせず、アタマだけの考えで行動してきました。自分で作った価値観でがんじがらめです。
それが何でなのかわかったのはつい最近です。
そして今回は、自覚的に意識的に「枠を壊して飛び出る」をやってみました。
前回の場所は別にいていられない場所でもない、ぬるま湯的な居心地のよさもあり、楽でもありました。だから、ふっとした時にきゅうくつだと感じたのは私のとらえ違いかもしれません。
しかしやっちゃいました。そうこれこれ、こんな風にやってきたんだ私。
職場でいうと、3年くらいでモヤモヤとした不満なき不満を抱えて、仕事というより環境に慣れきった感じを持ち、「何も変わらないな~」とむずむずしてくる。
辞める頃には不満が爆発して、「続けなきゃ、でも続けたくない」とぐるぐる思考が始まり、不安を自分で煽りつつ、自分を責め環境を責め、体力も気持ちも使い果たしていました。「あぁ結局仕事を極めることもできなかった。自分でチャンスを潰したかもしれない」辞めてもそんな不満は残ったままです。勝手に傷ついたようになってました。いろんなことごちゃまぜにして、わけわかんなくなってました。
結局は自分で選んだのにね。
それを自覚してなかっただけなのにね。
現在は、今までのように、それまでの関係性までを壊す、とつっぱしるところはアカンよ、と自覚しています。我慢ができず待てしばし、ができないところが結構アカンよ、と。自覚したからといってできるわけではありませんが。人との関係性を壊すことは、自分を痛めることでもある。自分を大切にしていないことのひとつの表現である。「私なんて人から大事にされるわけない」といったような思い込みから、ならば先に切ってやる、という極端な思考へ走るのだろう、と認識しています。…いやいや、何を冷静に分析してるねん、ですよね(笑)
でももう自分にそうやってダメ出しして、勝手に落ち込んで勝手にふてくされて拗ねてなんてやめましたから! いやもうアカンところだらけの大したことのない人間ですから!それでも私なんですから。つきあうって決めたんですから。
いきなり長くなってしまいました。中途半端ではありますが、いったんここで終えます。少しずつ、自分を開示していこうと思っています。どうぞこれからもお付き合いのほどを…!
お読みくださって、ありがとうございます ^ ^
私を見上げる眠そうなピヨスケ君
はじめましてはてなさん
こんにちは。
はじめまして、はてなブログさん(^-^) お引っ越ししてきました。
過去の記事もなんとかアップできているようでホッとひと安心。
惰性はやめて、書きたいことを書きたいように書いていきたいです。
楽しみながら、ちょっとずつバージョンアップしていこう。
実践中のつぶやき(歩く編)
こんにちは。
……
さっきまで機嫌がよかったのに、
ということがわかったので、頭であーだこーだ勝手に理由をつける前に、
落ち着く場所で休むこと。
私はぜんぜんそれに気づけていなかったー。
…みなさんには、自明の理ですよね…。お恥ずかしい。。
私はいっつも
身体・心 < 頭
だったんです。
根を詰めて考えている時、頭が働いている時、私は必ず呼吸が浅くなっています。
そして目や首、肩にちからが入っています。
歯を食いしばっている時もあります。
以前は、目・肩・首のコリがあればアリ○ミン飲めばいいや、と思ってたのです。
ずっとずっと以前なんて、食事だってサプリメントですめば楽なのになぁと思っていたのです。
アホですね、ホント。
完全にガチガチの頭万能主義になってるじゃないですか!
そういえば、お腹が空いているとだんだん機嫌が悪くなるんです。子供か。
これにも気づいていなくて、なんでなのかわからなくて、
しんどいな、ってただ気分が悪いまま放置していたんです。
血糖値が下がってる、とか体温が下がってる、とかいろいろあると思いますが、
身体の変化 →→ 心の変化、に直結してますよね。
なのに、結びついていなかったんです。おかしいですね。
頭もがんばってくれているけどさぁ、
身体の感覚を忘れちゃ、いずれ身体が悲鳴をあげるんだ。わかってくれーって。
頭だけじゃあ自分とは言えないんだ。
でも感じる感覚を忘れてしまっている。
感じたって無視してきたから、感じることに鈍くなっている。
頭だけでつっぱしって、身体と心を置いてきぼりにしてきた。
こうなるように練習しています。
私にはたくさん練習が必要で、ひとつひとつ確認しながら実践中です。
家に着いて、水分を摂り、座って休みました。
目がしんどいな、と思ったのは、外での光のコントラストが強すぎて、
必死に目を慣らそうとしていたからだと感じ、室内ではカーテンをひきました。
身体も冷えていたので、夜はしっかりお風呂につかって温まりました。
ヒーターにもお世話になりました。
そして、よく歩いてくれた足にがんばったなぁ、と感謝しました。
疲れて機嫌が悪くなることで、一日が台無しになったと考えていた時もあったけれど、
歩いて楽しかった、風も感じることができた、空がきれいだった。
そんな風に、楽しかった思いはそのままにすることができました。
(前 略)
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
このままを自分に言って聞かせよう。
自分のご機嫌くらい、自分で片付けよう。
歩みの遅い私の話を読んでくださって、いつもありがとうございます。
実践中のつぶやき
メガネにマスクにヘッドフォン
エレカシさんのこと
こんにちは〜
今日は、音楽のことです。
友人Yちゃんがとてもファンのエレファントカシマシ。
折りしもエレカシさんはデビュー30周年とのことで、二月にはいつも聴いているラジオで
ひと月特集を組んで放送していました。
(画像はお借りしました)
エレカシの宮本さんは以前に歌番組で見ていて知っていたし、
真面目な人だなぁ〜と好ましく思っていたし、歌声もすばらしいし、
だけど、知ってはいたけれど聴き込んではいなかった!
ラジオで流れる歌を聴いているうち、Yちゃんがハマるくらいなら、といった後押しもあって、
さっそく30周年ベスト盤が出るのを待って聴くと…、もうドタマぶっとぶ、でした。
こんなすごい人たち知ったふりしててごめんなさい。
にわかファンですが、許してください。…といった心境になりました。
魅力は語り尽くせないですね。(放棄)
宮本さんの歌声は”荒野を吹く風”のようだなぁと感じていたけれど、歌にも”風”がよく出てくるんですね。
高い声、深い声、まっすぐ突き抜けるように届く声。
心の真ん中にドーーンと届く声をしているんですね。
実直で確実な、奇をてらっていない演奏も安心感があります。
歌詞や、歌い方の表情も、気分が湧き立つような高揚感があったり、素直に受け止めたいと思うものがあったり。
YouTubeでもたくさんアップされているので順繰りに聴いては楽しんでいます。
年代を追って聴いてきていないので、昔と今の歌をごちゃまぜにまとめて聴いています。
そしてなんと!
Yちゃんが私のために30周年ライブのチケットを取っておいてくれたというではありませんか!(ありがたくって泣けます)
ライブなんて、10代の頃に戸川純さんのコンサートに行ったきり、まったく行ってないです。
爆音はしんどいかもしれないから、耳栓持っていきます。
いらん情報でしょうけども、私が気に入った曲をズラリと。
・ガストロンジャー
・生命賛歌
・RAINBOW
・悲しみの果て
・友達がいるのさ
・四月の風
・風に吹かれて
・花男
・珍奇男
・so many people
・桜の花、舞い上がる道を
・
・
・
これからもどんどん増えていくといいなぁ。
エレカシさんを聴くようになって、私も輝きを求めて行こう、とすんなり思えるようになりました。
Yちゃん、いろいろ教えてくれてありがとう。 ニタリとしてくれたかな?
『宮本語録集』、買っちゃったよ、とても楽しみ。
また魅力を聞かせてもらうのを楽しみにしてるね。
胸を張ってさ、そう! ドーンと行こう!
いつもお付き合いありがとうございます。
まだまだ自分を広げていくよ
こんにちは〜
本日は、piyosukeの決意表明!(^∇^)
その前に、昨日の記事でご心配くださったみなさま、ありがとうございます!
気にかけてくださって、とても嬉しかったです。大丈夫です。ありがとう。
自分を知ること---自分の成長、自分の広がり、自分の深み、自分の喜び。
これを目指している時が大好きだ。
自分にどっぷりはまるんだ。
誰かになろうとしたってできないから。
清濁ぜんぶ自分のものとして引き受ける決意をした時、
自分の人生に責任を持つ時、
やっと自分の枠から飛び出せる。
飛び出して、新しいステージに立ってる。
HSPについて。
HSP概念を知ったことで、一旦は安心した。自分を知った気になった。
そこからものすごく考えた。じっくり考えたり実践しているうち、
HSPだけではとうてい自分を説明しきれやしない、ということに気づいた。
そう、ひとつを知ったからといって、何でもそれに当てはめようとしたって、無茶だ。
私という人間をそれですべて語れるわけはない。
HSPは私を作っている「たった一部分」でしかないのだから。
HSPを、顔色を窺うように及び腰で見ていた時は、怒りや悲しみが湧いた。
「周りがわかってくれない」などと人のせいにした怒りや悲しみ。
ちがうね。
ではHSP(敏感さ)がなくならないのなら、いっそ突き詰めてやろう、と決めたら、
とたんにあまり感じなくなった。
いや、感じているけれど、そこに焦点を当てなくなった。
人間は多面体。
ひとつの見方だけで満足するより、たくさんの面を持ってるんだ、と思う方がだんぜん面白い。
一部分だけ見て、つらいつらいと自分に同情するのはもう飽きた。
ひとつだけにフォーカスしたってつまらない。つまらないこともうしない。
それが楽だからって執着しない。
たとえば、私の一部分に「真面目」というものがあるわけです。
これを私は、私自身のフィルターで「カタイ」とか「融通が利かない」とか、つい短所として認識してしまうわけです。
しかし「真面目」だけ読めば、よいも悪いもない。そんな二元論で言えることでもない。
真面目っていいやん。
そうしてHSPも、私のものとして呑み込んだ。引き受けた。
その上で、私にはまだほかにもたくさんの面があるし、HSPだけの見方にこだわるよりも、ほかを知っていくこと、見方を変えていくことが楽しい、と思っている。
多面体だとわかったことで、怒り・悲しみの次にある、喜び・楽しみが湧いてきた。
HSPはもう自分の中にある。
「あ、あるね。それで?」
人の目を気にして動かずにいた。
でもその「人の目」だって、自分のフィルターを通して、自分で作った「人の目」。
勝手に作ったものにがんじがらめになって、
これダメあれダメ直さなきゃ、って、誰のために?
直した先に何があるの?
誰かがほめてくれるの?
ほめてくれるの待ってるの?
今を否定し続けて、では
自分の幸せは未来にあるの?
そんなのこそヤメ!
私は今、ごきげんになる。
私は白い部分も黒い部分も両方あって私である。
誰のための私でもない。私のための私である。
私が私を満足させる。
私は私を極めるんだ。きっと面白い。
私が私を面白いと思ってるんだから、もう人は関係ない。
気づくまで、きゅうくつな枠組みが必要だったんだ、とわかった。
もう呑み込んだので、枠はなくなった。これが自由っていうんだな。
自分にどっぷりはまって、さまざまに考えたり動いたりしていけば、
きっと見えてくるものや感じるものがあるはず。
いろんなやり方を試して、見つけて、やってみる。
失敗したってそれはそれだ。
そうやって私の経験になり、広がりや深みになり、喜びとなる。
気づいたことで、ようやくHSPに感謝の気持ちが湧いてきた。
私には持て余す気質だけど、でも気づかせてくれてありがとう。
今、やっているのは、
自分の感覚や直感をとことん信じて従うこと。
短所と思うところを突き抜けるまでやってみること。
私にとって、気持ちのいい言葉たちを目に入れること。
私は自然の一部である、ということをしっかと感じること、味わうこと。
そうそう、HSPは危機察知能力としてとても役立ってくれているので、
そこでおおいに活躍してもらおうと思ってます。
ご清聴いただき、ありがとうございます。
かみなりと陰干し
こんにちは〜。
癒しの罠
「癒し」って言葉、定着しましたね。
文鳥ピヨスケくんの大事なこと
こんにちは。
文鳥ピヨスケくんに教わったことがたくさんあります。
アレ?言えてないな、薄っぺらだな、という気分になったり。
伝えるってそうそうできないものなんですね。
それでも面白かった
昨日の記事について。
“音についてとHSP”
私はもしかしたらHSPではないんじゃないか?と思い至り。
もしかして、音に敏感なのは、前夫の影響を受けたことも一因なのではないか?
外的要因の中でも特に「音」について過敏なのはなぜかと考えていた。
前夫は、阪神大震災の影響で、集合住宅での騒音に過敏になった。
その前夫と一緒にいることで、5年ほどの結婚生活の間に、5回ほど引越しした。
いつも不安で、どこへ行っても落ち着ける居場所はなかった。
生活の不安定さが気持ちに影響したということは言えるだろう。
子供の頃から結婚するまでは、実家ではお店をしていたし、
家の前はバス通りで車が途切れることもない場所だったし、
すぐ近くには大きな国道があって夜中でも交通量は多かった。
そして離婚する間際まで住んでいたところは、一軒家だったけれど、10メートルも行けば線路があった。
その頃は毎日日中に家にいたわけではなかったので、騒音の程度も覚えていないけれど、
覚えていないくらい意識外だったのかもしれない。
しかしこれらはすべて外からの音だから、集合住宅での内部の音については、また別かもしれない。
しかしもしかして、私はそこまで感じ取る性質はなかったのに、だんだんと感じ取るようになった、と考えられないか。
現在、よその部屋から響いてくる、不定期な大きな音・衝撃音・破裂音などは非常に不快に感じる。
しかし外の音は、あまりに大きな音は除いて、常に流れ続けている車の音などは、雨や風と同じように捉えているのか割合我慢できる。
結局、他人に突然鳴らされる騒音が不快だということだろう。
「音」について人より過敏であることはしんどくてたまらない。
なぜそんなに乱暴にドアを閉めたり音を立てたりできるのか(モラルの問題)がわからない。
言っても理解できない人や、騒音に平気な人もいることに驚き、
まるでエイリアンと接しているようだと思う。しかしその人から見れば、私がエイリアンなんだろう。それもわかっている。
だからといって、明日から感じないようにはできないし、音を気にしない方法があるなら教えてほしいくらいだ。
音に着目して書いてきたが…
私は内向的であることは間違いないけれど、HSPと内向型は混同されやすいし、
似ている部分もあるのでそう思い込んでしまったのではないか。
外向型社会の中で、内向型は生きづらい。
イケイケドンドンな時代などとっくに終わって多様な生き方の受け皿が必要になっているのに、いまだになんでもポジティブに、積極的に、スピーディに、みんなで一緒にやろう、なんていう多数派がのさばっていて、心底アホじゃないかと思うが、そう思ってることを表面に出したら総スカンを食う。
世の中の多数派からちょっとでもはみ出ようものなら疎外する。
そういった風潮にはうんざりしつつ、でも周りの目を気にして比べて、
ただ周りと同じじゃないという理由から、生きづらいと感じているんじゃないのか。
人よりは感じやすく内省的で、物事を深く読み取り、類推したり分析したり想像したり考えたりすることが「得意」だから、HSPの項目に当てはまったのではないか?
でももしHSPでないなら、それは私にとっては大いにうれしいことだ。
HSPのよい部分はたくさんあるけれど、私にとっては生きていく・生活していく上で弊害となることが多すぎるから。
HSPの気質を欲しいという人がいるのなら、喜んで手放す。
自分の元気が足りてない時には多く「感じてしまい」、
周りをはねのけるくらいに元気な時には「感じない」。
そんな都合のいい気質があるか?
ああ、HSPでなかったらいいのに!
いずれにせよ、課題は「感じてしまう」時の、その過敏さをゆるめたり弱めたりストップさせたり
気をそらせたり、別の行動へ移行できるような、そんな方法を身につけることであって、
つまりは内向型だから、HSPだからといったことは結局エッセンスでしかない。というところに結論した。
自分がどういった考え方感じ方捉え方をして、それが自分に心地よくなかったり
合っていないなら、それを変える勇気を持って、意識し行動する。それしかない。
迷った時は原点に立ち戻って、今一度自分の向きたい方向を問うことだ。
何をやったって答えはあらかじめ自分の中にある。
自分の課題と、自分が楽しくいられるものや人、行動を結びつけていくことが、
これからやっていくことなのかなぁ。
自分とは一生付き合っていかなきゃならないし、頭ばっかり先走って心身をおいてけぼりにすることも多いけれど、
今は、あらためて身体と心の大切さに気づいたところ。身体と心の大きさに。
と言いつつ、頭でっかちにそんなことを考えながら、あらためてHSP項目を見直したところ、
やっぱりどの項目もほぼ当てはまったのだった。
そして、音を感じることに関してはなんにも解決していないことに気づいたのだった。
ケイさんのブログより:
「HSPと、内向型であること、コミュニケーション力の高低の差、の内容や原因は別物と思います。」
http://kabbalah-suuhi358.hatenablog.com/entry/2017/01/04/173000
上記記事は、非常に参考になりました。