誕生日に…
本日2月28日の誕生日に、お友達からたくさんのお祝いのメッセージをいただきました! それぞれその方だけの言葉をくださって、そんな言葉をいただける私は幸せだなぁととても感じました。感謝します!\(^o^)/
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そして、いつも聴いているラジオ番組に初リクエスト! 送ってから数分で読んでもらえ、DJさんにハッピーハッピーハッピーバースディ!と3回もハッピーをつけて言ってもらえました(^^)。 これからは臆せずにリクエスト送れます(笑)。送ってしまえばなんで今まで気後れしてたんだろう…って思う。(でもリクエスト曲はかからなかったんですけどね笑)
ちょっとした挑戦だったけれど、ほんのちょっとしたことで、今までいた世界が変わった。感じ方が変わった。見方が変わった。おもしろいな。
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今年も進んでいこう。自分に限界を設けずに、できるところまでがんばろう。
自分の目・人の目
自分を責めるのは、人を責めること。
自分への目が厳しいということは、同じ目で人を見ているということ。
人に優しくしていったら、翻って自分に優しくなる。
そして気づく人は気づいて、こちらを見ている。
…ということをある方から聞いた。
人はOK・自分はバツ、という意識でいた私は、これらのことをまだよく理解できず受け入れることも難しい。
優しさ、とはなんなのかも理解できない。自分にとっての優しさ・受け手が感じる優しさ、利己的な優しさ・普遍的な優しさ。その線引きだって、確固としたものなんかないだろう。
優しさを表現し伝えることはとても難しいこと。今まで優しくしていたつもりが、ひとりよがりだったのかもしれないと思うと、顔から火が出るようだ。
人に合わせがちで人を優先してきた、というつもりでいたけれど、それもひとりよがりだったのかもしれない。本当は自分のことしか考えてなかったのかもしれない。自分の都合のよいことだけを受け入れてきたのかもしれない。
もやもやと引っかかるけれど、引っかかるのは何かに反応しているからで、反応しているということは自分の中に「気づくための種」みたいなものがあるんだろう。
頭で理解するのではなく、心や身体でわかる時まで待とうと思っている。優しさもわかる時がくるといいな。
コーヒーとケーキとおしゃべり
2月は私の誕生月です。同じく2月生まれの年下の友人と久しぶりに会いました。
10年以上もの付き合いのなかでいろんな話をしてきましたが、どんな話であっても、「話す」ことっていいですね。
知らない間に心の隙間を埋め尽くしていた、生活や思考や記憶の残滓のようなこまごましたことが、話を聞き、話をすることで重さや濁りがなくなり取るに足らないものになり、パラパラと体内からはがれ落ちてくれたようです。すっきりしました。
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誕生日だしケーキを食べよう、と、ケーキ屋さんを探すけれどどこもいっぱいで、一人でたまに行っていたコーヒー専門店に入りました。
飲食店の並ぶ地下街の一画、通路も兼ねたような場所なので一見落ち着かないところです。
けれど、人の手で入れてもらうところも間近で見られるそのお店のコーヒーは、味はもちろんおいしいのですが、滋味深いといいますか、コーヒーを飲む楽しさも味わうことができます。
客層も落ち着きがあって、一人または二人連れで来られる方が多いので話し声も静かで、そういえばBGMもほとんど聴こえないくらいに絞ってありました。
そして食べたケーキは、華やかな春のケーキが並ぶお店のものと比べるととっても地味でしたが、とってもおいしいものでした。
一人でも気持ちがほぐれるようなコーヒーを飲めるところですが、今回は話のできる友人と一緒にいたから余計においしく感じたのでしょうね。
こういう心が休まる場所、もっとたくさんほしいな。そして、心置きなく話せる友人の笑顔をもっと見たいな。いろいろありながらも、それぞれ一生懸命暮らしているんだな。
優しくあたたかい気持ちがじんわりと湧いた一日でした。
節分、そして立春
新しい一年のはじまりです!
昨年の節分の日に、それまでとは生き方や生活、意識がガラッと変わる出来事を自ら起こしました。
これまでと変わる不安とか心配とか、自分を貶めるような思いとか、気持ちが暗くすさむこととか、なんだかんだ知らない間にがんじがらめになって自分に苦行を課していた、それらぜーんぶとおさらばしました。
さっぱりすっきりすがすがしい気持ちになったことを覚えています。それから一年経って、ほんとうにおさらばしてよかった!と思えています。
自分で決めたこと。勇気を出したこと。我慢はやめたこと。そうしたことはすべて「私を大切にする」ということだった。
「私を大切にする」ことで、失うこともあったけれど、得たものの方が断然多く、実りある一年だった、と満足しています。
「私を大切にする」ことで、自分への意識が変わり、一年かけて少しずつなにかが変わっていきました。
変化する、成長することって楽しいし面白い、と実感しました。自然も人間も、ゆっくりであっても確実に変わっていくし、変わらないものはない。
今まで抱いていた変化への戸惑いや不安より、変わっても変わらなくてもどちらでもいいけど、できたら私はもっと成長し、よい方を目指して変わっていきたい、と思うようになりました。
そして、とても苦手だった「楽しむ」ということも、うっすらとですが心でわかるようになってきましたよ。
これから私はどんな風に進んでいくのかな。気の向くまま、歩いていこう。
楳図さんおめでとうございます!
楳図かずお大先生が、フランスでの国際漫画フェスティバル「遺産部門」で受賞!
受賞作品は『わたしは慎吾』
内容もさることながら、この作品は「扉絵」が美しいんです。楳図漫画が美しいって? 恐い絵のイメージが先行してると思いますが、楳図さんが描く女性はとてもとても美しいんですよ。
この作品は「少年・少女=子どもたち」が大人へ移行する、グラグラするようなあやうさや、成長に抵抗する強い思い、子どもと大人の間の曖昧な時間を描いているなぁと感じますが、こうして“ 時代を超えて残しておきたい作品 ”として認められたということですね!
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180129-00000061-nataliec-ent
才能があり、表現できる力があって、でもそれがあっても継続し積み重ねてきてくれなければ読めなかった作品がたくさんあると思います。コツコツとずっと努力し続けるとは、とても難しく尊いものだと実感します。
楳図さんの絵や物語は楳図さんにしか描けません。もう81歳になられるんですね。これからも好奇心いっぱい元気いっぱいでご活躍を願うばかりです。
こんなニュースを聞けるとは、30年来のファンでよかった。
あのころの自分と
2012年に亡くなったニュージーランドの児童文学作家マーガレット・マーヒー。
学生時代、授業で毎週読書レポートを提出する課題がありました。厳しい英米児童文学専門の教授に唯一そのレポートを褒められたのが、マーヒーの『足音がやってくる』でした。
私にはマーヒーは、『足音がやってくる』と『めざめれば魔女』です。(この2冊より『魔法使いのチョコレートケーキ』がよく知られている作家ですね)
常人とは違う力を描き、不思議で、怖くて、不気味で、暗くて、でも力強い。
あらすじはほぼ忘れていますが、強い影響を与えた本で、その感覚は忘れていません。
児童文学は、つきつめればほとんどが「主人公の成長物語」だと思っています。
主人公が思いがけないことから冒険に出て困難に遭い、それでも挑戦していく。引っ込み思案だった子がその冒険を通して自分の力で自分の道を切り開いていく。ひとりで、または仲間たちと、誰かの助けを借りたりしながら乗り越えていく。
時間は止めることができない。主人公の時間も止められない。否応なしに大人にならなくてはいけない。広い世の中に自分の力で出ていかなければならない。
高校を卒業してもまだモラトリアムだった私には、児童文学を読むことは、いずれは見たことのない世界に行かねばならないんだ、ということを知りつつ、でもいまだ怯えながら、そろそろとその準備をするための震えるような時間でした。
児童文学には古典、名作といわれるものがたくさんあります。それらはいまだに名作で、あまり入れ替わっていない、という印象です。古典は消えずに今でも読むことができて、しかも面白さもそのままです。
くまのプーさん、不思議の国のアリス、ナルニア国物語、床下の小人たち、モモ、はてしない物語…数え上げられないくらいたくさんあり、それらは宝物です。
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いつのまにやら、みずみずしい感性は身の内へと深く潜り、「あのころのように読む」ということは難しくなりました。
けれど今また読めば、あのころの感受性はもうないのだけれど、人生への切ないような心持ちや、知らない世界への畏れや不安を抱えて縮こまっていた自分に会える。それなら本の世界と一緒に、そのころの自分ごと抱きかかえて、そっと大切にしてあげたいなぁという気持ちになるのです。
う〜ん、マーヒー楽しみ!
スクラッチアートの本
けずってスクラッチアート!
小学生のころ、画用紙をクレパスを使っていろんな色で塗りつぶし、その上から全面を黒のクレパスで塗りつぶし、そうして上に絵を描いたなぁ!と思い出しました。
表面の黒が削られて、中からきれいな色が覗いて、どんな色が出てくるかわからないことと、黒から鮮やかな色への変幻がとてもとても好きでした。
わくわくしながら絵を描いたなぁ。
絵を描かなくなって数十年、絵心を思い出せない私でも、削っていくうちに鮮やかな色が出てきてくれるこれは楽しいです。
この本は、削らずにそのままでもイラストが絵本みたいで美しいです。
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塗り絵が流行りましたね。
色鉛筆をたくさん持っていないし、どんな風に色を塗るか迷いすぎるため、塗り絵より「なぞり絵」がいいなぁと探していたら、実際のなぞり絵は仏像だったりしてちょっと違う…と思っていたのです。
今回買ったこれは「線をなぞる」のではなく、ひたすら削って絵が浮かび上がるのを楽しむ感じです。カリカリ、サカサカ、無心で削っていると手がだるくなってきました笑
ではでは、実際のビフォーアフターを…
これが、
こうなって、
こう!黒い部分はすべて削れるようです。
体調がよくないことも大切に
「体調がよくないことも大切にしてください」
目から鱗の言葉でした。この言葉を聞いた時、肩の力を抜いていいよ、軽くなっていいよ、と言われた気がしました。
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たとえば仕事を休む時。
体調が悪いにもかかわらず、私が我慢すればいいんだ、と考えたりしました。
体調が悪いにもかかわらず、職場に迷惑をかけるから休んではならない、自己管理がなってない、と考えたりしました。
体調が悪いにもかかわらず、上司に怒られるのではないか、と理由を説明するのも怖くて、電話するのが嫌で嫌で仕方なかったこともありました。
職場でしんどくなった時も、無理して仕事を続けて帰りにはヘトヘトだったり、察知されないように必死で隠していることもありました。
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「嘘をつくと自分が一番傷つく」
そんな風に自分に嘘をつくと、知らぬ間に自分をとても傷つけているんですね。いつのまにか自分の身体や心を大切にいたわることを忘れていきました。
身体を撫でたりさすったりさえもせず、暴飲暴食したり、冷えていても気づいていないようなことになっていました。
人に迷惑をかけてはならない、と自分の痛みも見ないふりして、でも身体は正直だし心も正直だから、そんな無理や我慢は続かない。ちょっとの傷が大きくなって、結局人の迷惑になる…悪循環にはまります。
不調も小さいうちに手当てしたり、周りに伝えておけば、自分への傷も、周りへの傷も少なくて済む。
「嘘をつくと自分が一番傷つく」という言葉も、痛みとともに納得した言葉でした。自分に対してバカなことしてきたなぁ、というチクッとした痛みを感じました。
そしてなにより、周りは私が思うよりもっと、私を見てくれているし心配してくれている。だから、正直に自分の状態を言うことは、してもよいこと。少し甘えたり、頼ったりしてもよいということ。変な遠慮は余計であること。
とてもとてもありがたく、身体と心に素直になりたい、と感じたことでした。
お役立ち乳鉢
“ 友人へのちょっとしたお礼 ”とかにあげたい、と思うものがありまして、それが小さい乳鉢です。
昔、東急ハンズで買いました。いつもごまをするのに使っています。すり鉢でするのと比べれば味わいは変わってしまうのでしょうが、この乳鉢、ほかにも使えるので便利です。
うちは小鳥用にも使います。ペレットやボレーを細かくしたいときや、カルシウムサプリメントも小さく砕いたりします。
小さいのに、意外と重いです。ハンズの、理科用品を置いてあるコーナーで見つけ、三角フラスコやビーカーと一緒に買いましたが、なんで理科用品ってあんなに魅力的なんでしょう。形もシンプルで無駄な装飾もなく、置いているだけで清潔感を感じます。
ごまをするのが面倒だ〜と思う方にはオススメです。小さいからあまり場所も取りません。
もうひとつ、“ 友人へのちょっとしたお礼 ”に渡したい、と思うものがありまして、それはキッチン用品の「ムッキー」です。ゴム手袋状で、手のひら側にトゲトゲした突起がついており、ごぼうやじゃがいもなどの泥つき野菜をゴシゴシこすって落とすことができます。皮をわざわざ剥かなくていいごぼうなんかは、ムッキーである程度ゴシゴシすれば、すぐ調理できます。ムッキーを使うと、水が冷たい冬も手がつらくないです。爪に泥が入ることもないです。オススメです!
“ 友人へのちょっとしたお礼 ”に乳鉢とムッキー。心の中にいつもあるのに、毎回違うものになってしまい、いまだあげられたことはありません…(笑)
できていることはきっとある
好きなことを好きなように書いている当ブログですが、ふとお立ち寄りいただいて読んでくださる方がいることは、幸せです。
ありがとうございます。
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たとえば一年前と比べて。
思い返してみると、できることが増えていたんです。ちっちゃなことばかりですが、それまではしたこともなかったことや、意識の外にあったこと、などなど。
日常を生きながら、新しいことをしていったり、「回していく」という感覚ってこういうことなのかなぁと思いました。
もっとスムーズに、もっとチャキチャキと、もっとすばやくなんでもできてこそ、「回していく」ということなのだ、と考えていましたが、そんなことはない。
歩みは遅くとも、ひとつずつでも、できていることはあったんです。
「変えよう!」としなくても、変わっていくもの。変わることに拒否や不安はつきものですが、繰り返しの日常であっても、どうしたって変わっていくものだなぁと感じます。
そして変わっていくなかで、これはこのまま持っていようと選んでいけるようになって、どちらも私、と思える。
選んでも選ばなくても、変えても変えなくても、どちらも私で、どちらでもいい。
たい焼きを久しぶりに食べました(^^)
形を真似るところに、やっぱりいつでもやさしさやかわいらしさ、幼気を感じます。
季節それぞれ・冬の公園
先日、冬の公園で、色褪せたような景色を眺めてきたのですが、じっと見ているとそこここに春の準備をしているのが見て取れるんですよね。
乾いた風、空や樹々の色の浅さ、景色全体がうっすらとして、すうすうと密度がないような…。
でもふと足元を見ると、地面は落ち葉やお休み中の草でふかふかみっしりしている。
水辺の近くは枯れた草に覆われて荒れているように見えるけれど、静かに栄養を蓄えているようにも思える。
早い梅やサザンカが咲いていたし、木の枝の先にはつぼみがついている。
ものすごく豊かだなぁ!
あぁ、人間もこんな風にして生きたらいいんだなぁと思いました。
季節に振り回されて身体がしんどいことも多いけど、季節に逆らわずに、合わせていくようにして暮らすと、無理したり息苦しくなってることに気づきやすくなるのかもなぁ。気づいたら、気持ちを方向転換したり息を大きく吸ったりできるかもなぁ。
気持ちに余裕ができて、自然に息ができるかもしれないなぁ。それは、自分に戻る、という感じがしてとてもいいなぁ。
イレギュラーはつらい・年末のHSP
ブログでお付き合いさせていただいているMさんが、慌ただしい年末年始に関して書いておられたこと。
もともと、普段と違うことがあった後は、その倍以上くらい時間をかけて心身を休めないと、元の状態に戻れない面がある。
Mさんは『ニュートラルに戻す』と題して書いておられました。「普段と違う」時間を過ごすと「その倍以上」の時間をかけて「心身を休めないと、元の状態に戻れない」。
一緒だ〜、理解してくれる方がいる〜、と安堵しました。
年末年始の独特の時間の流れの中で、身体的精神的のいずれも、どうしたって疲れてしまう。
それを「正月疲れ」というのでしょうし、どんな人もこうしたことはあると思うのですが、でも自分自身で、普段の生活に戻るのにひどく時間がかかるなぁと感じてしまって「罪悪感」「無力感」を持ったまま長年来ました。
人と比べて、でも人とそうした疲れの話をしたわけでもなく、自分の中で「こんな疲れが長引いてしまって…」とやりきれない、できてない人間だなぁと思い込んでしまっています。
何度も繰り返すうち、正月疲れ → 正月嫌い、になりました。年末が近づくと、どよーんと気分が重くなる。
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Mさんは元の状態に戻るのに時間がかかるのはもしかしたらHSP気質が関係するのかも、と書かれていたのですが、そうだと思います。
年末に近づくと、周りがザワザワします。テレビでもショッピングセンターなどでも、色とりどりの宣伝、煽るような喧騒のような音楽や言葉、それにつられて人の動きもセカセカ、イライラ。なぜか、早くしないと、と焦る。
職場などでも、「年末」と言っても普通通り「12月」の締めはありますし、長い休みの前に前倒しでしておかなきゃならないことも増える。年始のことも考えて動かないとならない。通常業務に上乗せです。
そして生活の中では、イベント目白押しです。年末のご挨拶、年賀状、大掃除…
こうした人や周りの動きにHSPなら影響されないわけはない。振り回されます。
普段通りにしたくてもできなくなる。それは、周りの動きの影響もあるし、普段の生活に上乗せして用事が重なるから。処理せねばならないことがドッと増えるから。
加えて、急に寒くなる季節。でも日中は暖かかったりして「安定して寒い状態」ではない。まだ身体も慣れていない。職場やお店では暖房でかえって暑い。一年を終えようとしている時期、身体も疲れてます。
そりゃ〜身体的にも精神的にもしんどいですよね!
周りに合わせたくても、たくさんの量を処理したり、いつも以上のスピードを出すことは、「自分にとって普段通りの安定している状態でないと力を発揮しにくいHSP」では、とても難しいことだと思います。
さらに周りのイライラした空気を感じてしまい、それにも影響されるから、周りのことはほっといていいのに「なんとかしよう」とか「私ができてないから」とか考える。とっくにキャパオーバーなのに。
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この時期私はこんな風になるんだ、と捉えて、なるべく乱さずに暮らせれば少しは楽になれるのかもしれません。状況が普段とは違うんですもの、ついていけなくても当然なんです。
でもめんどくさいことに「罪悪感」やら「無力感」やらも自ら背負ってるんです。状況を整理して考えれば、これ、いらないですよね。
なかなか元に戻らなくても無理ないのです!自分で自分を甘やかしましょう。それでよい!
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Mさんのブログです♬ ↓
おいしいおやつ・和菓子編
新年明けましておめでとうございます。本年も好きなように好きなことを書いていこうと思っております。
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さてわたくし、甘いもの、大好きです。
ということで、ただただ好きなお菓子を列挙します! 題して、おいしいおやつ・和菓子編!
まず、あずきあん。あんこがなければ始まりませんね!
こしあんより粒あん。しろあんもいいけれど、あずきの香りがホッとします。でもようかんは粒の入っていないものがいちばん。なめらかで、密度も甘みもどしーんときて、あぁ甘いもの食べてる!を味わえます。
どらやきは、栗や餅はいらなくて、あんこだけでいい。食感が変わるとあんこに集中できないもの。
そうそう、初夏の頃「あゆ」というどらやきの皮に求肥を合わせたお菓子が出回りますが、どうして皮の中に皮を入れるのか。素材が重なってるじゃないか。のどに詰まらないのか。謎であります。
餅菓子もおいしい。豆大福、桜餅、柏餅。おはぎはあずきのときな粉のと。あぁいちご大福があった!これは見た目も可愛らしくてジューシーで贅沢なお菓子ですね。
月餅もいい。ドライフルーツ入りより、くるみなんか入ったぐっと濃い味のもの。
水無月は苦手。葛餅も苦手。透明もしくは半透明の餅っぽいぷるぷるしたのが、なんとなくこんにゃくみたいで苦手なのです(こんにゃくがきらいだから)。だからちょっと葛湯も苦手。あったまりますけど。
冬になると自動販売機に「おしるこ」ドリンクが登場。なかなか侮れない味です。
冬といえば、あんまんのあんは熱くてしっとり。
薄皮饅頭のこしあんもしっとりなめらか。
もなかも大好き。皮の香ばしさが格別です。小ぶりのものがあったらもう至福の時を過ごせます。
あずきだけなら甘納豆。いろんな豆が入っているものもあるけど、やっぱりあずきだけがいい。松露もつまむとおいしい。
もちろん和菓子屋さんで買う上生菓子なんて最高!これはあずきにこだわりません。姿形のみずみずしさ、麗しさあり、幼気あり、そのまま飾っておきたいくらい。
さてこの寒い季節にはぜんざい。関西では粒あんで作ったものをぜんざい、こしあんのものをおしることいいますが、関東では逆だそうですね。スコップとシャベルの違いのように驚きました。(関西では小さい方をスコップ、大きい方をシャベルといいます)
…書いているうちに、甘さで歯が浮くような感覚になってきました。
でも、ただ書くだけでものすごく幸せな気分になりました。今回はあんこ中心になってしまいましたけれど、焼き菓子やおかきそのほか、和菓子にもいろいろありますよね。よーし、幸せな気分を味わうために、次はあんこ以外も書くぞ〜!
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今年もみなさまにとって素晴らしい年となりますように…!