ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

おせちはいいなぁ

地味ながら、おせちを作りました。

数種類だけ毎年作るのですが、自分で作ると好きな味付けにできるし、量も多くてたくさん好きなものを食べられるのでいいですね!

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今年は仕事やらの都合上、計画が前倒しになってしまい、そんな短時間でできるかなぁ、あれしてこれして…と不安だったのですが、朝から始めてお昼前には完了し、集中したら逆にこんなに早くできるんだ、と不安が払拭されました。やってみるものですね。

主人が伊達巻とかずのこ作成係をしてくれて助かったー! 私は黒豆、煮しめ、なます、たたきごぼう、栗きんとん係です。田作りや昆布巻、かまぼこは買いました。

別に料理が上手なわけでもなく華やかさにも欠けるし、自己流の味付けなんですけれど、「自分でやったんだぞ感」が沸き起こります。それで満足です。しみじみします。

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主人と一緒に食べると、ほんとにしみじみします。

あとはお雑煮を用意すれば、新年を迎える準備万端です。お正月で楽しいのはおせちとお雑煮だけと言っても過言ではない。最重要アイテムです。

みなさまもどうぞよいお年をお迎えください!

断捨離ではなく

断捨離、ってありますね。

いらないものを捨ててすっきりさせると場所を有効に使える、心もすっきりするから効果的、くらいの意味合いだと思ってました。

ものを捨てればそりゃあすっきりするよな〜でもな〜大掃除たいへんだし面倒だし…となかなか手に付かなかったんです。たくさんある掃除本も、場所をふさぐしいずれいらなくなると思うと読む気もしませんでした。

ものがゴチャゴチャあると、頭もゴチャゴチャしますよーと言われても、そうなのかなぁと思うくらいでした。

 

しかしある時そうか!と突然腑に落ちました。

これは、「自分の今の好き嫌い」から取捨選択するものだ。好き嫌いを基準にして整理する →

実際に動くことで自分の「今」の「好き・嫌い」がよりはっきりする。頭の中も整理されていってスペースが空く →

結果的に、ゴチャゴチャしてたのが整理されて、場所と頭のスペースが広がるということだったんだ。

…とっくに世に広がっている動きで、みんな実感してるのでしょうが、「ただ効果的」「すっきりする」ということだけと思ってたからよくわからなかった。

「今」の自分の「好き嫌い」

「今の私」を知るための行動なのか!

頭で考えすぎて、ぐるぐるしたり混乱していることが多い私は、つい断捨離も「必要か不要か」で判断しがちでした。だからやらなきゃ、せねば、という義務感でしていたのでしんどかった…。“ときめき”とか何やねん?と思ってました。

は〜、好き嫌いのことなのかー。そしてそれは、「今の私」が選んでいいんだね。だから、必要なさそうなものでも、好きなら捨てなくてもいいんだ、と思うと、ちょっと肩の力が抜けたのです。

実際に捨てるかどうか、ではなく、私が今好きなのはどれ?と自分と対話する手段なんですね。

そして、好きなものをあらためて見つけて大切にすることは、自分のことを好きだって言ってあげることなんですね。自分を慈しみ愛おしむことなんですよね。

それはほかの誰にもできないし、今の瞬間瞬間の自分を大切にしてあげることが、その先の未来につながるんですね。

今の私の好きなものはなんだろう?

私にも、大切なもの好きなものいっぱいあるよ、って自分に教えてあげなきゃ。

PMS

女性ならつらい症状ですよね、PMSって。

私は生理中のつらさより、前に起こるPMSの症状が重いです。あんまり苦しいので、吐き出して、症状をあとで客観的に読み返すために書きます。

 

同じ女性同士でもあまりわかってもらえない。その月によっても出方が違うし、人それぞれつらさが違うから、話したところで「つらい・しんどい報告」をするだけになって、相互理解もできないまま孤独感が増す。

いつもできていることができない。注意力や集中力が散漫になって、どこかにぶつかったり、包丁で指を切ったりする。青あざができていても気づかない。

身体がだるく、重い。眠気が増す。頭がぼんやりする。

身体全体の冷え。身体全体の痛み。動きが鈍い。

異常な食欲。食べるためだけに食べる感じ。満腹感があっても食べてしまう。おかしいな、とわかりながら食べてしまう。

眠いのに眠れない。寝付けない、途中で目が覚める、一旦起きたら眠れない。不眠症状をすべて網羅している。

上半身に気血が上り、頭痛、鼻炎アレルギー反応、顔のかゆみ、目の痛み、肩や首のこり、といった上側ばかりの症状。

息もうまく吸えない。深呼吸ができない。

 

いつものように動けないから、じゃあのんびりしよう、とはならない。

なんでできないの、という焦り。できてない、という罪悪感思考力・判断力も鈍っているからいくら考えたっていいアイデアなんて出てこないのに、ひたすらダメだダメだと責める自分。

実際の視野も狭くなる。思考の視野、視覚の視野いずれも。見ているようで見えていない。目の前1メートルほどしか見えていない。後ろなんか気にしてられない。転びそうだし、事故に遭いそう。思考も短絡的になって、ニュアンスなんかをすっ飛ばす。

身体全体の感覚は鈍くなるけれど、身体表面の「感じ取る」感覚は過敏になって、髪の毛が顔に当たったり、肩に触られただけでうっとなったりイライラしたり。理由なく涙が出たり、ふさぎこんだり。

 

そんな時に人からいろんな意見を聞いたって受け付けられない。うるさい、としか思えない。それでまた聞けない自分にうんざりする。ひどい人間だと責める。

95%はただもうしんどくって、ホッとしたり休んだりするのはたった5%。5%は一瞬だ。吹けば飛ぶくらいの一瞬だ。

 

思考・感情・身体、ぜんぶが悪循環のただ中にいる状態なのが、PMS。ひと月のうち、ひどい時は一週間くらいこんな状態だ。呪いのようだ。

「固い・硬い・堅い」文章

本を持っておく、ということは贅沢なことだなぁと思います。それは単行本だけでなく、文庫本やムック本や新聞であっても、置くスペースや購入するお金がなければできないのですから。

電子書籍にはいまだなじめず抵抗があります。本はその手触りや重み、フォントや文字間隔や余白にまで気を遣われていることや、サラサラした紙の感触、カサカサいう音、パタンと閉じる音、休みながら読んで時々目次や表紙を眺めたりするのが「精神的に落ち着く薬」みたいに感じるので、どうしても「物体」としての本が好みなのです。

欲しい本は数多あれど、あ〜買えないなぁ…とよっぽどでないと諦めます。けれどそんな私が自分に単行本を買うのを許している作家が「高村 薫」さんです。(と言いつつ最近は文庫になるまで待てなくて「宮部みゆき」さんの単行本も買ってしまったりしています)

今年の夏頃から、新たに新聞連載が始まったそうで、いざ単行本になるのを今から心待ちにしています。あらすじを読むと、現代社会小説であり、根強い人気の主人公が出てくるものということです。もはやシリーズとなったその主人公も作品ごとに歳を経て、いまや50代だそうで、しかしこんな風に登場人物も私と同じように歳を取る、その姿が読めるということは哀愁も感じつつ、うれしいことです。

高村さんの文章は硬質で読みづらいと聞きます。そして彼女を知ってる人が周りにいない。知ってるか聞いてみてもたいがい高村薫?だれ?という反応です。

「固い・硬い・堅い」と「かたい」のどの漢字を使っても当てはまるような文章は、読み始めた頃はとっつきづらかったですが、今はもう懐かしさと安心感しかありません。新作まで間が空くと、早く高村さんの文章・言葉の洪水に呑まれたい、という気持ちになります。(そして新作まではどうしても間が空きます)

しばらく読んでなくて、今までに出た本を再度手に取るとやっぱり読みはじめは「かたい」なぁという印象。けれど、そうそう、これぞ高村節なんだなぁと心踊ります。

読むのにも力が要る小説が多いので、まとまった時間と心の余裕がないと手に取れない作家ですが、読むたびごとに深い満足感と、文章や言葉の力強さを感じられる作家です。

…でも、単行本で上下2冊というのは毎回結構つらいです(泣)

ソースに陳皮!

「陳皮」作ってます!…という記事を覚えておいででしょうか(^^)あれからまだちょこちょこ作り続けています。

どんな風に使えるかな、といくつか試してみました。

◯ソースに加える!

鶏モモ肉をグリルしたんです。(おしゃれ☆)それにかけるソースを、市販のステーキソースに、粒マスタードと陳皮を入れてちょっと煮立てたものにしました。これがおいしかった!

陳皮は多めがいい、と思います。なんといっても香りがよいです。市販の濃い味のソースが苦手なのですが、粒マスタードの酸味と香りに混じってさわやかになりました。

◯ハーブティに!

ハーブティといってもいろいろありますが、ミントティに入れてみたところ、量が少なかったのかよくわからん味になりました。もともとの味が濃いめのハーブティに陳皮多めだと合うと思いますよ〜。紅茶もいいかもしれませんね。

◯レモネードに!

レモネードといってる時点で同じ柑橘類やん、とつっこまれそうですが、まぁ合いますよね。これも、陳皮多めの方がやっぱり香りがよくておすすめです。

私は細かく切って使っているので、どうしても「ガラ」が出ます。ざらっとした食感なので飲みものに入れる場合はミルサーなどで粉砕した方がいいかもしれないな、と思いました。

最近は簡単ケーキを作ってないので、今度はパウンドケーキにレーズンなどと一緒に入れてみるといいかも、と思っています(^^)

そして肝心の身体への効果は…?

いやはやまったくわかりません!

年賀状やめました

暮れも押し迫ってきました。毎年、その辺の道端で年賀状を売ってるのを見る頃ですね。

私は去年から、年賀状を送るのをやめました。

なぜか? 

もともと年賀状のやりとり自体がだんだんと少なくなってきていたし、毎年毎年CMなどで目に入る「年賀状を書こうキャンペーン」みたいなものにわずらわしさを感じたから。

見たくないし聞きたくないのに溢れ出てこちらに迫る情報

それに知らず知らず振り回されてしまうことに反旗を翻した、というとおおげさですが、とにかくもう乗せられない!と決めました。

そういえば毎年毎年「大掃除しようキャンペーン」みたいに掃除情報がわんさか出てくることもわずらわしいです。掃除くらい自分のペースでさせてくれよ…

年賀状=年末年始の準備=慌ただしい、気ぜわしい、ペースを乱される=面倒だ、考えたくない

私にとってはこんな図式になってしまいました。

こうしたイベントごとは普段の生活に加えて、考えたりなんらかの準備をしないといけないので、私には余分にエネルギーや労力が要ります。

12月に入るととたんに世の中も忙しさを強調し始めます。新しい年を迎えるためにやり残したことないのか?することいっぱいあるんだよ!と追いかけられている気分になります。

クリスマスはなにか用意するのか、おせちはなにを作ろうか、その食材もプラスして買いに行かなくちゃ、いくらなんでもちょっとは掃除しとかないと、あたふた…落ち着いてすればいいんでしょうけど、正直もうそれについて考えることもしんどい。

いえね、楽しめる方はされたらいいと思うんです。年賀状だけのやり取りであっても、ひとりひとりに向けて来し方行く末を想ったりすることっていいなぁと思います。

でも自分にも時間にも余裕がないのにそっちに気持ちは向かない。だけどやらなきゃ、という義務感で何十年も来て、いい加減嫌気がさしました。年賀状が「虚礼」だと感じるのもこの義務感からくるのではないかな。しなくちゃならない、して当然、という枷は外します。

…といって送らないことが無礼だとは私は思っていません。年賀状は送りませんが、送ってくださった方やどうしてるか知りたいと思う方にゆっくり時間を取って「寒中見舞い」を書きます。好きな時に書きたいから書くので、ご返信などがなくてもなんら気にならない。

今年は年賀状来なかったから書くのやめようか、といった取捨選択をするような気分にはならないです。自分側から相手との関係性を考えられることで、気持ちの余裕が持てました。

進めなくなる言葉

・難しい問題ですね

・しょうがないですね

・(社会)全体の問題ですね

これらは、「議論を止める言葉」だそうです。議論というとビジネス的で会議での話じゃないの?といった感じもしますが、なんてことない話のやりとりでも、当てはまるなぁと思ったのです。

(初出記事)  

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171215-00000001-zdn_ait-sci

会話している時、「う〜ん、難しい問題だね」と言われて、なんかモヤっとしたことがあります。

この話、早く打ち切りたいのかな? とも思いました。会話はそれ以上進まなくなり、行き場がなくなって、うやむやに話は流れていきました。

「難しい」「仕方ない」、これ言われると、こちらも思考停止になりますね。

現に自分でも、相手の話が長くなりそうだったり、深入りしたくないと感じたら、仕方ないよね〜と言って、次の話題に移ろうとすることもあります。

相手との会話を終了させるには、なんとも便利な言葉たちですね。

なんにもまとまってないのにまとまった感がありますよね。「一般的なこと」「自分の力ではどうしようもないこと」として流してしまうのは、だれのことも傷つけないという、相手への優しさなのかな?  

世間話や、不毛な会話ならそれでもいい。でももう少しつっこんで考えたり一緒に話したりしたいな、と思うこともありますよね。

難しい難しい言ったってなにも解決しないんだから、だったら少しでも解決したり、進んでいける方向を考えてみようよ、という思いがあります。

どんなことでもいいから、話を聞かせて、と思います。私だってきちんとした考えがあるわけじゃない、でも出していくことで、そして相手の話を聞くことで、気づくことや会話の広がり、相手と共有することの楽しさや温かさを感じられるから

まー、それは私がおもしろいと感じているだけで、別に話したくなんてないって人もたくさんいるでしょうね…。私以外と議論してるかもしれないですしね。でもそれなら、私はそういう人とどうやって深いコミュニケーションをとったらいいんだろう…?

人との関係ってなんとも「難しい」ですね、…とまとめてみました。

言葉にすることは

言葉にしたい、という思いを持っている。

言葉にならないことはものすごくたくさんあって、そして、言葉にしなくてもいいこともたくさんあると理解しているけれど、できることなら言葉にしてみたい、と思っている。

言葉にしなくてもいいんじゃない?と言われたことがある。その時もうーんそうなんだけどやっぱり、と頑固にこだわった。

なんでかなぁ? ある時ふっと答えが浮かんだ。

言葉に救われたからだ。

苦しい時やつらいなぁと感じている時、誰でもいいから助けてほしい、と思う。そんな時、気持ちを軽くしてくれる言葉や励ましてくれる言葉に出会ったからだ。

自分の中にも言葉はきっとある、でも混乱して嵐のようになっている時はそれがまったく見えない。気づけない。

今はネットや本で、必要な言葉に触れられる。手当たり次第に探して回って、海の中から一粒の砂を見つけるごとくであっても、なんとかして手に入れることができる。

本当は、自分が自分にいちばんの言葉をかけてあげられたらいいんだけど。

言葉があるから、人と共有することができる。同じものを見て読んで、話してみて、そうだね、って一緒に温かい気持ちになることができる。言葉があるからこそ。

モヤモヤした思いとか伝えたいことを言葉にして表現したい、ということだけではなくて、人とのつながりの中で、一緒に味わえる言葉を使っていけたらなぁ。

私が人の言葉を読んで救われたように、私も自分を助けてあげられる言葉、そしてだれかの助けになる言葉をかけられたらなぁ。

大きな大きな夢です。

自分でいることを受け止める

自分を客観的に見ることって、できますか?

いくら発見があっても、それに気づけた私はすごい、と言ったとしても、たった一言のその「すごい」以前に何十倍何百倍もダメ出ししてますよね〜、自分に。自分にダメ出しするのは他人じゃない、自分。

自分のしていることを客観視できてないからだと思うのですが、人と比べて私なんてまだまだ、と言ってしまう。

その比べる人も勝手に設定した「なんかすごい人」で、実在しない理想の人、みたいなものなんですよね。

冷静に考えてこうだ、とか、客観的に見て、とか言ってたのが恥ずかしいくらいに、自分自身のことは見えてません。

客観的に見られたら、自分ができたことは認められると思う。できてないことは責めるのではなくて次へつなげる改善点、反省点だと捉えられると思う。

ものさしが他者。といっても勝手に作り上げた「なんかすごい人ものさし」で測るから、いつまでたっても自分を信じてあげられない。

私の一番の味方は私なのに。私を守ってあげられるのは私なのに。

私のために今日も身体を動かしてくれてるのは私だ。息ができて、ご飯が食べられて、笑えて、泣けて、すごいことしてる。私にとってすごいことをしている。

あと何年生きられるかわからないけど、最後までつきあってくれるのは自分自身。

なにかを始めたりやめたり、進んだり休んだり、困ったり迷ったり、悩んだりすることぜんぶ、私が決めていい。

自分自身でいることは、苦しいことじゃない。私であることを受け止めたい。

「相手優先・状況優先」問題は根深い

朝起きてすぐにすること。

ストーブを点ける、カーテンを開ける、お湯を沸かし朝ご飯の支度をする、小鳥たちの水や餌を変える…

今朝、気づきました。

朝起きてすぐにすることが、ほぼ「環境を整える」ことだった。

自分のことは後回しにして、まず部屋を暖めたり、明るい光を入れたくてカーテンを開けたり空気の入れ替えをしたり、コーヒーを飲むためのお湯を沸かしたり、旦那さんの朝ご飯やお弁当を用意したり、小鳥たちを起こしたり、そういったことを最優先にしていた。

「暮らす環境を整えること」「居る場所を心地よくすること」

はじめにこれらをすることが、当たり前の動きになっていた。して当然だと思っていた。して当然なので、朝早くから予定がある時は逆算して起きる時間を決めていた

私、人や状況をずっと優先してたんだ! 無意識で。習慣で。マイルールで。うわー、根深いことなんだ、と気づきました。

心地よく居られる場所(環境)を整えることは、良い悪いでもないし当然といえば当然なことかもしれないけれど、自分の身支度もしないうちにそっち最優先にするというのは、別にしなくてもいいことなんじゃないの? 私ばかりがしなくてもいいんじゃないの?

うちは大人2人暮らしだし、それぞれがそれぞれ自分のことを先にしてもいいはずなのに。

おそらくは、「環境を整える」「状況を優先する」ことが自分にとって大切だと思い込むことが以前あって、習慣や自分のルールや価値観になったのかもしれないなぁ。

ときどき、朝の支度をいつも通りしている時、自分のことを先にしている旦那さんを見て、ほんの少しモヤっとすることがあった。なんでやらへんの。

あぁ〜そうか! 私は、お母さん的な動きで「やってあげてる」のになんで手伝わないの、とか感じていた。そう感じたらモヤっとするしイラッとするわ。

私だけがなんでせなあかんの、と思うときは、私がそれを楽しめてないから。強制されているように感じて、心が納得できてないから、させられてる感を持ってしまう。したくないわけではない、できないわけでもない。でも、して当然なことでもない。

今の私にとっては、当然と思ってしてきたことが合わなくなってるんだな。自分で決めてきたルールだけど、それに違和感を感じているんだな。

環境を整えること、居る場所を心地よくすることは、今の私にとっても大切なこと。大切なことだから私の望むようにするしたくないときはしない自分で選べばいいんだな。

今回気づいたのは小さなことではあるけれど、でも今までまったく意識したことがなかったことだった。

身体に染み込んだ、疑うこともしないような動きや習慣。このほんのひとつひとつ、気づいて拾って見直してあげることができたのが自分でも驚きだったし、気づいた今の自分はえらい!と感じられた出来事だった。

して当然だと捉えることから、してもいい・しなくてもいいと選ぶことへ、変化した。自分で選択できるって、自由だ!

これからももっと自分の動きに目を向けて、昔からの窮屈な習慣や価値観を見直して、自分で選択できるようにしていきたい。

いちばん頼りになるのは

いったん信じてみた。その続きです。

いろんな人の言ういろんなことをいったん信じてみた。そしてできそうなことから行動した。行動して体験すると、ふむふむこういうことか、とわかる。ふむふむ、そしてまた体験する。

そんなことを繰り返していると、突如、もうお腹いっぱい、という状態になる。そしたらいったん休む。またはなんだかだるく頭痛もするかも、みたいな状態になる。そしたら休む。

進むスピードは自分が決めたい。どんなに遅くたって、焦ったって、進めないものは進めない。納得しないと進みたくない。人と比べて遅いかもしれないけど、そんなの知るか。私は私。

行動し体験したことでできたことや身になったことは必ずある。気づいたこともある。人より少ないかもしれない。でもそれが私なんだ。

求められるスピードに乗れないことは、恥ずかしいし辛い。情けない。それでも自分のペースで確実にものにするのが私なんだ。

こうした方がいいよ、早道だよ、という助言も耳に届かない。頑固に跳ね除けて聞かない。あまりいいことではないかもしれないけど、私は私。今はごめん、合わせられない。合わせる余裕ができたらしてみるわ。

みんなにいい顔して、みんなに優しくして、みんなの和を乱したくなんてないけど、周りが見えなくてひきつった顔をしていることだってある。

進むスピードは遅く、得たものも少なく、また以前の自分に戻ろうとする自分がいて、一進一退。誰よりも自分がもどかしく感じている。

 

自分にいちばんのダメ出しをするのは自分だけど、最終的にいちばん頼りになるのも自分なんだ。だから自分の意見を尊重する。周りと合わなくても、間違っている方法でも。

いったん信じてみた

いろんな人がいろんなことを言っている話。つづきです。

はえいや、という気持ちでいったん信じてみたんです。自分の声もわからない状態だったから。

善悪、正しい正しくない、好き嫌い、そんな自分の基準もよくわからなくなっていました。どこかから借りてきた「世間的には〜、一般常識では〜、といった思想」をそのまんま鵜呑みにして、これが合ってる、と思い込んでいました。

それに対していやだなんてことも思わないくらい、従うべきフツーのルールだ、とか思ってました。従っておけばラクだし、自分は正しい相手が間違ってる、と公明正大に言えますもんね。

ガッチリ信じ込んで私は間違ってない、と思っていたけど、でもちょっと待て待て、それ本当? 私の思うことなんて、そんな大層なもの? 必死にしがみついておくもの?

そして、世間がとか、親がとか、みんながとか、本当にそんなものいるの? 自分で吟味せずただ流されているし、しかもそんな理想の人間みたいなもの、どこにもいないぞ。ちゃんちゃらおかしい。

怖かったです。自分のガッチリした理想ルールに疑いを持つのは。

ちょっとぐらい揺れたって、ルールがガラッと変わったってどうってことないのに、そのルールを持っていることで自分を守っていたんです。

自分が変わることや、今までのキャラクターを脱ぐことは、怖かった。

いろんな人が言っている「手法」を試してみました。いろんな人のブログも読んでみました。

たくさん読むと、その人の書き方や言いたいことが積み重なって理解できるようになりました。そうしていくうち、内容が私には合わないとか、言うことはいいけど余計な文章が多くて読みづらい、と離れたものもあります。また、乱暴な書き方をしている人の文章はいくら素晴らしいことを言っていても、心にまったく届きません。

こうしたブログや自己啓発の本などは、通過点に過ぎないのでしょうね。必要な時に自分の中を通り過ぎていく。

あくまでも、自分にとって心地よい、と思えることを取り入れていけばいいのだと思います。人がいいと言っているから自分にもよいとは限らないし、自分中心に判断してよい。

しかし、自分の基準を持つってなんて難しいんでしょう。自分の判断に、自分の人生に責任を持つ、という覚悟をきめなくちゃなりません。自分を取り戻して生きるって、パワーがかかります。

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まだ手探りだし、進まないなぁって思うこともしばしばです。けれど、螺旋階段を上るように成長し進んでいるんだ、と自分を信用して日々を過ごしています。

自分で選んで自分で決めるって、とても厳しいし楽しい。

でも、生きてるって感じがします。

秋晴れ

いつのまにか紅葉していたメタセコイア

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ちょっと暗く写ってしまいましたが、葉っぱは朝日を受けるとレンガ色に光って見えます。

忙しくして、目の前のことしか見えてなかったから変化に気がつかなかった。

空を見ると、こんなに広くて大きいのに。

のどに違和感が出て、あ、これはいけない、と感じ、今の症状に合う薬はどれか?と市販の漢方薬を自分なりに調べて服用してみました。本当にそれが効いたかはわからなかったのですが(笑)、自分で選んだ、ということに満足です。

ちなみに、のどが痛い・のどが乾く・頭痛あり・寒気なし・筋肉のこわばりは少しだけ・発汗なし、で選んだのは、クラシエ「銀翹散(ギンギョウサン)」です。

少しの白湯に溶かしてゆっくり飲むと、のどの炎症や痛みがすーっとひきました。こんなすぐにひいてくれるんだ、とびっくり。自分で人体実験して納得しました。(おいしくはなかった)

先日、マヌカハニーも入手したので、小指の爪くらいの量を毎朝食べています。免疫力アップを目指して!(しかしマヌカハニーは高いですね…^^; )効くといいな。

みなさまも風邪にお気をつけて!

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エッセンスが残る

いろんな方々がいろんなところで言っていること。

最近、あっみんな同じこと言ってるんだ、と気づいた。

その時々に読んで、なんだか心に引っかかったこと。そうだ、と思ったこと、耳に痛いな、と思ったこと。詳細を忘れてしまっても、気になったところがなんとなく自分の中にとどまる。

自分の中にそれぞれのエッセンスが残る。

その時自分の言葉にならなくても、残しておこうと無理して言葉にしなくても、時間が経てば、自分の身になっている。

**

ずっと心理や意識の物語(様々な方々が語る言葉や記事)を読んでいると、味方ができたような気持ちになる。
心に馴染むような、言えなかったことを言い表してもらったような安堵感。知らなかったことを知った驚きや発見。私もそうしてみたい、と願う気持ち。

もちろん書いている人により、「?」と思う記述もあるので、自分と合うか合わないか、なのだけれど。受け入れたくないなら、自分の声に従った方がいい。

**

言葉って大切だな。

自分の身になる言葉なら、やっぱり心地よい言葉を内に入れていきたい。

自分を守るために、心地悪くなる言葉を見ない聞かないようにした。

テレビをなくしたことは私には有意義だった。いらない映像・音・色…。その場に縛り付けられることもなくなり時間もできた。(でもお笑いを見て、頭を空っぽにして大笑いする機会も減ってしまったので、ちょっとだけ残念)

充分満たされ余裕ができたら、少々嫌な言葉でも、「受け入れるか」「流すか」「拒否するか」を選べるように少しずつなってきた。

いったんシャットアウトすることが、私にはとても重要だった。アクセルとブレーキ両方を踏みながら、がんばってない自分はダメだと思い込み、休むなんて贅沢だと走り続けてしまうタイプの私には、自分自身からの責めに加えて、外部の情報を見続け、聞き続けることは、自分に対し非常に残酷な仕打ちだった。

自分で自分を守ることをしてこなかった私は、自分の叫びを人からの責めだと捉え、自身を追い込むばかりだった。

自分を守ったり手当てしたりなんてことをずっと知らなかったから、今もそういうところはなくなっていないけれど。

**

今も、たくさんの言葉や物語が私の中にある。自分の言葉になるのを、私は待っている。

私が選んで、近づいて、つかまえた言葉のエッセンスが、私自身の言葉になるのを待つ。

たくさんの言葉を濾過したり、発酵させたりしてるんだと思っている。もどかしい時間だけど私には必要な時間です。

***

たくさんの方のたくさんの文章を読んできて、ご紹介したいけどしきれない、そんな中、最近拝見したカウンセラーさんの記事です。

思考で感情を抑えることが習い性になっている私に、ヒントをもらいました。

『根本裕幸オフィシャルブログ』「本当は○○した方がいいのに、私は△△だ」は自己否定に他なりません。

https://nemotohiroyuki.jp/everyday-psychology/21961

欲と直感

こんにちは。

直感を無視して欲に走ると結局うまくいかなかった、ということありませんか?

40歳近くなってから、欲得で判断したり理屈で動くと最終的に望まない結果になるなぁと感じていました。

ちょっとしたことですが、飲食店に入って、「ん? なんかいやな感じがするな」とよくわからないけど感じてるのに、お腹が空いてるから、おいしそうなメニューがあったから、安いから、などなど、外的要因や理屈で考えてその場にいると、たいがいトラブルに巻き込まれます。

タバコの煙や匂いが強く流れてきたり、周りのお客さんがイライラして怒ってるところを見たり、とてもうるさかったり、店員さんの態度が悪かったり。どうにも居心地が悪い。

主観的なものなので、ほかの人に当てはまるかはわからないし、主観的に判断(好き嫌いとか)しているだけなのかもしれません。そして全部が全部ではなく、我慢できる時もあります。体調が悪い時は直感が働かなくてドツボにはまる時もあります。

主人も同じことを言います。一緒に出かけて、特に行きたいわけではないのに「せっかくだから」行ってみようとか、なんらかの欲が働くと、結局あとですごく疲れたり気分が悪くなったり、時間がかかり過ぎたりとロクなことがありません。

これって、自分の声、無視してますよね。

自分以外に、自分を守ったり満足させてあげられる人やものごとがあるのでしょうか。

自分が熱が出てしんどかったとしたら、たとえ準備してたとしてもわざわざ出かけたりはしない。身体で考えるとわかりやすいですよね。

それを理解したので、お店など、変だと感じるところに出くわしたら、すみやかに離れることにしました。

いやだと心が感じてるのにそのまま居続けても、好転することはない。

以前いた職場のことです。一番初めの面接の日程調整の段階で「な〜んかおかしいな、変なことする会社だな」と感じていたのですが、離職期間が開くのも不安だし他に受けているところもないから、と気持ちを無視して流して受け、いざ働き始めたら、そこに行ったことをすぐに後悔しました。

しかしその時は、自分の直感なんてまったく「意識の外」だったので、また「私ができてないからだ」とか自分が至らないせいにして、冷静に周りの状況を観察することもなく、我慢を続け、自分にムチ打ってました。

働くことはもちろん無駄ではなかった。得たことも多かったし、少しでも成長できた。でも、起こることすべてを自分のせいにして自分を抑え込んで痛めつけることとは違う。それはいらない。

押さえつけていた結果、今までの自分では考えられないような退職の仕方をしました。けれど、もうこれで自分を押さえつけなくていい!と自分の心が大きく跳ね、喜びました。

このことをきっかけに、自分のことを観察するようになり、徐々に気持ちを押し殺すことをやめ、なにより自分のことを認め、信じられるようになっていきました。

私は私の直感を信じてあげるんだ。私を守るのは私だから。