感じやすい方におすすめの本
こんにちは。今日は本の話です。
『「普通がいい」という病』泉谷閑示(講談社現代新書)
“病”だなんてちょっとものものしいタイトルですね。精神科医の書いた本だといえば、よりものものしく感じられるかもしれませんね。(帯にも「注意:人生を変えたくない人は読まないでください」という煽り文句が)
ですが内容は、世界の詩や戯曲などを引用した、平易な文体で読みやすく書かれてあります。そして、現代日本で少数派と認識されている「生きづらさ」を持っている方なら、視点を変える助けになるのではないかと思います。少なくとも私には大きな助けとなっています。
引用したいところがたくさんあってしきれないのでおすすめとしてご紹介するのですが、悩まれているなら一度読んでほしいと強く思います。
私が考えるきっかけとなったことを列挙すると、
- 「普通」という言葉の手垢を落とすこと
- インスタントな解決には意味がない(癒しなど)
- 自他の区別
- 頭と心(身体)の違い、二元論
- 深い感情の出てくる順番と鮮度、感情のフタ
そして後半に書かれている下記の内容は、HSPや感受性の高い方にも頷けるものだと思います。
- 親子でも生まれ持ったものさしが違う
- 「敏感で太い」自分へ
- マイノリティの小径を行く
- 螺旋状の成長を目指すこと
この最後の「螺旋状の成長を目指すこと」というのが、私が挑戦していることです。
A→Bへと一方通行の成長から、一段上へあがって、Cへいく。
上から見ればAとCは同じ場所にいるように見えますが、横から見れば一段上がっているのです。
どうすればいいのか? 少し長くなりますが引用します。
たとえば「神経質だ」と言われている人が、その性質をがんばって減らそうとするけれどもうまくいかない。そもそも鈍感→繊細という一方通行ですから、逆行は出来ない。つまり、感じていることを感じないようにすることはできない。無理にやれば、離人症になってしまいます。この場合には、神経質さにどんどん磨きをかけて突き進めばよい。神経質の極みに達したとき、ポンと抜けることになる。これがC点です。この場合C点では、さまざまなことを敏感にキャッチしているけれども、それに振り回されずにどっしりとしていられる状態になり、傍から見れば実にシンプルで神経質のかけらも見えない姿になります。そこでは、相反する性質が両立するのです。
人間は、こういう風に変化・成熟していくものなのではないかと思います。
(p.180-181, 下線は引用者による)
私でいえば「HSP」という性質について、いやだいやだと逃げていた時は余計に過敏に反応していましたが、いったんその性質を「引き受ける覚悟を決めた」時から、徐々にフォーカスしなくなりつつあります。自分の中に取り込んだ感覚です。
具体的には、「神経質だな~私。でもそれでもいいや」「音を気にするな~私。でもそれでもいいや、気になるんだから」と何度も自分を許して認めていったことです。
反対意見がアタマのあちらから聞こえます。でもそれも私。「これじゃだめだって思うよね、でもだめでもいいんだ、私。そこからスタートだから。」
そうしていると余力が出てきます。そして「どれくらい気になるんだろう?どれくらい神経質なのか、自分で測ってみよう」と思える元気が内から湧いてきました。
私を私として受け止めきったら、周りのことは気にならなくなってきました。ものの見方が変わったのです。まだまだ挑戦中ですが。
ただ、自分を認める、といってもそれがただの“甘やかし”で止まってしまうのはいやだったので、そこからどうしたい?どんな風になれたら自分をいい奴やん、と思える?笑顔でいられる? といったことは意識しています。
ああだこうだと愚痴ったり文句を言うだけなら、一度覚悟を決めてやってみたらいいと思います、失敗したってスタート地点に戻るだけですから。(それでもああだこうだとできない理由を探すのなら、それはその状態を自分が望んでいるというだけのことです。)
俗に言うポジティブシンキング、というやり方ではまったく変わらなかったのですが、それは方法が違っていたのでしょう。
自分はまだ変えていける、と知った時、楽しい!生きてる!って思いました。
いまだ自分に自信なんてものはありません。でも、自信なんてなくていい、と思います。なんにもできなくても私。私は私を生きるしかないから、私を引き受けることを私が決めることなんだと思っています。
生きてるうちは生きるんだ、ファイトだ~!
ぞっとしたこと(2年前のできごと)
こんにちは。今日はHSPについての話です。
2年前に起こった、本当とは思いたくない話です。以前のブログサイトではとても書けなかった。
このできごとがブログを始める(文章にして可視化する)きっかけとなりました。相変わらず長いんですが、よろしくお付き合いください。
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初夏、初めて主人と「うさぎカフェ」なるものに行き、そこで遭ったことです。
近場に「うさぎカフェ」なんてあるのか、と何の気なしに訪れました。低層ビルの2階にある店。階段横の集合ポストがごみで溢れ、そのあたりが汚いのが目につき、「いやだな、いやな感じがするな」と思いながらも店に入りました。
そこはマンションの一室をうさぎと遊べるようにしてあるところでした。室内は静かで、ほかに数組の客がいたようです。
今回の主人公は、受付の男です。
男はこちらを見もせず、システムの案内もせず、ただ目の前のパソコンとお話状態でした。入口で立ったままどうすればいいか聞いても要を得ない応答で、なんか変だと感じました。それでもこちらも気を使い、コミュニケーションを取ろうと話しかけたのですが、どうぞといった一言もなく、ただこちらの質問に答えるのみ。
一瞬もう帰ろう、と思ったのですが、まぁこんな無愛想な店員はいるもんだし、初めてのうさぎカフェで主人も楽しみにしていたし、うさぎも見てみたい、といった「欲」が働きました。料金を払う際にもこちらを見もしない男はもういいや、と奥へ。
それが間違いでした。
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なんだろうこの急な腹立たしさは?
対応の悪いこの男にかなりの「怒り」を覚えるものの、これくらいの店員はどこにでもいるし、ただ愛想がないだけなら別になんとも思わないのに、なぜ急に、この男に対しては心臓が暴れるくらい、頭から熱が出るくらいの腹立ちが起こるのか。
なぜ? 理由もなく怒るわけはない。
結局30分もおらずに店を出ました。
その時点では、男の店員の気味悪さへの怒りで少々興奮気味で車に向かっていたのですが、聞けば主人も同じ感覚を抱いていることがわかりました。(主人は怒ってはいませんでしたが)
私はこれほど急激で、これほど強烈な怒りの感情を持ったことがあまりなく、そしてその怒りの裏には疑問が大きくふくらんでいたので、ふたりで車で移動しながら話し続けました。
あの男って人間ではなかったよね。
私が感じたのはこれでした。男の見た目は特に変わったところもなく、その辺にいる斜に構えた20代後半といった感じです。
ただ、目に見えない世界があると仮定して、あの男は異界のモノだと感じました。宇宙人、何かに憑かれて中身がなくなってしまった人間の抜け殻、そのように感じました。(楳図さんの漫画『神の左手悪魔の右手』に出てくる「影亡者」だと思いました。)人間ではない、というのは、話がまったく通じない対象としての表現です。
ちょっとわかりづらいですよね。ウソでしょう、と思われることを覚悟で書いています。もともと私は霊感はありませんし、今までこういった系統の恐怖は身に覚えがありません。だから、目に見えない世界はきっとあるだろうけれども、自分では感じないので知らんふりができています。
主人と話すうちに、どういった状況、どういった感覚だったのかを整理していきました。
主人が比喩的に表現したのは、その男が、店に入ってきた私たちを、まるでクモが獲物を待ち構えていたようにひゅっと触手を伸ばしてきて、それに瞬間捕らわれた。ということでした。
私は見えないし感じないしイメージも湧きづらい方ですが、その感じは理解できました。私自身はその時「急激な強い怒り」を持ったことで、心のシャッターをすぐに下ろし、こいつの言うことは聞かないと無意識にガードしたようです。
ただいかんせんこういった場には不慣れです。自分の強い怒りの感情にどう対応したらいいかわからず、とりあえず離れることしか思い浮かばなかった。
それに、入口の真正面に立った主人の方が矢面に立ってしまい、私は補足くらいの位置づけだったのか、そこまで「やられる」被害は薄く済んだのだと思います。
割合そうしたことに慣れている主人でも、一瞬のことで巻き込まれそうになったようです。(主人はHSP/HSS/エンパスです)
店内には、女子アルバイトさんがいました。彼女も異様でした。男の異様さとはまったく違う、生気がなく、哀しみや淋しさや弱さだけでふらふらと生きているように見えました。
ただの印象ですが、どうしてもあの男と接する時間が長いから、人間の成分を吸い尽くされてしまったのかな、と感じました。人間世界では生きていけない感じ。だから動物を相手にした仕事でないと精神がもたない、そんな感じまで受けました。
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その年の3月頃からHSPを知り、自分なりに調べて気持ちが落ち着いてきたころでした。
自分の気持ちを優先し大切に扱うこと、感情と行動を分けて捉えること、人知を超えた存在や世界があるということ、エナジーバンパイアという存在があるということ、
HSPに関わるそうしたことを知ったことで試練的なものに出遭ったのか。
今までの私だったら、訳もわからず「やられて」しまい、不機嫌になり、自分を持て余し、勝手に作り上げた問題に取り込まれていたと思います。今回は自分でも驚くくらい冷静に出来事を捉えることができました。
ものすごくたくさん学んだと思います。
- まず、「欲」にとらわれると足をすくわれるんだと実感。今回は、うさぎを見てみたい、主人に楽しんでほしい、ひとり1時間1600円という高い値段、といったものにとらわれて、自分の感情を大事にしなかった。店に入る前にいやな予感がし、そして店に入った瞬間にそれがあたった、と思ったのに、それを後回しにした。気分の悪いままその場にいても、決して気分は好転しない。それは確実。だからすぐさま離れるべきだった。
- 今回は、明らかな敵がいた。自分の感情といった目に見えない敵と争う必要はなかった。あの男という実体があったので、自分とは分けて、整理して捉えることができた。
- 自分の感情を大切にすることがどういうことか、少し、解ったような気がする。それは自己中心的なものではない。俗に言う「わがまま」ではない。もっとフラットに、冷静に、平静に、自分を認めることだ。
今まで他人優先だった私には、考えを変えることはまだまだスムーズにいかない。私の気持ちなんて後回しでいい、と自動思考してしまう。
場所を移し、納得いくまでよく話したことで、完全ではないものの整理することができた。主人と一緒にこの問題を話すことができて、心底安心した。でもとても疲れた一日だった。
・・・当時のメモにそう結んでいます。
このことがあってからです。自分の直感を信じること、優先することを決めたのは。
HSPだから感じたのかどうかはどうでもいい。
しかしHSPの性質が「危機察知能力」として役立つなら、それを活かす。
それで、どこかへ行った時(特に初めて行くところ)、その場に立ってなんらかの違和感や空気のよどみ、みたいなものを感じたら、それが飲食店で席に通されたとしても帰ります。(我慢できそうならそうしますが)
肌や皮膚の感覚(ぞわっとする、とか)、まわりの空気の感触、といったものは見えないし言葉にもできませんが、たしかに感じるならそれは自分にとって大事ですね。
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でももう、あんな強烈な感情の動きは二度と感じたくないです。。
HSPのみなさんのなんらかの参考になれば、とようやく書く気になりました。わかりづらいようでしたら補足しますので、お知らせくださいね。
長々とお読みいただいてありがとうございます!
『MUSICA』インタビューの感想
こんにちは。今日は言葉についてです。
今回は、私をエレカシファンにさせてくれた友人Yちゃんにお手紙を書くようなつもりで書きます。
◇ エレファントカシマシ 宮本さんのインタビューを読んで
エレカシにわかファンの私でございますが、このはてなブログにお引越ししてきてよかったなぁ〜と思ったのが、エレカシ大ファンの方々のブログを読者登録できたことです。今までは検索してブックマークして、でしたが、自分のページからすぐに見に行けるのですホホホ(^.^)
はてなブログでは書くことが上手な方が多くいらっしゃる印象がありましたが、あらためてそう感じます。私もあやかりたいです(^-^)
そんな先達の方々のブログにて、たくさんの情報をいただいているのですが、その中でご紹介のあった音楽雑誌『MUSICA』を買ったわけです、なにせ堂々のにわかファンですから!
巻頭特集です。(「ムジカ」 2017年7月号)
(ところでスピッツも30周年なんですよね、しかし以前買った「ROCKIN'ON JAPAN」でもエレカシさんの影に隠れるような感じで。。泣)
私はエレカシの今までの歴史を知りません。どのような紆余曲折を経て、今を迎えているのか、その重みを知りません。昔からのファンの方々のように、苦しい時も一緒に乗り越えてきた、ということもありません。ですので、その方々からすれば、浅い感想しか持てないかもしれません。(先に言い訳してますが。。)
しかし、今50歳を超えた宮本さんの言葉をじっくり味わうことはできます。この年齢だから言えることもあるだろうし、私も45になったことでもあるし、心情的にはエレカシメンバー(の年齢)に近くありたい、と思います。(若いから魅力がある、のは一面的だと常に思う。歳を経た魅力の方が深みがあって私は好きなのです)
今回の30周年記念ライブ2ヶ所のレポートと、新曲やライブについてのインタビューが載っていました。
こうした記事の常なのか、煽るような文言が目立ちますがそれは特性上しょうがないですね、しかしそれを取っ払ってみても、今回のライブツアーは今までの集大成たるもののようですね。ここまで積み重ねてこられた皆々様に頭が下がります。
インタビューの感想を書く前に、曲について私が思うことを書きます。音楽にまったく詳しくない私が言うのもおこがましいことですが、エレカシの曲はずっと聴ける、本質的なものを歌っていますね。
宮本さんもインタビューで「歌詞の内容がある種、普遍的なものだから」「普遍的なことを歌うのが好きなんでしょうねぇ」と言っていますが、流行り廃りのある曲・歌詞ではない。それは反面、大流行歌、とはならない、ということも意味しているように思います。耳触りのよい、街でたくさん流れている曲ではない。ただ、聴けばその人だけのものとなってずっと心にいてくれるのですね。
普遍的内容であると同時に、曲や歌詞の「メッセージ性」は確かにあるものの、その曲の解釈は聴いた人それぞれで持つことができる「余白」のようなものがあるのかなぁと思いました。
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インタビューを読んで。
◇ 個人から全体に
宮本さんだけでなく関わるみなさんの意識や行動が「個人から全体に」移行しているように感じました。自分本位とまではいかないけれど、一つのバンドでの世界観から、ファンの方々はもとより自分たちのさらなる可能性を含めた大きな世界観を、今持ちつつあるのだなぁと。
それは、一歩一歩着実に、理想高く、自身の責任感をもって重ねてきたことが花開いたことなのでしょうけれど、ご本人はまだ戸惑っているように見えました。
「歌を大事にする、歌がしっかり響く、歌が主人公である」「曲を主役にしたコンサートを意識的に」しているという今回のライブを経て、今後も新しいエレカシを開拓していかれるのかなぁと感じます。大器晩成でドーンと行ってほしい!
◇「わからない」の連呼
人が何を言っているのかわからない、と「わからない」を連発されてます。
その「わからない」がわからない(笑)のですが、思いますに、宮本さんの頭の中には数限りない言葉や選択肢があって、あらゆる角度から高速で検討するのですが、あちらを立てればこちらが立たず、というように、一つどれを選んでも禍根が残る。それがいやだからぴたりとはまる言葉を探して長考し、たくさんの言葉を紡ぎだすのではないかと。
どれをとってもいいし、どれをとらなくてもいい。だから結局はどれでもOKなんだ、と言っているように感じました。
「僕はまったく空気を読まないタイプだと思うんですけど」と言っていますが、表面上の場の空気を読もうとして結局つかめない、ということでもあるんだろうと感じます。こうしてその場で表面上はしゃべっているけれど、心はここにはいないのではないでしょうか。もしくは読めたとしても自分のスタンスは変えない。でもそれでいいし、それがいいですよね。
空気を読むだの読まないだので会話とか関係性とか、それだけで人は量れるものではないですよね。読み過ぎて空回りしたり、読もうとしても読めない、それはそれでいいと思います。読めてると思ってる人だって、ある面では読めてない。そうした細かいことにこだわる人の方が読めてないな、って思います。
「わからない」のは「わかる」よりよっぽどいいと思います。それはこれからも成長や進歩の余地があるということだから。わかったふりして現状維持、なんて、訳のわからない大人のすることです。
とにかく素直! まっすぐ! 真面目! という印象です。
真面目だから自由に憧れるし、理想を高く持つから今も戦い続けている。世俗的なものも大切だけど、そこから離れたいという気持ちもあって、それで歌詞によく出てくる「風」に思いを託すのかなぁと感じます。
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長々と偉そうにすみません。。
エレカシはメジャーですし結構ないい年齢なのに、なんだかいまだにぎこちないみずみずしさみたいなものを感じるのですが、曲を聴いていると頷けるといいますか、すれてないなぁと感じます。現状に満足しない。まだ高くまでのぼるんだ、というような。
雑誌には写真もたくさん載っていて、宮本さんはいつものごとく素敵なんですが、石森さんのさらさらヘアには憧れるし、高緑さんの渋さやはにかみの表情が微笑ましいし、トミさんの飾らない感じがもうかっこいいなぁと感じました。(ミーハーですみません)
以上、一介のにわかファンの戯言ではございますが、熱意を持ってこれからも応援したいと思っています!(Yちゃん、これからもよろしくです!)
感受性のことを歌う
こんにちは。今日は音楽の話です。
一時、椎名林檎ちゃんがすごく好きでした。30代前半くらいからです。
いい歌いっぱいありますね。あの華やかでエキセントリックな、常に舞台に上がって勝負してるような感じがものすごくプロだなぁと思わせられます。
細部にまで神経を張り巡らせた“椎名林檎”的世界観。聴く方も覚悟がいります。
林檎ちゃんの歌は「常に張り詰めてる」ように感じます。歌詞もメロディも。こちらをヒリヒリしたような気持ちにさせるのが巧いですね。
たくさんのヒット曲があってそれももちろんいいけれど、アルバムの中のほかの多くの曲も作り込みが巧みです。
私はズバリ恋愛のことを書いている歌詞が苦手です。(恋愛を描いているようで本当に言いたかったことは違う、という歌もありますが)
恋愛は人間関係の縮図で、個別のことを言いながら実は普遍的なことを言ってる、というのはわかりますが、歌詞の中に好きだの恋だのが入ると興ざめしてしまいます。エキスくらいにしておくれよ。
下の曲は恋愛ものではありません。「感受性」についての歌詞、としてすぐに浮かぶ一部分をご紹介します。
(「虚言症」より)
そして何故に 雨や人波にも
傷つくのかしらね
10代の頃に作ったというこの曲は、10代らしくみずみずしく、たどたどしい感じもあって、でも強く生きる気持ちが素直に出てると感じます。私が聴いたのは30代でしたけれど、歌詞のこの部分にとても共感しました。
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感受性が豊かで傷つきやすい人は、心が10代くらいなんだろう、と思います。世間に慣れてしまえなくて、傷を受けても手当ても知らずそのままむき出しにしていて。
それはもうしんどいでしょう。まわりが気づかない微かなことにも気づいてしまう心は、ほんの小さなすり傷だって大きな傷と変わらない。
出てきた言葉や、目に見える表情や態度だけでなくて、発散される空気や波動、匂いや音、それらをかわせず総身で受けてしまう。
小さな自分を守るために、身の回りにどんどん鎧をつけていって、その重みで小さな自分が苦しくなってる。
もしくは、小さな自分は置いてきぼりで、頭でできた自分がでしゃばり前に出ている。ほんとの自分はどこでしょう?
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心のなかにきれいな泉があって、いつでも豊かに水をたたえている。
緑深い森の中みたいに、もの言わぬたくさんの世界を内包している。
人波にも傷ついてしまう人の内的世界は、こんな風に静かで優しく、とても気持ちのいいところだろうと思います。できることなら、私はそんな人になりたい。
徒に疑ってみたりしないで 大丈夫
いま君が孤りで生きてるなんて云えるの
君は常に 常にギリギリで生きる
あたしは何時も君を想ってるのに
(「虚言症」より)
関わらないことも愛情 その3
長くなりました〜、今回で終わりです。
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個人的な知り合い、他のSNSでもやり取りのあった、割と関係性の濃い方々からの連絡はほとんどありませんでした。
本当に勝手なことですが初めはちょっとショックでした。淋しくもありました。割とやり取りしていて信頼関係も築いていたつもりだったけどなぁ。急だったからかな。私が連絡しなかったことで何か思うところがあったのかな。それとも忙しくて見てないうちに消えたと思われたかな。でもそれらは「私の解釈」であって、その相手の本心はわかりません。永久にわかりませんが、
a・私が相手に抱いていたほどの関心も興味もない
b・気を遣って何も言わない
c・あえて何も言わない
といった感じなのかなぁ、と思いました。
aはもう仕方ないですね。縁がなかったと思う。
さらにこの、「気を遣って何も言わない」と「あえて何も言わない」、そして「理由を聞きたい」という行動は、もし自分が同じ行動をしたとしたらどういった意図があるか?と考えてみました。
すると、どちらにしても最終的には「愛情」があるのかもなぁと思ったんです。
どういうことか?
連絡をくださった方、理由を聞いた方、何も言わない方、みんな「私の意思を尊重するよ」という意思表示をしてくれているのです。
「何も言わない方」も? と思われるかもしれません。私も「何も言わない」だけならただ関心がないのかもしれないと思いましたが、やはりそこは今までの関係性があります。
「気を遣って」「あえて」、それぞれ何も言わないでいてくれてるのかな、と考えました。
私の事情を慮って、私が何か言ってきたら応答する、ということなのかもしれません。積極的に関わらないことも、その人なりの愛情の示し方なのかもしれない。
すべて想像で、仮定の話です。
でも、こんな風に捉えることは今までできなかったし、そんな視点もなかったのです。そう思ったら、みなさんそれぞれの愛情(友情、優しさ、親しみ)を受けられた、と受け止めらたことはすごいことだと思いました。
こんな風な捉え方ができたことで、今までの人生での、腑に落ちなかった別れや勝手な期待での腹立ちなどが昇華されるように思えました。
みなさんを、信頼できた。それは、自分のことも信頼できた、ということだと感じました。
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人様を実験台みたいに使ったようなことになって気がひけるところもあるのですが、新しい視点・違った視点でものを見る、という大きな思わぬ発見がありました。少しざわつきつつもフラットな気持ちでいられたことも今までの自分にはなかったことです。
自分のものさし、思い込み、マイルール、執着、こだわり。
あってもいいけれど、すべて過ぎたるは及ばざるが如し、で、今はできる限り手放していこうとしています。手放したうえで、再構築したいのです。
今回のことは、衝動でしたことではあるけれど、私の「経験」につながりました。
こんな感じ方ができたとは、やっぱり私は人に恵まれているんだなぁ。優しさをたくさんもらっているなぁ。
はたしてその愛情を私が返していけるのだろうか。新たな課題ができました。
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以上が振り返りです。
お読みいただき、ありがとうございます!
関わらないことも愛情 その2
長くなりましてすみません。続きです。
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だいぶ前に、私は「当たり前のことなどない」と思っていると書きました。細胞も毎日入れ替わっているし、今日に続く明日は同じものではないし、明日が来るかどうかも本当はわからない。
SNSであれ、人間関係なんてその最たるもので、今日の関係がずっと続くことは奇跡のようなものだと思っています。だから、悔いを残さないよう、小さなやり取りでも今の私にできうる限りのことをしてきました。
至らない人間ですし、疲れていたり、他に気にかかることがあれば、全力を尽くしたとはいえない対応だったかもしれない。
ただ、慣れや惰性になったら終わりだ、とは思ってました。
いつもと一緒、なんていう状態に甘えるなんてのはしたくない。日々同じようなやり取りであっても、ちょっとした変化をもたらしたい。窮屈だ、倦んだ、と感じたら、それは安定ではなくもう飽きてしまったということ。私自身もその関係を続ける行動をしなくなったということ。
こうした思いはただ私がそうしたいと思っているだけのことです。ただ、とても大事にしている部分です。ブログなどは顔が見えない間柄だから余計に、一回一回を大事にしたいと思っています。
・・・でもね、本音では、安定した永続的な甘えてもいいような安らげる関係を築きたい、と思っているんですよ。その裏返しで虚勢張ってるんですね。
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このたび、数名の方がご連絡をくださいました。ほんとうにありがたく、嬉しかったです!私との関係を受け止めてくださって、続けようとしてもらえたことに、感謝しかありません。ありがとうございます。
なぜ移行するのか理由だけを聞きたいという方もいらっしゃいました。そして、まったく連絡のない方々もたくさんいました。
この連絡がない方々にも関係性の濃度があるなぁと思っていて、
1・もともとまったくやり取りがない方は濃度0%
2・コメントやメッセージでのやり取りがあった方々ならけっこう高く40%~
3・個人的な知り合いや、私は〇meba 〇iggもやっていたのでそこでもやり取りのあった方々なら70%~
心情的にはそれくらいの濃度です。
それで、3の方々には今回、個別には何も言いませんでした。そして、ほぼ連絡はありませんでした。(もともとブログをご覧になっていない方は除きます)
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次回で終わりです~。
関わらないことも愛情 その1
こんにちは。
こちらに引っ越してきてから1週間ほど経ちました。
先日の記事で、移行について「自覚的に、意識的に」行動した、と書きました。少し振り返って、私なりの思いを書きます。
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動くに当たっては、前々から計画していたわけではなくて、やってみようという衝動のようなものでした。
さよならの記事は、こちらへの移行ができてから書いたわけですが、その時に、読者になってくださっていた方々とのやり取りやつながりを思い浮かべ、どんな反応があるのだろう、と意識しました。
読者登録してくれていてもまったくやり取りのない方もいましたし、ましてや私に知らせず登録してくれている方はどういった方なのか知る由もありません。何度かやり取りをしたけれど、ふいに連絡のなくなった方もいます。
一度でもやり取りした方は、その方の文章の雰囲気で覚えます(^^) アイコンや名前より、文章って強い印象を残します。顔が見えないことによって、それだけ際立つところもあるなぁと思います。文面に個性が出るというのでしょうか。みなさんはどうお感じになるでしょう。
顔が見えれば言葉以外の情報が目に入るので、身振り手振りや表情で察することもできますが、文字や言葉だけでニュアンスを汲み取るのはやはりなかなか難しいですね。
もちろん人様の反応を見るためにブログ移行をしたわけじゃありません。自分の中に動きがあって、実際の行動となっただけです。ただ、それでもやはり気になってしまいますね。
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ついついその人の意図を汲み取ろうとしたり、気を回したりして空回りすることは今までの人間関係でありましたが、ヘトヘトになりますよね。あげくに想像と違ったりして徒労感もあったり。そりゃそうですよね、相手の思いは相手に聞かなきゃわからない。同じものを見ても、感じることはぜんぜん違ったりしますね。
無駄に傷つかないようにするには、相手の感情は相手のもの、私が考えることではない、と自分に言い、「気にしない」と決めて、実践をすることでしょうか。
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ブログを始めてたった1年ほどですが、初めのうちは「自分の勝手な解釈で」変な気を使ったりしていました。
少しずつ、私自身の思考のクセややりがちな行動を認識しつつあったので、相手は相手、と思えるようになってきています。(ブログを書くことで気づくこともありました。書くってすごい効果ですね)
人の本当の気持ちはわからない。そして、わからなくてよい。
そして、私も勝手に想像したり期待したりしてもいい。
本当は、相手にすぐに聞ければいいけれど、そうもいきません。だから、勝手に期待してもいいけど、自分がそれに固執しないで振り回されないで、違ったからって勝手に傷つかず、流せる余力を残しておきたい、と思っています。
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今回の移行で、やり取りをしていた方々がどんな反応をするのか気になると書きました。
けれど、人様の気持ちは私にわかるわけありませんから、連絡をもらえればとても嬉しいだろうし、なくてもこんな一介のブログですしまぁそんなもんだろうと思っていました。というか、まったくなくても仕方ない、残念だけど、と思っていました。そうならそうで、やっていくのみだ、とも。
フラットにいられたのは、自分自身がそれでどんな気持ちになるのか観察してみたいという意識が大きく働いたからです。
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長くなりました、続きます。(3記事あります)
他人の目線って
こんにちは。
この間、旦那さんのくつしたの毛玉取りをしてた時、思い出したことがあります。
だいぶ前に何かで読んだかエッセイだったか忘れましたが、いい歳の男性が言うんです。
宴席かなにかで、同僚の男のくつしたが毛玉だらけなのを見て、「こいつの身の回りを気にかけてくれる女性(奥さんとか)はいないのか、無様だ、かわいそうに(それに比べて自分の妻は家事をちゃんとしてどうのこうの)」とかなんとか。
それを読んだ時、このおっさんのアホみたいな虚栄心、アホみたいな優越感、器の小ささ、に腹立ちを覚えました。でもまぁこういう気持ちもわからんでもないですが。
てゆーか、その男に奥さんがいたとして、その女性は気にしないたちかもしれないですよね? もしくは病気がちとか事情があってできなかっただけかもしれないですよね。 他にも理由はいくらでも考えられますが。それで思ったんです。
うわっ、こんなせせこましい、人を見下すようなしょーもないおっさんの価値観で私を測られたらたまったもんじゃないわ!
そういうことですよね。他人の目線を気にしたら、こんな自分とは相容れない人間の言いなりになりかねん、ということですね。
これは極端な例かもしれないですが、大なり小なり似たようなことに支配されてしまいがちなんですよね。
そして、自分の目線というのも、このおっさんと大なり小なり似たようなもんだということですよね。一貫性もないし、自分の経験だけから見た小さな狭い目線ですし。
カチコチに固まった目線をほぐすのは時間がかかるけれど、もう、そんな小さい狭い世界にこだわるのはやめよう。捨てられなくてもいいけど、こだわらなければいいよね。一個しかない、と思い込まなければいいよね。
私が自分のその目線をどう感じるか、どう思うかで決めていこう。そしてできたら、たくさんの違う方向からも見てみたいな。
いつも同じことを言ってますね、私。実は、言い方を変えて、自分に言い聞かせています。
練習するのみなのですが、すぐに忘れてしまって元に戻ろうとしてしまうんですね。楽だから?面倒臭いから?
あの、自由だと感じた時の内面から溢れたよろこびやおそれ、一気に内側が広がって意識が宙を突き抜けていったような感覚、これはまだ心と身体に染みついています。
生きることのちからってこんなに熱くて頼もしく、嬉しさがあるものなのかと思いました。
だいじょぶだいじょぶ、一歩ずつ進んでる。はじめの一歩は力が要るものさ。
さて冒頭部分ですが、けっしていい奥さんアピールとちゃいますよ!
化繊のくつした(ユ◯クロ)はすぐ毛玉できますよね、そして私は毛玉取り器をもくもくと動かすのが好きなのです。ラグとか延々とやっててじきに穴が開くんとちゃうか、と思います。
快晴、風強し!
緊迫感ある人
こんにちは。今日は本の話です。
河合隼雄氏について書かれた本です。
河合隼雄氏が書いた本は、すべてではないですが、見つけたら読む、忘れたら読む、を繰り返してきました。エッセイのような軽めの本でも、河合氏の書いたものならば未知の世界を見せてくれるという信頼で手に取ります。
この本は、河合氏が書いたのではなく、河合氏と関わりのあった方々がそれぞれの視点や経験から書かれたものです。
河合氏は、ユング派心理学を日本で初めて広めた人で、箱庭療法や夢の分析を取り入れた人ですね。
河合氏自身の生涯についてはほとんど知りませんでしたが、国の機関に関わり多忙な時でも、そして亡くなる直前まで、ずっとクライアントを持つ臨床心理家として活動されていたと知り、驚きました。
『臨床家 河合隼雄』岩波書店 2009/9/11(息子の俊雄氏が編集したものを図書館で見つけました。)
大学教授や心理学に携わっている方々の話と、文学者や詩人、指揮者、企業会長など文化に携わる方々の話が載っています。
中でも、専門家として実際に心理学に関わる方々が「教育分析」という形で自分自身や、自分の抱える症例についての心理分析を受け、そこでの河合氏の姿や発言を書いているのですが、非常に緊迫感があります。
文体は論文調で硬いのに、内容は小説よりもすさまじく、ダイナミックだと感じます。人の、心(無意識)の中の動きはこれほど大きく激しいものか、と感じます。
河合氏は、あのほがらかな笑顔をネットの画像でも見ることができるけれど、実際にはとてもとても厳しく強い、暗部を見据えるような眼差しを持っているんだろう、と感じていたのですが、やはりそうだった。
素人考えですが、人の心に分け入るには、相当な覚悟がいりますよね。自分の心だってよくわからないものなのに、ましてや人の領域なんて。
だから河合氏がよく言ったとされる「わかりまへんな」は真理を突いてるなぁと思うのです。
心理療法家、カウンセラーという人は、ただその相手に覚悟を持って寄り添って、横に並んで一緒に進んで行くしかできないんだろうと思います。
講演の途中で絶句してぶわっと涙が溢れ言葉が出なくなった、駄洒落が好き、フルートを本格的に演奏する、などなど、心のありようの幅の広さが魅力的な方だなぁと感じます。
両極端、陰陽をみずから体現されているように感じます。
物語や、児童文学についてやさしい言葉で書かれたエッセイのような本もたくさん出ていますね。やさしい言葉だからって理解できるかどうかは別で、私は理解できてないなぁと思うのですが、人間の心の深淵を覗くような感覚で読むのが面白いです。
折にふれ、また読んでみよう。
最近の気づいたこと
こんにちは。いつもありがとうございます(^-^)
今日は、最近気づいたことについてです。
◇自分の範疇にないものでは勝負してない
夜、車に乗っていて、旦那さんが遠くを見やって「山の稜線に(何かの施設の)光が見えるね」みたいなことを言いました。
私は、ものすごく目が悪いです。視力(0.01くらい)だけでなく、軽い乱視、夜はひどく見えにくい鳥目、さらに老眼がやってきた?と最近感じる、目が悪い歴30年以上のおばさんです。(近視だから、老眼がやってきたら中間地点で逆によく見えるようになってくれへんかなぁと都合のいいことを願っています。)
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たとえば眺めのよい場所に行き、遠くの方に何があって…、とか、街中で向こうの方にある標識とか説明されてもほとんど見えていません。
ですので、ほとんど聞いていません。よそ見しながらふーん、ってなもんです(失礼)。
そこで気づきました。「ラクだな」
そう、自分に備わっていない能力では、そもそも勝負してないんだということ。焦りも、嫉妬も、負けたという悔しさもないんだということ。逆に、いたわりといったものも求めていない。
私にとって視力は悪いのが当たり前でして、それがほしいとあがく対象でもなく、といってないからつらいと嘆くものでもない。
だって仕方ないですよね。この「仕方ない」は諦めの言葉ではなくて、「ないもんはないしね」とカラッとしたものです。
これが他のことにも及べば、力を抜いて生きていけるなぁって思ったんです。
◇創作ダンスの苦痛からの立ち直り
大げさなタイトルですね。古い話題なんですが、私は運動全般が苦手で、学生時代の体育は苦痛でした。
「創作ダンス」、やりますよね。あれも、リズム感はないし、頭と身体がバラバラでぎこちなくてガクガクしてました。
練習中、クラスメイトにも動きが変だと笑われました。自意識過剰な思春期の時期でしたから恥ずかしかった。でもまぁそれも仕方ない。他の子と比べれば一目瞭然でしたのでできてなかったのは仕方ない。ただ自分に、「運動ができないレッテル」を貼ったみたいです。
もともと運動(身体を動かすこと)が本当に嫌いなのか? 確かにボール競技やチームプレーなんてとても苦手です。 あんまり興味も湧かず、実家に暮らしていた時家族がバレーボールやら観て盛り上がってるのを見ても、ふーんってなもんです。
しかし先日、映画『SING』を観に行って、たくさんの音楽を浴びて、楽しい経験をしました。家でサントラを聴いていて、自然に身体が揺れました。もちろんダンスのようなステキな動きではないけれど、にこにこしながら揺れたり手振りをしたりして、楽しかったんです。
「あれっ、楽しい。身体を動かすのって楽しいんや」
またまた気づきました。私は、〇〇が苦手・できない→全部が苦手・できない、にしていた。自分で、封印した。できないし苦手だし恥ずかしいし笑われるしチームではみんなに迷惑かけるし……いっぱいいいわけが浮かびます。
でも運動の中の「ダンス、ボール競技、チームプレーのもの」といった一部ができてないだけで、運動ってほかにももっとありますよね。
なーんだぁ。また自分の思い込みかぁ。かちこちやなぁ。
苦手分野から得意分野にはなりませんし、興味が湧くようにもなりませんが、でも気づけてよかった。いろんなものいっぱいくっつけてるから、ひとつでもはずせればそれだけ軽くなれる。いつまでも古いもん背負ってんねんなぁ、私。
もうなくなったよ。また一歩、楽に近づけるね!よしよし!
自由だ!そしてあらためてのお礼
こんにちは。
このたびは、さっそくコメントをくださったり、ID登録してくださったり、とつながりを大切にされる方々に恵まれて、その優しさをわけていただいて、私は自分で思っているよりもはるかに幸福で、気づかないままで優しくされているんだなぁと感じています。あらためましてありがとうございます!
先日、近くの川の橋を渡っていて真ん中で止まり右・左を見たら、水の流れが両方に長くうねうねと伸びています。
その時に、「あぁ、このまま上流に向かい、山の中を分け入り源流まで深く入って行ってもいいし、
下流から大海に出て、広く様々なものを見聞きしに行ってもいいんだな、なんて自由なんだろう」と思いました。
空は青いし雲は白くて太陽が輝いていて、そこに私がひとりでいる。
自分で縛らないで、自分で狭めないで、自分で選んでいいんだな。さぁ、まずはどっちへ行こうか、やってみようか。楽しみです。
生きた声
こんにちは。
今日は本と歌の話です。
先日エレファントカシマシ・宮本浩次さんの言葉たちを集めた『宮本語録集』を読みました。
生きた声だなぁと感じました。
文脈なく、言葉だけをポンと載せているので、意味を追ってしまうと理解不能です。しかしそれでも宮本さんの思考回路のかけらが感じられます。
テレビ出演などで、話を振られた時のあの独特の「間」。はじめの頃は、見ているこちらがヒヤヒヤするというか、息を詰めてしまいました。今は何が出てくるのかな?とわくわくします。
たぶん変えられないそのペース。
人柄のよさ、青年期そのままなところ、真面目で熱いところ、伝えたいという思い、などなど感じることができて、嬉しかった。
『宮本語録集』2冊
それから、なんせにわかファンですから「ROCKIN'ON JAPAN」(5月号)も買ったわけですよ(笑)
そこでもインタビューや宮本語録が載っていてその中にあった、
重いってどういうことですか? 演奏が重いとか。内容が重いとか。
だけどさ、真面目に生きればやっぱ重いですよ。
そういう意味での重いだったらわかる。真面目にやれば必ず重いですよ。
(1989年9月号/『浮世の夢』)
共感しました。
人間として、真面目に生きることのどこに恥じることがあるんだ、と感じました。こういうこと言ってる人だから、ファンになったんだろうと思います。
私は今年に入ってから、「変えていこう」と決心し、わからないままにいろいろと動いたり、わかった上で実行したり、と行動を重ねてきたのですが、その後押しをしてくれた歌手がふたりいます。
ひとりはKREVAさん、もうひとりが宮本さんです。
今までどんな歌を聴いても歌詞を読んでも一過性で、よほど昔からファンでないと心に残らずにきていましたが、このおふたりの歌詞については聞いた時から自分から全注意を向けて受け取ろうとしていました。
出会ったきっかけはそれぞれ偶然のようなものです。でもタイミングがバチッと合った、そんな感じなんだろうと思っています。
KREVAさんなら、「居場所」を聴き、次いで「かも」に心を動かされました。私の中に決意のようなものが湧きました。
「居場所」より
思い描け そこに目がけ
つもりだけじゃなくて動き出せ
無駄な事は無い それはウソだね
ただボーっと眺めるだけの時間を減らせ
(中略)
その手動かせ
黙ることはできないんだろう
壁を動かせ
守るだけじゃ増えない居場所
「かも」より
このままこうしていられるなら 他には何もいらない
そんな風に思えてしまったなら
終わりが近いのかも
あの時本気で挑んでいたら 今こんなとこに居ない
そんな話あなたのその口から
聞きたくないのかも
がーんとしました。KREVAさんの他の曲も、自分で決めて進め!という歌詞が多く、なにかのせいにしてやらない、言い訳してやらない、とただ日々を過ごし、「生きる」ことも借り物のようにしていた私は、横っ面を張られたような感覚でした。
そして、自分自身にこの歌詞を受け取るだけの度量があるのか、という恐れや震えみたいなものも感じつつ、とにかくやるんだ、と決意を固めました。
その後出会った宮本さんでは、「さあがんばろうぜ!」と「俺たちの明日」でも歌っているとおり、まっすぐ、ドーンと、輝きを求めて行こう、という強さ(それは優しさから出るものなのかなぁと思いますが)がありますね。けして「がんばれ」ではなく「がんばろう」というところが、「そうだね、私もがんばろう」と心和ませ、素直に思わせてくれます。
おふたりとも、なによりもまず自分だ、と感じさせてくれました。人のことなんてほっとけ。まず自分なんだ。
そう決意しても、人のことを気にしないでいることはなかなか難しく、自分自身の頭の中では絶えずいろんな声がしていてまさに喧喧囂囂。何人もの自分がやかましくしゃべっています。(人格がたくさんある、ということではなく、同じ自分があっちからもこっちからもああ言えばこう言う、という感じ。)も〜〜うるさいわ!となることも多いです。誰か決めてくれよ〜って。
そのうち、人の目なのか自分の目なのか混乱してわからなくなり、ひとりで消耗しています。よほど暇なんですね〜…、私。
以前のブログでも、誰の目を気にしていたのか、当たり障りのないことを書いて「いいね!」もらってホッ、なんてことしてましたけど、そんなもん、ほんまに欲しいの?自分の心が満足しないままするのって自分に小さい嘘ついてるやん、って思いました。誰のためにブログやってんだか。また出ましたよ、自分で勝手に作り上げた人の目。
…着地点が見えないまま長くなってしまいました。まとまりませんでしたが今回はこの辺で。。読んでくださってありがとうございます。
次の記事では、最近の気づいたこと!を書こうと思っています(^-^)
お礼
こんにちは(^-^)
昨日は突然の申し出にも関わらず、私の意向をお聞き届けくださって、ありがとうございました!
ご連絡くださった方々、私には身に余るほどの光栄で、感謝でいっぱいです。
じわわ〜んと嬉しさを噛みしめています。みなさまの期待を裏切らないようにしなくちゃ…これまたこの気負いがあかんのやっちゅーに!
妙な高揚感、淋しさ、ちょっとした不安感、大したことしてないのに大それたことをしたような気分になっているな、とも感じていますが、それを超えて、清々しさや風通しのよさがあります。
今までの人生で、作っては壊す、を続けてきたかもしれません。
みなさんもそんな時もあるでしょうし、じっくりひとつのことを続けている方もいらっしゃるでしょう。
私は物事を続けられない、例えば一つの会社で何年もやっていけないことに引け目や劣等感を感じていました。(長くて5年くらいです)
続けることはやろうと思えばできるのです。新しい環境、新しい仕事や作業を覚える方がよっぽどつらいし、覚えも遅くてどんくさくビクビクしている自分がいやになるくらいです。
でも、ある程度すると、そこから出ていきたくなる。変えたくなる。
自分が心の底からはたして何を求めているのか・何が大切としているのかを見つめることをせず、アタマだけの考えで行動してきました。自分で作った価値観でがんじがらめです。
それが何でなのかわかったのはつい最近です。
そして今回は、自覚的に意識的に「枠を壊して飛び出る」をやってみました。
前回の場所は別にいていられない場所でもない、ぬるま湯的な居心地のよさもあり、楽でもありました。だから、ふっとした時にきゅうくつだと感じたのは私のとらえ違いかもしれません。
しかしやっちゃいました。そうこれこれ、こんな風にやってきたんだ私。
職場でいうと、3年くらいでモヤモヤとした不満なき不満を抱えて、仕事というより環境に慣れきった感じを持ち、「何も変わらないな~」とむずむずしてくる。
辞める頃には不満が爆発して、「続けなきゃ、でも続けたくない」とぐるぐる思考が始まり、不安を自分で煽りつつ、自分を責め環境を責め、体力も気持ちも使い果たしていました。「あぁ結局仕事を極めることもできなかった。自分でチャンスを潰したかもしれない」辞めてもそんな不満は残ったままです。勝手に傷ついたようになってました。いろんなことごちゃまぜにして、わけわかんなくなってました。
結局は自分で選んだのにね。
それを自覚してなかっただけなのにね。
現在は、今までのように、それまでの関係性までを壊す、とつっぱしるところはアカンよ、と自覚しています。我慢ができず待てしばし、ができないところが結構アカンよ、と。自覚したからといってできるわけではありませんが。人との関係性を壊すことは、自分を痛めることでもある。自分を大切にしていないことのひとつの表現である。「私なんて人から大事にされるわけない」といったような思い込みから、ならば先に切ってやる、という極端な思考へ走るのだろう、と認識しています。…いやいや、何を冷静に分析してるねん、ですよね(笑)
でももう自分にそうやってダメ出しして、勝手に落ち込んで勝手にふてくされて拗ねてなんてやめましたから! いやもうアカンところだらけの大したことのない人間ですから!それでも私なんですから。つきあうって決めたんですから。
いきなり長くなってしまいました。中途半端ではありますが、いったんここで終えます。少しずつ、自分を開示していこうと思っています。どうぞこれからもお付き合いのほどを…!
お読みくださって、ありがとうございます ^ ^
私を見上げる眠そうなピヨスケ君
はじめましてはてなさん
こんにちは。
はじめまして、はてなブログさん(^-^) お引っ越ししてきました。
過去の記事もなんとかアップできているようでホッとひと安心。
惰性はやめて、書きたいことを書きたいように書いていきたいです。
楽しみながら、ちょっとずつバージョンアップしていこう。
実践中のつぶやき(歩く編)
こんにちは。
……
さっきまで機嫌がよかったのに、
ということがわかったので、頭であーだこーだ勝手に理由をつける前に、
落ち着く場所で休むこと。
私はぜんぜんそれに気づけていなかったー。
…みなさんには、自明の理ですよね…。お恥ずかしい。。
私はいっつも
身体・心 < 頭
だったんです。
根を詰めて考えている時、頭が働いている時、私は必ず呼吸が浅くなっています。
そして目や首、肩にちからが入っています。
歯を食いしばっている時もあります。
以前は、目・肩・首のコリがあればアリ○ミン飲めばいいや、と思ってたのです。
ずっとずっと以前なんて、食事だってサプリメントですめば楽なのになぁと思っていたのです。
アホですね、ホント。
完全にガチガチの頭万能主義になってるじゃないですか!
そういえば、お腹が空いているとだんだん機嫌が悪くなるんです。子供か。
これにも気づいていなくて、なんでなのかわからなくて、
しんどいな、ってただ気分が悪いまま放置していたんです。
血糖値が下がってる、とか体温が下がってる、とかいろいろあると思いますが、
身体の変化 →→ 心の変化、に直結してますよね。
なのに、結びついていなかったんです。おかしいですね。
頭もがんばってくれているけどさぁ、
身体の感覚を忘れちゃ、いずれ身体が悲鳴をあげるんだ。わかってくれーって。
頭だけじゃあ自分とは言えないんだ。
でも感じる感覚を忘れてしまっている。
感じたって無視してきたから、感じることに鈍くなっている。
頭だけでつっぱしって、身体と心を置いてきぼりにしてきた。
こうなるように練習しています。
私にはたくさん練習が必要で、ひとつひとつ確認しながら実践中です。
家に着いて、水分を摂り、座って休みました。
目がしんどいな、と思ったのは、外での光のコントラストが強すぎて、
必死に目を慣らそうとしていたからだと感じ、室内ではカーテンをひきました。
身体も冷えていたので、夜はしっかりお風呂につかって温まりました。
ヒーターにもお世話になりました。
そして、よく歩いてくれた足にがんばったなぁ、と感謝しました。
疲れて機嫌が悪くなることで、一日が台無しになったと考えていた時もあったけれど、
歩いて楽しかった、風も感じることができた、空がきれいだった。
そんな風に、楽しかった思いはそのままにすることができました。
(前 略)
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
このままを自分に言って聞かせよう。
自分のご機嫌くらい、自分で片付けよう。
歩みの遅い私の話を読んでくださって、いつもありがとうございます。