ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

私の原点

高校生の夏休み、国語の宿題で「小説、随筆、詩、俳句、短歌、読書感想文のいずれかを書いて提出」というのがあった。(うろ覚えで、俳句・短歌はなかったかもしれない)

それらは学年ごとに添削されて、選ばれたものは学校発行の小冊子にまとめられて配布されるというものだった。

 

文才などないし、読書感想文は大の苦手で、毎年提出するだけで精一杯だったが、3年の時に「随筆」らしきものを書いた。

随筆、なんていうと大仰だ。エッセイでも大げさだ。ただただ思いの丈を短い文章でまとめただけのものだったけど、小冊子に載せてもらえた。

原稿用紙たった数枚でも、夏休みの間じゅうヒィヒィ言って、ああでもないこうでもないといっぱしに悩んで書いたものだ。

まさか選ばれるとは思ってなかったけれど、3年生だし、最後に書いてみよう、と思って書いたんだった。

先生の校閲も入り、活字になった自分の言葉は、まるで録音した自分の声を聞いたみたいに気恥ずかしく、自分のものではないみたいで、でもまじまじとそのページを眺め、手の指で撫でた。

友人は小説で載っていた。彼女の文章は美しく幻想の世界を描いていて、こんなものが同い年で書けるなんてすごい、と憧れた。

 

もともと美術系の大学の姉妹校で、美術コースにいけたら、と入学した高校だったが、選抜の時(いやそれ以前の授業でも)、基本的な手技手法も知らず、デッサンもできない私は、絵を描くこと自体が無理な話だった。単にお絵描きが好きだっただけだ。

技術はもちろんだけど、なにより欠けていたのは「自分のなかから生み出す力」だった。

私には描きたいものがなかった。湧き上がる表現力も情熱もなかった。

今も、何もないところから何かを表現することがどうしても不得手だ。どちらかといえば、既存のものを模倣したり、変化させていくほうに面白みを感じる。

 

美術コースに行けなかったことは、かえってよかった、とあとで思った。

ぶつけたいなにかも、抑えられないなにかもなくて、芸術の世界で生きられるとは思えないからだ。

今のようにその道へ進めば違う道が開けるというようには思うこともできなくて(情報不足)、私は人里離れた場所で生きる無骨な絵描きになりたかった。そんな世界に憧れただけだった。

生み出すことは苦しく、でもそれだけ喜びだと憧れ渇望する気持ちはあるけれど、私の領分じゃない。

 

それでも、絵と同じように好きな本みたいに、自分の言葉が形になるなんて、宝物のようだと思った。

なにも言いたいことがない、と自分で思っていたけれど、ちゃんとあった。小さい声で訥々と話したことも、形になることで私の身になった。そして自信にもなった。

本を書く作家の方々ってこんな気持ちなのかなぁと想像する。求められていることの嬉しさ、書きたいことを表現することの喜び。すごいことだ。

 

高校3年生の想い。そのころも今も、千々に乱れる想い。

書いた内容は、そのころから成長していない。今もおんなじことを思っている。ちょっと情けない。でもそれが私の原点なんだろう。

 

その冊子は今も家のどこかに置いてあると思う。