関わらないことも愛情 その3
長くなりました〜、今回で終わりです。
------
個人的な知り合い、他のSNSでもやり取りのあった、割と関係性の濃い方々からの連絡はほとんどありませんでした。
本当に勝手なことですが初めはちょっとショックでした。淋しくもありました。割とやり取りしていて信頼関係も築いていたつもりだったけどなぁ。急だったからかな。私が連絡しなかったことで何か思うところがあったのかな。それとも忙しくて見てないうちに消えたと思われたかな。でもそれらは「私の解釈」であって、その相手の本心はわかりません。永久にわかりませんが、
a・私が相手に抱いていたほどの関心も興味もない
b・気を遣って何も言わない
c・あえて何も言わない
といった感じなのかなぁ、と思いました。
aはもう仕方ないですね。縁がなかったと思う。
さらにこの、「気を遣って何も言わない」と「あえて何も言わない」、そして「理由を聞きたい」という行動は、もし自分が同じ行動をしたとしたらどういった意図があるか?と考えてみました。
すると、どちらにしても最終的には「愛情」があるのかもなぁと思ったんです。
どういうことか?
連絡をくださった方、理由を聞いた方、何も言わない方、みんな「私の意思を尊重するよ」という意思表示をしてくれているのです。
「何も言わない方」も? と思われるかもしれません。私も「何も言わない」だけならただ関心がないのかもしれないと思いましたが、やはりそこは今までの関係性があります。
「気を遣って」「あえて」、それぞれ何も言わないでいてくれてるのかな、と考えました。
私の事情を慮って、私が何か言ってきたら応答する、ということなのかもしれません。積極的に関わらないことも、その人なりの愛情の示し方なのかもしれない。
すべて想像で、仮定の話です。
でも、こんな風に捉えることは今までできなかったし、そんな視点もなかったのです。そう思ったら、みなさんそれぞれの愛情(友情、優しさ、親しみ)を受けられた、と受け止めらたことはすごいことだと思いました。
こんな風な捉え方ができたことで、今までの人生での、腑に落ちなかった別れや勝手な期待での腹立ちなどが昇華されるように思えました。
みなさんを、信頼できた。それは、自分のことも信頼できた、ということだと感じました。
------
人様を実験台みたいに使ったようなことになって気がひけるところもあるのですが、新しい視点・違った視点でものを見る、という大きな思わぬ発見がありました。少しざわつきつつもフラットな気持ちでいられたことも今までの自分にはなかったことです。
自分のものさし、思い込み、マイルール、執着、こだわり。
あってもいいけれど、すべて過ぎたるは及ばざるが如し、で、今はできる限り手放していこうとしています。手放したうえで、再構築したいのです。
今回のことは、衝動でしたことではあるけれど、私の「経験」につながりました。
こんな感じ方ができたとは、やっぱり私は人に恵まれているんだなぁ。優しさをたくさんもらっているなぁ。
はたしてその愛情を私が返していけるのだろうか。新たな課題ができました。
------
以上が振り返りです。
お読みいただき、ありがとうございます!
関わらないことも愛情 その2
長くなりましてすみません。続きです。
------
だいぶ前に、私は「当たり前のことなどない」と思っていると書きました。細胞も毎日入れ替わっているし、今日に続く明日は同じものではないし、明日が来るかどうかも本当はわからない。
SNSであれ、人間関係なんてその最たるもので、今日の関係がずっと続くことは奇跡のようなものだと思っています。だから、悔いを残さないよう、小さなやり取りでも今の私にできうる限りのことをしてきました。
至らない人間ですし、疲れていたり、他に気にかかることがあれば、全力を尽くしたとはいえない対応だったかもしれない。
ただ、慣れや惰性になったら終わりだ、とは思ってました。
いつもと一緒、なんていう状態に甘えるなんてのはしたくない。日々同じようなやり取りであっても、ちょっとした変化をもたらしたい。窮屈だ、倦んだ、と感じたら、それは安定ではなくもう飽きてしまったということ。私自身もその関係を続ける行動をしなくなったということ。
こうした思いはただ私がそうしたいと思っているだけのことです。ただ、とても大事にしている部分です。ブログなどは顔が見えない間柄だから余計に、一回一回を大事にしたいと思っています。
・・・でもね、本音では、安定した永続的な甘えてもいいような安らげる関係を築きたい、と思っているんですよ。その裏返しで虚勢張ってるんですね。
-----
このたび、数名の方がご連絡をくださいました。ほんとうにありがたく、嬉しかったです!私との関係を受け止めてくださって、続けようとしてもらえたことに、感謝しかありません。ありがとうございます。
なぜ移行するのか理由だけを聞きたいという方もいらっしゃいました。そして、まったく連絡のない方々もたくさんいました。
この連絡がない方々にも関係性の濃度があるなぁと思っていて、
1・もともとまったくやり取りがない方は濃度0%
2・コメントやメッセージでのやり取りがあった方々ならけっこう高く40%~
3・個人的な知り合いや、私は〇meba 〇iggもやっていたのでそこでもやり取りのあった方々なら70%~
心情的にはそれくらいの濃度です。
それで、3の方々には今回、個別には何も言いませんでした。そして、ほぼ連絡はありませんでした。(もともとブログをご覧になっていない方は除きます)
------
次回で終わりです~。
関わらないことも愛情 その1
こんにちは。
こちらに引っ越してきてから1週間ほど経ちました。
先日の記事で、移行について「自覚的に、意識的に」行動した、と書きました。少し振り返って、私なりの思いを書きます。
------
動くに当たっては、前々から計画していたわけではなくて、やってみようという衝動のようなものでした。
さよならの記事は、こちらへの移行ができてから書いたわけですが、その時に、読者になってくださっていた方々とのやり取りやつながりを思い浮かべ、どんな反応があるのだろう、と意識しました。
読者登録してくれていてもまったくやり取りのない方もいましたし、ましてや私に知らせず登録してくれている方はどういった方なのか知る由もありません。何度かやり取りをしたけれど、ふいに連絡のなくなった方もいます。
一度でもやり取りした方は、その方の文章の雰囲気で覚えます(^^) アイコンや名前より、文章って強い印象を残します。顔が見えないことによって、それだけ際立つところもあるなぁと思います。文面に個性が出るというのでしょうか。みなさんはどうお感じになるでしょう。
顔が見えれば言葉以外の情報が目に入るので、身振り手振りや表情で察することもできますが、文字や言葉だけでニュアンスを汲み取るのはやはりなかなか難しいですね。
もちろん人様の反応を見るためにブログ移行をしたわけじゃありません。自分の中に動きがあって、実際の行動となっただけです。ただ、それでもやはり気になってしまいますね。
------
ついついその人の意図を汲み取ろうとしたり、気を回したりして空回りすることは今までの人間関係でありましたが、ヘトヘトになりますよね。あげくに想像と違ったりして徒労感もあったり。そりゃそうですよね、相手の思いは相手に聞かなきゃわからない。同じものを見ても、感じることはぜんぜん違ったりしますね。
無駄に傷つかないようにするには、相手の感情は相手のもの、私が考えることではない、と自分に言い、「気にしない」と決めて、実践をすることでしょうか。
------
ブログを始めてたった1年ほどですが、初めのうちは「自分の勝手な解釈で」変な気を使ったりしていました。
少しずつ、私自身の思考のクセややりがちな行動を認識しつつあったので、相手は相手、と思えるようになってきています。(ブログを書くことで気づくこともありました。書くってすごい効果ですね)
人の本当の気持ちはわからない。そして、わからなくてよい。
そして、私も勝手に想像したり期待したりしてもいい。
本当は、相手にすぐに聞ければいいけれど、そうもいきません。だから、勝手に期待してもいいけど、自分がそれに固執しないで振り回されないで、違ったからって勝手に傷つかず、流せる余力を残しておきたい、と思っています。
------
今回の移行で、やり取りをしていた方々がどんな反応をするのか気になると書きました。
けれど、人様の気持ちは私にわかるわけありませんから、連絡をもらえればとても嬉しいだろうし、なくてもこんな一介のブログですしまぁそんなもんだろうと思っていました。というか、まったくなくても仕方ない、残念だけど、と思っていました。そうならそうで、やっていくのみだ、とも。
フラットにいられたのは、自分自身がそれでどんな気持ちになるのか観察してみたいという意識が大きく働いたからです。
------
長くなりました、続きます。(3記事あります)
他人の目線って
こんにちは。
この間、旦那さんのくつしたの毛玉取りをしてた時、思い出したことがあります。
だいぶ前に何かで読んだかエッセイだったか忘れましたが、いい歳の男性が言うんです。
宴席かなにかで、同僚の男のくつしたが毛玉だらけなのを見て、「こいつの身の回りを気にかけてくれる女性(奥さんとか)はいないのか、無様だ、かわいそうに(それに比べて自分の妻は家事をちゃんとしてどうのこうの)」とかなんとか。
それを読んだ時、このおっさんのアホみたいな虚栄心、アホみたいな優越感、器の小ささ、に腹立ちを覚えました。でもまぁこういう気持ちもわからんでもないですが。
てゆーか、その男に奥さんがいたとして、その女性は気にしないたちかもしれないですよね? もしくは病気がちとか事情があってできなかっただけかもしれないですよね。 他にも理由はいくらでも考えられますが。それで思ったんです。
うわっ、こんなせせこましい、人を見下すようなしょーもないおっさんの価値観で私を測られたらたまったもんじゃないわ!
そういうことですよね。他人の目線を気にしたら、こんな自分とは相容れない人間の言いなりになりかねん、ということですね。
これは極端な例かもしれないですが、大なり小なり似たようなことに支配されてしまいがちなんですよね。
そして、自分の目線というのも、このおっさんと大なり小なり似たようなもんだということですよね。一貫性もないし、自分の経験だけから見た小さな狭い目線ですし。
カチコチに固まった目線をほぐすのは時間がかかるけれど、もう、そんな小さい狭い世界にこだわるのはやめよう。捨てられなくてもいいけど、こだわらなければいいよね。一個しかない、と思い込まなければいいよね。
私が自分のその目線をどう感じるか、どう思うかで決めていこう。そしてできたら、たくさんの違う方向からも見てみたいな。
いつも同じことを言ってますね、私。実は、言い方を変えて、自分に言い聞かせています。
練習するのみなのですが、すぐに忘れてしまって元に戻ろうとしてしまうんですね。楽だから?面倒臭いから?
あの、自由だと感じた時の内面から溢れたよろこびやおそれ、一気に内側が広がって意識が宙を突き抜けていったような感覚、これはまだ心と身体に染みついています。
生きることのちからってこんなに熱くて頼もしく、嬉しさがあるものなのかと思いました。
だいじょぶだいじょぶ、一歩ずつ進んでる。はじめの一歩は力が要るものさ。
さて冒頭部分ですが、けっしていい奥さんアピールとちゃいますよ!
化繊のくつした(ユ◯クロ)はすぐ毛玉できますよね、そして私は毛玉取り器をもくもくと動かすのが好きなのです。ラグとか延々とやっててじきに穴が開くんとちゃうか、と思います。
快晴、風強し!
緊迫感ある人
こんにちは。今日は本の話です。
河合隼雄氏について書かれた本です。
河合隼雄氏が書いた本は、すべてではないですが、見つけたら読む、忘れたら読む、を繰り返してきました。エッセイのような軽めの本でも、河合氏の書いたものならば未知の世界を見せてくれるという信頼で手に取ります。
この本は、河合氏が書いたのではなく、河合氏と関わりのあった方々がそれぞれの視点や経験から書かれたものです。
河合氏は、ユング派心理学を日本で初めて広めた人で、箱庭療法や夢の分析を取り入れた人ですね。
河合氏自身の生涯についてはほとんど知りませんでしたが、国の機関に関わり多忙な時でも、そして亡くなる直前まで、ずっとクライアントを持つ臨床心理家として活動されていたと知り、驚きました。
『臨床家 河合隼雄』岩波書店 2009/9/11(息子の俊雄氏が編集したものを図書館で見つけました。)
大学教授や心理学に携わっている方々の話と、文学者や詩人、指揮者、企業会長など文化に携わる方々の話が載っています。
中でも、専門家として実際に心理学に関わる方々が「教育分析」という形で自分自身や、自分の抱える症例についての心理分析を受け、そこでの河合氏の姿や発言を書いているのですが、非常に緊迫感があります。
文体は論文調で硬いのに、内容は小説よりもすさまじく、ダイナミックだと感じます。人の、心(無意識)の中の動きはこれほど大きく激しいものか、と感じます。
河合氏は、あのほがらかな笑顔をネットの画像でも見ることができるけれど、実際にはとてもとても厳しく強い、暗部を見据えるような眼差しを持っているんだろう、と感じていたのですが、やはりそうだった。
素人考えですが、人の心に分け入るには、相当な覚悟がいりますよね。自分の心だってよくわからないものなのに、ましてや人の領域なんて。
だから河合氏がよく言ったとされる「わかりまへんな」は真理を突いてるなぁと思うのです。
心理療法家、カウンセラーという人は、ただその相手に覚悟を持って寄り添って、横に並んで一緒に進んで行くしかできないんだろうと思います。
講演の途中で絶句してぶわっと涙が溢れ言葉が出なくなった、駄洒落が好き、フルートを本格的に演奏する、などなど、心のありようの幅の広さが魅力的な方だなぁと感じます。
両極端、陰陽をみずから体現されているように感じます。
物語や、児童文学についてやさしい言葉で書かれたエッセイのような本もたくさん出ていますね。やさしい言葉だからって理解できるかどうかは別で、私は理解できてないなぁと思うのですが、人間の心の深淵を覗くような感覚で読むのが面白いです。
折にふれ、また読んでみよう。
最近の気づいたこと
こんにちは。いつもありがとうございます(^-^)
今日は、最近気づいたことについてです。
◇自分の範疇にないものでは勝負してない
夜、車に乗っていて、旦那さんが遠くを見やって「山の稜線に(何かの施設の)光が見えるね」みたいなことを言いました。
私は、ものすごく目が悪いです。視力(0.01くらい)だけでなく、軽い乱視、夜はひどく見えにくい鳥目、さらに老眼がやってきた?と最近感じる、目が悪い歴30年以上のおばさんです。(近視だから、老眼がやってきたら中間地点で逆によく見えるようになってくれへんかなぁと都合のいいことを願っています。)
------
たとえば眺めのよい場所に行き、遠くの方に何があって…、とか、街中で向こうの方にある標識とか説明されてもほとんど見えていません。
ですので、ほとんど聞いていません。よそ見しながらふーん、ってなもんです(失礼)。
そこで気づきました。「ラクだな」
そう、自分に備わっていない能力では、そもそも勝負してないんだということ。焦りも、嫉妬も、負けたという悔しさもないんだということ。逆に、いたわりといったものも求めていない。
私にとって視力は悪いのが当たり前でして、それがほしいとあがく対象でもなく、といってないからつらいと嘆くものでもない。
だって仕方ないですよね。この「仕方ない」は諦めの言葉ではなくて、「ないもんはないしね」とカラッとしたものです。
これが他のことにも及べば、力を抜いて生きていけるなぁって思ったんです。
◇創作ダンスの苦痛からの立ち直り
大げさなタイトルですね。古い話題なんですが、私は運動全般が苦手で、学生時代の体育は苦痛でした。
「創作ダンス」、やりますよね。あれも、リズム感はないし、頭と身体がバラバラでぎこちなくてガクガクしてました。
練習中、クラスメイトにも動きが変だと笑われました。自意識過剰な思春期の時期でしたから恥ずかしかった。でもまぁそれも仕方ない。他の子と比べれば一目瞭然でしたのでできてなかったのは仕方ない。ただ自分に、「運動ができないレッテル」を貼ったみたいです。
もともと運動(身体を動かすこと)が本当に嫌いなのか? 確かにボール競技やチームプレーなんてとても苦手です。 あんまり興味も湧かず、実家に暮らしていた時家族がバレーボールやら観て盛り上がってるのを見ても、ふーんってなもんです。
しかし先日、映画『SING』を観に行って、たくさんの音楽を浴びて、楽しい経験をしました。家でサントラを聴いていて、自然に身体が揺れました。もちろんダンスのようなステキな動きではないけれど、にこにこしながら揺れたり手振りをしたりして、楽しかったんです。
「あれっ、楽しい。身体を動かすのって楽しいんや」
またまた気づきました。私は、〇〇が苦手・できない→全部が苦手・できない、にしていた。自分で、封印した。できないし苦手だし恥ずかしいし笑われるしチームではみんなに迷惑かけるし……いっぱいいいわけが浮かびます。
でも運動の中の「ダンス、ボール競技、チームプレーのもの」といった一部ができてないだけで、運動ってほかにももっとありますよね。
なーんだぁ。また自分の思い込みかぁ。かちこちやなぁ。
苦手分野から得意分野にはなりませんし、興味が湧くようにもなりませんが、でも気づけてよかった。いろんなものいっぱいくっつけてるから、ひとつでもはずせればそれだけ軽くなれる。いつまでも古いもん背負ってんねんなぁ、私。
もうなくなったよ。また一歩、楽に近づけるね!よしよし!
自由だ!そしてあらためてのお礼
こんにちは。
このたびは、さっそくコメントをくださったり、ID登録してくださったり、とつながりを大切にされる方々に恵まれて、その優しさをわけていただいて、私は自分で思っているよりもはるかに幸福で、気づかないままで優しくされているんだなぁと感じています。あらためましてありがとうございます!
先日、近くの川の橋を渡っていて真ん中で止まり右・左を見たら、水の流れが両方に長くうねうねと伸びています。
その時に、「あぁ、このまま上流に向かい、山の中を分け入り源流まで深く入って行ってもいいし、
下流から大海に出て、広く様々なものを見聞きしに行ってもいいんだな、なんて自由なんだろう」と思いました。
空は青いし雲は白くて太陽が輝いていて、そこに私がひとりでいる。
自分で縛らないで、自分で狭めないで、自分で選んでいいんだな。さぁ、まずはどっちへ行こうか、やってみようか。楽しみです。
生きた声
こんにちは。
今日は本と歌の話です。
先日エレファントカシマシ・宮本浩次さんの言葉たちを集めた『宮本語録集』を読みました。
生きた声だなぁと感じました。
文脈なく、言葉だけをポンと載せているので、意味を追ってしまうと理解不能です。しかしそれでも宮本さんの思考回路のかけらが感じられます。
テレビ出演などで、話を振られた時のあの独特の「間」。はじめの頃は、見ているこちらがヒヤヒヤするというか、息を詰めてしまいました。今は何が出てくるのかな?とわくわくします。
たぶん変えられないそのペース。
人柄のよさ、青年期そのままなところ、真面目で熱いところ、伝えたいという思い、などなど感じることができて、嬉しかった。
『宮本語録集』2冊
それから、なんせにわかファンですから「ROCKIN'ON JAPAN」(5月号)も買ったわけですよ(笑)
そこでもインタビューや宮本語録が載っていてその中にあった、
重いってどういうことですか? 演奏が重いとか。内容が重いとか。
だけどさ、真面目に生きればやっぱ重いですよ。
そういう意味での重いだったらわかる。真面目にやれば必ず重いですよ。
(1989年9月号/『浮世の夢』)
共感しました。
人間として、真面目に生きることのどこに恥じることがあるんだ、と感じました。こういうこと言ってる人だから、ファンになったんだろうと思います。
私は今年に入ってから、「変えていこう」と決心し、わからないままにいろいろと動いたり、わかった上で実行したり、と行動を重ねてきたのですが、その後押しをしてくれた歌手がふたりいます。
ひとりはKREVAさん、もうひとりが宮本さんです。
今までどんな歌を聴いても歌詞を読んでも一過性で、よほど昔からファンでないと心に残らずにきていましたが、このおふたりの歌詞については聞いた時から自分から全注意を向けて受け取ろうとしていました。
出会ったきっかけはそれぞれ偶然のようなものです。でもタイミングがバチッと合った、そんな感じなんだろうと思っています。
KREVAさんなら、「居場所」を聴き、次いで「かも」に心を動かされました。私の中に決意のようなものが湧きました。
「居場所」より
思い描け そこに目がけ
つもりだけじゃなくて動き出せ
無駄な事は無い それはウソだね
ただボーっと眺めるだけの時間を減らせ
(中略)
その手動かせ
黙ることはできないんだろう
壁を動かせ
守るだけじゃ増えない居場所
「かも」より
このままこうしていられるなら 他には何もいらない
そんな風に思えてしまったなら
終わりが近いのかも
あの時本気で挑んでいたら 今こんなとこに居ない
そんな話あなたのその口から
聞きたくないのかも
がーんとしました。KREVAさんの他の曲も、自分で決めて進め!という歌詞が多く、なにかのせいにしてやらない、言い訳してやらない、とただ日々を過ごし、「生きる」ことも借り物のようにしていた私は、横っ面を張られたような感覚でした。
そして、自分自身にこの歌詞を受け取るだけの度量があるのか、という恐れや震えみたいなものも感じつつ、とにかくやるんだ、と決意を固めました。
その後出会った宮本さんでは、「さあがんばろうぜ!」と「俺たちの明日」でも歌っているとおり、まっすぐ、ドーンと、輝きを求めて行こう、という強さ(それは優しさから出るものなのかなぁと思いますが)がありますね。けして「がんばれ」ではなく「がんばろう」というところが、「そうだね、私もがんばろう」と心和ませ、素直に思わせてくれます。
おふたりとも、なによりもまず自分だ、と感じさせてくれました。人のことなんてほっとけ。まず自分なんだ。
そう決意しても、人のことを気にしないでいることはなかなか難しく、自分自身の頭の中では絶えずいろんな声がしていてまさに喧喧囂囂。何人もの自分がやかましくしゃべっています。(人格がたくさんある、ということではなく、同じ自分があっちからもこっちからもああ言えばこう言う、という感じ。)も〜〜うるさいわ!となることも多いです。誰か決めてくれよ〜って。
そのうち、人の目なのか自分の目なのか混乱してわからなくなり、ひとりで消耗しています。よほど暇なんですね〜…、私。
以前のブログでも、誰の目を気にしていたのか、当たり障りのないことを書いて「いいね!」もらってホッ、なんてことしてましたけど、そんなもん、ほんまに欲しいの?自分の心が満足しないままするのって自分に小さい嘘ついてるやん、って思いました。誰のためにブログやってんだか。また出ましたよ、自分で勝手に作り上げた人の目。
…着地点が見えないまま長くなってしまいました。まとまりませんでしたが今回はこの辺で。。読んでくださってありがとうございます。
次の記事では、最近の気づいたこと!を書こうと思っています(^-^)
お礼
こんにちは(^-^)
昨日は突然の申し出にも関わらず、私の意向をお聞き届けくださって、ありがとうございました!
ご連絡くださった方々、私には身に余るほどの光栄で、感謝でいっぱいです。
じわわ〜んと嬉しさを噛みしめています。みなさまの期待を裏切らないようにしなくちゃ…これまたこの気負いがあかんのやっちゅーに!
妙な高揚感、淋しさ、ちょっとした不安感、大したことしてないのに大それたことをしたような気分になっているな、とも感じていますが、それを超えて、清々しさや風通しのよさがあります。
今までの人生で、作っては壊す、を続けてきたかもしれません。
みなさんもそんな時もあるでしょうし、じっくりひとつのことを続けている方もいらっしゃるでしょう。
私は物事を続けられない、例えば一つの会社で何年もやっていけないことに引け目や劣等感を感じていました。(長くて5年くらいです)
続けることはやろうと思えばできるのです。新しい環境、新しい仕事や作業を覚える方がよっぽどつらいし、覚えも遅くてどんくさくビクビクしている自分がいやになるくらいです。
でも、ある程度すると、そこから出ていきたくなる。変えたくなる。
自分が心の底からはたして何を求めているのか・何が大切としているのかを見つめることをせず、アタマだけの考えで行動してきました。自分で作った価値観でがんじがらめです。
それが何でなのかわかったのはつい最近です。
そして今回は、自覚的に意識的に「枠を壊して飛び出る」をやってみました。
前回の場所は別にいていられない場所でもない、ぬるま湯的な居心地のよさもあり、楽でもありました。だから、ふっとした時にきゅうくつだと感じたのは私のとらえ違いかもしれません。
しかしやっちゃいました。そうこれこれ、こんな風にやってきたんだ私。
職場でいうと、3年くらいでモヤモヤとした不満なき不満を抱えて、仕事というより環境に慣れきった感じを持ち、「何も変わらないな~」とむずむずしてくる。
辞める頃には不満が爆発して、「続けなきゃ、でも続けたくない」とぐるぐる思考が始まり、不安を自分で煽りつつ、自分を責め環境を責め、体力も気持ちも使い果たしていました。「あぁ結局仕事を極めることもできなかった。自分でチャンスを潰したかもしれない」辞めてもそんな不満は残ったままです。勝手に傷ついたようになってました。いろんなことごちゃまぜにして、わけわかんなくなってました。
結局は自分で選んだのにね。
それを自覚してなかっただけなのにね。
現在は、今までのように、それまでの関係性までを壊す、とつっぱしるところはアカンよ、と自覚しています。我慢ができず待てしばし、ができないところが結構アカンよ、と。自覚したからといってできるわけではありませんが。人との関係性を壊すことは、自分を痛めることでもある。自分を大切にしていないことのひとつの表現である。「私なんて人から大事にされるわけない」といったような思い込みから、ならば先に切ってやる、という極端な思考へ走るのだろう、と認識しています。…いやいや、何を冷静に分析してるねん、ですよね(笑)
でももう自分にそうやってダメ出しして、勝手に落ち込んで勝手にふてくされて拗ねてなんてやめましたから! いやもうアカンところだらけの大したことのない人間ですから!それでも私なんですから。つきあうって決めたんですから。
いきなり長くなってしまいました。中途半端ではありますが、いったんここで終えます。少しずつ、自分を開示していこうと思っています。どうぞこれからもお付き合いのほどを…!
お読みくださって、ありがとうございます ^ ^
私を見上げる眠そうなピヨスケ君
はじめましてはてなさん
こんにちは。
はじめまして、はてなブログさん(^-^) お引っ越ししてきました。
過去の記事もなんとかアップできているようでホッとひと安心。
惰性はやめて、書きたいことを書きたいように書いていきたいです。
楽しみながら、ちょっとずつバージョンアップしていこう。
実践中のつぶやき(歩く編)
こんにちは。
……
さっきまで機嫌がよかったのに、
ということがわかったので、頭であーだこーだ勝手に理由をつける前に、
落ち着く場所で休むこと。
私はぜんぜんそれに気づけていなかったー。
…みなさんには、自明の理ですよね…。お恥ずかしい。。
私はいっつも
身体・心 < 頭
だったんです。
根を詰めて考えている時、頭が働いている時、私は必ず呼吸が浅くなっています。
そして目や首、肩にちからが入っています。
歯を食いしばっている時もあります。
以前は、目・肩・首のコリがあればアリ○ミン飲めばいいや、と思ってたのです。
ずっとずっと以前なんて、食事だってサプリメントですめば楽なのになぁと思っていたのです。
アホですね、ホント。
完全にガチガチの頭万能主義になってるじゃないですか!
そういえば、お腹が空いているとだんだん機嫌が悪くなるんです。子供か。
これにも気づいていなくて、なんでなのかわからなくて、
しんどいな、ってただ気分が悪いまま放置していたんです。
血糖値が下がってる、とか体温が下がってる、とかいろいろあると思いますが、
身体の変化 →→ 心の変化、に直結してますよね。
なのに、結びついていなかったんです。おかしいですね。
頭もがんばってくれているけどさぁ、
身体の感覚を忘れちゃ、いずれ身体が悲鳴をあげるんだ。わかってくれーって。
頭だけじゃあ自分とは言えないんだ。
でも感じる感覚を忘れてしまっている。
感じたって無視してきたから、感じることに鈍くなっている。
頭だけでつっぱしって、身体と心を置いてきぼりにしてきた。
こうなるように練習しています。
私にはたくさん練習が必要で、ひとつひとつ確認しながら実践中です。
家に着いて、水分を摂り、座って休みました。
目がしんどいな、と思ったのは、外での光のコントラストが強すぎて、
必死に目を慣らそうとしていたからだと感じ、室内ではカーテンをひきました。
身体も冷えていたので、夜はしっかりお風呂につかって温まりました。
ヒーターにもお世話になりました。
そして、よく歩いてくれた足にがんばったなぁ、と感謝しました。
疲れて機嫌が悪くなることで、一日が台無しになったと考えていた時もあったけれど、
歩いて楽しかった、風も感じることができた、空がきれいだった。
そんな風に、楽しかった思いはそのままにすることができました。
(前 略)
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
このままを自分に言って聞かせよう。
自分のご機嫌くらい、自分で片付けよう。
歩みの遅い私の話を読んでくださって、いつもありがとうございます。
実践中のつぶやき
メガネにマスクにヘッドフォン
エレカシさんのこと
こんにちは〜
今日は、音楽のことです。
友人Yちゃんがとてもファンのエレファントカシマシ。
折りしもエレカシさんはデビュー30周年とのことで、二月にはいつも聴いているラジオで
ひと月特集を組んで放送していました。
(画像はお借りしました)
エレカシの宮本さんは以前に歌番組で見ていて知っていたし、
真面目な人だなぁ〜と好ましく思っていたし、歌声もすばらしいし、
だけど、知ってはいたけれど聴き込んではいなかった!
ラジオで流れる歌を聴いているうち、Yちゃんがハマるくらいなら、といった後押しもあって、
さっそく30周年ベスト盤が出るのを待って聴くと…、もうドタマぶっとぶ、でした。
こんなすごい人たち知ったふりしててごめんなさい。
にわかファンですが、許してください。…といった心境になりました。
魅力は語り尽くせないですね。(放棄)
宮本さんの歌声は”荒野を吹く風”のようだなぁと感じていたけれど、歌にも”風”がよく出てくるんですね。
高い声、深い声、まっすぐ突き抜けるように届く声。
心の真ん中にドーーンと届く声をしているんですね。
実直で確実な、奇をてらっていない演奏も安心感があります。
歌詞や、歌い方の表情も、気分が湧き立つような高揚感があったり、素直に受け止めたいと思うものがあったり。
YouTubeでもたくさんアップされているので順繰りに聴いては楽しんでいます。
年代を追って聴いてきていないので、昔と今の歌をごちゃまぜにまとめて聴いています。
そしてなんと!
Yちゃんが私のために30周年ライブのチケットを取っておいてくれたというではありませんか!(ありがたくって泣けます)
ライブなんて、10代の頃に戸川純さんのコンサートに行ったきり、まったく行ってないです。
爆音はしんどいかもしれないから、耳栓持っていきます。
いらん情報でしょうけども、私が気に入った曲をズラリと。
・ガストロンジャー
・生命賛歌
・RAINBOW
・悲しみの果て
・友達がいるのさ
・四月の風
・風に吹かれて
・花男
・珍奇男
・so many people
・桜の花、舞い上がる道を
・
・
・
これからもどんどん増えていくといいなぁ。
エレカシさんを聴くようになって、私も輝きを求めて行こう、とすんなり思えるようになりました。
Yちゃん、いろいろ教えてくれてありがとう。 ニタリとしてくれたかな?
『宮本語録集』、買っちゃったよ、とても楽しみ。
また魅力を聞かせてもらうのを楽しみにしてるね。
胸を張ってさ、そう! ドーンと行こう!
いつもお付き合いありがとうございます。
まだまだ自分を広げていくよ
こんにちは〜
本日は、piyosukeの決意表明!(^∇^)
その前に、昨日の記事でご心配くださったみなさま、ありがとうございます!
気にかけてくださって、とても嬉しかったです。大丈夫です。ありがとう。
自分を知ること---自分の成長、自分の広がり、自分の深み、自分の喜び。
これを目指している時が大好きだ。
自分にどっぷりはまるんだ。
誰かになろうとしたってできないから。
清濁ぜんぶ自分のものとして引き受ける決意をした時、
自分の人生に責任を持つ時、
やっと自分の枠から飛び出せる。
飛び出して、新しいステージに立ってる。
HSPについて。
HSP概念を知ったことで、一旦は安心した。自分を知った気になった。
そこからものすごく考えた。じっくり考えたり実践しているうち、
HSPだけではとうてい自分を説明しきれやしない、ということに気づいた。
そう、ひとつを知ったからといって、何でもそれに当てはめようとしたって、無茶だ。
私という人間をそれですべて語れるわけはない。
HSPは私を作っている「たった一部分」でしかないのだから。
HSPを、顔色を窺うように及び腰で見ていた時は、怒りや悲しみが湧いた。
「周りがわかってくれない」などと人のせいにした怒りや悲しみ。
ちがうね。
ではHSP(敏感さ)がなくならないのなら、いっそ突き詰めてやろう、と決めたら、
とたんにあまり感じなくなった。
いや、感じているけれど、そこに焦点を当てなくなった。
人間は多面体。
ひとつの見方だけで満足するより、たくさんの面を持ってるんだ、と思う方がだんぜん面白い。
一部分だけ見て、つらいつらいと自分に同情するのはもう飽きた。
ひとつだけにフォーカスしたってつまらない。つまらないこともうしない。
それが楽だからって執着しない。
たとえば、私の一部分に「真面目」というものがあるわけです。
これを私は、私自身のフィルターで「カタイ」とか「融通が利かない」とか、つい短所として認識してしまうわけです。
しかし「真面目」だけ読めば、よいも悪いもない。そんな二元論で言えることでもない。
真面目っていいやん。
そうしてHSPも、私のものとして呑み込んだ。引き受けた。
その上で、私にはまだほかにもたくさんの面があるし、HSPだけの見方にこだわるよりも、ほかを知っていくこと、見方を変えていくことが楽しい、と思っている。
多面体だとわかったことで、怒り・悲しみの次にある、喜び・楽しみが湧いてきた。
HSPはもう自分の中にある。
「あ、あるね。それで?」
人の目を気にして動かずにいた。
でもその「人の目」だって、自分のフィルターを通して、自分で作った「人の目」。
勝手に作ったものにがんじがらめになって、
これダメあれダメ直さなきゃ、って、誰のために?
直した先に何があるの?
誰かがほめてくれるの?
ほめてくれるの待ってるの?
今を否定し続けて、では
自分の幸せは未来にあるの?
そんなのこそヤメ!
私は今、ごきげんになる。
私は白い部分も黒い部分も両方あって私である。
誰のための私でもない。私のための私である。
私が私を満足させる。
私は私を極めるんだ。きっと面白い。
私が私を面白いと思ってるんだから、もう人は関係ない。
気づくまで、きゅうくつな枠組みが必要だったんだ、とわかった。
もう呑み込んだので、枠はなくなった。これが自由っていうんだな。
自分にどっぷりはまって、さまざまに考えたり動いたりしていけば、
きっと見えてくるものや感じるものがあるはず。
いろんなやり方を試して、見つけて、やってみる。
失敗したってそれはそれだ。
そうやって私の経験になり、広がりや深みになり、喜びとなる。
気づいたことで、ようやくHSPに感謝の気持ちが湧いてきた。
私には持て余す気質だけど、でも気づかせてくれてありがとう。
今、やっているのは、
自分の感覚や直感をとことん信じて従うこと。
短所と思うところを突き抜けるまでやってみること。
私にとって、気持ちのいい言葉たちを目に入れること。
私は自然の一部である、ということをしっかと感じること、味わうこと。
そうそう、HSPは危機察知能力としてとても役立ってくれているので、
そこでおおいに活躍してもらおうと思ってます。
ご清聴いただき、ありがとうございます。