ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

進めなくなる言葉

・難しい問題ですね

・しょうがないですね

・(社会)全体の問題ですね

これらは、「議論を止める言葉」だそうです。議論というとビジネス的で会議での話じゃないの?といった感じもしますが、なんてことない話のやりとりでも、当てはまるなぁと思ったのです。

(初出記事)  

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171215-00000001-zdn_ait-sci

会話している時、「う〜ん、難しい問題だね」と言われて、なんかモヤっとしたことがあります。

この話、早く打ち切りたいのかな? とも思いました。会話はそれ以上進まなくなり、行き場がなくなって、うやむやに話は流れていきました。

「難しい」「仕方ない」、これ言われると、こちらも思考停止になりますね。

現に自分でも、相手の話が長くなりそうだったり、深入りしたくないと感じたら、仕方ないよね〜と言って、次の話題に移ろうとすることもあります。

相手との会話を終了させるには、なんとも便利な言葉たちですね。

なんにもまとまってないのにまとまった感がありますよね。「一般的なこと」「自分の力ではどうしようもないこと」として流してしまうのは、だれのことも傷つけないという、相手への優しさなのかな?  

世間話や、不毛な会話ならそれでもいい。でももう少しつっこんで考えたり一緒に話したりしたいな、と思うこともありますよね。

難しい難しい言ったってなにも解決しないんだから、だったら少しでも解決したり、進んでいける方向を考えてみようよ、という思いがあります。

どんなことでもいいから、話を聞かせて、と思います。私だってきちんとした考えがあるわけじゃない、でも出していくことで、そして相手の話を聞くことで、気づくことや会話の広がり、相手と共有することの楽しさや温かさを感じられるから

まー、それは私がおもしろいと感じているだけで、別に話したくなんてないって人もたくさんいるでしょうね…。私以外と議論してるかもしれないですしね。でもそれなら、私はそういう人とどうやって深いコミュニケーションをとったらいいんだろう…?

人との関係ってなんとも「難しい」ですね、…とまとめてみました。

言葉にすることは

言葉にしたい、という思いを持っている。

言葉にならないことはものすごくたくさんあって、そして、言葉にしなくてもいいこともたくさんあると理解しているけれど、できることなら言葉にしてみたい、と思っている。

言葉にしなくてもいいんじゃない?と言われたことがある。その時もうーんそうなんだけどやっぱり、と頑固にこだわった。

なんでかなぁ? ある時ふっと答えが浮かんだ。

言葉に救われたからだ。

苦しい時やつらいなぁと感じている時、誰でもいいから助けてほしい、と思う。そんな時、気持ちを軽くしてくれる言葉や励ましてくれる言葉に出会ったからだ。

自分の中にも言葉はきっとある、でも混乱して嵐のようになっている時はそれがまったく見えない。気づけない。

今はネットや本で、必要な言葉に触れられる。手当たり次第に探して回って、海の中から一粒の砂を見つけるごとくであっても、なんとかして手に入れることができる。

本当は、自分が自分にいちばんの言葉をかけてあげられたらいいんだけど。

言葉があるから、人と共有することができる。同じものを見て読んで、話してみて、そうだね、って一緒に温かい気持ちになることができる。言葉があるからこそ。

モヤモヤした思いとか伝えたいことを言葉にして表現したい、ということだけではなくて、人とのつながりの中で、一緒に味わえる言葉を使っていけたらなぁ。

私が人の言葉を読んで救われたように、私も自分を助けてあげられる言葉、そしてだれかの助けになる言葉をかけられたらなぁ。

大きな大きな夢です。

自分でいることを受け止める

自分を客観的に見ることって、できますか?

いくら発見があっても、それに気づけた私はすごい、と言ったとしても、たった一言のその「すごい」以前に何十倍何百倍もダメ出ししてますよね〜、自分に。自分にダメ出しするのは他人じゃない、自分。

自分のしていることを客観視できてないからだと思うのですが、人と比べて私なんてまだまだ、と言ってしまう。

その比べる人も勝手に設定した「なんかすごい人」で、実在しない理想の人、みたいなものなんですよね。

冷静に考えてこうだ、とか、客観的に見て、とか言ってたのが恥ずかしいくらいに、自分自身のことは見えてません。

客観的に見られたら、自分ができたことは認められると思う。できてないことは責めるのではなくて次へつなげる改善点、反省点だと捉えられると思う。

ものさしが他者。といっても勝手に作り上げた「なんかすごい人ものさし」で測るから、いつまでたっても自分を信じてあげられない。

私の一番の味方は私なのに。私を守ってあげられるのは私なのに。

私のために今日も身体を動かしてくれてるのは私だ。息ができて、ご飯が食べられて、笑えて、泣けて、すごいことしてる。私にとってすごいことをしている。

あと何年生きられるかわからないけど、最後までつきあってくれるのは自分自身。

なにかを始めたりやめたり、進んだり休んだり、困ったり迷ったり、悩んだりすることぜんぶ、私が決めていい。

自分自身でいることは、苦しいことじゃない。私であることを受け止めたい。

「相手優先・状況優先」問題は根深い

朝起きてすぐにすること。

ストーブを点ける、カーテンを開ける、お湯を沸かし朝ご飯の支度をする、小鳥たちの水や餌を変える…

今朝、気づきました。

朝起きてすぐにすることが、ほぼ「環境を整える」ことだった。

自分のことは後回しにして、まず部屋を暖めたり、明るい光を入れたくてカーテンを開けたり空気の入れ替えをしたり、コーヒーを飲むためのお湯を沸かしたり、旦那さんの朝ご飯やお弁当を用意したり、小鳥たちを起こしたり、そういったことを最優先にしていた。

「暮らす環境を整えること」「居る場所を心地よくすること」

はじめにこれらをすることが、当たり前の動きになっていた。して当然だと思っていた。して当然なので、朝早くから予定がある時は逆算して起きる時間を決めていた

私、人や状況をずっと優先してたんだ! 無意識で。習慣で。マイルールで。うわー、根深いことなんだ、と気づきました。

心地よく居られる場所(環境)を整えることは、良い悪いでもないし当然といえば当然なことかもしれないけれど、自分の身支度もしないうちにそっち最優先にするというのは、別にしなくてもいいことなんじゃないの? 私ばかりがしなくてもいいんじゃないの?

うちは大人2人暮らしだし、それぞれがそれぞれ自分のことを先にしてもいいはずなのに。

おそらくは、「環境を整える」「状況を優先する」ことが自分にとって大切だと思い込むことが以前あって、習慣や自分のルールや価値観になったのかもしれないなぁ。

ときどき、朝の支度をいつも通りしている時、自分のことを先にしている旦那さんを見て、ほんの少しモヤっとすることがあった。なんでやらへんの。

あぁ〜そうか! 私は、お母さん的な動きで「やってあげてる」のになんで手伝わないの、とか感じていた。そう感じたらモヤっとするしイラッとするわ。

私だけがなんでせなあかんの、と思うときは、私がそれを楽しめてないから。強制されているように感じて、心が納得できてないから、させられてる感を持ってしまう。したくないわけではない、できないわけでもない。でも、して当然なことでもない。

今の私にとっては、当然と思ってしてきたことが合わなくなってるんだな。自分で決めてきたルールだけど、それに違和感を感じているんだな。

環境を整えること、居る場所を心地よくすることは、今の私にとっても大切なこと。大切なことだから私の望むようにするしたくないときはしない自分で選べばいいんだな。

今回気づいたのは小さなことではあるけれど、でも今までまったく意識したことがなかったことだった。

身体に染み込んだ、疑うこともしないような動きや習慣。このほんのひとつひとつ、気づいて拾って見直してあげることができたのが自分でも驚きだったし、気づいた今の自分はえらい!と感じられた出来事だった。

して当然だと捉えることから、してもいい・しなくてもいいと選ぶことへ、変化した。自分で選択できるって、自由だ!

これからももっと自分の動きに目を向けて、昔からの窮屈な習慣や価値観を見直して、自分で選択できるようにしていきたい。

いちばん頼りになるのは

いったん信じてみた。その続きです。

いろんな人の言ういろんなことをいったん信じてみた。そしてできそうなことから行動した。行動して体験すると、ふむふむこういうことか、とわかる。ふむふむ、そしてまた体験する。

そんなことを繰り返していると、突如、もうお腹いっぱい、という状態になる。そしたらいったん休む。またはなんだかだるく頭痛もするかも、みたいな状態になる。そしたら休む。

進むスピードは自分が決めたい。どんなに遅くたって、焦ったって、進めないものは進めない。納得しないと進みたくない。人と比べて遅いかもしれないけど、そんなの知るか。私は私。

行動し体験したことでできたことや身になったことは必ずある。気づいたこともある。人より少ないかもしれない。でもそれが私なんだ。

求められるスピードに乗れないことは、恥ずかしいし辛い。情けない。それでも自分のペースで確実にものにするのが私なんだ。

こうした方がいいよ、早道だよ、という助言も耳に届かない。頑固に跳ね除けて聞かない。あまりいいことではないかもしれないけど、私は私。今はごめん、合わせられない。合わせる余裕ができたらしてみるわ。

みんなにいい顔して、みんなに優しくして、みんなの和を乱したくなんてないけど、周りが見えなくてひきつった顔をしていることだってある。

進むスピードは遅く、得たものも少なく、また以前の自分に戻ろうとする自分がいて、一進一退。誰よりも自分がもどかしく感じている。

 

自分にいちばんのダメ出しをするのは自分だけど、最終的にいちばん頼りになるのも自分なんだ。だから自分の意見を尊重する。周りと合わなくても、間違っている方法でも。

いったん信じてみた

いろんな人がいろんなことを言っている話。つづきです。

はえいや、という気持ちでいったん信じてみたんです。自分の声もわからない状態だったから。

善悪、正しい正しくない、好き嫌い、そんな自分の基準もよくわからなくなっていました。どこかから借りてきた「世間的には〜、一般常識では〜、といった思想」をそのまんま鵜呑みにして、これが合ってる、と思い込んでいました。

それに対していやだなんてことも思わないくらい、従うべきフツーのルールだ、とか思ってました。従っておけばラクだし、自分は正しい相手が間違ってる、と公明正大に言えますもんね。

ガッチリ信じ込んで私は間違ってない、と思っていたけど、でもちょっと待て待て、それ本当? 私の思うことなんて、そんな大層なもの? 必死にしがみついておくもの?

そして、世間がとか、親がとか、みんながとか、本当にそんなものいるの? 自分で吟味せずただ流されているし、しかもそんな理想の人間みたいなもの、どこにもいないぞ。ちゃんちゃらおかしい。

怖かったです。自分のガッチリした理想ルールに疑いを持つのは。

ちょっとぐらい揺れたって、ルールがガラッと変わったってどうってことないのに、そのルールを持っていることで自分を守っていたんです。

自分が変わることや、今までのキャラクターを脱ぐことは、怖かった。

いろんな人が言っている「手法」を試してみました。いろんな人のブログも読んでみました。

たくさん読むと、その人の書き方や言いたいことが積み重なって理解できるようになりました。そうしていくうち、内容が私には合わないとか、言うことはいいけど余計な文章が多くて読みづらい、と離れたものもあります。また、乱暴な書き方をしている人の文章はいくら素晴らしいことを言っていても、心にまったく届きません。

こうしたブログや自己啓発の本などは、通過点に過ぎないのでしょうね。必要な時に自分の中を通り過ぎていく。

あくまでも、自分にとって心地よい、と思えることを取り入れていけばいいのだと思います。人がいいと言っているから自分にもよいとは限らないし、自分中心に判断してよい。

しかし、自分の基準を持つってなんて難しいんでしょう。自分の判断に、自分の人生に責任を持つ、という覚悟をきめなくちゃなりません。自分を取り戻して生きるって、パワーがかかります。

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まだ手探りだし、進まないなぁって思うこともしばしばです。けれど、螺旋階段を上るように成長し進んでいるんだ、と自分を信用して日々を過ごしています。

自分で選んで自分で決めるって、とても厳しいし楽しい。

でも、生きてるって感じがします。

秋晴れ

いつのまにか紅葉していたメタセコイア

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ちょっと暗く写ってしまいましたが、葉っぱは朝日を受けるとレンガ色に光って見えます。

忙しくして、目の前のことしか見えてなかったから変化に気がつかなかった。

空を見ると、こんなに広くて大きいのに。

のどに違和感が出て、あ、これはいけない、と感じ、今の症状に合う薬はどれか?と市販の漢方薬を自分なりに調べて服用してみました。本当にそれが効いたかはわからなかったのですが(笑)、自分で選んだ、ということに満足です。

ちなみに、のどが痛い・のどが乾く・頭痛あり・寒気なし・筋肉のこわばりは少しだけ・発汗なし、で選んだのは、クラシエ「銀翹散(ギンギョウサン)」です。

少しの白湯に溶かしてゆっくり飲むと、のどの炎症や痛みがすーっとひきました。こんなすぐにひいてくれるんだ、とびっくり。自分で人体実験して納得しました。(おいしくはなかった)

先日、マヌカハニーも入手したので、小指の爪くらいの量を毎朝食べています。免疫力アップを目指して!(しかしマヌカハニーは高いですね…^^; )効くといいな。

みなさまも風邪にお気をつけて!

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エッセンスが残る

いろんな方々がいろんなところで言っていること。

最近、あっみんな同じこと言ってるんだ、と気づいた。

その時々に読んで、なんだか心に引っかかったこと。そうだ、と思ったこと、耳に痛いな、と思ったこと。詳細を忘れてしまっても、気になったところがなんとなく自分の中にとどまる。

自分の中にそれぞれのエッセンスが残る。

その時自分の言葉にならなくても、残しておこうと無理して言葉にしなくても、時間が経てば、自分の身になっている。

**

ずっと心理や意識の物語(様々な方々が語る言葉や記事)を読んでいると、味方ができたような気持ちになる。
心に馴染むような、言えなかったことを言い表してもらったような安堵感。知らなかったことを知った驚きや発見。私もそうしてみたい、と願う気持ち。

もちろん書いている人により、「?」と思う記述もあるので、自分と合うか合わないか、なのだけれど。受け入れたくないなら、自分の声に従った方がいい。

**

言葉って大切だな。

自分の身になる言葉なら、やっぱり心地よい言葉を内に入れていきたい。

自分を守るために、心地悪くなる言葉を見ない聞かないようにした。

テレビをなくしたことは私には有意義だった。いらない映像・音・色…。その場に縛り付けられることもなくなり時間もできた。(でもお笑いを見て、頭を空っぽにして大笑いする機会も減ってしまったので、ちょっとだけ残念)

充分満たされ余裕ができたら、少々嫌な言葉でも、「受け入れるか」「流すか」「拒否するか」を選べるように少しずつなってきた。

いったんシャットアウトすることが、私にはとても重要だった。アクセルとブレーキ両方を踏みながら、がんばってない自分はダメだと思い込み、休むなんて贅沢だと走り続けてしまうタイプの私には、自分自身からの責めに加えて、外部の情報を見続け、聞き続けることは、自分に対し非常に残酷な仕打ちだった。

自分で自分を守ることをしてこなかった私は、自分の叫びを人からの責めだと捉え、自身を追い込むばかりだった。

自分を守ったり手当てしたりなんてことをずっと知らなかったから、今もそういうところはなくなっていないけれど。

**

今も、たくさんの言葉や物語が私の中にある。自分の言葉になるのを、私は待っている。

私が選んで、近づいて、つかまえた言葉のエッセンスが、私自身の言葉になるのを待つ。

たくさんの言葉を濾過したり、発酵させたりしてるんだと思っている。もどかしい時間だけど私には必要な時間です。

***

たくさんの方のたくさんの文章を読んできて、ご紹介したいけどしきれない、そんな中、最近拝見したカウンセラーさんの記事です。

思考で感情を抑えることが習い性になっている私に、ヒントをもらいました。

『根本裕幸オフィシャルブログ』「本当は○○した方がいいのに、私は△△だ」は自己否定に他なりません。

https://nemotohiroyuki.jp/everyday-psychology/21961

欲と直感

こんにちは。

直感を無視して欲に走ると結局うまくいかなかった、ということありませんか?

40歳近くなってから、欲得で判断したり理屈で動くと最終的に望まない結果になるなぁと感じていました。

ちょっとしたことですが、飲食店に入って、「ん? なんかいやな感じがするな」とよくわからないけど感じてるのに、お腹が空いてるから、おいしそうなメニューがあったから、安いから、などなど、外的要因や理屈で考えてその場にいると、たいがいトラブルに巻き込まれます。

タバコの煙や匂いが強く流れてきたり、周りのお客さんがイライラして怒ってるところを見たり、とてもうるさかったり、店員さんの態度が悪かったり。どうにも居心地が悪い。

主観的なものなので、ほかの人に当てはまるかはわからないし、主観的に判断(好き嫌いとか)しているだけなのかもしれません。そして全部が全部ではなく、我慢できる時もあります。体調が悪い時は直感が働かなくてドツボにはまる時もあります。

主人も同じことを言います。一緒に出かけて、特に行きたいわけではないのに「せっかくだから」行ってみようとか、なんらかの欲が働くと、結局あとですごく疲れたり気分が悪くなったり、時間がかかり過ぎたりとロクなことがありません。

これって、自分の声、無視してますよね。

自分以外に、自分を守ったり満足させてあげられる人やものごとがあるのでしょうか。

自分が熱が出てしんどかったとしたら、たとえ準備してたとしてもわざわざ出かけたりはしない。身体で考えるとわかりやすいですよね。

それを理解したので、お店など、変だと感じるところに出くわしたら、すみやかに離れることにしました。

いやだと心が感じてるのにそのまま居続けても、好転することはない。

以前いた職場のことです。一番初めの面接の日程調整の段階で「な〜んかおかしいな、変なことする会社だな」と感じていたのですが、離職期間が開くのも不安だし他に受けているところもないから、と気持ちを無視して流して受け、いざ働き始めたら、そこに行ったことをすぐに後悔しました。

しかしその時は、自分の直感なんてまったく「意識の外」だったので、また「私ができてないからだ」とか自分が至らないせいにして、冷静に周りの状況を観察することもなく、我慢を続け、自分にムチ打ってました。

働くことはもちろん無駄ではなかった。得たことも多かったし、少しでも成長できた。でも、起こることすべてを自分のせいにして自分を抑え込んで痛めつけることとは違う。それはいらない。

押さえつけていた結果、今までの自分では考えられないような退職の仕方をしました。けれど、もうこれで自分を押さえつけなくていい!と自分の心が大きく跳ね、喜びました。

このことをきっかけに、自分のことを観察するようになり、徐々に気持ちを押し殺すことをやめ、なにより自分のことを認め、信じられるようになっていきました。

私は私の直感を信じてあげるんだ。私を守るのは私だから。

ついつい

友人に気づかせてもらったこと。

笑顔じゃないからといって、不機嫌なわけではないこと

話さないからといって、コミュニケーションを取りたくないのではない、ということ

ついつい、笑顔でない顔や、黙っている顔を見て、

「体調悪い?」「なんか怒ってるのかな?」「機嫌悪くしちゃった?(そしてそれは私のせい?)」

などと捉えてしまい、気を回し、気を遣い、していました。

でも違った。表面に出てなくても、内面では面白がっていたり、顔には出ないけど楽しんでいたりしてるのです。そうだったのか〜、とホッとしたのです。

私は私なりのやり方で、相手を楽しませようとしていた。私にとっての大切だと思う関係性は、笑顔を見ることだったり、柔らかい雰囲気の中でいられることだったりするから、どうしても相手の顔色が気になるのです。でも相手は相手の表現方法で応えてくれていたし、自分のことを表してくれていた。

人は人、自分は自分。相手のことは相手の問題。…という紋切り型な言い方でまとめられてしまうけれど、こうした突き放したような言い方でなくても、私は私の表現、あなたはあなたの表現なんだと、人との関係から教えられ、気づかされたのです。

自分の頭の中だけで繰り広げている思い込み劇場から出て、怖くても直接人と出会い話すことは、自分の思う以上のことを与えてくれる。

大阪嫌いの理由がわかった

いつも知恵を授けてくださる、ブログの知人の方とやり取りしていて気づいたこと。

「怒り」についてお話されていたのですが、自分にとっての「怒り」ってどんなだろう?と思い巡らすきっかけになりました。

今回は私自身の「怒り」は置いておいて、周りの怒りについて考えると、怒鳴り声や罵声、単なる大声であっても、あのエネルギーや熱波みたいなものを耳にしたり目にすると、恐怖を感じ身がすくむ、ということに気づきました。ものすごくいや。

私は大阪に住んでいますが、子供の頃から大阪に違和感を感じ、長じてからは苦手で仕方ありません。はっきり大阪嫌いと言えるくらいなのですが、大阪弁」での「怒りの言葉」や「罵声」は、言葉が汚くて耳にするのもいやなんだ、ということがわかって、嫌いな理由の一つが腑に落ちました。

大阪にいると会話するほとんどの方は大阪弁。柔らかくゆっくり話す方もいますし、自分もそうありたいと思っているけれど、ふとした時に耳にする、まくしたてるような口調。早口。キツく聞こえる大阪の言葉。

イントネーションではない。大阪のイントネーションは面白い、と思う。そうではなく、

「アホ」「ワレ」「なんやコラ」「どないなっとんねん」…こうした言葉、おじさんしか使わないかもしれないですが、こんな言葉が汚い。そしてもっとひどい言葉もありますが書きたくない。

ほ〜、これがずっといやで嫌いだったから、私は普段の言葉として大阪弁を使わないんだな、と発見でした。

な〜んだ、いやで嫌いなんだったら仕方ないよね。特に好きにならなくてもいいや。という気持ちです。ちょっとスッキリしました。

ホットワインもどき その後

こんにちは。

ホットワインぶどうジュースで作ったらどうなるか、を試してました。そういやぶどうジュースなのでワインのように保存は効かないんだった、と初めて作ったものは早々に飲んでしまいました。

味は最高!…なんて、本場のホットワインを知らないですが。でもおいしかったのです。今また作っています、安いけど今度は赤ワインで(^^)

薬草のような香りほんの少しのえぐみシナモンとみかんの皮の苦味、ジンジャーパウダーとシナモンのからさも感じられました。それでもぶどうジュースが勝ってしまって、サラッとさっぱりな味だったので、今度はもっとスパイス多めで作っています。

ぶどうジュースで作ったものはシロップみたいなものなので、ヨーグルトに混ぜたりしてもおいしいです。

胃が弱めだったり焼けてムカムカしやすい方はあまりたくさんは飲まない方がいいかもしれません。身体を温めてくれるスパイスを使っているので、冷えた時に温めて飲むのがやっぱりおすすめです。

おいしい、おいしい。

* 

怪しくないですよ、コーヒーでもないですよ。

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スパイスは、ワインやぶどうジュース250ccに対して、クローブホール10粒、陳皮ひとつかみ、シナモンパウダー・ジンジャーパウダーも小さじ1ずつくらい、と前回より倍くらい多めにして作成中です。

女性必見の連載かも!

こんにちは。

DJあおいさん、ご存じですか。

私もそんなに存じ上げないのですが(汗)、とあるサイトの連載を見つけてから、更新を心待ちにしています。

女性なら見てソンはない…というか、耳に痛い!と思うかもしれません。でも面白い。

イラストレーターのツボユリさんの絵がまたうまいんですよ〜ファンになってしまいました。

書籍も出ているくらいたくさん連載されていますが、今回ご紹介したいのはそこではないんです。本題とは関係ない部分でツボにはまるということ、ありますよね。ありますよね?

この記事の中の…、

https://tokyo.cawaii.media/tokyo-cawaii/45427 

「私、角砂糖には神様が宿ってると思ってるんだ……」の一連のやりとりが、その記事の本題とは関係ないんですが面白くって仕方なかったです。ぜひ一度ご覧くださいませ。

コーヒーに、神様入れすぎ…!

そして切り取り方で実物とかけはなれた美人に見えるなんて…!

他の記事もとても面白いですよ。

某ペッ◯ーさんのこと

こんにちは。

以前の職場に、某携帯会社などで見かける某◯ッパーさんがいたことがあったんです。いったいなんでやってきたのかはわかりませんが、ある部署に立って、来る人々に応対していました。

ペッ◯ーさんは、近づいて来た人に対して「ご用件は?」と話したり、人がいない時は踊ったり、楽器を弾く真似をしたり、首を回したり、いろいろな動作をしていました。

***

さて、皆さん、特にHSPの方々にお聞きしてみたいことがあります。ペッ◯ーさんのような人型ロボットが、自分のいる場所のすぐ近くにいたらどう感じるか? …どうぞ想像してみてくださいませ。。

***

今回思い出すにあたって、ペッ◯ーさんを認識した時に「考えたこと(思考・感情)」「感じたこと(身体の反応や感覚)」がありました。できるだけ書いていこうと思います。

周りの同僚たちは笑顔で立ち寄って、きゃーかわいい、とか、おもしろーい、と言ってスマホで写真を撮ってました。

私は、ペッ◯ーさんがいるとわかった時にはじめに感じたのは、「薄気味悪さ」「恐怖」「不信感」でした。かわいいとか、まっっったく感じませんでした。身体がすくむような感覚がしました

同僚たちがペッ◯ーさんの存在に慣れて飽きて、たいして相手にしなくなっていった時も、私はひたすら気持ち悪くて、その場所を通るにもなるべく見ないように避けて急いで通り過ぎるようにしていました。

なぜか?

考えるに、アレが何のためにいるのかわからないこと。

こちらを認識して話しかけてくるということは、あの目はカメラということで、その場の映像を撮り、その画像なり映像を録画し、こちらが知らないどこかへ送っているかもしれない。映像を撮るなら、音声も取ることができますね。どこへ? 何のために?

そして、体内にプログラミングされた内容は、その企業の人がおこなったのかどうかも不明。外部に依頼して応対内容を作っていったとしても、どんなことを取捨選択してプログラムされたかもわからない。

私は、表向きの理由はさておいて、部署を見張るために置かれたのかな、と推測したのです。

…例えば問題の多い部署で、社内と言えども人を入れて調査もできないために、一部始終を情報収集して調査に使う、とか。

荒唐無稽でしょうか? SF映画に毒されているでしょうか?

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もともとその企業のその部署には不信感を持っていたので、余計そのように考えたのかもしれません。

しかし一事が万事、ひとつの部署のすることは、ひいてはその企業全体の姿勢もそこから読み取れますから、変なことする部署だな、と思ったら、企業全体も変なところがあると考えています。そしてその逆もしかり。変なことする企業だなと思ったら、各部署も変なことするもんです。(この企業で学びました)

…と、調べてみたらペッ◯ーさん、ビジネス用にレンタルサービスがあるんですね。「検証用」と謳っていますので、大いなる思い込みがあるとはいえ、私の推測もそれほど遠くはないのでは、と思ってしまいました。

いずれにせよ、意図があってお金をかけて置かれたものですから、街の監視カメラとはまた役割が違うと思っています。なにはともあれ、うかつに近づかないに越したことはないシロモノだと私は感じています。

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私はこのように考えましたが、なんとも思っていない人もいるでしょうし、好意的に思う人もいるでしょう。

でも私はとても居心地が悪かった。ずっと見られているような気がして気持ちが悪かった。

 

そして、何のために置かれたのかわからないことと共に、表情のない顔でいろんな行動をしていることが、気味が悪かったんです。

人と話すとき、しゃべっている言葉だけを聞くわけではないですよね。顔の表情を見て話します。言葉以外の情報は膨大です。それから受ける感覚もさまざまあります。表情やしぐさで、なにを考えているか推測できたりします。

ペッ◯ーさんは当然のこと、表情はありませんでした。

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そして残念ながら、その場には、私のこうした考え方や感じ方を共有できる人はいませんでした。深く話し、説明していけば「こういう考え方・感じ方もある」と理解してもらえたかもしれません。けれど、おそらく一般的な考え方・感じ方ではないのかもしれませんね。

といって、わかってもらえなかったからといって、少し淋しく思うことはあっても、変える必要は今はもう感じていません。

私はこの感覚を大切に思っています。

以前なら、自分が一人であるように感じて拗ねたり責めたりしていましたが。

そう感じる感覚は、ただそのような性質であるだけ。そして、私の感覚は私が信じる。

…前より少しは成長したかな? けれども、感じ方や思いを共有できたらおもしろかっただろうなぁと思います。

もうすぐ陳皮のできあがり

こんにちは。

ただ今作成中の「陳皮」、だいぶできてきました。

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ビンの中が、できかけの陳皮です。

かさがずいぶん減りました…。まだ乾ききっていないからか、ふんわりといい香りがします。甘くて優しい。

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黄色いのはもらったゆずです。

昔はお吸い物などのゆずの香りは苦手だったのですが、嗜好って歳を経ると本当に変わるんですね。今までの好みを嫌いになるわけではなくて、追加される感じ。あまいのもからいのも好きだったのが、プラス、にがいのもすっぱいのも好きになった、というような感じです。

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陳皮の使い途は、クックパッド様を見てみると、紅茶に入れたりジャムにしたり、といった私の思いつくもの以外にも、「七味」「炒め物」「スープ」「揚げ衣」などに加える、とたくさんメニューがありました(^^)

ほっほぅ、すごいな。知らなかった世界が広がった! どうやって使おうかな? 何に入れようかな?

ごくごく小さな広がりですが、私にはワクワクするような大きな満足になりました。