習慣のありがたみに気づく
この間の朝、起きたけど頭はまだボーッとして、でも身体は自動的に朝の用意をしていた。
お湯を沸かし、食器を並べる。コーヒーを淹れる。
小鳥たちの暗幕を外し、おはようと声を掛け、水やエサを入れ替える。
そのうち目がしゃんとしてきて、頭のスイッチがオフでも勝手にやることやってくれてる身体がある、って気づいた。
身体、すごい。
習慣ってすごい。
少し前に、その習慣ほんとに要るの?と、自分の行動をちょっと見直してみていた。
なあなあのただの惰性で要りもしないのにしてることいっぱいあるだろうから、心からそれをしたい、それが欲しい、と思ってるのか、という見直しをして、自分でその都度選ぶ、ということをしていた。
今も少しずつ続けている。時々まだ、これは本当に食べたいの?別に欲しくないの?どれなの?と訳が分からなくなるけど、それも面白い。
私はどこにいるんだろう、今考えている私は私なの?どの私なの?どの役割をしようとしてるの?もしかして何人もいるの? そんなことまで想像を膨らませて笑っている。
私の好き・嫌いを見つける練習をしている。
極端な動きをすると反動で大きく揺り戻す、ということはどんなことにもあると思うのだけど、
その練習のなかで「習慣=悪」って思い込んでいた。
でも今回、「習慣」はただの習慣で、善でも悪でもない。悪どころか、自動的にすることをしてくれる、けっこうすごい機能だということに気づいた。
習慣に呑まれ、そればかりして余裕がなくなることは自分の身にとっての悪に近いかなと思うけれど、「普段の生活を普段の通りに送れるように自動操縦してくれる習慣」は、私を守ってくれてるんだ。
そして、習慣になるまで身体を動かし続けたことは、継続力と根気が自分にもあると気づかせてくれた。私は飽き性でよくないな、と思っていたけど、けっこう続ける力があるんだ。
身体、すごい。
習慣、すごい。
習慣に助けてもらってる。