ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

幡野さんの本(感想のやりとり)

『なんで僕に聞くんだろう。』の感想を知り合いに聞いた。

私はまだその時は読んでいなかったが、視点や捉え方がまったく違っていて、それはそれで面白く感じた。


知り合いの感想は、内容のことではなかった。

「リアルタイムで読むには良い回答者だと思います。でも、折り詰めの寿司のように、人生相談というものはまとまるとつまらない」といった趣旨だった。

それは回答者がだれであっても同じだと。本というまとまった形になることで新鮮さが失われるからなのか、返答はもらえなかったからわからないけれど、文脈からそう判断した。

折り詰めのお寿司…? わかるような、わからないような。

この「折り詰めの寿司」に対しての思いも知り合いと私とではまったく違っているんだ。

知り合いは、たぶん、新鮮さが失われた状態だと言っている。お寿司は握ってくれるその場で食べるのが最上だといっているのだ。

しかし私には折り詰めのお寿司は、宝石箱のように感じられる。いろいろなものがギュッと詰められていて、色とりどり。新鮮ではないかもしれないけど、持ち帰って食べるぶんには十分な鮮度だし、カウンターで握られた寿司を緊張しながら食べるより持ち帰りの方がかえって好きかもしれない。

いずれにせよ、幡野さんの言葉たちについての感想ではなかった。私はそれを聞きたかったんだが。


幡野さんのネット上での人生相談→回答は今も読んでいる。とても面白い。なにが面白いのかわからない。胸をえぐるようにつらく感じる時もある。

だけど私は、幡野さんのやり取りは人生相談ではない、と思っている。

そういう形式をとっているだけで、相談者は幡野さんに具体的な回答を求めているわけではないと思う。

もちろんこの人ならどんなふうに答えてくれるだろうか、とは思うけれど、でも、それぞれの答えというものはそれぞれの中にすでにあるものだ。

それに気づいていないだけか、自分では言い出せないから引き出してほしいのか、気づいていることへの後押しをしてほしいのか。

いずれにしても、回答をしてもらってその通りに動くとは思えない。考えるきっかけにはなるだろうけど、考えるかどうかもわからない。決めるのは相談者だ。


言いにくいから言わない、見ないふりしている、聞かないふりしている、

そういう「耳に痛い言葉」がある。本質的な、ズドンとくる言葉。

人はそれを、幡野さんの言葉に求めてるんだと思う。


まぁまぁそれは言わずにおこうよという政治家の答弁のような、論点をすり替え結局何が言いたいのかわからなくさせるような、ケムに巻くような言葉の数々。

人々はこれに飽き飽きしているんだ。


幡野さんの人柄が信頼できるから相談する、ということでもないと思う。だってほとんどの人が幡野さんのことをなにも知らない。私だって、幡野さんが今までどんなふうに生きてきて、どんな考え方をし、どんなものを好むのかまったく知らない。そして知らなくてもいいと思っている。


ただ、寿命がわずか数年ということを受け止めざるを得ない人の、無駄なことなんてしてる場合じゃない人の、とても貴重な時間の中での言葉の重みは強い。

そしてそれが厳しいものであっても、嘘ではないだろう、心の奥から出てきた言葉なのだろう、というすがるような気持ちで読む人は捉えているんだと思う。


幡野さんなら何を言ってくれるのか。

耳の痛いことも言ってくれる=心の底の話をしてくれるのでは、と思うから、

ふだん人に心の話をすることのない人々は、勝手に期待するのだと思う。


心の奥の話なんて、友人同士の間でもめったにしない。

親兄弟なんてなおさらしない。少なくとも私はしない、決して。


そんな心の奥のことは、人はそれこそ心の奥底にしまいこんで、育てる。

ふだんは見ないふりしてやりすごして生きている。でも消えたわけじゃない。

言えない・話せない分、どんどん育つ。

そしてどうなるのか…出てこないままか、自分の内におしつぶされそうにパンパンになって苦しむか、暴発してまき散らすか…どうなるんだろう。


幡野さんに言う=自分との対話、なんだ。

自分の考えに囚われていきづまっている人に、ちょっとした視点の違いから風穴を開けてくれるのが幡野さんという存在だ。


たいがいの答えは自分の中にしかない。

耳に痛い言葉だって、自分の中にしっかりある。みんなわかっている。

だけどごちゃごちゃになって混乱していると見えなくなるので、ちょっとした気づきの言葉があると、ようやく冷静になれるんだ。

 

よくよく考えたら、私に残る寿命など誰も知らない。今日のうちに死ぬかもしれない。幡野さんが余命数年だ、と聞いてつい深刻な気分になったりするけど、まったく大きなお世話だ。人のことを心配する前に、自分のことをしっかり見ろ、と自分で思う。

しかしどうしたって今日に続く明日、を信じてしまうし、何よりも貴重な時間を無駄遣いすることもしてしまう。

だから、体も心も自由に動けるのはあとどれくらいか、と具体的に計算し行動する、「生きる」ことを輝かせようと動く幡野さんの姿勢はまぶしいし、目を見張らせる。


いろいろな内容の人生相談だけど、だいたいの内容はうわべのことだ。

今起こっていること。今まで解決できなかったこと。もう起こってしまったこと。

そのうわべの内容にいくら回答があっても、問題の本質はそこではないのでまた同じことが起こるだろう。

そしてそのうわべのことに囚われて逃れられなくなってしまうほど、混乱しているのだと思う。

 

みんな、話したい、聞いてもらいたい、吐き出したい、ということなんだと思う。

私の話を聞いてほしい、ということなんだ。

だからあの本は、「人生相談本」ではない。


話して放すことで、自分を立て直したい。

その手助けが幡野さんからの言葉なんだ。

ひとつひとつのケースが重要ではなくて、相談者と回答者とその間の空気感を見る読者、の3つでできあがるものなんじゃないかと思う。

 

私は写真にはまったく興味が湧かない。

でも幡野さんの著作を読んで、日々発信している言葉を読んで、

それらの内容や言葉から、何を写真に焼き付け、どんな言葉を添えるのか、ということには興味を持った。ファンではないが、動向を見ていたい人のひとりだ。

生きることをどう表現するのか、を見ていたい。

この人の「感覚」に自分をすり合わせ重ね合わせると、自分はどうなるのか、ということに興味が湧く。主体は自分だ。

 

#なんで僕に聞くんだろう

#幡野広志さん