ひとは思いこみでできている

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愛おしい私の臓器

以前とは、身体が変わってしまったな。

ついふっと思ってしまう。

そりゃそうか、手術したんだもんね。

今まであった臓器が半分なくなったんだから、今までとは違うんだ。

 

今までと同じような動きはできないかもしれない。身体の中でのはたらきも今までとは変わってしまった。

身体は変わったのに意識はぜんぜんついてけない。

 

なくなってしまってから、感謝があふれてくることを実感した。

私の身体への感謝だ。

私の臓器への。

とても愛おしく思う。

がんばってくれてたんだね、って思う。なんにも言わずにひとり、私のためにがんばってくれてたんだなぁ。こんな私でごめんね。

 

そんなふうに思うなんて思わなかった。

腫瘍となった悪いところを取れば元通りになる、とか思っていた。まったく大間違いだった。

まず良い悪いではない。

そして「悪いもの」と捉えるのはいやだってはっきり思った。ぜんぜんそう思えない。

悪いものじゃない、私にとっては。

 

人の言う、腫瘍は何かのサインだ、とか、◯◯したからそうなったんだ、とか、怒りの感情の現れだ、とか、そういうのいらない。

原因探しも、なにかの意味づけもしない。

腫瘍は腫瘍。

なにかのきっかけでできてしまい、大きくなってしまった。

偶然やタイミングが重なっただけだ。

 

できたら私の臓器をもう一度返してほしいけれど、それは切除してしまったからそう思うのであって、手術しなければそんなこと思わなかっただろう。逆説的だ。

外来で先生に画像で見せてもらった。全体像と、病理検査に出すために薄くスライスされてるものと。

もちろん見たことなんてないから、こんな形、こんな色をしてるのか、とまじまじ見たけれど、

画面に写った写真では、実際の大きさや形、重さ、質感はわからなかった。

 

気持ち悪いとは思わなかった。

思えるはずはない。

腫瘍ができてしまっていようと、変質してしまっていようと、これは私のものだ。

 

血を見るのが苦手な私が、取り出した臓器に対してこんなに愛おしく思おうとは。

たったひとつのもの。私だけのもの。

手術しなければ一生見ることのなかったもの。

 

検査のあとはもう捨てられてしまっただろうけど、願わくば、未来に医師になる方々のなんらかの役に立っていたらいいな。たくさんの臨床の中のひとつの例として。

私のたいせつなたいせつな臓器。