ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

どこへ行きたい?誰に会いたい?

どこへ行きたい?

誰に会いたい?

 

どこか行きたいところ、あるかな?

見てみたいところ、感じてみたいところ。

 

今、会いたい人いるかな?

会っておきたい人、直接話したい人。

 

浮かばない。でもこれは「ない」ということではなくて、

行ってもいいし、行かなくてもいい。

行けたら楽しいだろうけど、行かなくても楽しい。

会いたい人は、いるけど、いない。友人や知り合いや先輩、会えたら嬉しいけれど、会えなくても不足感はない。

 

実際になにかをしてもしなくても、今の私はここにある。

不動でもあり、流動でもある。

気持ちは揺れ動き、身体も変化し、変わっていくものだけれど、私は私として変わらないものでもある。

 

どこへ行っても、誰と会っても、私は私でしかない。私に戻る、といえばいいのか。

どこかへ行って、誰かと会って、その刺激や感動で、私のなにかが揺れ動き、ざわめくことはあるけれど、

そういった刺激を受け止め、受け入れるかどうか決めるのは私で、なにかに影響されたとしても、私は私である。ほかの誰かになることはない。

そう思うと、私は、今の私自身とおしゃべりするだけで充足しているように感じる。

 

私は私のことを知っているようで知らない。

知らないからといって、ほかの人間関係で関係性を作ろうと焦ったり、人の顔色を伺ったり、気を回したり、できなくて空回りしたり、そういうこと、しなくていい。自分相手だから。

だからって、今の私が「閉じている」とは思えない。開いてもいないかもしれないが、ただ静かに、自分を感じている。

 

どこかへ行きたい、とよく思うのだけど、行かなくてもじゅうぶんに足りているんだな。

焦りの気持ちでそう思ってしまったんだ。場所や、人や、もので、深いところまでには届かない。外側のもので、私は満たされることはない。

なにをしても、私は私だ。