ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

どんなことでも、自分の捉え方しだい

トピックスに載った知らない人のブログ記事を読んだ。

うーんそうかな?という内容に感じたので、コメントを寄せる人はどう思うのか、とそのコメント人数に慄きながら読んだ。

私と同じようにトピックスに載ってたから来ました、という人も多かった。

そしてそのコメント欄は荒れ放題だった。

うわーー怖い、と思いながら読んだ。気分が悪くなってきて全部は読まなかったが、さーっと流しただけで毒気に当てられた感じがした。読んだ私が悪い。反省だ。

人のことめっちゃジャッジしてるなぁ、「正しい・常識」のオンパレードだ。

「私は正しい・私が常識」の砲丸を投げまくってる。

これは記事を書いた人も、コメントを書いた人も同じこと。意識はしてないかもしれないけど、誰に対してだかわからないけど、攻撃してる。

砲丸だから、重いしコントロールはきかないしどこへ飛んでいくかわからないのに、とりあえず持ってるのがイヤだから投げる。または当ててやろうと投げる。それで、なにも思ってなかった人に当たる。当たった人はびっくりするしなんでそんなことされるの?と怒りを覚える。攻撃する。そういったループのように感じた。

人を正してあげる風、私が当然だ風、あなたのために言いますよ風。

「正しい・世間の常識」論(なんてものがあるか知らないけど)で人を敵とみなして「やりこめる」ことって、自分が正しいと思えて爽快ですよね。でもそれをしている姿って醜いですよね。それにそんな爽快感、一過性のものだ。

「正しい」ことを言うと、自分がキラキラしてるように感じるのかな。姿勢を正して、すっくと立って、わたくしなにも恥ずかしいことはしたことありません、というふうに思えるのかな。

でも実際は、言う人も、言われる人も、どちらも傷つくだけだろう。

言う人は、自分の言ったその言葉で自分が傷つくんだ。それはキラキラしてるのか?

あぁもう、読んだ私が悪かった! ごめん! 反省!

 

「正しい・世間の常識」なんて、地球がくしゃみしたようなことで、ほんのちょっとのできごとで揺らぐし変わるものだ。

毎日は、日常は、当たり前の生活は、与えられて当然のものじゃない。

たった今、自然災害が起こったり、テロが起こったり、地球に隕石がやってこようとしているとしたら、自分が大事に抱えてる「私だけの常識・正しさ」なんて、吹けば飛んでしまうくらいどうでもいいことだ。人のことあれこれ言ってる場合じゃない。

知らない人にわざわざ文句を言うことは、今に続く明日を無条件に信じてるということなのかな。明日が来るかどうかなんて本当はわからないのに。

 

そして、こうやって人の記事を読んであれこれ思い、判断している私も同じこと。

私の価値観、ルール、思いこみ、自分勝手な判断だ。

人の記事であれこれ「反応」しているということは、なにか自分自身に引っかかることがあって、それを刺激されただけだ。(もともと無いものには反応できない)

刺激に対する反応 = 正しい・常識に対する嫌悪感 ということか。

嫌悪感を持ちつつ、それに迎合する自分にも嫌気がさしている。私は私だ、と強く言えない自分を責めている。

コメントに書きこむことはしないけど、おかしいと感じ(私というたった一人の人間の価値観やルールや判断で)、なんでそんなことするんだろう?と疑問に思い、「自分勝手な常識」でもって人を裁く。同じことしてる。醜い。カッコ悪い。

ヒマだからって、トピックスに載ったからって、そもそも知らない人のブログは読まないことだ。何を書いてもその人の範疇だし、私にはいっさい関係ないのに、わざわざ寄っていって不快な気分になるなんて、なんのマゾだ。自業自得だ。

ほんとにもう、読んだ私は反省する。そうした言葉の応酬には慣れていないから逃げる。怖い場からはしっぽ巻いて逃げる、ただの醜い小さな存在だ。

しかしこういう強く反応するできごとから、自分を縛っているあらゆる価値観やルールに気づくんだな。今回の失敗は、立ち止まって考えるチャンスなんだな。

そう思うと、どんなことも自分次第なんだと理解できる。