ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

憧れのひと

 

市原悦子さんが亡くなってしまった。

出演する2時間ドラマも、連ドラになった「家政婦は見た!」も欠かさず見ていた。この方は、声や風貌にだまされるけどすごく厳しい人なんだろう、と感じていて、でも声と風貌にも惹かれて憧れてた。ひとり歌いながら踊るシーンが多くあって、無防備に見えるのがチャーミングだと思っていた。歳を重ねられたほうがもっと虎視眈々とした表情を見られて、私も思わず「ウシシ」と変な笑いをしてしまっていた。市原悦子さんが出る番組はおもしろくないわけないから、録画しても見ていた。

ふんわかしてるけど、でも実は怖い、と思うひとはもうひとりいて、それは詩人の石垣りんさん。この方も、見ためがかわいらしくだまされそうになるが、詩といえば市井の人々の厳しさを描いたものが印象に残っている。亡くなったときにハッとしたことを覚えている。私の中ではふたりを重ね合わせているようだ。

市原悦子さんの本も読んだことがある。以前に読んだインタビュー(と写真)の本では、思っていたよりも芯の通った厳しさだった。身体を悪くされて表舞台から少し離れていたけど、リハビリもしてると記事で読んでいたので安心していた。

 

葬儀の日、ネット記事で「樹木葬」にされると知った。

 

樹木葬」は私もできたら希望する埋葬の仕方だ。海への散骨、山への散骨、どれでもいい、とにかくお墓の中には入りたくないんだ。死んでまで、あんなコンクリートの狭いスペースにいたくない。墓は「ここに居るんです」とクサビを打つようなものだ。骨がここにあります、と周りにわざわざ知らせたくもない。死んでまで同じ場所に縛られたくない。私という痕跡は、人工物の中に残したくないんだ。自然の中に溶けてしまえたらいちばんいい。

しかし実際に散骨や埋葬をしてくれるのは私ではないわけで、死んでしまえばもう文句はない。どんな死に方をするかもわからないし、火葬してできる限り細かな灰にしてもらえるならそのあとはどのようにしていただいてもありがたいと思う…。

 

憧れのひとが望む埋葬方法と、自分の希望が同じだと知って、好きなひとを好きでいつづけてよかったと思った。人の生き死にといった根源的なところが自分と重なるというのは、魂の柔らかいところに触れたようで、しかもそれを理解できたような気持ちになるから。共感できる喜び。

こんな、葬儀の仕方とか散骨の話なんて、「普通は」だれとも気軽にはできない。話題にのぼらない。私にとって大切にしている思いでもあるし、人のこころに関わるデリケートな話だからだ。

でも、こうした話をふとした時にできる関係は、私には至福だろうし、とても憧れる。本音を開示し合うことにとても憧れる。

 

好きなひと、憧れのひとというのは、私に進む道を示してくれて、それはきれいなところばかりじゃない、どろりと濁り粘った場所もある、と教えてくれる。その人々を通して、世間を、世界を知ることができる。市原悦子さんも石垣りんさんも、私にとってそんな存在だ。

好きなひと、憧れのひとが何を望み知りたいと思うのか、行動だけではわからない心の動きをこうして知ることが叶い、穏やかな気持ちにさせてくれた。亡くなってからとなってしまったけれど。亡くなってしまったからこそ。

ずっと憧れのひとだ。