ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

よく思われたいのではなく、正しく理解されたい

 

梨木香歩さんの文章が好きだ。

この方の文章は「森」のようなイメージだ。

森の中の湖面のようにしんと静かでほの暗く、森の中の落ち葉が堆積した土のように豊かで深い。

私のこの精神を、受け入れてくれる、と感じる。

私のこの、ごちゃごちゃとした面倒な精神を。

 

言葉を、丁寧に、誤解のないように、優しく、でも厳しさをもって扱っていると感じる。簡素に感じるほどだ。

表面に現れるのはきれいで簡潔でシンプル。けれど、おもてに出た氷山の下には、何倍も大きくて深い氷があるように、その底にはつよさや苦しさや喜びや、言葉では言えない感情が数多あるのだろうと思う。

正しさを追求して厳しくしすぎると、つらく切ない思いが湧く。その切なさを読んでいて感じる。文章の中に自分を映し出しているようだ。

数年ぶりに「梨木香歩作品集」としての『西の魔女が死んだ』(本編と、それから派生した物語が収められている)を読んで、あぁそうだった、この方はこんな文章を書くんだった、と、居場所に帰ったような落ち着きを感じた。

主人公の少女はHSPなんだろうと思う。(翻って、作者もそうなのではないかな、と考えている) HSPの一側面を記している話だなぁと思う。

私は、HSPの性質というものは「部分や分野により」誰もがひとつふたつは持っていると言えるし、持っていないとも言える、と考えているが、こうした物語があると「その部分・分野では持っていないのでわからない」人に、理解の助けになると感じる。

たとえば、私は聴覚や視覚、嗅覚において、細かな差異を見つけるのがたやすく、見つけすぎてストレスになるが、味覚や触覚では感じない。そんな人間と、味覚や触覚に鋭い人とは、同じHSPであっても相互に理解するのは難しいだろう。持っている分野が違うから。

そんな場合に、こういった物語があると、なんとなくでも相手の感じていることをわかる気がする。

お話の中で主人公は、「自分が相手にどう受け止められているのかということ」をとても気にして、「と同時に、そんなことを気にする自分が情けなかった。」そんな気持ちの時に、祖母がそっと言ってくれたのだ。

「自分が相手によく思われたいのではなくて、正しく理解されたいだけなのではないですか」

「そうだとしたら、いちいち訂正したり、念を押したりすることも、意味のあることですよ」

誤解のないように。自分の表現することが、そのままの形で相手に伝わるように。

間違い・正解、の「正しさ」ではないだろう。この、モヤモヤとして言葉ではうまく言い表わせられない思いが、誤解のないよう、曲解もされずに相手に届いてほしい。

言うこと・話すこと・表情やしぐさ、それらは「自分を差し出す」のと同じことだから。

相手も自分も傷つけたくないし、相手も自分も丁寧に扱いたいから。

よく思われたいと思ったっていいと思う。それを情けないと感じたって問題ないと思う。

人とのやりとりで、意図しない受け止め方をされてしまって、悲しくてやりきれないとやさぐれたっていいと思う。

周りの人や情報に振り回されて、何が何だかわからなくなってもいいと思う。混乱してもいいと思う。

でも。そうしたときに。

事実や真実や現実よりも、人には物語が要る。

事実や真実や現実に疲れたら、物語に帰っておいで、と言われているように思った。

西の魔女が死んだ 梨木香歩作品集』2017/4/25発行 新潮社