ことりのように

旦那さんと文鳥とオカメインコと暮らしています。日々のこと、思うこと。ことりのように自由にはばたいていきたいです

「言葉」の危うさ/「言葉」での共有

こんにちは。今日は「言葉」についてです。

 

先日オススメした穂村 弘氏のエッセイにこんな文章がありました。

 それが善意や励ましの気持ちからであっても、誰かの心に「言葉」を贈るのはこわいことだと改めて感じた。音楽や絵画と違って、「言葉」は意味から自由になることができない。それを見たり聞いたりした者の心には必ず「意味」の解釈が入り込む。そこに致命的なズレが生じる可能性があるのだ。

…「お見舞いの失敗」/『鳥肌が』(穂村 弘)より引用

友人Aさんが重い病に倒れ、周りの人たちも心配しているなか、Aさんと仲のよいBさんがお見舞いに行ったそうです。

そこでBさんはお見舞いの品として「絵本」を持って行きました。

「毎日の何気ない時間と小さな出来事の一つ一つがかけがえのない宝物、みたいな内容だったの」

 (中略)

それは、と私は思った。確かに一歩間違えると危ういところがある。

 (中略)

「その『宝物』をいま私が失おうとしているのに、って云われちゃったの」
(…引用 : 同上)

…とてもこわいことです。

なんとか元気づけようと心を砕いたとしても、今できる精一杯の愛情から出た行動だったとしても、送り手と受け手のとらえ方がズレると、こんな風に決定的な結果になってしまう。

 

私は「言葉」は不自由だと感じています。「言葉」で表せることなんて、ほんのちょっぴりしかない、と思っています。前述の穂村氏のエッセイのとおり「意味から自由になることができない」からです。表出しない意識の世界は膨大で、あえて「言葉」にして出さなくてもいいものだ、とも思います。

でも、なんとかして「言葉」で表してみたい、とも思うのです。意味がつけられ限定したものになってしまう言葉ですが、言い方を変えたり、比喩を用いたり、飛躍した使い方をしたり、なんらかの形で、伝えたいことを表してみたい。

送り手と受け手には、ズレはあるもの。それはわかったうえで、そのズレを通り越して共感できたとしたら、「通じる」ことの喜びを感じることができるのじゃないか。輝くような高揚を感じられるのじゃないか。

届いた、通じた = 共有ですよね。同じものを同じ意味合いで、もしくは意味も何もとっぱらって、「一緒に」見ること感じることができた、ということですね。

それを喜びととらえている私は、ひとり、ふたり、みんなと一緒に、喜びを共有したいと思ってるんだなぁ。そんな一瞬を、追い求めていきたいと思ってるんだなぁ。

みんなと一緒に楽しく過ごすことが自分をあっためてくれる、と気づきました。そんな自分があったなんて知らなかったなぁ。

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9月になりました。新しい月のはじまりです。日々いろんなことがあるけれど、楽しみを自らつくっていこう。

漢方養生指導士・中級講座の勉強も始めました^^