ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

穂村 弘と岸本佐知子<意識しないズレを意識させる作家>

こんにちは。今日は好きな作家の話です。

 

穂村 弘 氏と、岸本 佐知子 氏。

ふたりは、歌人と、翻訳家・小説家です。このふたりの「エッセイ」を読んだことはありますか?

 

ほむほむ(穂村氏はこう呼ばれているらしい)の本業である、歌集や短歌評論も一応読んだことがありまして、言葉や歌に対する本質的な論理展開にはさすがと舌を巻きますが、

エッセイを読んだ時の脱力と爆笑と、かすかな苛立ちとぞっとする感じ、奇妙な感じは、他の作家にはない。

岸本佐知子氏の翻訳は読んだことがないので、岸本氏の文章や文体を知る上で片手落ちかもしれないのですが、

エッセイの面白さはもう笑って笑って疲れるくらい笑った後に、うっすら怖さと奇妙な感じが残る。さっきまで笑ってたのに、しーんとした心境になる。これも他の作家にはない。

扱う題材は身近なものや知っているものでも、作家の目で文章になるとなんであんなに輝くものになるんだろう。

今までなんとも感じなかったことが、突然クローズアップされて細部まで見せられたような、凹凸とかザラッと感まで感じさせられる。このふたりには、表面だけでなく、裏面のつぶつぶまで見せられて、うわっ見ない方がよかった、と思わされる感覚。

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話は変わるのですが、『借りぐらしのアリエッティ』を観て、ぞっとしたんです。

中盤で、アリエッティらの種族とは違う小人たちが出てきますよね。あの微妙に違うサイズ感にぞわっと脳内が粟立つような気がしました。

それは、大人と子どもの大きさの違い、とは根本的に違う。まるで遠近感をたがえたような感じ。

あの人たちは違う種族だけど互いにしゃべっている。でもそれは言葉だけであって、英語のような共通の言葉を使ったり、現代にも自動翻訳機があるし「話す」ことについては意思疎通が可能なんだろうと理解はできる。種族間の行き違いや無用な争いをさけるために、共通の言葉を使って相互理解をしようと歩み寄れる。

でもあの人たちは、生活で使うものの貸し借りはできない。だって、サイズが違うから。服も、靴も、ペンやコップや皿も、それぞれの種族の心地よいサイズがあるはずで、それはおおもとの種類が違うから歩み寄れない。

例えば、目玉の大きさ。もし移植をしようとしても、サイズが違うので入らない、または小さすぎる、となるということですよね。心臓、胃、といった内臓も、同じものなんだけどサイズが違うということ。

 

日本人と欧米人では子どもと大人くらい体格差があります。けれどそれは体格差があるだけで、同じコップを使っても使い心地がまったく違うということにはならないけど、あの小人たちの違いはそれとはぜんぜん違うんじゃないか。

だから、微妙に違うサイズの人たちがたくさんずらっと並んだら、それだけその人たちの背後にはその人たちそれぞれの世界や歴史が広がっていて、それらは重なることがない。そう思うと、膨大な質と量のパラレルワールドのようなものに圧倒されそうになる。

表面上は似てるのに、属するところはまったく違う。

見た目が相容れないくらい違っていたら何も思わなかったと思う。同じような外見をしてるから余計に「違い」に驚く。この怖さ、「ぞっとした」感じをうまく表現できなくてもどかしいです。

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…えらく話が変わりましたが、こういった、ふだん意識しない「ズレ」をソッと差し出してくれるのが、穂村 弘氏と岸本佐知子氏なんです。だからはじめは面白くって笑うんですが、よくよく読んでいると奇妙な「しーん」とした状態や感覚に引きずり込まれます。だんだん怖くなって、その怖さをごまかすためにまた笑う。ひきつり笑いのようになってきます。

奇妙な感じを味わいたかったら、迷わずおすすめします。ふたりのエッセイ。

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