ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

感電してみたかった

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『13歳までに感電した経験があると、問題解決能力が高くなる』という記事です。

私の旦那さんはコレだそうだ。

この記事を見つけた時、同志がいる!と喜んだそうな。

え? 子どもの頃に、そんな感電するようなことするの?

と私は思ったが、だがしかし、好奇心旺盛でいろんなことしてみたくて、しかもどんなことでも自分でやってみたい、と思うなら、そもそも問題解決能力は高くなると思うんだ…。

体験したことで、なんでこうなった?と考えて、自分なりの発見があって、経験値に変えていける人は、そうやって体験だけでなく想像力や創造力、把握する力、疑問に思う力、などを駆使してるんだ。

 

子どもは、好奇心の塊なんだと思う。でもどこかの時点で、ストップさせられることがある。

私はたぶん、する前から親に止められた。そんなん危ないからさわったらあかん!

さわらないうちから、さわれなくなった。

 

自分で失敗して、なんでなのか検証して、結果が自分に返ってくる、という体験は、とても貴重だと思う。人が生きていく上で。

それを、しないうちから止められたら、それでも懲りずにする子どもではなかった私は、親の言うままイイコでいただけで、経験値は増やせられなかったんだな。(親のせいにしてるけど。ま、親のせいだと思うけどな)

中年になっても怖いことが多い(したことがないから)というのは、自分にとってはとても恥ずかしいし情けないと感じている。カッコ悪いと思っている。

今さら経験することは、子どもの時よりも何倍も勇気がいるんだ。怖いんだ。でもまぁぼちぼちでも勇気出していくしかない。自分の人生に、自分で責任を持つために。

だけど、怖いんだけど、わくわくすることや楽しいこともいっぱいある。なにより、経験したことでわかることがいっぱいある。目を開かされることもいっぱい。

自分で失敗してみるのは、おもしろい。

 

息をすることに集中する

なんてことないことでも、頭の中で思い巡らせていると「息が浅くなる」。(もしくは止まっている)

ハッ、また息してなかったわ!

と気づいて、慌てて大きく息をつく。しばらく息をする。お腹を大きく膨らませて、ぐぅっとへこませるくらい息をする。

そうしていると、あーだこーだ頭の中でワイワイ言っていたことが、なくなる。

 

頭の中であーだこーだ思っていることは、たいがい「今」のことじゃない。

ただの想像が暴走したものだったり、過去のことや未来の不安だったりする。

 

過去や未来や、暴走から自由になるには、息をするのが良い方法のひとつ。

今、穏やかになることを選択する。自分のために。

自分が思ったよりアホだった件

自分は人並みには生きていると思ってたけど、違ってた。

自分が思ってた以上に、アホだったことがわかった。

要らぬ知識を詰め込んで、知っているだけで知恵として使わない。

役立ててほしいと人に伝えても、自分ができてないならそんな助言は不要だ。ただの押し付けだ。

 

経験したことがないことも多くて、それはする勇気がなかったからだ。

しなくてもいい、したくない、できない、という言い訳で、今までせずに来れただけだ。怖くてしなかっただけだ。

自分で決めてこれなかった。人の真似をして、しないでいいならとズルをして、外ヅラだけの体裁を整えて、自分の表面だけしか見ずに来たんだ。

こうして書くと大げさに聞こえるけど、小さいことの積み重ねだ。

 

一つの例として健康診断。

忙しいから、時間がかかるから、お金がかかるから、といって見ないふりをしてきた。健康診断なんかで何がわかるの、と斜に構えて、そんなの受けなくていいなんて言っていた。

健康診断は、結局は自分のために受けるんじゃないんだ。

もちろん自分の状態を知るために受けるのだけど、

結局は、人に(周りの大切な人に)いざという時迷惑をかけないようにするために受けるんだ。

ということがわかった。

自分の理解力のなさ、想像力のなさ、思いやりのなさ、もろもろひっくるめて、アホだということをしっかり認識した、つもりである…。(まだまだわかってないかもしれないな)

40代後半にもなって、かっこ悪い。

自分のメンテナンスは、自分で責任持ってしなきゃ、もう生きてることも恥ずかしい。

 

アホだったから、いろんな人にいろんな迷惑をかけてきたんだな。

今もアホだから、まだわかってないこともいっぱいあるだろうな。

今回のことは、人がその人自身のこととして言ったことで気がついた。チクッと痛かった。情けなさと恥ずかしさで、下を向いてしまった。

情けないことだったけど、もっと謙虚になろう、と思えた。自分のことに集中しよう。人のことを気にしたり、見たりしてる暇はないんだ。

自分ができることをしよう。

どうしたって鳥を選ぶ

よくある心理テスト。

森の中を歩いていたら、動物に出会いました。どんな動物だったでしょうか?

とか、

空から何かがあなたに向かってきました。なんだったでしょうか?

といった、3択や4択の心理テストで、例えば森の中の動物なら、「うさぎ」「鹿」といった哺乳類から「フクロウ」などの鳥類、

空から向かってきたものなら「鳥」「飛行機」「風船」というような選択肢が提示されています。

しかし私は、その選択肢の中に「」があったら、なにをどうしたってを選んでしまい、これでは心理テストにならないんじゃないかと最近思うんです。

なんなら、「空」といった時点で「」が頭に浮かび、「動物」と聞けば「」と反応するのですから、

選択肢の中に「」がないと急にやる気をなくすこともあるのです。

これって熱烈なファン、鳥好きあるあるなんじゃないかと思ったりするんですが、そうでもないのかな?

鳥好きさんに聞いてみたいところです。

 

習慣のありがたみに気づく

この間の朝、起きたけど頭はまだボーッとして、でも身体は自動的に朝の用意をしていた。

お湯を沸かし、食器を並べる。コーヒーを淹れる。

小鳥たちの暗幕を外し、おはようと声を掛け、水やエサを入れ替える。

 

そのうち目がしゃんとしてきて、頭のスイッチがオフでも勝手にやることやってくれてる身体がある、って気づいた。

身体、すごい。

習慣ってすごい。

 

少し前に、その習慣ほんとに要るの?と、自分の行動をちょっと見直してみていた。

なあなあのただの惰性で要りもしないのにしてることいっぱいあるだろうから、心からそれをしたい、それが欲しい、と思ってるのか、という見直しをして、自分でその都度選ぶ、ということをしていた。

今も少しずつ続けている。時々まだ、これは本当に食べたいの?別に欲しくないの?どれなの?と訳が分からなくなるけど、それも面白い。

私はどこにいるんだろう、今考えている私は私なの?どの私なの?どの役割をしようとしてるの?もしかして何人もいるの? そんなことまで想像を膨らませて笑っている。

私の好き・嫌いを見つける練習をしている。

 

極端な動きをすると反動で大きく揺り戻す、ということはどんなことにもあると思うのだけど、

その練習のなかで「習慣=悪」って思い込んでいた。

でも今回、「習慣」はただの習慣で、善でも悪でもない。悪どころか、自動的にすることをしてくれる、けっこうすごい機能だということに気づいた。

習慣に呑まれ、そればかりして余裕がなくなることは自分の身にとっての悪に近いかなと思うけれど、「普段の生活を普段の通りに送れるように自動操縦してくれる習慣」は、私を守ってくれてるんだ。

そして、習慣になるまで身体を動かし続けたことは、継続力と根気が自分にもあると気づかせてくれた。私は飽き性でよくないな、と思っていたけど、けっこう続ける力があるんだ。

身体、すごい。

習慣、すごい。

習慣に助けてもらってる。

塩麹とぬかの末路

以前、無印のぬか床を買って、独特の風味すぎて(塩辛すぎ、しょっぱすぎて)私たち夫婦には食べられなかった。エグみが強く、飲み込むのがつらいなんてそんなぬか漬けあるのかな…と、卵の殻を混ぜたりどうにか工夫しようとしたけれど力及ばず、捨てた。

ネットのレビューや漬物を特集したムック本を見るに、高評価だったので私どもの舌がヘンなのか、たまたまそのぬか床ひとつだけに難があったのか。舌がヘンなのだとしてもこの舌しか持ってないし、自分たちが食べられないなら無理だ。

とにかくもうぬか漬けにチャレンジするのに意気消沈。今はハードルが高いんだなと判断した。いつかまたやってみたいけど、せっかくの材料をあんなにおいしくなくさせてしまうことが怖くてできない。

 

そして数ヶ月経ち、今回は「塩麹」を作った。こちらはうまくいきました。ホッとしております。

塩麹は各メーカーの製品を買っていた。しかし自分で作れると知って、あんなおいしいものが自分で?これはやらねば、とトライした。…と鼻息荒く言うほど難しくはなくて、それにもホッとしております。

さっそく漬けたダイコンとキュウリのおいしいこと!塩辛さより、じわ〜っとするうまみと後味の甘さに感動だ。鶏肉も漬けている。はやく食べてみたい。

作った塩麹はその後半年ももつそうだ。そんなに経たないうちになくなりそうだ。

 

ぬか床の乳酸菌よ、ごめん!そしてさらば!

新たな救いの神、麹菌よ、助けてくれてありがとう!!

粉もんキャラテスト

お好み焼たこ焼き焼きそばの少量ずつが入った「粉もんトリオ」なるものがスーパーの惣菜コーナーにありまして、でもこの連休中は製造サイクルが違うのかまったく置いてなかったために、主人がとてもがっかりしてたんですよ。

それで思いついた「粉もんトリオ」のキャラ設定。(なんだそれ)

 

お好み焼」…王道。粉もんの王者。キャベツもたっぷり、満足感を与えてくれる。豚肉、イカだけでなく餅、チーズ、明太子などなど、いろんな具に対応できる懐の深さ。

たこ焼き」…丸くてコロコロ、若男女に愛されるムードメーカー的キャラ。一口で食べられるように気遣いもできる。外がカリッ、中がトロッというように、楽しめる二面性。青のりを歯につけるイタズラ好き。

焼きそば」…お好み焼き屋さんやたこ焼き屋さんはあっても焼きそば屋さんはないように、影のあるちょっと偏屈キャラ。食べるにも麺がバラついて食べにくかったり、麺と具がうまくまとまってくれないことも。ソース味だけでなく塩焼きそばなんかがあるように、個性を打ち出している。そしてここが肝心なところだが、焼きそばは厳密には「粉もん」ではない。いったん「麺」にする、という一手間がかかっている。ここから推察するに、ちょっとめんどくさいキャラなんではなかろうか。

 

…なんだか…、焼きそばにだけ悪意があるような説明になってる…!

思いこみ全開でイメージしてみました。それぞれ魅力的なキャラだと思うんですがいかがでしょう(自画自賛)。

 

ではさて、自分はこのトリオの中なら、どのキャラに近いでしょう?

 

私は、食べる時の好みとして、このトリオなら焼きそばを選ぶんですが、キャラもやっぱり焼きそばだ、とみずから認めざるを得ません…。

久しぶりの生演奏

高槻ジャズストリート2019に行ってきた。

今年で21回目にもなるとは…知らなかった。私が20代半ばからはじまったのか〜(はじまった当初はすぐなくなるだろうくらいにしか思ってなかった…失礼!)

でも音が大きいのは苦手なのであまり寄り付くことはしなかった。

駅を出たら、駅の下、少し離れた広場、高架下、などでジャズ特有の派手な鳴り物がバーンとなってるんだから、耳が慣れてないとその音の分厚さや圧力に身体ごと、どん、ぐいーっと押されるように感じる。音の層が次から次に襲ってきて、圧迫感で苦しくなる。心臓もぎゅっと潰されるように感じる。

耳栓をしてちょうどよい。驚き慌てて片方だけ耳栓をしたら少し落ち着いた。

そんな状態になるのをおしてまで聴いてみたかった森 大輔さんの生演奏と声。

Kさんとのコラボで、どっちかというとKさんの方が認知度は高いだろう。

でもFM COCOLOTwitterでアップされてた画像では森くんがたくさん写ってた。実際には遠くて見えなかったのでありがたい。

会場は野外で、出店もあって人でごった返していた。お昼前から入れ替わり立ち替わり演奏が続いているから、こんな晴れた日、音楽を聴きながらビールなんて最高だ。出来上がってる人々がたくさんで、それぞれ和やかに楽しんでいる。

 

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開演は19:00だったから、ちょうど夕暮れ、空が少しずつ暗くなって雰囲気のあるなか、それぞれのバラードではじまりました。

バラード…なんで?選曲間違えた?!この会場の雰囲気にバラードはちゃうやろー、と内心思いながら静かにかしこまって聴きつつ、登壇のおふたりとも「バラードは合わない」ということはわかっているようで、「でもわれわれバラードで食ってんですけどね」というKさんの一言が面白かった。

どちらもキーが高く、ピアノも弾けて、声質も割と似ているからか、互いにコーラスに入っても違和感なく、合っているように感じた。

私は森くんの弾くピアノが好きで、いつかピアノだけのCDを出してくれないか、と切望しているが(いや声ももちろん好きなんですけどね)、

今回おふたりが一台のピアノに並んで演奏する(しかも曲はビリー・ジョエルの『piano man』)のが聴きごたえがあってワクワクした!

 

弾いている(歌っている)間に何度も、横を走る線路の上を阪急電車が通って、電車の明かりが少しあたりを照らして、空は澄んだように晴れていて、気持ちもほぐれるようなひとときでした。

 

MCのクリスさんと、助っ人に尾上さとこさんが駆けつけてしゃべってたのにもだいぶ感激した。尾上さんのファンとしては嬉しい驚きだった。オノエマーン、いつも楽しみにラジオ聴いてるよ!!

 

あっ、森くんとKさんの演奏では、ピアノが主だったのでそれほど身体にこたえることはなかったです!ホッとしました。

穏やかに楽しんでる人が多くて、それもホッとしました。

久しぶりに生演奏体験ができて、少し心と身体が弾むようでした。

どんなことでも、自分の捉え方しだい

トピックスに載った知らない人のブログ記事を読んだ。

うーんそうかな?という内容に感じたので、コメントを寄せる人はどう思うのか、とそのコメント人数に慄きながら読んだ。

私と同じようにトピックスに載ってたから来ました、という人も多かった。

そしてそのコメント欄は荒れ放題だった。

うわーー怖い、と思いながら読んだ。気分が悪くなってきて全部は読まなかったが、さーっと流しただけで毒気に当てられた感じがした。読んだ私が悪い。反省だ。

人のことめっちゃジャッジしてるなぁ、「正しい・常識」のオンパレードだ。

「私は正しい・私が常識」の砲丸を投げまくってる。

これは記事を書いた人も、コメントを書いた人も同じこと。意識はしてないかもしれないけど、誰に対してだかわからないけど、攻撃してる。

砲丸だから、重いしコントロールはきかないしどこへ飛んでいくかわからないのに、とりあえず持ってるのがイヤだから投げる。または当ててやろうと投げる。それで、なにも思ってなかった人に当たる。当たった人はびっくりするしなんでそんなことされるの?と怒りを覚える。攻撃する。そういったループのように感じた。

人を正してあげる風、私が当然だ風、あなたのために言いますよ風。

「正しい・世間の常識」論(なんてものがあるか知らないけど)で人を敵とみなして「やりこめる」ことって、自分が正しいと思えて爽快ですよね。でもそれをしている姿って醜いですよね。それにそんな爽快感、一過性のものだ。

「正しい」ことを言うと、自分がキラキラしてるように感じるのかな。姿勢を正して、すっくと立って、わたくしなにも恥ずかしいことはしたことありません、というふうに思えるのかな。

でも実際は、言う人も、言われる人も、どちらも傷つくだけだろう。

言う人は、自分の言ったその言葉で自分が傷つくんだ。それはキラキラしてるのか?

あぁもう、読んだ私が悪かった! ごめん! 反省!

 

「正しい・世間の常識」なんて、地球がくしゃみしたようなことで、ほんのちょっとのできごとで揺らぐし変わるものだ。

毎日は、日常は、当たり前の生活は、与えられて当然のものじゃない。

たった今、自然災害が起こったり、テロが起こったり、地球に隕石がやってこようとしているとしたら、自分が大事に抱えてる「私だけの常識・正しさ」なんて、吹けば飛んでしまうくらいどうでもいいことだ。人のことあれこれ言ってる場合じゃない。

知らない人にわざわざ文句を言うことは、今に続く明日を無条件に信じてるということなのかな。明日が来るかどうかなんて本当はわからないのに。

 

そして、こうやって人の記事を読んであれこれ思い、判断している私も同じこと。

私の価値観、ルール、思いこみ、自分勝手な判断だ。

人の記事であれこれ「反応」しているということは、なにか自分自身に引っかかることがあって、それを刺激されただけだ。(もともと無いものには反応できない)

刺激に対する反応 = 正しい・常識に対する嫌悪感 ということか。

嫌悪感を持ちつつ、それに迎合する自分にも嫌気がさしている。私は私だ、と強く言えない自分を責めている。

コメントに書きこむことはしないけど、おかしいと感じ(私というたった一人の人間の価値観やルールや判断で)、なんでそんなことするんだろう?と疑問に思い、「自分勝手な常識」でもって人を裁く。同じことしてる。醜い。カッコ悪い。

ヒマだからって、トピックスに載ったからって、そもそも知らない人のブログは読まないことだ。何を書いてもその人の範疇だし、私にはいっさい関係ないのに、わざわざ寄っていって不快な気分になるなんて、なんのマゾだ。自業自得だ。

ほんとにもう、読んだ私は反省する。そうした言葉の応酬には慣れていないから逃げる。怖い場からはしっぽ巻いて逃げる、ただの醜い小さな存在だ。

しかしこういう強く反応するできごとから、自分を縛っているあらゆる価値観やルールに気づくんだな。今回の失敗は、立ち止まって考えるチャンスなんだな。

そう思うと、どんなことも自分次第なんだと理解できる。

 

理由探しはいらない

今朝ラジオを聴いてたら、セスナ機の運転体験がハワイでできる、と言っていた。

セスナを運転!!? うわー楽しそう!

乗せてもらうだけでもすごく楽しそうなのに、自分で運転できるなんて! 自分で操縦して、大空を飛べるなんて!

 

そういえば、やってみたいこと、あったな、と思い出した。

気球に乗ってみたい!

富士山の五合目まででいいから「富士山の中にいる」感じを味わいたい!

東京タワーと都庁にもう一回上りたい!

 

今すぐ挙げられる望みがぜんぶ「高い場所」に行きたいなのは、セスナ運転に引っ張られたからかな…。

買い物に出かけても車を停めてもらうのはいつも屋上で、空を見ていたいから、抜けている場所が好きだから、なのか。

いやもうそんな理由探し、もういいか。

ただ好きだから! それでいっか。

 

でもたったこれだけ? そんなに少ないの?

それほどむつかしくない望みなのに、ほかに浮かんでこないなんて。

 

してみたいこと、もっとあるはず。見つけたい。見つけよう、自分の中から。

その前に、

見つけようとする前に、

どんな小さいことでもいい、してみたいと思ったら、「そんなの思いつきだ」と押しつぶす前に手のひらで包んであげよう。やさしく、大切にしてあげよう。なんといっても自分自身の望みなんだから。

ヒマなんだな、アタマは。

身体も休めてて、ごはんもおいしくいただいて、時間に余裕もあって、なにも考えることなく、気持ちもとっても安定してた時、

ザワザワッと、モヤモヤっと、不安のタネみたいなものが湧いて出た。

 

あ〜コレは、わざわざ不安を探して、掘っくり返して、なんでもいいから不安の元を見つけようとしてるんだな!!わざわざ!

あ〜、ヒマなんだな、私。わざわざこんなことして。

 

平和で、満ち足りていて、できることはして、いやなことはしない。身体も楽だし、詰め込もうとする食欲も収まっていて食べることで満たそうとする衝動も出ていない。

なのに、そんなではいかん!と、なにかを必死でさせようとするアタマが、わざわざ不安や焦りを持ち込もうとしてる。

この、アタマってのは休むのがきらいみたいで、次から次へ不安やら焦りやら怒りのタネを見つけてくる。

それで、一瞬ごともしくはその「議題」に飽きるまで、ブツブツと独り言を言って囚われまくる。

 

不安というのは、体力のある、根性のある、耐える強さを持つ、そんな人が持てるものだと思っている。

私は根性なしだし、耐えたいともみじんも思わない! だから、不安なんて持たない! 不安なんかに私の貴重な時間を明け渡してたまるかぁぁ! 今の自分ができることをするんだ! と強くはねのけた。

「不安のタネ」から離れることができた。今までにないことだ。いつもそううまくはいかないけれど、今日はできた。私にもできるんだ。

 

不安や焦り、罪悪感、深刻さ、視界の狭さ、ストレスといったものたちは、ほとんどが体調のよくない時に出る。

まず体調が悪くなってきて、アタマはまだそれに気づいていなくて、気合いなどでなんとかなる、と思ってる。

しんどいな、と思った時にはもう身体も心も重症化してる。

だから、疲れる前に休め、と言われるんだね。

そのあたりのさじ加減は、どうやったらわかるんだろう? いまだに失敗ばかりだけど。

 

今日はたまたま、身体にも心にも余裕や隙間があって、風通しがよかったから気づけただけかもしれない。でもたまたまであってもできたんだ。

できたことひとつ。私にはけっこうな進歩だ。こうやって、不安のタネを育てない練習をするんだ。

ヒマなアタマには付き合わない。

 

 

ダウンドッグだこれ

 ※絵柄がちょっと怖いので、閲覧注意?!かもしれません(笑)

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 漂流教室』(楳図かずおさん/8巻より)

未来人類と、未来人類になってしまう未来キノコを食べてしまった美川さんたち。

未来人類のアジトである地下鉄の駅構内での様子。

 

翔ちゃんがほかの生徒たちから「学校を爆破させようとした。その爆破がきっかけとなって大地震が起こったんだ」と疑いをかけられ、折悪しく関谷が正気づいてしまったことと重なり、翔ちゃんはしてもいないことで責められ、言い分は聞き入れられず、ほかの生徒たちと対立状態になってしまいます。

ひとりアメリカが助けにきてくれると信じ、それまで自分だけは生き延びてやると息まく関谷に、翔ちゃんと、翔ちゃんの味方をした仲間は砂漠の井戸掘りをさせられます。

いくら掘っても水は出てきません。ここは水も枯れてしまい、風も吹かない陽もささない未来なのです。

しかし、地面から数メートル掘り進めた時、横穴ができていることに気づき、そこを掘ってみると地下へ降りる階段が! 地下鉄の線路に出たのです。

そしてその線路を進んでいくと・・・

 

さて、いきなりはじまりました『漂流教室』劇場。

サンデーコミックスのこの8巻では楳図さんの描く地球の「未来への道筋」をしっかりと読むことができます。未来人類が、現代の日本や世界がそのまま進むとこうなってしまうんだ、ということを説明する大事なシーンだと思います。

楳図さんはこの『漂流教室』を、はじめからおわりまですべて緻密に計算して描いた、とおっしゃっていますが、その時代1972年ころ。その時点でまさに今の日本をここまで想像できたのか、と驚嘆します。天才。

 

そして実は、今回のブログは『漂流教室』について話したいのではございません。

今私のなかでとても流行っているヨガをしていて、このポーズ…、なんかに似てる…、なんだっけ…なんだっけ…  …これだ!! と気づいたのがこちら ↓

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ダウンドッグ!!

そう、このポーズはまさにダウンドッグ! 

私は腿裏が硬いのでひざを曲げないとできませんが、美川さんたちはさすが小学生、身体が柔らかいですね。

あ~すっきりした! でもこれからずっとダウンドッグをするたびにこの絵柄が目に浮かぶな…、ま、それもいいな…。

ということで、こんな話にお付き合いいただきありがとうございます(笑)

強烈な母の呪いの言葉 パート2?

元号について、発表される前からなんだか大騒ぎだなーと思って、大阪は選挙も重なっていて空気がざわついていた。少しうんざりとした気分だった。

しかし、

実際に新元号が発表されて「令和」と知った時、気分がスカーーーッとした!

品があってきれいな、清々しさを感じる言葉だな、と思った。私はこの言葉を好きだ。

実は「平成」になった時、このなるべく意味を持たせない二字の言葉を、だれが言ったのか「最悪の時代だ」なんて、占い師なのかマスコミなのか◯◯党なのか、言葉に責任を持たないもんが言ったらしいんですよ。

そしてそれをテレビで聞いた母親が、私にそのまんま言ったんですよ。

「平成って最悪やねんて」

…うっさいアホか。

と、今なら言える。でもその頃はまだ高校生。母親の影響バリバリで、なんなら母親の言うことは当然だなんて思ってた頃だったから、私もそのまんま受け取ったんですよ。

ほんで、呪いの言葉に化した。化けた。

 

ほんと、言わなくていいことをわざわざ言って、いやまぁ口から出るのはもう仕方ないけど、でも言い捨てたまま、または自分がそれについてどう思うのかを考えず言わず、マスコミが垂れ流したことをそのまま人へスライドさせるのはどうなのよ? ただの世間話のつもりだったから? 自分の発言がどう捉えられるか考えたことある? 平成に謝れ。

 

最悪だって思ったら、それを証明するために証拠探しをしてしまう。

災害や事件事故、そうしたことは時代関係なく起こるのに。

それに、

最悪の時代だろうと、私は生きていかなきゃなんないんだよ。

そう、「生きていかなきゃなんない」と今は自分の意思で思う。

だけど思い出した。

一番強烈な母からの呪いの言葉。

私の姉が5歳で交通事故で亡くなったことで、私は死ねなくなった。

「あんたは親より先に死んだらあかんよ」

楔のように、私を動けないように縛りつけた。

常識として〜、世間では〜、云々。そういうのは要らない。本当に、親より先に死んだらあかんの? いつ死ぬかなんて、誰にもわからないのでは? 死にたいって思うこともあるのでは? 実際にそうすることと思うだけのこととでは、とても距離のあることだとは思うけれど。

母の言葉で私は「自分の意思で死ぬ自由」を奪われた、と物心ついた時、思ったな。

でも、その言葉で今も死なずにいます。母の必死さ、切なさ、つらさ、といったものも、呪いだと思うと同時に強く感じたから。お母さん、私はお母さんお父さんより先には死なない。生きます。

なぜなら、自分の人生を生きたい、と思っているから。

周りの意見や感想やただのつぶやきを真剣に聞きすぎて、よくわからない影響を受けまくり、自分の意思って何だっけ?と思っていた私だけど、人生後半になってようやく自分を生きたいって思うようになったんだ。

だからお母さん、数々の、私に影響を与えた言葉(それを私は「呪いの言葉」と呼ぶ)を、思い出すたび棚卸しして、どんどん捨てて参ります。

自分で選ぶこと。これこそ強力な断捨離だ。

人の言うことは聞かなくていい

つい先日腹の立つことがあった。

近所の顔見知りってだけのおばちゃんから無礼なことを言われた。

おばちゃん(というかおばあさん)って、人の気持ちとか状況とかに頓着せず、想像もせず、自分が言ったことがどんな風に受け取られるかもわからず、アホみたいなこと平気でいいますな。

恥と思う心(自分の言動を振り返って、ですよ)、慮る心、表情、言葉づかい、そういった「外に出ている自分」になにも注意を払わない、

そんなこと自分の娘に言える?と思えるようなことを平気で言う。

老い衰えたからなのか、鈍くなったのか、もう怖いもんなんかないからなのか、ただ単にそういう人間だったからなのか、あ~こういう人が多いから「老害」ってひとくくりにされるんだよ、そんなことないひともまとめられて。

それで、腹が立って、その場で言い返すことは自分のタイプでは無理なので、あとで考えた。

もし、自分が言いたくなったら、言いたくなった時に、「この前こう言われて不快だった、アンタ無礼なこと言ったね」と言う、と決めた。

でもその時は訪れないかもしれないし、その頃にはどうでもよくなってるような気もするけど、「私は、私のタイミングで言いたいことを言う。そいつの都合?そんなもん知るか」と決めたら少しスッキリした。

まぁそんな仕返しみたいなことしなくても・・・とか、言い返せなかったクヤシー、とか、なんでそんなこと言われるんだろう私が悪いのかしら、とか、昔ならウジウジ考え続けて2~3週間囚われまくってたけど、

その時間が、その「私にとって取るに足りない、無礼な、失礼な、想像力のない人間」に囚われているってこと! 自分の時間がもったいない! 何かあったとしても助けてくれたりしない人間のために! アンタが年金を無駄づかいしてんだよ早く死んでくれない?と思うような人間のために!

人の言うことはまずはきちんと聞く。

私はこういう性質を持っている。

まずはその人の言うことを理解しよう、できたらそう言ったことの背景や心情を理解し共感しよう、という行動がほぼ自動的に出る。

これは使いようを間違えるとすごく自分を傷つける。

今回は使い方を間違えた。聞かなくていい種類の人間の言うことに耳を傾けた。

そして人は、そんなに人の言うことを聞いていない。聞いてるふり、聞いてるつもり。私がどれほど真剣に聞こうと、それは相手には伝わらないことの方が多い。そういうもの。

人の言うことはまずはきちんと聞く。

これは私の性質だ。ただの性質だからよいも悪いもないけど、よいも悪いも使いよう。

ということにしっかりと気づいた。私は、自分の大事だと思う人についてだけ、その力を使おう。練習だ。

この怒り、悔しさ、情けなさ、そういう渦まくモヤモヤを、今までなら見ないように、あまり考えないようにしてきた。そのために、そうとう後になってぶり返しのかゆみみたいにチクチク胸を刺されてきたけど。

嫌なことがあった時に浮かんだ痛み、つらさ、感情、息の浅さ、背中の丸さ、そういうことをもう見ないふりしない。

痛みやつらさをがっちり感じ切る。ムカつくことも、気のすむまで考え続ける。頭がグルグルしたって考える。そして吐き出す。出し切る。

この「やりきる」をする。

今だって書いていて頭に血がのぼって腹がムカムカするけど、やりきる。吐き出す。

私はそうやって自分を大切にして、メンテナンスする。練習だ。

 

まぁ、問題がこんな小さいものでよかった。

そして、そのおばちゃんは私の見える世界、私が私を作る世界といったものから消えてもらうよう意識の外に置くことにしました。私の世界には、私の大切に思うものしか入れない。

…ちょっと違うか。私の世界、と周囲と切り取りたくても切り取れるものではないから、私自身がそのおばちゃんに執着することがなくなれば、私の世界はあたたかなままだ。そのおばちゃんは私になにかの気づきを与えてくれたんだよねー。感謝はしないけどそれに気づけてよかったんだ。

なにごとも、自分次第。

 

また母から呪いの言葉をかけられてた

先月にと会った話を以前書いた。その時言われたことを思い出した。

「50代はしんどいよ」

あぁ〜また呪いの言葉かけられてた〜!

 

そういえば30代のころは「30代って一番いい時やね」と言われ、

40代になって「私の40代はめちゃくちゃだったわ(胃がんで入院、胃を切除した)」「いろいろ出てくるから気をつけて」と言われた。

 

それ…、ぜんぶ母自身のことですよね…。

私も真に受けて30代なら「そうか、いい時代なんや」40代に入り「体調に気をつけないとあかんのか」とふんふん聞いていた。

母が胃がんになった年齢を超えたら、なんとなく安心してホッとしていた。

でも、違いましたから。

 

30代は私にとって「一番いい」ものでもなんでもなく、しょっぱなから離婚したし仕事が忙しすぎてうつになってすべてのことがストップしたし、ただ、そうした経験があったからこそ今の私がいるので「私自身の体験」として大切にしたい。

40代になると、気持ちは若いころよりよほど落ち着いてきて、私自身は今がとても過ごしやすく楽しい。

どの年齢の時にも思うことだけど、私にとっては今が一番だ。そして特に、今の40代がなにより楽しい。

それに、これから老いていくにつれて身体にいろいろな不調が出てくるのは当たり前で、メンテナンスはしていかないとあかんのですが、

それ以前に。

母が自分だけの経験からすべてに押し広げて私に断言するのはただの「呪い」だ。

私は今までずっとその呪いにかかってしまって、30代、40代を過ごし、これから迎える50代を暗黒時代のように捉えてた。

違う違う、その考えは母のもの。

私じゃない。

私には私の身体があるし、私だけの心がある。私の方法で、私の思うとおりに進む。

 

私、今めっちゃ幸せなんですよ! 母は母でいろいろ大変だったんでしょうけど、私は自分で選ぶ、決めるってもう決めたんだ。だから、母の入る隙なんてないんですわ。

呪いにかかりそうで危なかったけどまぁいいわ、母の言うことは参考くらいに聞いておくよ!