先週の虹と、昨日の梅
先週の夕方、また虹を見た🌈
大きな虹だった。
あっという間に消えてしまったけど、気分がすっきり晴れたようだった。(右上の小さく丸い白色は「月」です)
そして春分の日、ツグミがいるか探しに行った公園で桜がちらほら咲き始めるなか、梅がまだ咲いていてくれた。「枝垂れ梅」でした。淡いピンクが和菓子のようで、とてもかわいらしかった。
ツグミはなんと、1羽だけ来てくれていた!
数年前は数えるのをやめるくらいたくさんお越しだったツグミさん、今年はお着きが遅かったようで、でも会えないと思っていたから幸運でした。
ヤナギの若葉が黄緑で柔らかく、鳥たちの鳴き声も春を迎えてからどんどんと高らかに複雑に美しくなって、すごいスピードで季節が移っている。
自然は、有無を言わさないんだなぁ。
今あるものを、その瞬間瞬間に、見て、聴いて、感じ取るしかできない。一瞬たりとも停止していない。
その時の自分にわかる、感じる部分しか捉えられない。自分の枠を広げなければ、感じ取れる部分は少ないままだ。知らないことは、知ろうとしない限り知らないままだ。
私も私の考える私を超えていこう、と思えた時間だった。
なってみた
なってみた、なってみたんだ。
通っているヨガスクールで、
ゾウに、トラに、コブラに、バッタに、飛行機に(生き物じゃないけど)、そして鳥に!
こういうのは、身体のあらゆる部分を効果的に動かすただのポーズとしか考えてなかったけれど、
「自然の中にいるイメージ」を描きながら身体を動かすレッスンがあって、インストラクターさんのガイドと音楽で動くのだけれど、イメージは人それぞれでどんな風に想像してもいい、と言われて安心したからか、
自分がどんどん自分の中に入っていくのがわかった。
あれ?いつも冷静な私が(冷静だと自分で思っている笑)、周りを気にせず自分の内側に入っていっている。
そう気づいたことにもびっくりしたし、
イメージすることが苦手と自分で思い込んで「難しい」「できない」と勝手に足枷はめてたけど、
今わたしは砂浜に寝転がっているし、今わたしは森林の中にいて草をかき分けて進んでいるし、今わたしは鳥になって風を受けて揺れながら地上を見下ろしている。
なにこれ面白い! とすごくワクワクした。
鳥になって、空から地面を見ている。身体は揺れている。草も、川も、ほかの動物も小さく見える。
前を向いて、もっと空高くを目指す。空にまっすぐ飛んでいく。
身体の上にも横にも何も見えない。風だけ。遠くの景色だけ。
すごく爽快で、自由で、少し怖い。
今まで、じっと想像するだけでは、よくわからなくなって、やっぱりイメージするのは苦手だと思っていたけれど、
こんな風に実際に身体を動かしたり、身体の感覚(足がグラグラするとか、手や脚を大きく伸ばすとか)と合わせてイメージすると、頭の細胞が起きる、ような感じがした。
身体と、心と、頭と、ぜんぶ使うと、わたし自身がとてもよろこんだことがわかった。
身体を使う、ってこういうことを言うのかな、と少し思えた時間だった。
言葉の意味を決めつけていた
「可能性」という言葉。
どんな風に使いますか?
私は「可能性」という言葉に、「未来」「進歩」「成長」「開ける」「広がり」「できる」「明るさ」といった意味を、勝手につけていました。
だから、犯罪や災害が起こった時のニュースで、「再犯の可能性がある」というように「また悪い(恐ろしい、嫌な)ことが起こるかもしれない」ことに「可能性」という言葉を使われるとものすごく違和感があって不快でした。
災害や犯罪がまた起こる可能性、と言うのなら、また起こる「おそれ」がある、と言えばいいのに、とずっと思っています。
ほかにも使える言葉があるのに、違う言葉を使おうという気はないのかな、語彙はないのかな、と思うくらい、言葉使いが貧弱だとニュース原稿に対して感じるのですが、これも決めつけです。
要は、ひとつの言葉である、そしてひとつの言葉でしかない「可能性」に、自分の思う意味づけをしていた、ということです。
決めつけてしまっていた。
私の思う意味づけは、「よい」意味だからいいものなんだ、こうあるべきだ、なんて悦に入ってたのかもしれない。
自分の枠も、狭めてしまっていた。
ただやっぱり、「可能性」を使うなら、せっかくなら気分のよくなるような意味合いで使いたいな、という気持ちは変わらないんですけどね。これが私の変えたくないところなのかな。
人と話していて同じ言葉を使っても、それぞれがその言葉に対して持つ意味が違ったら、話が噛み合わないくらいになるのかも。
すれ違いってこんなことからも起こるのかもしれない。少し怖く感じる。
でもだからこそ、それぞれの思うことを知ることは面白いんだろうし、とても興味がある。
笑顔は人にも自分にも
ほとんどの人が、新しい環境や状況、人間関係といった「場」や「空気」に慣れるのに3ヶ月くらいかかると思う。
慣れたと感じるまではなんとなくしっくりこないし、私の動きこれでいいのかなとぎこちないし、もぞもぞする感じがする。
そして、表情。自分の自然な表情ができるようになるまでやっぱり3ヶ月くらいかかるなと思った。
慣れるまでは、人に向ける笑顔がぎこちない。自分でぎこちないと思ってるから、表情も固まってる、って思ってるけど、でもはたから見たら、そんなことはなかったりする。それに、ぎこちなくていいんだ。
もしこれから、新しい人間関係・環境がはじまったなら、もういっそのことぎこちないままに「ニカッ」と思い切り笑おうと思った。
そしたら、その「ニカッと笑顔」が私だと認識されるし、なにより人に笑顔を向けることが、自分にとっても、とても気分がいいから。
エヘ、でもニコ、でもなんでもいいけど、自分自身の気分がよくなって、人に対することそのものも気持ちよくなる。
笑顔は人のために向けるだけじゃないんだな、自分にも向けているんだ、と気づいた。
笑顔を向ける人がいる、ってことも、幸せなんだなぁと気がついた。
ふむふむおもしろそう
なにこの本、おもしろそう…と図書館で喰いつき気味に手に取った『2時間ドラマ 40年の軌跡』(大野 茂さん著作・東京ニュース通信社・2018/4/30発行)
こんな本あるんや…とページをめくると「はじめに」で著者がこの本を書こうと思われた理由が3つ書かれていた。
・40周年を超えた2時間ドラマの元祖「土曜ワイド劇場」。再放送も含めて地上波、ネット、など数多く放送されているのに、番組の沿革を記したものが見当たらないことから、40年間の流れを追う
・2時間ドラマといえばワンパターン。なんて、なぜ、いつから言われるようになったのか探る
・みんながよく知る2時間ドラマ。でもあまり評価されないのはなぜか。制作に携わる方々の話を記録する
制作者側という“舞台裏”から見た内容だそうです。(だから個々のドラマについての言及はしないとのこと)
土曜ワイド劇場、火曜サスペンス劇場…、短い期間ならもっといろいろあったように覚えてるけど、40年なんて、そんなに長く続いてたんだなぁ。(私は「木曜ドラマストリート」のミステリーものが好きでした)
学生の頃は略し方を知らなくて「土曜ワイド」「火曜サスペンス」って言っていたけど、友人に「どよワイ」「火サス」って言われた時はなるほど!と思った。著者は「土ワイ」って書いてますね。まぁ略さなくてもいいんですけど(笑)
こうした、次々と消費されていくものをまとめて、分類して、体系立てていく、というのは、苦労も大きいけどすごい仕事だと思う。だれもそれをしなかった、という点でも着眼がすごいんだ。
こちらの本では、あまり評価されにくいエンタメ番組への作り手の誇りについて知ることができるようだ。楽しみに読ませてもらいます!
心配と信頼(母の話)
先月の誕生日に、母がごちそうしてくれると言ってくれたので出掛けて行った。
(母の話をしはじめると収拾がつかないくらい長くなるので、ぼちぼちにしていこうと思っている。そりゃそうだ、私の人生の長さに次いで、なんだかんだ思うことがあるから)
しかし母というのは心配したいんですね。
私がまだ20代~30代のころは、健康のこと、結婚生活のこと、子どものこと、、あらゆることが心配みたいでした。
いちいちうるさいなぁ、私だって独り立ちしてなんとかやってみようとしているのに、信用されてないんだなぁって思ってました。
そう、「信用」「信頼」されてない。
信用、信頼されてないから、私も信用、信頼されないように、母の前では振舞っていることもあった。
5年くらい前、いろいろとひどいことを言われてきたと感じた私は、母とは会いたくないし理解もできない、とつっぱねた。
私が昔感じていたことについて話し、それに対して真摯に向き合ってくれなかった、と責めた。
母と距離を置くようになり、距離を置いていることが心地よく、だんだんと自分が冷静になり、母も大変だったんだろうと思うようになった。でも私も子どもながら大変だったんだよ、だからおあいこだ。
私は毒出しできたけど、母は消化不良だろう。ごめんね。でも私も必死だったんだ。
私は今さらまた母に心のうちをすべて話し理解してもらおうとは思っていない。今はしんどい。たぶん理解できないだろうし。
自分の思い(淋しい、悲しい、甘えたいのに甘えさせてもらえなかった、ひとりだった)というのは、母にはもう理解してもらえない。
だから、母が何を思って生きていたのか、想像力を働かせるんだ。
*
30代のころは、離婚もしたし、うつにもなったし、心配をかけた。
でもそれは実際に起こったことへの心配、というより、「母が自分で心配を作り出してる」「母は心配したい」ということだったんだろうな、とこの日に気づいた。
40代後半になった娘に何度も「今はちゃんと幸せにやってるんやね」と言う。
ふだん会っていないから、心配する内容が漠然としすぎてる。ちょっと笑える。
これがいつもいつも会う仲だったら、生活のこと細かなことまでアレコレ言われるんだろう。あれしたら、これしたら、って。
私があまりべったりしない、必要がなければ会わない人間だってようやくわかったみたいで、なぁなぁにせず実力行使で離れたことは私にとって非常によかった。精神的に健やかでいられる。
でも母は心配はしたいから、漠然としたことでも口に出すんだ。
この日もまた何を言うんだろう、と身構えて行った。けど、たいしたことなかった。
いつもいつも感じてたもどかしさや苛立ちというのは、私を信頼して!という気持ちから出たものだったのかもしれないな。
でも私は、どうせ母には理解できないだろう、と母を信用してない。問題に向き合うなんてしないだろう、とバカにして軽く扱ってる。
ということだ。どっちもどっちだ。
だけど、実際の生活を父とふたりで乗り越えながらやってきている、生きてきている、ということは信頼している。すごいことだと思う。だからその点では心配はしてないよ。
お母さんからの信頼は得られなかったし、私もお母さんを信頼してないけど、お母さんが心配することで心を保てるのならば、心配してください。
あとは私が母の今までを想像して、理解に努める。ここからのスタートだ。
怖いの正体
今日、たくさんの人がいる場所へ行った。10~20名くらいの人々。
時間まであと少し、どんどん増えてくる。
それにつれて、自分がどんどん怖くなってくるのを感じる。
顔には出さないけど、脳内はうるさいくらい怖がっている。
あれ?どうしてこんなに怖がってるんだろう。
周りの人々が、私を見ているような気がする。
なにかヘンな動きをしたら、ちゃんとしろって怒られそうな気がする。
みんな黙ってるけど、私をヘンだと思っているような気がする。
大げさだってわかってるけど、私を監視しているように感じる。
怖い、怖い、人が怖い。
これ、全部自分が周りの人々に対して思ってることだね。
私が、周りの人々を見て、
私が、みんながヘンな動きをしたら、ちゃんとしてほしいって思ってる。
私が、ヘンな人を探してる。
私が、監視してる。
私が、周りの人々は敵だ、と思っている。
違うよ。周りの人々は、私に対して興味なんかない。見てない。監視してない。
それどころか、みんなそれぞれ自分のことをして、リラックスしたりしてる。
みんなは敵じゃない。味方だ。
みんなが味方だ、という意識に持っていくことは難しくて、まずはみんなはフラットだ、と思えたらいいか。
私が見ているように世界は作られている。
すべて、私の脳内の劇場だ。
思い込みはありすぎて全部をクリアにはできないなら、
それならその思い込みを私の思うように変えていくんだ。
私が見たいように世界は作られるんだから。
卵の数
卵を1パック買うと10個入っています。
昨日のこと、主人が軽くお昼を食べようと1つ卵かけごはんにしていました。私は食べませんでした。
私「あっ、卵、今は9個なんやね」「じゃあひとつケーキを焼くのに使おうかな」
主人「? そのままではダメなん?」
私「卵は偶数でないとあかんから…」
主人「???」
私「???」…はッ!
なぜ?? 私、卵は偶数でないとダメ…って思い込んでた?!?
そうなのです。
私は卵を使う時、残りが割り切れるように偶数にするクセがあって、奇数になると慌てるのです。なんでなんだ? 自分でもわからない。
残りが3つ、とかの時がすごく嫌で、なんとかして形がなくなるメニューに使い切ろうとする。すなわちスクランブルエッグやかきたま汁とかにする。
そして、偶数になるとホッとする。
目玉焼きを3つ作ってそのうちの1つを分ける、ということはしたくない。
ふたりぐらしだから、ふたりで卵かけごはんを食べようとした時に1つしかなかったら分けづらいから…? 目玉焼きを真ん中で分けるのは切りづらいから…?
へんな思い込みだなぁ。
幼いころ、なにか自分でそう決めたくなるような出来事があって、ルールになってしまったんだろうな。
卵は1パック買うと10個入っています。
この個数が割り算しやすくて把握しやすいから特にこだわったんだろう。
ちなみに主人は、3つの目玉焼きだったとしてもふたりで分けたらいいんじゃない?派です。
ほんと、ヘンな思い込み、いっぱいあるなぁ!
木綿の呪い
ラジオから流れてきた太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」。珍しく主人が歌詞を聴いて「この男腹立つなぁ」と言ってきた。
そうそう、そう思ってたことある。都会へ出て行った若い彼が、都会のきらびやかさ華やかさに呑まれて、田舎に置いてきた彼女から心が離れる。なんて身勝手な!と思ってた。
そう思ってた頃からもう10年くらい経ったか、今ではこの彼にはなんにも思うことはなくなって、彼女の方が怖いと感じている。
彼が戻ってくれるのをずっと待ってて、素直に待ってるだけのようだけど、ただ待ってるだけ…。
スーツ着た僕の写真を見てくれと言われてるのにいいえあなたと拒否…。
はなやいだ世界だけではなくて、きっと仕事でしんどいことだってあるけど、それでも自分から行動している彼は、自分の責任で苦しみも楽しんでるように思う。
でも彼女は彼がどんな場所で、どんな思いで日々過ごしてるのか知ろうとしない…。自分から訪れて、確かめようともしない…。彼と思いを共有しようとしないし、彼の思いを理解しようとしない…。
僕があげるといっているプレゼントはことごとくはねのけて、最後の自分からのお願いには、「木綿の」、化繊とか絹とかじゃなくて、おそらく素朴さとか純朴さとかを象徴してる「木綿の」涙拭く「ハンカチーフ」をくださいって、もう呪いみたいやん!!重いわ!
戻ってこない彼のせいで泣くんだ。…って、いやいや、自分の責任でしょ!自分がそれを選んだんでしょ。人のせいで終わってるところが気持ち悪い。
自分は変わらない…。変わろうとしない…。頑固やな〜。こんな人近くにいたら、こだわりありそう過ぎて話できんわ。
彼のことを好きだったんではないんだな。
自分のことが一番好きで、それはそれでいいと思う。思うけれども、自分のことを幸せにするのは彼だと思ってるのが違うんだろうな。
自分を幸せにするのは自分だよ。
さて、また10年後、感想がどのように変わっているであろうか…。たぶん、方向性の違いだね、のひとことで終わってそうな気もする。
積ん読は幸せのかたまり
最近、本が読めてない。
というよりも、本を買えない。節約だ。
図書館に行こう。なんでもよくはないけども、とりあえず読むのだ。とりあえず、というのは違うかな…。本に失礼かな。この焦っているような気持ちを何とかする方が先だ。
「積ん読」ってありますね。
私のお友だちも、旦那さんも、読みたい本がたくさんあって、でもなかなか時間も取れないようで、仕方なしに溜まってゆく本たち。
私はそれって、とっても幸せな、贅沢なことだなぁと思った。
読み切れないほど読みたい本がある幸せだ。
興味を惹く本、日々に役立てる本、仕事の本、娯楽の本・・・
読む前だけど、その楽しみにしている気持ち、踊る心、わくわくする好奇心、これらがすでに幸せのかたまりだと思う。
なんにも読みたいものがない、なんて本好きにとっては、心にからっぽになったような淋しいことだから。
本を手にする幸せは、個人的なもの。
自分と対話するようなもの。
本を通して自分を見る。
本を媒介に自分がどう感じ、どう考え、どう思うかを知る。
こんなに心が満ちる時間はない。
積ん読になるのが苦手で(時間に追われて、しなければならないことが山積みになっているように思えて)、
読みたい本を覚えておいたりメモしたりすることをやめていたけれど、
「楽しみが待ってる」「幸せが待ってる」と思えるから、これからは少しずつ書き出していってみよう。
石井ゆかりさんの言葉のすばらしさ
https://lineblog.me/ishiiyukari/archives/9364161.html
石井ゆかりさんの本日の占いで、
「魚座はあたためていた卵が孵って、素敵な小さなドラゴンが出てくるような日。」とあった。
なんて素敵な表現!
なんて気持ちを楽しく、楽にさせてくれる言葉だろう!
日々いろいろあって、しんどいこともあって、前なんか向けない、という日もあって、なんで自分はこうなのかっていやんなることもあって、でも、でも、それでも…
それでも希望は持っていいんだ。楽しく感じてもいいんだ。私は私の感性や感情や感覚を大切に思ってもいいんだ。
石井ゆかりさんは、そんなことがあったらうれしいな、と、少し空を見上げて一息つかせてくれるような言葉を渡してくれる。
言葉は表現。それは、石井ゆかりさんの世界観を表している。なんて美しい世界を持っているんだろう!
情報断捨離!
ネットを流していて突然、動物への暴力の映像が目に入ってきた。
画像でなく、動く映像だった。自動的に再生されてしまって、見てしまったらもうダメだ。
心臓がひゅっと冷えて縮んだような気がした。
気持ちが沈んだ状態で、自動で再生できないように設定し、胸の中の黒いどろどろの渦が去るまで耐えるしかない。
情報はなんでもかんでも目の前に、耳の中に流れてくる。油断しているとそれらに「やられて」しまう。
情報の波の中から好きなものを探すことだってしたい。でも気分の沈むニュース、記事、コメントが、まるでそんなのしかないのかと思うくらいに蔓延してるような気になる。
炎上、文句、「べきねば正義」を振りかざす変なコメント…
私に必要なのは、ネットの大波に呑まれないスキルだ。流されているニュースはたった一部。メディアが操作してあいつらの勝手に流してるだけ。大多数のように感じてるけど、本当に多数かどうかなんてわからない。
それから、自分に必要なのかを選別するスキルも。
暗いニュースだけではなく、よいと言われるような情報や記事の中にも、自分にとっては不必要なものが溢れてる。
つい、いいものなら読んでも害はないだろう、と思ってしまいがちだったが「身体にいい」「健康によい」からと、そんな情報をバカ正直に聞きすぎて、あれこれまみれ過ぎた。
よいと思ったものがストレスになる。
いろんな食材や調理方法を試したり、時季的、年齢的になるべく摂るようにしているものがあるけれど、
いや待てよ、本当にソレは本心からよいと思ったの?
私に合うとなんで思ったの?
第一、今の私に必要なものなの?
こう思ったときはチャンス。ルーチンにしてしまったことを、もう一度はじめに戻したらいいってこと。身体にいい健康にいい病にかかっちゃったんだな。
情報に目をやりすぎると、自分のこころの声が聞こえなくなる。知っておかなくては、なんて損得で考えないこと。
HSP本みっけ!
私の大切な友人に、感性が非常に豊かで、心のあたたかな優しい女性がいます。この漫画を読んだとき、まさに彼女のようだ!と感じました。
人より少し耳がいいタカコさん。小さくてかすかな音や気配を感じ取ることができる。
タカコさんの世界はしなやかで優しく強い。人や世間というものを根本から信ずる人なんだと感じました。嘘のつけない人。「自然」に生きている人。「自然」にしか生きられない人。作られてない「自然体」ってこんな感じなんだ。そんな印象です。
人や世界を信頼する人は、人からも安心され信頼されますね。
HSPの方なら共感する内容ではないかなーと思います。
ウェブコミックサイトでも読めます!
http://www.zenyon.jp/lib/top.php?id=13
そして、HSPだから生きづらいのではなくて、HSPだからこんなにも世界はいろどり豊かで輝いているんだ、と素直に言えるような、そんな人になりたい。
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