笑顔は人にも自分にも
ほとんどの人が、新しい環境や状況、人間関係といった「場」や「空気」に慣れるのに3ヶ月くらいかかると思う。
慣れたと感じるまではなんとなくしっくりこないし、私の動きこれでいいのかなとぎこちないし、もぞもぞする感じがする。
そして、表情。自分の自然な表情ができるようになるまでやっぱり3ヶ月くらいかかるなと思った。
慣れるまでは、人に向ける笑顔がぎこちない。自分でぎこちないと思ってるから、表情も固まってる、って思ってるけど、でもはたから見たら、そんなことはなかったりする。それに、ぎこちなくていいんだ。
もしこれから、新しい人間関係・環境がはじまったなら、もういっそのことぎこちないままに「ニカッ」と思い切り笑おうと思った。
そしたら、その「ニカッと笑顔」が私だと認識されるし、なにより人に笑顔を向けることが、自分にとっても、とても気分がいいから。
エヘ、でもニコ、でもなんでもいいけど、自分自身の気分がよくなって、人に対することそのものも気持ちよくなる。
笑顔は人のために向けるだけじゃないんだな、自分にも向けているんだ、と気づいた。
笑顔を向ける人がいる、ってことも、幸せなんだなぁと気がついた。
ふむふむおもしろそう
なにこの本、おもしろそう…と図書館で喰いつき気味に手に取った『2時間ドラマ 40年の軌跡』(大野 茂さん著作・東京ニュース通信社・2018/4/30発行)
こんな本あるんや…とページをめくると「はじめに」で著者がこの本を書こうと思われた理由が3つ書かれていた。
・40周年を超えた2時間ドラマの元祖「土曜ワイド劇場」。再放送も含めて地上波、ネット、など数多く放送されているのに、番組の沿革を記したものが見当たらないことから、40年間の流れを追う
・2時間ドラマといえばワンパターン。なんて、なぜ、いつから言われるようになったのか探る
・みんながよく知る2時間ドラマ。でもあまり評価されないのはなぜか。制作に携わる方々の話を記録する
制作者側という“舞台裏”から見た内容だそうです。(だから個々のドラマについての言及はしないとのこと)
土曜ワイド劇場、火曜サスペンス劇場…、短い期間ならもっといろいろあったように覚えてるけど、40年なんて、そんなに長く続いてたんだなぁ。(私は「木曜ドラマストリート」のミステリーものが好きでした)
学生の頃は略し方を知らなくて「土曜ワイド」「火曜サスペンス」って言っていたけど、友人に「どよワイ」「火サス」って言われた時はなるほど!と思った。著者は「土ワイ」って書いてますね。まぁ略さなくてもいいんですけど(笑)
こうした、次々と消費されていくものをまとめて、分類して、体系立てていく、というのは、苦労も大きいけどすごい仕事だと思う。だれもそれをしなかった、という点でも着眼がすごいんだ。
こちらの本では、あまり評価されにくいエンタメ番組への作り手の誇りについて知ることができるようだ。楽しみに読ませてもらいます!
心配と信頼(母の話)
先月の誕生日に、母がごちそうしてくれると言ってくれたので出掛けて行った。
(母の話をしはじめると収拾がつかないくらい長くなるので、ぼちぼちにしていこうと思っている。そりゃそうだ、私の人生の長さに次いで、なんだかんだ思うことがあるから)
しかし母というのは心配したいんですね。
私がまだ20代~30代のころは、健康のこと、結婚生活のこと、子どものこと、、あらゆることが心配みたいでした。
いちいちうるさいなぁ、私だって独り立ちしてなんとかやってみようとしているのに、信用されてないんだなぁって思ってました。
そう、「信用」「信頼」されてない。
信用、信頼されてないから、私も信用、信頼されないように、母の前では振舞っていることもあった。
5年くらい前、いろいろとひどいことを言われてきたと感じた私は、母とは会いたくないし理解もできない、とつっぱねた。
私が昔感じていたことについて話し、それに対して真摯に向き合ってくれなかった、と責めた。
母と距離を置くようになり、距離を置いていることが心地よく、だんだんと自分が冷静になり、母も大変だったんだろうと思うようになった。でも私も子どもながら大変だったんだよ、だからおあいこだ。
私は毒出しできたけど、母は消化不良だろう。ごめんね。でも私も必死だったんだ。
私は今さらまた母に心のうちをすべて話し理解してもらおうとは思っていない。今はしんどい。たぶん理解できないだろうし。
自分の思い(淋しい、悲しい、甘えたいのに甘えさせてもらえなかった、ひとりだった)というのは、母にはもう理解してもらえない。
だから、母が何を思って生きていたのか、想像力を働かせるんだ。
*
30代のころは、離婚もしたし、うつにもなったし、心配をかけた。
でもそれは実際に起こったことへの心配、というより、「母が自分で心配を作り出してる」「母は心配したい」ということだったんだろうな、とこの日に気づいた。
40代後半になった娘に何度も「今はちゃんと幸せにやってるんやね」と言う。
ふだん会っていないから、心配する内容が漠然としすぎてる。ちょっと笑える。
これがいつもいつも会う仲だったら、生活のこと細かなことまでアレコレ言われるんだろう。あれしたら、これしたら、って。
私があまりべったりしない、必要がなければ会わない人間だってようやくわかったみたいで、なぁなぁにせず実力行使で離れたことは私にとって非常によかった。精神的に健やかでいられる。
でも母は心配はしたいから、漠然としたことでも口に出すんだ。
この日もまた何を言うんだろう、と身構えて行った。けど、たいしたことなかった。
いつもいつも感じてたもどかしさや苛立ちというのは、私を信頼して!という気持ちから出たものだったのかもしれないな。
でも私は、どうせ母には理解できないだろう、と母を信用してない。問題に向き合うなんてしないだろう、とバカにして軽く扱ってる。
ということだ。どっちもどっちだ。
だけど、実際の生活を父とふたりで乗り越えながらやってきている、生きてきている、ということは信頼している。すごいことだと思う。だからその点では心配はしてないよ。
お母さんからの信頼は得られなかったし、私もお母さんを信頼してないけど、お母さんが心配することで心を保てるのならば、心配してください。
あとは私が母の今までを想像して、理解に努める。ここからのスタートだ。
怖いの正体
今日、たくさんの人がいる場所へ行った。10~20名くらいの人々。
時間まであと少し、どんどん増えてくる。
それにつれて、自分がどんどん怖くなってくるのを感じる。
顔には出さないけど、脳内はうるさいくらい怖がっている。
あれ?どうしてこんなに怖がってるんだろう。
周りの人々が、私を見ているような気がする。
なにかヘンな動きをしたら、ちゃんとしろって怒られそうな気がする。
みんな黙ってるけど、私をヘンだと思っているような気がする。
大げさだってわかってるけど、私を監視しているように感じる。
怖い、怖い、人が怖い。
これ、全部自分が周りの人々に対して思ってることだね。
私が、周りの人々を見て、
私が、みんながヘンな動きをしたら、ちゃんとしてほしいって思ってる。
私が、ヘンな人を探してる。
私が、監視してる。
私が、周りの人々は敵だ、と思っている。
違うよ。周りの人々は、私に対して興味なんかない。見てない。監視してない。
それどころか、みんなそれぞれ自分のことをして、リラックスしたりしてる。
みんなは敵じゃない。味方だ。
みんなが味方だ、という意識に持っていくことは難しくて、まずはみんなはフラットだ、と思えたらいいか。
私が見ているように世界は作られている。
すべて、私の脳内の劇場だ。
思い込みはありすぎて全部をクリアにはできないなら、
それならその思い込みを私の思うように変えていくんだ。
私が見たいように世界は作られるんだから。
卵の数
卵を1パック買うと10個入っています。
昨日のこと、主人が軽くお昼を食べようと1つ卵かけごはんにしていました。私は食べませんでした。
私「あっ、卵、今は9個なんやね」「じゃあひとつケーキを焼くのに使おうかな」
主人「? そのままではダメなん?」
私「卵は偶数でないとあかんから…」
主人「???」
私「???」…はッ!
なぜ?? 私、卵は偶数でないとダメ…って思い込んでた?!?
そうなのです。
私は卵を使う時、残りが割り切れるように偶数にするクセがあって、奇数になると慌てるのです。なんでなんだ? 自分でもわからない。
残りが3つ、とかの時がすごく嫌で、なんとかして形がなくなるメニューに使い切ろうとする。すなわちスクランブルエッグやかきたま汁とかにする。
そして、偶数になるとホッとする。
目玉焼きを3つ作ってそのうちの1つを分ける、ということはしたくない。
ふたりぐらしだから、ふたりで卵かけごはんを食べようとした時に1つしかなかったら分けづらいから…? 目玉焼きを真ん中で分けるのは切りづらいから…?
へんな思い込みだなぁ。
幼いころ、なにか自分でそう決めたくなるような出来事があって、ルールになってしまったんだろうな。
卵は1パック買うと10個入っています。
この個数が割り算しやすくて把握しやすいから特にこだわったんだろう。
ちなみに主人は、3つの目玉焼きだったとしてもふたりで分けたらいいんじゃない?派です。
ほんと、ヘンな思い込み、いっぱいあるなぁ!
木綿の呪い
ラジオから流れてきた太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」。珍しく主人が歌詞を聴いて「この男腹立つなぁ」と言ってきた。
そうそう、そう思ってたことある。都会へ出て行った若い彼が、都会のきらびやかさ華やかさに呑まれて、田舎に置いてきた彼女から心が離れる。なんて身勝手な!と思ってた。
そう思ってた頃からもう10年くらい経ったか、今ではこの彼にはなんにも思うことはなくなって、彼女の方が怖いと感じている。
彼が戻ってくれるのをずっと待ってて、素直に待ってるだけのようだけど、ただ待ってるだけ…。
スーツ着た僕の写真を見てくれと言われてるのにいいえあなたと拒否…。
はなやいだ世界だけではなくて、きっと仕事でしんどいことだってあるけど、それでも自分から行動している彼は、自分の責任で苦しみも楽しんでるように思う。
でも彼女は彼がどんな場所で、どんな思いで日々過ごしてるのか知ろうとしない…。自分から訪れて、確かめようともしない…。彼と思いを共有しようとしないし、彼の思いを理解しようとしない…。
僕があげるといっているプレゼントはことごとくはねのけて、最後の自分からのお願いには、「木綿の」、化繊とか絹とかじゃなくて、おそらく素朴さとか純朴さとかを象徴してる「木綿の」涙拭く「ハンカチーフ」をくださいって、もう呪いみたいやん!!重いわ!
戻ってこない彼のせいで泣くんだ。…って、いやいや、自分の責任でしょ!自分がそれを選んだんでしょ。人のせいで終わってるところが気持ち悪い。
自分は変わらない…。変わろうとしない…。頑固やな〜。こんな人近くにいたら、こだわりありそう過ぎて話できんわ。
彼のことを好きだったんではないんだな。
自分のことが一番好きで、それはそれでいいと思う。思うけれども、自分のことを幸せにするのは彼だと思ってるのが違うんだろうな。
自分を幸せにするのは自分だよ。
さて、また10年後、感想がどのように変わっているであろうか…。たぶん、方向性の違いだね、のひとことで終わってそうな気もする。
積ん読は幸せのかたまり
最近、本が読めてない。
というよりも、本を買えない。節約だ。
図書館に行こう。なんでもよくはないけども、とりあえず読むのだ。とりあえず、というのは違うかな…。本に失礼かな。この焦っているような気持ちを何とかする方が先だ。
「積ん読」ってありますね。
私のお友だちも、旦那さんも、読みたい本がたくさんあって、でもなかなか時間も取れないようで、仕方なしに溜まってゆく本たち。
私はそれって、とっても幸せな、贅沢なことだなぁと思った。
読み切れないほど読みたい本がある幸せだ。
興味を惹く本、日々に役立てる本、仕事の本、娯楽の本・・・
読む前だけど、その楽しみにしている気持ち、踊る心、わくわくする好奇心、これらがすでに幸せのかたまりだと思う。
なんにも読みたいものがない、なんて本好きにとっては、心にからっぽになったような淋しいことだから。
本を手にする幸せは、個人的なもの。
自分と対話するようなもの。
本を通して自分を見る。
本を媒介に自分がどう感じ、どう考え、どう思うかを知る。
こんなに心が満ちる時間はない。
積ん読になるのが苦手で(時間に追われて、しなければならないことが山積みになっているように思えて)、
読みたい本を覚えておいたりメモしたりすることをやめていたけれど、
「楽しみが待ってる」「幸せが待ってる」と思えるから、これからは少しずつ書き出していってみよう。
石井ゆかりさんの言葉のすばらしさ
https://lineblog.me/ishiiyukari/archives/9364161.html
石井ゆかりさんの本日の占いで、
「魚座はあたためていた卵が孵って、素敵な小さなドラゴンが出てくるような日。」とあった。
なんて素敵な表現!
なんて気持ちを楽しく、楽にさせてくれる言葉だろう!
日々いろいろあって、しんどいこともあって、前なんか向けない、という日もあって、なんで自分はこうなのかっていやんなることもあって、でも、でも、それでも…
それでも希望は持っていいんだ。楽しく感じてもいいんだ。私は私の感性や感情や感覚を大切に思ってもいいんだ。
石井ゆかりさんは、そんなことがあったらうれしいな、と、少し空を見上げて一息つかせてくれるような言葉を渡してくれる。
言葉は表現。それは、石井ゆかりさんの世界観を表している。なんて美しい世界を持っているんだろう!
情報断捨離!
ネットを流していて突然、動物への暴力の映像が目に入ってきた。
画像でなく、動く映像だった。自動的に再生されてしまって、見てしまったらもうダメだ。
心臓がひゅっと冷えて縮んだような気がした。
気持ちが沈んだ状態で、自動で再生できないように設定し、胸の中の黒いどろどろの渦が去るまで耐えるしかない。
情報はなんでもかんでも目の前に、耳の中に流れてくる。油断しているとそれらに「やられて」しまう。
情報の波の中から好きなものを探すことだってしたい。でも気分の沈むニュース、記事、コメントが、まるでそんなのしかないのかと思うくらいに蔓延してるような気になる。
炎上、文句、「べきねば正義」を振りかざす変なコメント…
私に必要なのは、ネットの大波に呑まれないスキルだ。流されているニュースはたった一部。メディアが操作してあいつらの勝手に流してるだけ。大多数のように感じてるけど、本当に多数かどうかなんてわからない。
それから、自分に必要なのかを選別するスキルも。
暗いニュースだけではなく、よいと言われるような情報や記事の中にも、自分にとっては不必要なものが溢れてる。
つい、いいものなら読んでも害はないだろう、と思ってしまいがちだったが「身体にいい」「健康によい」からと、そんな情報をバカ正直に聞きすぎて、あれこれまみれ過ぎた。
よいと思ったものがストレスになる。
いろんな食材や調理方法を試したり、時季的、年齢的になるべく摂るようにしているものがあるけれど、
いや待てよ、本当にソレは本心からよいと思ったの?
私に合うとなんで思ったの?
第一、今の私に必要なものなの?
こう思ったときはチャンス。ルーチンにしてしまったことを、もう一度はじめに戻したらいいってこと。身体にいい健康にいい病にかかっちゃったんだな。
情報に目をやりすぎると、自分のこころの声が聞こえなくなる。知っておかなくては、なんて損得で考えないこと。
HSP本みっけ!
私の大切な友人に、感性が非常に豊かで、心のあたたかな優しい女性がいます。この漫画を読んだとき、まさに彼女のようだ!と感じました。
人より少し耳がいいタカコさん。小さくてかすかな音や気配を感じ取ることができる。
タカコさんの世界はしなやかで優しく強い。人や世間というものを根本から信ずる人なんだと感じました。嘘のつけない人。「自然」に生きている人。「自然」にしか生きられない人。作られてない「自然体」ってこんな感じなんだ。そんな印象です。
人や世界を信頼する人は、人からも安心され信頼されますね。
HSPの方なら共感する内容ではないかなーと思います。
ウェブコミックサイトでも読めます!
http://www.zenyon.jp/lib/top.php?id=13
そして、HSPだから生きづらいのではなくて、HSPだからこんなにも世界はいろどり豊かで輝いているんだ、と素直に言えるような、そんな人になりたい。
#HSP
ツグミが来てくれた、ホッとする
今朝、近所でツグミを見た!
先週わざわざ大きな公園に行って、一羽も見つからずガッカリして、今年は会えないかもしれないと思っていたところだったから、あの赤茶色(えんじ色)の姿を見た時は嬉しくてたまらなかった。
つい先日から、朝からやたらヒヨドリが集団で騒いでるなぁと思ったけど、そしてさらにヒヨ同士が何羽も集まって会合を開いていたようだけど、つぐみんが来たことを警戒してたんだな(笑)?
今朝だって、つぐみんのいる場所から間近なところの木に止まって、牽制してるというのか、見張ってるというのか、…ヒヨちゃんいつもその木には止まらへんやん!と突っ込みたくなるくらい「新顔」への挙動が大げさでおかしい。あたたかく迎えて…あげられへんねやろなぁ…。
毎日、鳥を探しながら歩いたり、空を見上げながら、雲の行方やら、風の冷たさやらのことを考えて、鳥の飛ぶ様子または川に浮かぶ鳥をじっと見ている。どこへ行くんかなぁ。何食べてんのかなぁ。鳥の飛ぶ姿はきれいやなぁ。
今日は気温はましだけど空気が冷たいなぁ。雲がいろんな形してるなぁ。川の水が少なくなってるなぁ。こないだはあっちの山に雪が積もってたなぁ。……
そういうことばかり思っている私はアホなのかなぁ。どんどんどんどん、人の社会から遠ざかっていくような気がする。
憧れのひと
市原悦子さんが亡くなってしまった。
出演する2時間ドラマも、連ドラになった「家政婦は見た!」も欠かさず見ていた。この方は、声や風貌にだまされるけどすごく厳しい人なんだろう、と感じていて、でも声と風貌にも惹かれて憧れてた。ひとり歌いながら踊るシーンが多くあって、無防備に見えるのがチャーミングだと思っていた。歳を重ねられたほうがもっと虎視眈々とした表情を見られて、私も思わず「ウシシ」と変な笑いをしてしまっていた。市原悦子さんが出る番組はおもしろくないわけないから、録画しても見ていた。
ふんわかしてるけど、でも実は怖い、と思うひとはもうひとりいて、それは詩人の石垣りんさん。この方も、見ためがかわいらしくだまされそうになるが、詩といえば市井の人々の厳しさを描いたものが印象に残っている。亡くなったときにハッとしたことを覚えている。私の中ではふたりを重ね合わせているようだ。
市原悦子さんの本も読んだことがある。以前に読んだインタビュー(と写真)の本では、思っていたよりも芯の通った厳しさだった。身体を悪くされて表舞台から少し離れていたけど、リハビリもしてると記事で読んでいたので安心していた。
葬儀の日、ネット記事で「樹木葬」にされると知った。
「樹木葬」は私もできたら希望する埋葬の仕方だ。海への散骨、山への散骨、どれでもいい、とにかくお墓の中には入りたくないんだ。死んでまで、あんなコンクリートの狭いスペースにいたくない。墓は「ここに居るんです」とクサビを打つようなものだ。骨がここにあります、と周りにわざわざ知らせたくもない。死んでまで同じ場所に縛られたくない。私という痕跡は、人工物の中に残したくないんだ。自然の中に溶けてしまえたらいちばんいい。
しかし実際に散骨や埋葬をしてくれるのは私ではないわけで、死んでしまえばもう文句はない。どんな死に方をするかもわからないし、火葬してできる限り細かな灰にしてもらえるならそのあとはどのようにしていただいてもありがたいと思う…。
憧れのひとが望む埋葬方法と、自分の希望が同じだと知って、好きなひとを好きでいつづけてよかったと思った。人の生き死にといった根源的なところが自分と重なるというのは、魂の柔らかいところに触れたようで、しかもそれを理解できたような気持ちになるから。共感できる喜び。
こんな、葬儀の仕方とか散骨の話なんて、「普通は」だれとも気軽にはできない。話題にのぼらない。私にとって大切にしている思いでもあるし、人のこころに関わるデリケートな話だからだ。
でも、こうした話をふとした時にできる関係は、私には至福だろうし、とても憧れる。本音を開示し合うことにとても憧れる。
好きなひと、憧れのひとというのは、私に進む道を示してくれて、それはきれいなところばかりじゃない、どろりと濁り粘った場所もある、と教えてくれる。その人々を通して、世間を、世界を知ることができる。市原悦子さんも石垣りんさんも、私にとってそんな存在だ。
好きなひと、憧れのひとが何を望み知りたいと思うのか、行動だけではわからない心の動きをこうして知ることが叶い、穏やかな気持ちにさせてくれた。亡くなってからとなってしまったけれど。亡くなってしまったからこそ。
ずっと憧れのひとだ。
ひさしぶりの涙
今日でヨガを始めて20回目だった。
少しずつできることが増えていくのが楽しい。
今日は特別クラスで「月礼拝」を教わった。まさに女性のためのヨガだ。
昔ヨガは主に男性がすることだったそうで、身体を縦に伸ばす動きが多いダイナミックなもの。パワーヨガで行うのは太陽礼拝だ。
男性は、ひと月のうち、身体の内部の変化は女性に比べれば少ないだろう。
けれど女性はひと月のうち、生理の準備、生理、排卵、…内側では相当な大きな動きがある。月のリズムと言われたりする。外には見えづらいものかもしれないけれど、男性の外向きのダイナミックさに比して、女性は内向きのダイナミックさだ。
男性のものだったヨガを、徐々に女性もするようになり、身体を横(左右)に広げたり伸ばす動きの多い月礼拝ができたとのこと。
月に向かうため、照明はほぼ落とした暗い中、いつも以上に自分の身体のことを感じながら行うものだった。
今週初めから、気分が沈んでいるな、と感じていた。笑えないし、胃の消化力も落ちている。前かがみになりがちで、うるさい音に苛々する。なんか苦しいな、と思う。
こんなに恵まれているのに。こんなに何不自由無く暮らしているのに。日々温かいご飯を食べて、温かいお風呂に入れて。ご飯を作るのは楽しいし、ケーキを作る余裕もある。食べものも飲みものもおいしいと感じられる。青い晴れた空を見上げてきれいだなと思うのに。
こうした気分の時は、そんなすべてが自分自身とはちょっと離れてしまって、
自分ひとりだけが薄い膜のようなものの中に入っているようで、すべてがぼんやりと鈍い。なんかしんどいな、と思う。うっすらした気分。
ヨガをするようになって、身体を動かすことの面白さ楽しさ明るさを体感した。気持ちが下向きでも運動すると自然と前へ進む力が湧く。
私は運動は苦手だし嫌いだと信じ込んでいた。違った。自分の身体を放っておいたんだ。興味も持たず、苦手だからと決めつけて。身体を知ることもいたわることも癒すこともしてこなかったことがよくわかった。身体に対して済まなくてつらく思う。
今日は、その週初めからの沈んだ気分のまま受けていたら、合い間の姿勢の時に、勝手に涙が流れた。インストラクターさんの落ち着いた説明や優しいガイドを聞きながら、そうなんだねそうなんだ、と身体に向かって話しかけるように呼吸をし、ポーズを取っていた。気分が高まり出るものとは違う、自然にさーーっと流れる涙だった。
流れていたのは数秒だろうけれど、その間、小さい自分が出てきて、「怖い」「悲しい」といった感情が胸の内側に起こり、それはとても熱く、「そうだね怖いね」「つらかった」とまるでもうひとりの自分と話すような心持ちだった。胸の内がぎゅっと熱くなった。
いったい私自身はどこにいるんだろう。毎日毎日、日々のタスクを順々にこなす自分は自分なんだろうか。自動操縦された私は、私という乗り物に乗っているのだろうか。小さな自分ははたして自分なんだろうか。
私は何のために生きているんだろうか。私が生きていていいのだろうか。私が役に立つようなことは今までもこれからもあるんだろうか。
答えのない問いが次々浮かぶ。
答えがないからもう考えないようにしよう。いつかきっと気づく時が来てくれる。