奥田英朗さん→本城直希さん→大友克洋さん→高野文子さん
ひさしぶりに手に取った、奥田英朗さんの本!
あの精神科医のシリーズがものすごく面白くて次々読んだことを思い出した。(でも内容をぜんぜん覚えてない…このポンコツ記憶力よ…)
この家シリーズも、表紙の写真が印象的で好きなので気になっていた。
表紙の写真は本城直希さん。『small planet』という写真集を持っている。いろんな風景をミニチュアのように撮った面白い写真集。
私は自然たくさんの風景より都市やビルが好きで、だから東京の景色などには心惹かれてたまらない。そしてミニチュアも大好きだ。これはもう好きにならずにいられようか。
都市好きの私は団地の景色も好きで、この団地好きはたぶん高校の時に、これまた追いかけるように読んだ(今も読んでいる)大友克洋さんの影響だ。あの『童夢』を読んだ衝撃ったら! 団地が主人公だといっても過言ではない。もう紙も変色してしまってるけど、何度も何度も読み返す。絵が綺麗すぎて。
紙の色が変わってもずっと読んでるのは高野文子さん。文庫の『るきさん』は手頃な大きさだから、寝る時のおともにいいんだ。『黄色い本』も、一回読んだだけじゃよくわからなくて、繰り返し繰り返し、でもわかろうと思い詰めずに読んでいたら、なんとなく心に染みとおった気がした。内容だけでなくて、絵を眺めているだけでもいいんです。なんでこんな線を描けるんだろう。
…話がどんどんずれてゆく。
それで奥田英朗さんの『家日和』『我が家のヒミツ』『我が家の問題』をこれから読むんですが、この『我が家のヒミツ』の表紙ですよ、ですよ、ですよ!
この団地(大規模マンション?)、そのまま『童夢』じゃないですか?! いったいどこなのかはわからないですが、わからなくてもいい。これは『童夢』だ!
…と、まだ本も開いていないし、内容ともまったく関係なさそうなんですけど、いささかわくわくしっぱなしです。ブックレビューはまた今度!
人生100年時代だってさ
最近、すごく拒否したこと。
人を不安にさせたり、恐怖を感じさせたりすることを口にするのは強制じゃないか。
人生100年時代、なんて、庶民の金を搾りとろうとする財務省やら保険会社やら、その他諸々の、人の人生に責任など持ってくれないところがメディアを巻き込んでぶちあげているけど、本当にそうなの?
そしてそれを真に受けたのか、その作られたストーリーに乗っかって、「だから今行動しなきゃ」とか「今までの古いやり方では成功できない」「AIに仕事を取られる前に、新しいことを勉強して身につけなきゃ」みたいなことを言われる場面に出会った。
そういうことを強く言い募る人って、演説者みたいで、なぜかだいたい説得力があるように聞こえる。思わず「ふ~ん」「そうねぇ」とうなずいてしまいそうになる。
要は、本当はどうだかわからないのに「正論」に聞こえるということだ。(ほんとにそう思って言ってるの? と不思議に思う。それってあなたの本音?)
それは「あなたの」不安であって、「私の」不安ではない。
「あなたの」正しさであって、正しさでものごとを図れるほど、生きることはそんなに単純なものじゃない。
その「あなたの」不安を人に押しつけたり、あなたと私は同じだと思わせて扇動するのは、強要だと思う。
危機感を煽って、どのように行動させたいのか。どう考えさせたいのか。
結果、「あなたの」心配や不安を、「あなたの」願う未来のために、叶えてあげなくてはならなくなる。
「あなたの人生」のために「私の人生」があるんじゃない。
そのことにひと月ほど経ってようやく気づいた。私は私の思うように生きる。
腰痛治まる!
ここ2週間ほど、腰痛でした。
ずーんと重く、動かしにくい。1週間経った時、いよいよギックリか?!という状態に!
ヒェーこりゃあかーん、と慌ててカイロをたくさん貼って安静にして約3日…、ようやく動くようになりました!
腰って「要」って書くくらいだから、ほんとに要所なんですな…。腰を痛めたらなんにもできない。
せっかく何ヶ月越しに会おうと言っていたお友達との予定も繰り延べてもらって、身体を治すことに専念した。とにかく温めて、あまり動かさない。動かせない。
そうして治った時に、身体が楽に動くことのしあわせ!
腰痛もなく、頭痛もなく、おいしくご飯が食べられて(いや最近は食べ過ぎて胃腸に負担かけてるか…。I can’t stop 食欲!)。
身体が淀んで滞っていると、ロクなこと思わない。
さらっと物事を流せなくなるし、いつもなら嬉しい、ありがたいな、と思うようなことも「ケッ、感謝病か」と悪態つく。あ〜いや、感謝病は皮肉だけど、思ってないのにありがたいって「思い込む」のはやっぱり病ですな。
感謝や感動は心の底から自然と湧いてくるもんであって、しなきゃなんないもんじゃない。
ま〜そんな時もあるさ。巡りが悪いってやーね。
hiro-sanのブログ『人の心に灯をともす』より
読ませてもらっているブログで、ハッとすること発見!
hiro-sanのブログ『人の心に灯をともす』より、
「否定することで、あなたはなにかいいことがあるんですか?」という記事。
斎藤一人さんの本の中の言葉を引用されています。
斎藤一人さんを寡聞にして知らないのですが、気持ちが明るく前を向くような言葉を使われる、ということを聞いたことがある。素敵なことだ。
この記事を読んで、こういうことしてしまってる…と反省。
でも、
だって、
どうせ、
えーそんなのヘン、それはこう、これはああでしょ?
こういう言葉、いっぱい使ってきたし、今も使ってしまう。
自分に攻撃されてると感じたのかもね。
自分を否定されているように感じたから、先んじて相手を否定して安全圏にいようとしたのかもね。
ただの話、と思えずに、相手と私の違いを受け入れられずに、相手よりも私の方が正しいんだ、なんて、あがいていたのかもね。
違う違う、そうじゃない(鈴木雅之さんを思い出した)。
最近はそんな気持ちから少しは抜け出て、私自身も楽になった、と思えてた。けれど、時々こうしてハッと気づく出来事が起こる。気づかせてもらえた。
口先で、個性だ、人は人だ、とか言ったって、やっぱりこうして出てくるんだなぁ。腹に落としたつもりでも。
人を否定することは、自分を否定することでもある。
それでもまた、もう一回やってみるんだ。私の気持ちを否定せず、相手の気持ちも否定しない。みんなそれぞれ。
hiro-sanのブログ『人の心に灯をともす』より、
「否定することで、あなたはなにかいいことがあるんですか?」
自分との会話
このブログはいったい誰に向けてしゃべってるのかな、と思った。
誰に伝えたくて書いてるのかがわからなくなってきた。
はじめの頃は、少しでもつながりのある方々に向けて書いていた。顔を合わせるのは難しくても、ちょっとお茶しながら会話する、そんな風な思いで書いていた。今ももちろんそういった読んでくださってるであろう方々に書いている。
けれどだんだんと、もう一人の自分に向けて、確かめるような気持ちで書くことも出てきた。
「もう一人の自分」、これは…、
いつも自分と一緒にいる自分だ。
頭の中で繰り広げる会話合戦でわーわー言い合う自分。赤と言ったら青と言い返す自分。どうしよう?と迷いオタオタするとそれに追い打ちをかけるように急がせる自分。判断が間違っていると責める自分。頭の中で常にフル回転して走り回っている自分。
かと思えば、しんどかったなぁと言ったらしんどかったねぇとなだめる自分。ありがとねと言ったらそんなこといいから休んだら?と言う自分。コーヒーを淹れたり、お風呂に入ったり、本を読んでいると、とても穏やかにおとなしくなる自分。
いつも自分と一緒にいる自分。
ずっと一緒にいる自分。
この人を納得させたり、喜ばせたりするために書いているような気がしてきた。
今までの自分を振り返ったり、少しずつ変わっていく自分を見せて知らせて、たくさんの自分の姿を、ほかでもない自分と共有したいと思っている、と感じる。
これからも一緒に進んでいくために。
眠りにいいらしい?
さっき記事で読んだ。
「眠りに効く身近な食材3選!」というような題だったので、どれどれ?と読んでいくと、
①コーヒー
ふんふん、香りがリラックス効果…、なるほど、では次は?
②玉ねぎ
えっ!?けっこう刺激的では?これも香り成分に効果あり…なるほど…。イマイチ納得いかないけど…、じゃあもう1つは?
③セロリ
うっそーん!!なんで?
セロリ嫌いやのに!成分的に…とかどうでもいいわ!スープにかけらが入っていても察知するくらい嫌やのに無理無理!
コーヒーはさておき、枕元に玉ねぎとセロリが並んでたら悪夢見るわ!!
あとでもう一回読み直そう、と一旦閉じ、ふたたび検索したがなぜか見つからない…私のまぼろし??
私の本質に気づいてしまった
私は真面目で几帳面だと思われている。きっちりしている、とか言われることもある。
もしかしたらそんなとこもあるかもしれない、とか自分で錯覚しそうになってたけど、違ったぞ!
私はズボラで面倒くさがりなんだった!そしてだいぶぼんやりしている。この先なんにもせずにのんびりとぼーっとしていたいという野望を持っている。
早くのんびりしたいから作業をさっさと終え、早くのんびりしたいから手順をわかりやすく整え、早くのんびりしたいから工夫や改善に余念がない。
これが終わったらのんびりするぞー!と常に思いながら仕事や家事やもろもろのことをしているのです。
約束の時間より早めに着くように準備するのも、早く着いてホッと一息ついて自分を保ちたいから。慌てて駆け込むと自分がパニックになるからだ。
明日出かける時に慌てないように、前日から持ちものや着るものの準備をする。
そうしておくとあとはゆっくり休むだけ。あ〜準備してなかった〜と焦らずにすむからだ。
ものの置き場所をざっくりでも決めておくのも、そうしておいた方が考えずに取ることができて楽だからだ。
な〜んだ、私って几帳面でもきっちりしてるんでもないんだ。
ただただのんびり、ゆっくりしたい、がベースにあるんだね。それが私の本質なんだ。ぜんぜん逆だった。ははは、愉快愉快。
痛いのは一体「誰」?
夜中ちょっと雨が降ったらしく、朝見ると地面が濡れていた。
くもり空で、これからまた降るのかもしれない。少し肌寒い。首もとからひんやりした空気が入ってくる。
そういう天気の時はやっぱり頭部が重い。
見えにくいものを力を込めて見つめていて、あまり続けると酔ったようなめまいが起こりそうな時があるけど、そんなふうに目元が張って、凝っている感覚。頭の中をぎゅっと締め付けられるような感じがする。
今のこの頭の痛みを説明しようとして、人にわかってもらうように説明するのはどうにもやっぱり難しいとよく思う。
人によって痛みの感覚や表す言葉も違う。だから私が〇〇と言っても、人は△△と捉えるかもしれない。
そして、たとえば血管、たとえば脳、たとえば頭蓋骨、それぞれの「立場」で感覚を捉えようとすると、それぞれが違うことを言う。
血管なら、膨張する。
脳なら、その膨張した血管に押される。もしくは自分も膨らんでいるから頭蓋骨に当たる。
頭蓋骨なら、脳がぎゅうぎゅう押してくる。
それぞれの「立場」に立つと、痛みを説明する言葉がまったく変わるんだ。
では一体「誰」が痛いの?
血管からすると、膨張してたくさん血液を流そうと思ってるのに膨らんだ脳が邪魔してるから痛み発生。かもしれないし、
脳からすると、血管が膨張するから圧迫されて痛み発生。かもしれないし、
頭蓋骨からすると、脳が膨らんでどんどん押してくるから痛み発生。かもしれない。
三者の言い分だけでなく、他の要因もある。
さっき朝ごはんを食べたから、胃に血液が集まって頭方面はあまり流れなくなってるかもしれない。すると広がった血管にあまり血が行かず、血行が悪くなっている。
血行が悪くなると、上部にある頭だけでなく首や肩にも血が流れにくくなって、酸素や栄養が行かない。冷える。固まる。張る。痛み発生。
今ブログを書くことで余計に目元が張ってきた。痛み発生。いやしかしこれは眼球が張ってるの?目元の皮膚が張ってるの?それとも首のコリが目の痛みに影響してるの?どれ?
痛いって言ってるのは一体「誰」?
それぞれが痛いって言ってると思ってるけど、だいたい頭蓋骨が痛いって感じるのかな。血管もそうだな。そしたら結局は統括する脳が判断してるってこと?
いやいや細胞は身体中にあるんだから、それぞれの細胞が痛いって感じることだってあるでしょう。
足の指を打ったのに、ひじが痛いとかないでしょう。お腹が痛いのにふくらはぎが原因とかないでしょう。
あれが…、これが…、、、、
…なんて暴走を続けるうちに、空は晴れ、地面も乾き、気圧も落ち着きました。
でも頭痛はやまない。
“絶対”って思わなくなった
歳をとってきて心底よかったと思う自分の変化は“絶対”がなくなってきたこと。
絶対のあとには「こうあるべき」「すべき」がたいがい続く。強い語気だ。そして“絶対”と“べき”で、二重に不自由になってる。
不自由だし窮屈だし、自分の小ささやせまさを露呈していてみっともない。
若い(幼い)時はちょっとしょうがない。経験もない知識もない、小さな世界で生きているから想像力も乏しい。潔癖でもある。だからなんでも自分だけのものさしで測って、決めつける。
不安だから。確たるものが自分にないから、外に求める。絶対こうだよね。絶対そうするべきだと思う。絶対、絶対。なんやねん、絶対って。。かっこわるい。
中年になって、そういう枷から自由になって、どんなこともあり得るし、どんなことも起こり得るし、どんなふうでもいいやん、と思えるようになった。
“いい加減”っていいな。とっても楽しい。
みうらじゅんの効用
みうらじゅんが好きなんです。いえ、がっちり好きなんではないけど、昔からずっと気になる存在です。
昔からずっと「サブカルの帝王」だと思ってたのです。
でも違った。
順序が逆だ。そういったカテゴリーには入らない人なんだ。
30代の時東京タワーに昇って、展望台のところのお土産コーナーに、みうらじゅんグッズが並んでたんです。よくわからないものがいっぱいで、ぜんぜん欲しくもならないけど、ついついじっくり見てしまう。
みうらじゅんってなにやってる人なんだろう? なんでもやる人だなぁと思って、雑誌やネットでみうらじゅんという文字を見るとついつい覗き見するような感覚で待ち望んでました。
長髪で、大きめの色の濃いサングラスをかけていたら自動的にみうらじゅんだと認識するようになり、ついにはゴスペラーズの人も、浜省も、鈴木雅之も、みうらじゅんとの差異が曖昧になるくらいになって、頭の崩壊が起きています。目もかすんでるようです。
なんでこんなに気になるんだろう?
みうらじゅん独特の世界、独特の感覚、先見の明みたいなものへの憧れがある。
そして、好きなことを好きだと誰はばからず言い、好きなまま興味の向くままに進んでいたら、きっと自分が満足する、ということを教えてくれてる感じがするからかなぁ。
みうらじゅんはきっと、いつでも自然に息をしているんだ、と想像すると、そんな人がいてくれることにホッとして、勇気をもらえる。持っていることで安心する薬のような効用です。
言葉にならないこともある
生きるってすごいことだ。
先日のこと、年配の女性がごく個人的なことを話してくださった。
「私、病気をたくさん持ってるけど、最近になって、今日も生きてるのかぁっていう心境になってきたわ。そんな風に思うようになるなんて思わなかった。」
「そうですよね、生きているだけで、息をしているだけですごいことだって思います。」
「えっ?! あなたはまだ若いのに、そんな死生観を持ってるの。そういった考えを持つと、しんどいでしょう?」
「はい、しんどいです。でも、これしかできなかったのと、今はこれでよかったと思ってます。」
ほかにも、年齢を重ねて身体が思うように動かないことへのもどかしさや苦しさを話してくださった。
私も行く道だ。
息をすることができて、食べることができて、思い悩むことができて、腹を立てることができて、眠ることができて。
知らない間に、髪も伸び、爪も伸び、肌で空気の移り変わりを感じ、話すことができ、音楽を聴けて、青空も雨の日も空を見ることができる。
私は言葉が好きで、思うこと感じることを言葉にしたい、という欲をもっているけれど、どうしたって言葉にならないこともあることを知っている。それを知っていることは私を正気にさせる。なんでもできるわけじゃない。でもできることもある、という勇気を出せる。
生きることというのは、私に、ゆだねることを知らしめてくれる。
ただ生きているだけで、すごいことなんだ。
人にかける言葉はあったかく明るく優しいほうがいい
人にかける言葉は、あったかくて明るくて優しいほうがいい。
だってそれはぜんぶ自分に返ってくるから。
人に言っているようで、自分がいちばんその言葉を言ってほしいんだと思う。
もちろんグチったっていいんだ。ドス黒い言葉が出たっていいんだ。
どっちもあってあたりまえ、正しい・間違い、善悪、そんなもんはどうでもいいんだ。
あっ、今の私は「正しい」で動いてるな、とわかったらしめたもの、それもありだし、責める対象である人(他人だったり自分だったり)も、その状態でありなのです。
ずるくて、狭量で、浅はかで、だけど それを自分なりによい方向に変えていけるのも自分だから、自分を信じてあげよう。
*
今日の私は頭痛と眼痛がひどく、ちょっと動いてもズキッと脈打つような痛みが突き刺さる。薬を飲んでも治まらない。眠れない。
たまになることだから、以前は無理して病院に行って脳の検査までしたけど、結果なんの異常も見つからなかった。
今まで受診した医者たちは、目の前の私ではなく机上の画面データを見てばかり。要らない偏頭痛の資料をプリントして早く帰れと言わんばかり。医者ってなんなんだ。
すがるような気持ちで原因を知りたいと言っているのに、受け止めてくれるようには感じられなかったから、もうその辺の医者は信用しない、となった。信用するのはまず自分の身体だと思った。
季節的要因、天気、気圧、冷え、食べもの、最近の生活習慣、最近の気持ちの変化はどんな風だったか…
ちょっとした変化をできるだけ見逃さないようにして(見逃すけど)、そしてなるべく自分の身体を責めないようにして、感じてあげたいと思うようになった。
いつかは医者にお世話になるだろう。でも、半分以上は自分の身体と心が治していくものだと思う。
それまで、自分を信用する練習だ。今の自分を受け入れる練習。身体に感謝する練習。痛みは苦しいけど、この痛みは私のものだ。手助けはしてもらうけど、人に任せるわけにはいかない。
言葉は凶器
特に好きでもなく、ふだん頭に登らないし、別に考えないようにしている程度の人のことを、
「好きではない」「嫌い」だと口に出したとたんに、
それが決定事項になって、自分がものすごく嫌っている、という事実に変わる。あらためて絶対的なものに決定されてしまう。アウトプットしたことで、定着してしまう。
それまでたいしてなんとも考えてなかったのに。
言葉を口にするのは凶器なんだ。とても怖いことなんだ。
そんなことを口にした自分は腐っている、と吐き気を感じるくらいに、自分が一番嫌いになる。
そんなことを口にさせられたことに対しても、猛烈に腹が立ち、それからズンと沈むような重たい淀みのようなものを抱える。かなしい。
呪いの言葉
私には姉がいた。写真でしか知らない。
私が生後8ヶ月の時に、自動車にひかれて亡くなった。
私は自分が長女だと思っていた。
母からは「お姉ちゃんとしてちゃんとせよ」と言われ育ってきた。
居心地の悪さを感じながら、妹に対しては、幼いながらもお姉ちゃんとして、必死にその役をしていたように覚えている。
ずいぶん経って、私は第二子だと知った。拍子抜けだった。
私にはお姉ちゃんがいて、でもそのお姉ちゃんはお姉ちゃんの役割をしてないのに。
なんで私だけ?
私には、私を抑えなくてものびのび生きる方向もあったのに。
長女の役割をさせられていたんだ、と感じた。
ある時また、母親から言われた。
「お姉ちゃんのように、親より先に死んではならない」
何度も繰り返し言われた。
私は死ぬ自由も奪われた。
死にたいかどうかはわからないけど、選ぶことさえ、自分で決めることさえ、できなくなった。
人間なんて、死ぬ順番なんて年功序列でもないのに。誰だって明日どうなるかなんてわからないのに。
今になっても尚、立ちはだかる言葉。呪いだ。
そして今になっても尚、呪いは解けない。