スクラッチアートの本
けずってスクラッチアート!
小学生のころ、画用紙をクレパスを使っていろんな色で塗りつぶし、その上から全面を黒のクレパスで塗りつぶし、そうして上に絵を描いたなぁ!と思い出しました。
表面の黒が削られて、中からきれいな色が覗いて、どんな色が出てくるかわからないことと、黒から鮮やかな色への変幻がとてもとても好きでした。
わくわくしながら絵を描いたなぁ。
絵を描かなくなって数十年、絵心を思い出せない私でも、削っていくうちに鮮やかな色が出てきてくれるこれは楽しいです。
この本は、削らずにそのままでもイラストが絵本みたいで美しいです。
*
塗り絵が流行りましたね。
色鉛筆をたくさん持っていないし、どんな風に色を塗るか迷いすぎるため、塗り絵より「なぞり絵」がいいなぁと探していたら、実際のなぞり絵は仏像だったりしてちょっと違う…と思っていたのです。
今回買ったこれは「線をなぞる」のではなく、ひたすら削って絵が浮かび上がるのを楽しむ感じです。カリカリ、サカサカ、無心で削っていると手がだるくなってきました笑
ではでは、実際のビフォーアフターを…
これが、
こうなって、
こう!黒い部分はすべて削れるようです。
体調がよくないことも大切に
「体調がよくないことも大切にしてください」
目から鱗の言葉でした。この言葉を聞いた時、肩の力を抜いていいよ、軽くなっていいよ、と言われた気がしました。
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たとえば仕事を休む時。
体調が悪いにもかかわらず、私が我慢すればいいんだ、と考えたりしました。
体調が悪いにもかかわらず、職場に迷惑をかけるから休んではならない、自己管理がなってない、と考えたりしました。
体調が悪いにもかかわらず、上司に怒られるのではないか、と理由を説明するのも怖くて、電話するのが嫌で嫌で仕方なかったこともありました。
職場でしんどくなった時も、無理して仕事を続けて帰りにはヘトヘトだったり、察知されないように必死で隠していることもありました。
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「嘘をつくと自分が一番傷つく」
そんな風に自分に嘘をつくと、知らぬ間に自分をとても傷つけているんですね。いつのまにか自分の身体や心を大切にいたわることを忘れていきました。
身体を撫でたりさすったりさえもせず、暴飲暴食したり、冷えていても気づいていないようなことになっていました。
人に迷惑をかけてはならない、と自分の痛みも見ないふりして、でも身体は正直だし心も正直だから、そんな無理や我慢は続かない。ちょっとの傷が大きくなって、結局人の迷惑になる…悪循環にはまります。
不調も小さいうちに手当てしたり、周りに伝えておけば、自分への傷も、周りへの傷も少なくて済む。
「嘘をつくと自分が一番傷つく」という言葉も、痛みとともに納得した言葉でした。自分に対してバカなことしてきたなぁ、というチクッとした痛みを感じました。
そしてなにより、周りは私が思うよりもっと、私を見てくれているし心配してくれている。だから、正直に自分の状態を言うことは、してもよいこと。少し甘えたり、頼ったりしてもよいということ。変な遠慮は余計であること。
とてもとてもありがたく、身体と心に素直になりたい、と感じたことでした。
お役立ち乳鉢
“ 友人へのちょっとしたお礼 ”とかにあげたい、と思うものがありまして、それが小さい乳鉢です。
昔、東急ハンズで買いました。いつもごまをするのに使っています。すり鉢でするのと比べれば味わいは変わってしまうのでしょうが、この乳鉢、ほかにも使えるので便利です。
うちは小鳥用にも使います。ペレットやボレーを細かくしたいときや、カルシウムサプリメントも小さく砕いたりします。
小さいのに、意外と重いです。ハンズの、理科用品を置いてあるコーナーで見つけ、三角フラスコやビーカーと一緒に買いましたが、なんで理科用品ってあんなに魅力的なんでしょう。形もシンプルで無駄な装飾もなく、置いているだけで清潔感を感じます。
ごまをするのが面倒だ〜と思う方にはオススメです。小さいからあまり場所も取りません。
もうひとつ、“ 友人へのちょっとしたお礼 ”に渡したい、と思うものがありまして、それはキッチン用品の「ムッキー」です。ゴム手袋状で、手のひら側にトゲトゲした突起がついており、ごぼうやじゃがいもなどの泥つき野菜をゴシゴシこすって落とすことができます。皮をわざわざ剥かなくていいごぼうなんかは、ムッキーである程度ゴシゴシすれば、すぐ調理できます。ムッキーを使うと、水が冷たい冬も手がつらくないです。爪に泥が入ることもないです。オススメです!
“ 友人へのちょっとしたお礼 ”に乳鉢とムッキー。心の中にいつもあるのに、毎回違うものになってしまい、いまだあげられたことはありません…(笑)
できていることはきっとある
好きなことを好きなように書いている当ブログですが、ふとお立ち寄りいただいて読んでくださる方がいることは、幸せです。
ありがとうございます。
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たとえば一年前と比べて。
思い返してみると、できることが増えていたんです。ちっちゃなことばかりですが、それまではしたこともなかったことや、意識の外にあったこと、などなど。
日常を生きながら、新しいことをしていったり、「回していく」という感覚ってこういうことなのかなぁと思いました。
もっとスムーズに、もっとチャキチャキと、もっとすばやくなんでもできてこそ、「回していく」ということなのだ、と考えていましたが、そんなことはない。
歩みは遅くとも、ひとつずつでも、できていることはあったんです。
「変えよう!」としなくても、変わっていくもの。変わることに拒否や不安はつきものですが、繰り返しの日常であっても、どうしたって変わっていくものだなぁと感じます。
そして変わっていくなかで、これはこのまま持っていようと選んでいけるようになって、どちらも私、と思える。
選んでも選ばなくても、変えても変えなくても、どちらも私で、どちらでもいい。
たい焼きを久しぶりに食べました(^^)
形を真似るところに、やっぱりいつでもやさしさやかわいらしさ、幼気を感じます。
季節それぞれ・冬の公園
先日、冬の公園で、色褪せたような景色を眺めてきたのですが、じっと見ているとそこここに春の準備をしているのが見て取れるんですよね。
乾いた風、空や樹々の色の浅さ、景色全体がうっすらとして、すうすうと密度がないような…。
でもふと足元を見ると、地面は落ち葉やお休み中の草でふかふかみっしりしている。
水辺の近くは枯れた草に覆われて荒れているように見えるけれど、静かに栄養を蓄えているようにも思える。
早い梅やサザンカが咲いていたし、木の枝の先にはつぼみがついている。
ものすごく豊かだなぁ!
あぁ、人間もこんな風にして生きたらいいんだなぁと思いました。
季節に振り回されて身体がしんどいことも多いけど、季節に逆らわずに、合わせていくようにして暮らすと、無理したり息苦しくなってることに気づきやすくなるのかもなぁ。気づいたら、気持ちを方向転換したり息を大きく吸ったりできるかもなぁ。
気持ちに余裕ができて、自然に息ができるかもしれないなぁ。それは、自分に戻る、という感じがしてとてもいいなぁ。
イレギュラーはつらい・年末のHSP
ブログでお付き合いさせていただいているMさんが、慌ただしい年末年始に関して書いておられたこと。
もともと、普段と違うことがあった後は、その倍以上くらい時間をかけて心身を休めないと、元の状態に戻れない面がある。
Mさんは『ニュートラルに戻す』と題して書いておられました。「普段と違う」時間を過ごすと「その倍以上」の時間をかけて「心身を休めないと、元の状態に戻れない」。
一緒だ〜、理解してくれる方がいる〜、と安堵しました。
年末年始の独特の時間の流れの中で、身体的精神的のいずれも、どうしたって疲れてしまう。
それを「正月疲れ」というのでしょうし、どんな人もこうしたことはあると思うのですが、でも自分自身で、普段の生活に戻るのにひどく時間がかかるなぁと感じてしまって「罪悪感」「無力感」を持ったまま長年来ました。
人と比べて、でも人とそうした疲れの話をしたわけでもなく、自分の中で「こんな疲れが長引いてしまって…」とやりきれない、できてない人間だなぁと思い込んでしまっています。
何度も繰り返すうち、正月疲れ → 正月嫌い、になりました。年末が近づくと、どよーんと気分が重くなる。
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Mさんは元の状態に戻るのに時間がかかるのはもしかしたらHSP気質が関係するのかも、と書かれていたのですが、そうだと思います。
年末に近づくと、周りがザワザワします。テレビでもショッピングセンターなどでも、色とりどりの宣伝、煽るような喧騒のような音楽や言葉、それにつられて人の動きもセカセカ、イライラ。なぜか、早くしないと、と焦る。
職場などでも、「年末」と言っても普通通り「12月」の締めはありますし、長い休みの前に前倒しでしておかなきゃならないことも増える。年始のことも考えて動かないとならない。通常業務に上乗せです。
そして生活の中では、イベント目白押しです。年末のご挨拶、年賀状、大掃除…
こうした人や周りの動きにHSPなら影響されないわけはない。振り回されます。
普段通りにしたくてもできなくなる。それは、周りの動きの影響もあるし、普段の生活に上乗せして用事が重なるから。処理せねばならないことがドッと増えるから。
加えて、急に寒くなる季節。でも日中は暖かかったりして「安定して寒い状態」ではない。まだ身体も慣れていない。職場やお店では暖房でかえって暑い。一年を終えようとしている時期、身体も疲れてます。
そりゃ〜身体的にも精神的にもしんどいですよね!
周りに合わせたくても、たくさんの量を処理したり、いつも以上のスピードを出すことは、「自分にとって普段通りの安定している状態でないと力を発揮しにくいHSP」では、とても難しいことだと思います。
さらに周りのイライラした空気を感じてしまい、それにも影響されるから、周りのことはほっといていいのに「なんとかしよう」とか「私ができてないから」とか考える。とっくにキャパオーバーなのに。
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この時期私はこんな風になるんだ、と捉えて、なるべく乱さずに暮らせれば少しは楽になれるのかもしれません。状況が普段とは違うんですもの、ついていけなくても当然なんです。
でもめんどくさいことに「罪悪感」やら「無力感」やらも自ら背負ってるんです。状況を整理して考えれば、これ、いらないですよね。
なかなか元に戻らなくても無理ないのです!自分で自分を甘やかしましょう。それでよい!
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Mさんのブログです♬ ↓
おいしいおやつ・和菓子編
新年明けましておめでとうございます。本年も好きなように好きなことを書いていこうと思っております。
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さてわたくし、甘いもの、大好きです。
ということで、ただただ好きなお菓子を列挙します! 題して、おいしいおやつ・和菓子編!
まず、あずきあん。あんこがなければ始まりませんね!
こしあんより粒あん。しろあんもいいけれど、あずきの香りがホッとします。でもようかんは粒の入っていないものがいちばん。なめらかで、密度も甘みもどしーんときて、あぁ甘いもの食べてる!を味わえます。
どらやきは、栗や餅はいらなくて、あんこだけでいい。食感が変わるとあんこに集中できないもの。
そうそう、初夏の頃「あゆ」というどらやきの皮に求肥を合わせたお菓子が出回りますが、どうして皮の中に皮を入れるのか。素材が重なってるじゃないか。のどに詰まらないのか。謎であります。
餅菓子もおいしい。豆大福、桜餅、柏餅。おはぎはあずきのときな粉のと。あぁいちご大福があった!これは見た目も可愛らしくてジューシーで贅沢なお菓子ですね。
月餅もいい。ドライフルーツ入りより、くるみなんか入ったぐっと濃い味のもの。
水無月は苦手。葛餅も苦手。透明もしくは半透明の餅っぽいぷるぷるしたのが、なんとなくこんにゃくみたいで苦手なのです(こんにゃくがきらいだから)。だからちょっと葛湯も苦手。あったまりますけど。
冬になると自動販売機に「おしるこ」ドリンクが登場。なかなか侮れない味です。
冬といえば、あんまんのあんは熱くてしっとり。
薄皮饅頭のこしあんもしっとりなめらか。
もなかも大好き。皮の香ばしさが格別です。小ぶりのものがあったらもう至福の時を過ごせます。
あずきだけなら甘納豆。いろんな豆が入っているものもあるけど、やっぱりあずきだけがいい。松露もつまむとおいしい。
もちろん和菓子屋さんで買う上生菓子なんて最高!これはあずきにこだわりません。姿形のみずみずしさ、麗しさあり、幼気あり、そのまま飾っておきたいくらい。
さてこの寒い季節にはぜんざい。関西では粒あんで作ったものをぜんざい、こしあんのものをおしることいいますが、関東では逆だそうですね。スコップとシャベルの違いのように驚きました。(関西では小さい方をスコップ、大きい方をシャベルといいます)
…書いているうちに、甘さで歯が浮くような感覚になってきました。
でも、ただ書くだけでものすごく幸せな気分になりました。今回はあんこ中心になってしまいましたけれど、焼き菓子やおかきそのほか、和菓子にもいろいろありますよね。よーし、幸せな気分を味わうために、次はあんこ以外も書くぞ〜!
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今年もみなさまにとって素晴らしい年となりますように…!
おせちはいいなぁ
地味ながら、おせちを作りました。
数種類だけ毎年作るのですが、自分で作ると好きな味付けにできるし、量も多くてたくさん好きなものを食べられるのでいいですね!
今年は仕事やらの都合上、計画が前倒しになってしまい、そんな短時間でできるかなぁ、あれしてこれして…と不安だったのですが、朝から始めてお昼前には完了し、集中したら逆にこんなに早くできるんだ、と不安が払拭されました。やってみるものですね。
主人が伊達巻とかずのこ作成係をしてくれて助かったー! 私は黒豆、煮しめ、なます、たたきごぼう、栗きんとん係です。田作りや昆布巻、かまぼこは買いました。
別に料理が上手なわけでもなく華やかさにも欠けるし、自己流の味付けなんですけれど、「自分でやったんだぞ感」が沸き起こります。それで満足です。しみじみします。
主人と一緒に食べると、ほんとにしみじみします。
あとはお雑煮を用意すれば、新年を迎える準備万端です。お正月で楽しいのはおせちとお雑煮だけと言っても過言ではない。最重要アイテムです。
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みなさまもどうぞよいお年をお迎えください!
断捨離ではなく
断捨離、ってありますね。
いらないものを捨ててすっきりさせると場所を有効に使える、心もすっきりするから効果的、くらいの意味合いだと思ってました。
ものを捨てればそりゃあすっきりするよな〜でもな〜大掃除たいへんだし面倒だし…となかなか手に付かなかったんです。たくさんある掃除本も、場所をふさぐしいずれいらなくなると思うと読む気もしませんでした。
ものがゴチャゴチャあると、頭もゴチャゴチャしますよーと言われても、そうなのかなぁと思うくらいでした。
しかしある時そうか!と突然腑に落ちました。
これは、「自分の今の好き嫌い」から取捨選択するものだ。好き嫌いを基準にして整理する →
実際に動くことで自分の「今」の「好き・嫌い」がよりはっきりする。頭の中も整理されていってスペースが空く →
結果的に、ゴチャゴチャしてたのが整理されて、場所と頭のスペースが広がるということだったんだ。
…とっくに世に広がっている動きで、みんな実感してるのでしょうが、「ただ効果的」「すっきりする」ということだけと思ってたからよくわからなかった。
「今」の自分の「好き嫌い」、
「今の私」を知るための行動なのか!
頭で考えすぎて、ぐるぐるしたり混乱していることが多い私は、つい断捨離も「必要か不要か」で判断しがちでした。だからやらなきゃ、せねば、という義務感でしていたのでしんどかった…。“ときめき”とか何やねん?と思ってました。
は〜、好き嫌いのことなのかー。そしてそれは、「今の私」が選んでいいんだね。だから、必要なさそうなものでも、好きなら捨てなくてもいいんだ、と思うと、ちょっと肩の力が抜けたのです。
実際に捨てるかどうか、ではなく、私が今好きなのはどれ?と自分と対話する手段なんですね。
そして、好きなものをあらためて見つけて大切にすることは、自分のことを好きだって言ってあげることなんですね。自分を慈しみ愛おしむことなんですよね。
それはほかの誰にもできないし、今の瞬間瞬間の自分を大切にしてあげることが、その先の未来につながるんですね。
今の私の好きなものはなんだろう?
私にも、大切なもの好きなものいっぱいあるよ、って自分に教えてあげなきゃ。
PMS
女性ならつらい症状ですよね、PMSって。
私は生理中のつらさより、前に起こるPMSの症状が重いです。あんまり苦しいので、吐き出して、症状をあとで客観的に読み返すために書きます。
同じ女性同士でもあまりわかってもらえない。その月によっても出方が違うし、人それぞれつらさが違うから、話したところで「つらい・しんどい報告」をするだけになって、相互理解もできないまま孤独感が増す。
いつもできていることができない。注意力や集中力が散漫になって、どこかにぶつかったり、包丁で指を切ったりする。青あざができていても気づかない。
身体がだるく、重い。眠気が増す。頭がぼんやりする。
身体全体の冷え。身体全体の痛み。動きが鈍い。
異常な食欲。食べるためだけに食べる感じ。満腹感があっても食べてしまう。おかしいな、とわかりながら食べてしまう。
眠いのに眠れない。寝付けない、途中で目が覚める、一旦起きたら眠れない。不眠症状をすべて網羅している。
上半身に気血が上り、頭痛、鼻炎アレルギー反応、顔のかゆみ、目の痛み、肩や首のこり、といった上側ばかりの症状。
息もうまく吸えない。深呼吸ができない。
いつものように動けないから、じゃあのんびりしよう、とはならない。
なんでできないの、という焦り。できてない、という罪悪感。思考力・判断力も鈍っているからいくら考えたっていいアイデアなんて出てこないのに、ひたすらダメだダメだと責める自分。
実際の視野も狭くなる。思考の視野、視覚の視野いずれも。見ているようで見えていない。目の前1メートルほどしか見えていない。後ろなんか気にしてられない。転びそうだし、事故に遭いそう。思考も短絡的になって、ニュアンスなんかをすっ飛ばす。
身体全体の感覚は鈍くなるけれど、身体表面の「感じ取る」感覚は過敏になって、髪の毛が顔に当たったり、肩に触られただけでうっとなったりイライラしたり。理由なく涙が出たり、ふさぎこんだり。
そんな時に人からいろんな意見を聞いたって受け付けられない。うるさい、としか思えない。それでまた聞けない自分にうんざりする。ひどい人間だと責める。
95%はただもうしんどくって、ホッとしたり休んだりするのはたった5%。5%は一瞬だ。吹けば飛ぶくらいの一瞬だ。
思考・感情・身体、ぜんぶが悪循環のただ中にいる状態なのが、PMS。ひと月のうち、ひどい時は一週間くらいこんな状態だ。呪いのようだ。
「固い・硬い・堅い」文章
本を持っておく、ということは贅沢なことだなぁと思います。それは単行本だけでなく、文庫本やムック本や新聞であっても、置くスペースや購入するお金がなければできないのですから。
電子書籍にはいまだなじめず抵抗があります。本はその手触りや重み、フォントや文字間隔や余白にまで気を遣われていることや、サラサラした紙の感触、カサカサいう音、パタンと閉じる音、休みながら読んで時々目次や表紙を眺めたりするのが「精神的に落ち着く薬」みたいに感じるので、どうしても「物体」としての本が好みなのです。
欲しい本は数多あれど、あ〜買えないなぁ…とよっぽどでないと諦めます。けれどそんな私が自分に単行本を買うのを許している作家が「高村 薫」さんです。(と言いつつ最近は文庫になるまで待てなくて「宮部みゆき」さんの単行本も買ってしまったりしています)
今年の夏頃から、新たに新聞連載が始まったそうで、いざ単行本になるのを今から心待ちにしています。あらすじを読むと、現代社会小説であり、根強い人気の主人公が出てくるものということです。もはやシリーズとなったその主人公も作品ごとに歳を経て、いまや50代だそうで、しかしこんな風に登場人物も私と同じように歳を取る、その姿が読めるということは哀愁も感じつつ、うれしいことです。
高村さんの文章は硬質で読みづらいと聞きます。そして彼女を知ってる人が周りにいない。知ってるか聞いてみてもたいがい高村薫?だれ?という反応です。
「固い・硬い・堅い」と「かたい」のどの漢字を使っても当てはまるような文章は、読み始めた頃はとっつきづらかったですが、今はもう懐かしさと安心感しかありません。新作まで間が空くと、早く高村さんの文章・言葉の洪水に呑まれたい、という気持ちになります。(そして新作まではどうしても間が空きます)
しばらく読んでなくて、今までに出た本を再度手に取るとやっぱり読みはじめは「かたい」なぁという印象。けれど、そうそう、これぞ高村節なんだなぁと心踊ります。
読むのにも力が要る小説が多いので、まとまった時間と心の余裕がないと手に取れない作家ですが、読むたびごとに深い満足感と、文章や言葉の力強さを感じられる作家です。
…でも、単行本で上下2冊というのは毎回結構つらいです(泣)
ソースに陳皮!
「陳皮」作ってます!…という記事を覚えておいででしょうか(^^)あれからまだちょこちょこ作り続けています。
どんな風に使えるかな、といくつか試してみました。
◯ソースに加える!
鶏モモ肉をグリルしたんです。(おしゃれ☆)それにかけるソースを、市販のステーキソースに、粒マスタードと陳皮を入れてちょっと煮立てたものにしました。これがおいしかった!
陳皮は多めがいい、と思います。なんといっても香りがよいです。市販の濃い味のソースが苦手なのですが、粒マスタードの酸味と香りに混じってさわやかになりました。
◯ハーブティに!
ハーブティといってもいろいろありますが、ミントティに入れてみたところ、量が少なかったのかよくわからん味になりました。もともとの味が濃いめのハーブティに陳皮多めだと合うと思いますよ〜。紅茶もいいかもしれませんね。
◯レモネードに!
レモネードといってる時点で同じ柑橘類やん、とつっこまれそうですが、まぁ合いますよね。これも、陳皮多めの方がやっぱり香りがよくておすすめです。
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私は細かく切って使っているので、どうしても「ガラ」が出ます。ざらっとした食感なので飲みものに入れる場合はミルサーなどで粉砕した方がいいかもしれないな、と思いました。
最近は簡単ケーキを作ってないので、今度はパウンドケーキにレーズンなどと一緒に入れてみるといいかも、と思っています(^^)
*
そして肝心の身体への効果は…?
いやはやまったくわかりません!
年賀状やめました
暮れも押し迫ってきました。毎年、その辺の道端で年賀状を売ってるのを見る頃ですね。
私は去年から、年賀状を送るのをやめました。
なぜか?
もともと年賀状のやりとり自体がだんだんと少なくなってきていたし、毎年毎年CMなどで目に入る「年賀状を書こうキャンペーン」みたいなものにわずらわしさを感じたから。
見たくないし聞きたくないのに溢れ出てこちらに迫る情報。
それに知らず知らず振り回されてしまうことに反旗を翻した、というとおおげさですが、とにかくもう乗せられない!と決めました。
そういえば毎年毎年「大掃除しようキャンペーン」みたいに掃除情報がわんさか出てくることもわずらわしいです。掃除くらい自分のペースでさせてくれよ…
年賀状=年末年始の準備=慌ただしい、気ぜわしい、ペースを乱される=面倒だ、考えたくない
私にとってはこんな図式になってしまいました。
こうしたイベントごとは普段の生活に加えて、考えたりなんらかの準備をしないといけないので、私には余分にエネルギーや労力が要ります。
12月に入るととたんに世の中も忙しさを強調し始めます。新しい年を迎えるためにやり残したことないのか?することいっぱいあるんだよ!と追いかけられている気分になります。
クリスマスはなにか用意するのか、おせちはなにを作ろうか、その食材もプラスして買いに行かなくちゃ、いくらなんでもちょっとは掃除しとかないと、あたふた…落ち着いてすればいいんでしょうけど、正直もうそれについて考えることもしんどい。
いえね、楽しめる方はされたらいいと思うんです。年賀状だけのやり取りであっても、ひとりひとりに向けて来し方行く末を想ったりすることっていいなぁと思います。
でも自分にも時間にも余裕がないのにそっちに気持ちは向かない。だけどやらなきゃ、という義務感で何十年も来て、いい加減嫌気がさしました。年賀状が「虚礼」だと感じるのもこの義務感からくるのではないかな。しなくちゃならない、して当然、という枷は外します。
…といって送らないことが無礼だとは私は思っていません。年賀状は送りませんが、送ってくださった方やどうしてるか知りたいと思う方にゆっくり時間を取って「寒中見舞い」を書きます。好きな時に書きたいから書くので、ご返信などがなくてもなんら気にならない。
今年は年賀状来なかったから書くのやめようか、といった取捨選択をするような気分にはならないです。自分側から相手との関係性を考えられることで、気持ちの余裕が持てました。