ひとは思いこみでできている

思うこと 気づいたこと なんでも書く

凝り固まってたのは私の心

こんにちは。今日は、ようやく気づいたことについてです。

 

このブログでHSPについてよく書くようになりました。

どうしてもこの性質を好きになれなくて。解明すれば理解できるようになり、好きにはなれなくても仕方ないと思えるようになれるかと思って、いろいろと考えを巡らせては吐き出し、思い込んでは吐き出ししてきました。

それはそれとして。

このHSPについて考えたり情報を集めるため動かなければ、今の仲間には出会ってなかったんだ、と、ようやく、ようやく気づいたのです。

こんな私なのに、そのまんま受け入れてくれてた仲間がすぐそばにいた。なんともはや。

ブログでのつながりだけでお会いしたことのない方もいます。HSP茶会で出会い、お話するようになった方もいます。違う出会いをして、HSPについて話すことができた方もいます。

どんな出会い方だったとしても、仲間です。私にとっては。

普段の人間関係では、そうそう気軽に心の話はできません。そんな話をするには、関係性を作っていかなくてはなりません。

でも、この仲間たちには、思うまま心のことを話せます。しばらく間が空いても、すっと戻れる。

ずっと、心の話がしたかった。若い頃から思ってた。でもだいたいの人は、そんな重たいような、暗いような、考えなくちゃいけないような、自分を晒すような、そういう話はいやがるんですね。

いやがる顔は見たくないし、そんな顔にさせたくもないから、すぐにその話題は引っ込めて、当たり障りのない“ 楽しい ”話をしていたな。

いや、もしかしたらいやがってなかったかもしれない。私のアプローチの仕方がまずかっただけかもしれない。

今となってはわからないけど、でも諦めずに、心の話をできる人たちを求めてきてよかったんだな。

そのきっかけになったのは「HSP」だったんだ、とようやくわかった。

今まで見えていた面が、くるっとひっくり返った、そんな感じ。

きらいなHSP性質が、私を受け止めてくれる人たちを連れてきてくれた。もう一から十まで事細かに説明しなくても、底の部分で通じてる、と思える関係をもたらしてくれた。

なんと受け止めていいかわからず、ちょっとまだぽかんとしています。

穂村 弘と岸本佐知子<意識しないズレを意識させる作家>

こんにちは。今日は好きな作家の話です。

 

穂村 弘 氏と、岸本 佐知子 氏。

ふたりは、歌人と、翻訳家・小説家です。このふたりの「エッセイ」を読んだことはありますか?

 

ほむほむ(穂村氏はこう呼ばれているらしい)の本業である、歌集や短歌評論も一応読んだことがありまして、言葉や歌に対する本質的な論理展開にはさすがと舌を巻きますが、

エッセイを読んだ時の脱力と爆笑と、かすかな苛立ちとぞっとする感じ、奇妙な感じは、他の作家にはない。

岸本佐知子氏の翻訳は読んだことがないので、岸本氏の文章や文体を知る上で片手落ちかもしれないのですが、

エッセイの面白さはもう笑って笑って疲れるくらい笑った後に、うっすら怖さと奇妙な感じが残る。さっきまで笑ってたのに、しーんとした心境になる。これも他の作家にはない。

扱う題材は身近なものや知っているものでも、作家の目で文章になるとなんであんなに輝くものになるんだろう。

今までなんとも感じなかったことが、突然クローズアップされて細部まで見せられたような、凹凸とかザラッと感まで感じさせられる。このふたりには、表面だけでなく、裏面のつぶつぶまで見せられて、うわっ見ない方がよかった、と思わされる感覚。

***

話は変わるのですが、『借りぐらしのアリエッティ』を観て、ぞっとしたんです。

中盤で、アリエッティらの種族とは違う小人たちが出てきますよね。あの微妙に違うサイズ感にぞわっと脳内が粟立つような気がしました。

それは、大人と子どもの大きさの違い、とは根本的に違う。まるで遠近感をたがえたような感じ。

あの人たちは違う種族だけど互いにしゃべっている。でもそれは言葉だけであって、英語のような共通の言葉を使ったり、現代にも自動翻訳機があるし「話す」ことについては意思疎通が可能なんだろうと理解はできる。種族間の行き違いや無用な争いをさけるために、共通の言葉を使って相互理解をしようと歩み寄れる。

でもあの人たちは、生活で使うものの貸し借りはできない。だって、サイズが違うから。服も、靴も、ペンやコップや皿も、それぞれの種族の心地よいサイズがあるはずで、それはおおもとの種類が違うから歩み寄れない。

例えば、目玉の大きさ。もし移植をしようとしても、サイズが違うので入らない、または小さすぎる、となるということですよね。心臓、胃、といった内臓も、同じものなんだけどサイズが違うということ。

 

日本人と欧米人では子どもと大人くらい体格差があります。けれどそれは体格差があるだけで、同じコップを使っても使い心地がまったく違うということにはならないけど、あの小人たちの違いはそれとはぜんぜん違うんじゃないか。

だから、微妙に違うサイズの人たちがたくさんずらっと並んだら、それだけその人たちの背後にはその人たちそれぞれの世界や歴史が広がっていて、それらは重なることがない。そう思うと、膨大な質と量のパラレルワールドのようなものに圧倒されそうになる。

表面上は似てるのに、属するところはまったく違う。

見た目が相容れないくらい違っていたら何も思わなかったと思う。同じような外見をしてるから余計に「違い」に驚く。この怖さ、「ぞっとした」感じをうまく表現できなくてもどかしいです。

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…えらく話が変わりましたが、こういった、ふだん意識しない「ズレ」をソッと差し出してくれるのが、穂村 弘氏と岸本佐知子氏なんです。だからはじめは面白くって笑うんですが、よくよく読んでいると奇妙な「しーん」とした状態や感覚に引きずり込まれます。だんだん怖くなって、その怖さをごまかすためにまた笑う。ひきつり笑いのようになってきます。

奇妙な感じを味わいたかったら、迷わずおすすめします。ふたりのエッセイ。

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夜の神戸の海際で

こんにちは。先日思い立って夕方から神戸に向かいました。

夏休みなので夜になっても人がいっぱい。ハーバーランドの突堤にもくつろぐ人がいっぱいでした。

ウッドデッキ状になっている岸壁沿いの遊歩道に、こんなライトがありましたよ。

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千鳥の重ね模様がかわいいですね。

柵についている影絵のようなライトで、足の長〜い水鳥のできあがり。

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足なが〜〜 

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夜の海は真っ黒でたぷんたぷんとして、苦手な潮の匂いがうっすらとしました。

それでもここに来ると安心する。

いつも思う。

今までこの神戸の海にはずいぶんと助けてもらったなぁ。心が風邪をひいたような時に一人でよく来た。

冬が多くて、灰色の空の下、それでも深い青の海の揺れを眺め、遠くのマンション群や倉庫やキリンのクレーンを眺め、空を眺め。風が強くて。でも寒いとか暑いとか、そういうのも感じなくて。ただからっぽになるのが心安らぐ時間だった。

じっと見た後、歩いて駅まで戻りまた電車に乗って帰るだけなんですが、そして、何も変わったとはいえない心持ちと状態の中に帰るんですが、この海にいる間だけは、心細くても怖くても静かに安らいでいて、息ができたような気がします。

淋しいなぁ。でもここに来ることが私のだいじなだいじな時間だったなぁ。

今の私がそのころの私に寄り添ってあげられたらいいのに。でも私のことだから、少し離れたところから見るしかできないんだろうな。

 

今日は旦那さんと来たよ。今のところ、淋しくて来ることはなさそうだよ。また来た時はどうぞよろしくね。だいじな場所。

インプット・アウトプット 2

こんにちは。先日の続きです。

私にとってのアウトプットは、情報や気づき、考えたことを出す、ということでした。

今回はアウトプットの別の側面「感情を出す」ということについて。

 

…といいつつ、もともと私は「感情を感じる」ということがよくわかりません。苦手と言ったらいいのか、なんだか非常にぎこちない。感じにくいものだから、それを出すことも苦手なたちです。
内から湧いてきたものが一体感情なのか? 思いなのか? 考えなのか? と悩んでいる間に、湧いてきた瞬間の鮮やかさは消え去り、しばらくたってあれは感情だったのかなぁと考える、そんな感覚です。

複数の人と話している時など、同じように迷っている間に次の話題に移って置いてかれてることもよくある。

 

うんと小さな頃はこうじゃなかったんだろう、多分。でも小学生以降はなんかボーッとした、あまり感情をおもてに出す子どもではなかった。暗い子、何考えてるかわからない子、と母親に言われたことが何度もある。(ひどいな)

だからといって、内面も何も感じてなかったわけではないと思う。母親にそんなこと言われて傷ついたし、でも「感情的」な状態にはどうしたってなれないし、だから何も言われたくなくて演技したり、余計に気持ちを出すまい、となっていったような気もする。

高校生になってから、ようやくものごころついて、こんな「暗い子」はいやだなと、努めて、楽しい・面白いを外に出すようにしてきた。明るい声でアハハと笑ったり、人と話す時は多くあいづちを打ったり共感の言葉をかけたり。

人と話す時に手のひらを広げて机に置く、といったことも意識的にしていた。文字通り、手の内を見せる、というようなオープンな気持ちでいた。はじめはドキドキで、ドーンと当たって砕けろという気持ちで臨んでいた。

文字も、努めて大きくのびのびと書くようにしたり、歩く時も大股ではつらつと歩くようにしていた。自分の内側から広げていこうとする感覚だった。
努めて一生懸命やっていたら、できるようになった。そうして、自分を作ってきた。

それが自我の表出だったのか、母の呪いだったのかはわからない。私は私の考えでそう行動したのかな。暗い子だって思われたくなかったのかな。わからない。でも変わったことは母親にもわかったらしく、とたんに「明るくなってよかったわー」とか言ったな。こんな「演技的な私」の中身を理解することなく、表面上の私によかったとか言ってる。なんだ、認めてほしいと願っていた母親ってこんなもんだったのか。たいして嬉しくないな。もう、自分の感性を押し付けてくる母の理想とするような私にはなりたくないな。けれども努めたかいあって、実社会では人や場に合わせて明るく振る舞うことができる私ができていった。

 

私が本当の意味で感情を出せたのは、実家から出た時だ。正確には今の旦那さんと再婚して以降だ。だから8年くらい。

それまで自分はネクラだと思っていた。心底暗い人間なんだと思ってた。

ぜんぜん違いました。今の旦那さんと再婚して、はじめて自分の根っこの明るさと、感情がいろいろとあることを知りました。そして、演技しなくていいことを知りました。楽になったし、自然に笑えたし、飾らなくなった。すぐに自己否定するクセはなくならなかったけど、ずいぶんと手枷足枷が外れた。

そして「暗い」私を、私自身は好きだったことに気づいた。「暗い」とひとことで言っていますが、「遠慮深い」「思慮深い」「軽はずみでない」「おとなしい」「静か」「穏やか」といった、私がなりたい、と望むような素晴らしいところがたくさんあるのです。

 

「感情を出す」ことは私には難しい。今までの来し方を振り返るに、どうしても子どものころのことが出てきて、よって母のことも出てきたが、今はそこまで恨みに思っていません。好きではないが、母なりの愛情表現だったのかもしれない、と判断はできます。(いやだけど) 

母がきっかけではあるけれど、でも一生懸命に努めて、自分を作ってきた「自負」はあるのです。

初めは母や人の目を気にしてやっていたけど、途中から、自分を広げることが自分の充実になることに気づいて、不器用に試行錯誤してきたその「自負」は、今の私の「自信」と「強さ」になっている。ちっぽけなものだけど、私だけのものだ。

 

しかし「感情を出す」話から母のことになって、いまだひっかかっていることが大いにあるんだなと気づきました。母もしくは私が死ぬまでになにかの答えが出るのかどうかはさておいて、考える時期が来ているのかそれともお盆という微妙な時期だからそんなことを思ったのか。

 

「感情を出す」ことは、まだよくわかっていない。出せたらいいし、出せなくてもいいや。それが私なんだから、それでいいんだ。

「個性」のあり方の違い

こんばんは。

 

今回の表題、「個性」について、めっちゃうなずいた記事を書いておられるブログを発見したのでご紹介します!

ほかの記事もとっても面白くてずんずん読んでしまいますよ〜。

『くらしの旅あるき』ももせいづみさん(コラムニストさんです)のブログです。

http://izoomi-momo.jugem.jp/?eid=1243714&target=comment

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私が今も違和感を感じていること、解きほぐすようにして書いてくださっています。

言いたかったけど言葉が出てこなかった、モヤモヤが晴れるような気持ちになりました。

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ほんとにもう、「普通」っての、やめませんか。それを人に強要するの、暴力ですよ。「普通」の権威を嵩にきてるつもりで、そんな一瞬で変わるようなもので自分を縛るの、楽しいですか。自分から目をそらして、誰になりたいんですか。と強く思う。

自分に言い聞かせます。

理解に苦しむのはざっくりしすぎだからだ

こんにちは。今日はHSPについて気づいたことです。

夫が言いました。「HSPという分類はざっくりしすぎてる」。ぴかーん💡

 

そう! ひとくくりにできないのに、ばくっと「HSP」でまとめちゃうからわかんないんだ!

 

どういうことかと言いますと、HSPの項目の中には、分野ごとにたくさんの項目があるのだと思うのです。

項目 ー 項目(少し細かく)ー項目 (もっと細かく、かつ多く)……

例として、私が気になる「音」に注目すれば、それは「大きさ」なのか「音波」なのか「振動」なのか。「人の声」なのか「車の音などの機械音」なのか。音でもいろいろありますよね。

「音」だけでなく、ひとつひとつのチェック項目を、もっと細かく、そして感じる度合いの深さや頻度や種類など、それぞれをクローズアップして見ていかないと、本当にその人がHSPなのかはわからないと思った。

今の分類では大きすぎて乱暴

この、大項目だけで本やらサイトに載ってるから、「あ〜当てはまる〜」人口が多いんだと思うのです。どこに、どのくらいで当てはまったのかを理解しないと、対処法もわからないし、同じHSP同士でもわかりあえない。

例えば、音に反応する私と、人の気持ちに敏感なあなたとでは、同じHSPでも違いすぎませんか?

項目も違えば、強弱、深度、濃淡、感じる頻度、全部違う。

「HSPあるある」を聞いてもイマイチわからなかったのはこういうことか。当てはまらない部分を言われても理解できないのは当然ですよね。

 

HSPって、外界(人やモノ)から受け取る受容体が細かく鋭敏で、いつもアンテナが立っていて、人の声の調子や含まれる「気(怒気とか)」、空気やその場の雰囲気など、目に見えず言葉にしづらいものを大量に全身に浴びているんだと思うんですよね。

ただそれは、受け取る受容体が、どの分野で発達してるか、の違いであって、項目が違うだけでみんなHSPとも言えるし、HSPとも言えないんじゃないか

分野による受容体の違いとは、つるんとしてるか、小さな突起がたくさんあるか、というような違い。

つるんとしてると、そこに当たったものは弾かれたり滑って落ちたりします。水だってさらっと流れ去る。内部には入りにくい。

小さく細かい突起がたくさんあると、いちいちその部分に引っかかるし、スムーズに流れてくれないし、留まる。じわじわ内部にも浸透してくる感じ。

これがその人それぞれで、感じやすい分野・感じにくい分野、そしてさらには、感じ取りやすい分野・苦手意識のある分野、などにも分かれ、ここにも濃淡があるのではないか

 

そして、内部(心と身体)に入ったモノが、体内で影響したり、心での捉え方を変化させたりする。

お腹が弱い → <身体>元気な時なら大丈夫でも、不調の時に冷たい物を食べる → 過度に反応してもっと痛くなる → <心>やっぱりダメだ…みたいに捉えてしまう → 私はお腹が弱いから〇〇できない、のように心がセーブする …

私は心が傷つきやすい → 人に何か言われた → <身体>元気な時なら気にしないけど、不調な時や気になっている時は過敏に捉えてしまった → <身体>頭が痛くなったり、胃が痛くなったり、言った人をみて緊張する、ビクビクする、などの反応 → <心>恐い、拒否反応、「いつも」こうだといった認知の歪み → 私は傷つきやすい、などなど……

簡単に乱暴に(笑)書きましたが、同じようなことが起こったら同じ反応をする、と繰り返しが積み重なって、自分の身体や心が覚えてしまったのではないか。

***

私はHSP勉強会に出たことはありません。ですので上記のようなことは自明の理かもしれません。ただ、「HSPだけ」にこだわっていた時の自分の心の状態がまったくよくなかったので、なんとか突破したかった。

それで、どうせ逃れられないのであれば「HSP」を突き詰めてやる、と決意し、実際に無我夢中で「自分なりのHSP」をつかみました。するとHSPから解放された、と思えるくらい楽になりました。

枠組みをとっぱらった感覚です。そして自分のHSPを取り込みました。

以前の「HSPだから」と固まって若干排他的になっていた頃の気持ちも覚えています。不健康だ、と今なら感じますし、わかります。ひとつのことにこだわりすぎるのは、いい面も悪い面もありますが私には悪い面が出てきてしまった。

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人それぞれ過敏に反応するポイントを持っている。

深い浅い、濃淡、広い狭い、痛みや快感、感じる頻度、そういうその人が感じている細かなことが織り交ざっている。

心や身体が反応したり感じ取ったりする時の「個性」があるだけ。

自分の物差しと、人の物差しは違うもの。感じるポイントも違うもの。同じ訳はない。

それを「HSPかそうでないか」で括ろうとするから排他的にもなるし、特別意識も生まれる。HSPだから傷つきやすい、守って、ってなるのっておかしい。非HSPはどうせ理解しないから、なんて意識でいるのもおかしい。HSPをただの自分の慰みにしたいだけならそれでもいいですが、私はそんなのはいやだ。

「HSP」分類に対して感じていた違和感。「HSP・非HSP」といった二元化への違和感。

みんな、HSPであり、HSPでない。

現時点ではこんな結論に達しました。(考えを進めたらまた書きます)

 

からだだいじ

こんにちは。

先日から鍼灸整骨院に通い始めました。腕が半年ほど前から痺れておりまして、放っておいたけど治るわけないとやっと気づいたから…。(病院嫌いなもので…)

 

施術と併せて、膝から下の両脚を「空気で圧迫する」ものと、「高温で温める」ものの両方をしてくれるのですが、これがすごい。私の中で画期的な出来事です。どうすごいかというと…。 

まず膝から下に包むように器具をつけて脚を「空気で圧迫」すると、脚の筋力がなくて心臓のポンプに頼りきり、うまく血液を流したり上へ押し上げられなかった手助けをしてくれました。全身に血が巡る。10分ほどですが、楽になったよ〜って身体が喜んでくれたのがわかった。気分が上がって、前向きな気持ちに変わった。自然な笑顔が出た。

「脚の温め」も温浴器の中の空気を60度くらいに設定してもらって10分ほど。熱いのに、暑くない。むしろ脚が温まると全身が楽になります。

 

治療も、初めは鍼(と電気鍼)を中心に、と思ってましたが、2度目の施術で身体が「怖い!」と緊張してしまった。そうそう私は緊張するタイプだった。リラックスって何?って思うたちだったな、と思い出し、今回からは指圧と「刺さない鍼(置き鍼)」に代えてもらった。治療の期間はかかるだろうけれど、私のペースはゆるやかめなんだろうなって思っている。

 

私も世の女性たちと同じく、三十過ぎてから体温は35度台、上半身(特に頭)は熱く感じるけれど下半身は冷えている、運動不足、貧血気味で血不足、胃も弱っていて栄養を取り込めない、だから体力もつかず免疫力も弱い…。書いてて悲しくなってきた(笑)そんな感じです。 

今まで身体の声を聞いてなかったな。聞こえてても、外国人が話してるみたいで、さっぱり理解できなかったなぁ。今だってわかってない、聞いてないことはいっぱいですが、ようやく身体を優先していこうと決めました。

というのも、心の不調 … 焦り、不安感、イライラ、モヤモヤとした思い、落ち込み、これらぜーんぶ、身体の不調からきてるってわかったから! 

心ばかりにフォーカスしてたら悩みはひどくなる。なんでなんで?ダメだダメだ、って言ったって悩みはなくならないし、身体の元気を取り戻してから悩むべし。ってことにようやく気づいたから。

 

漢方の勉強してよかった。

「漢方」(東洋医学)は、日本から見た「蘭方」(西洋医学)の対義語みたいなもので、かつ、中医学(中国の医学)ではなく日本の気候や農作物に合わせて発展してきた「日本の」ものです。

料理だって、中華料理のように油っぽいものが続いたら、あっさりしたものを食べ続けてきた日本人は胃が負ける。日本人の体質に合わせて発展してきたものなら、大元は中国とはいえ、理解しやすい。中国のもの、のままだったら理解が難しかったかもしれない。

 

そして、知ることは楽しいことですね。なんにも知らなかった頃から見れば、今少しだけでも知識が蓄えられて、生活に活かすことができてる。私には大きな一歩。充分すごいことだ。

がんばろう。自分の中の種まき、やってみよう。

いつか私らしい花が咲きますように。

インプット・アウトプット 1

こんにちは。

先日お友だちと話していて気づいたこと。

「アウトプット」の捉え方の違い。

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その前にまず「インプット」「アウトプット」ってビジネス用語なんですね。解説しているサイトがたくさんありました。用語説明はそのサイトにお任せするとして…。

 

私の「インプット」は、知りたい、わかりたいことや、面白そう、みんなに話したら楽しそう、と思うこと、興味の沸いたことを自分のうちに入れる、ということ。

(だから、仕事とか役所の何やかんやとか、必要に迫られて得たことは、興味がないからすぐに忘れます。)

 

「アウトプット」は、そんな豆知識や、得たことなんかを話すことでへぇ〜と思ってもらったり、話のネタにしてもらったり、笑って楽しくおしゃべりすること。もちろんブログを書くこともそう。

自分の考えを出すことで、整理したり新しく気づくってところもおおいにあります。

そして出したことがラリーのようになることも楽しいし、ポンポンとリズミカルに感じることでうきうきする。

相手の視点から応えてもらえると違いを見つけられてそれも楽しい。ほうほうそんな風に考えるのか、と知ることは、ものすごく刺激になる。じゃあこれはどう?   なんて、話がどんどん広がっていくことは、ものすごく面白い

とっちらかって結論がないように見えても、結論を出すことが目的ではない。

「出す」とその出した分のスペースが自分の中にできる。そして新たに何かを「入れる」ことができる。

新たに「入れる」ためにもアウトプットは私には必要です。自分が知識や見聞を得て(材料)、いろんなものの見方ができるようになったら、想像することの幅も広がるし、自分なりのアレンジもできるようになる。知識を知恵に転換できたら、自分自身の成長にもつながる。…小難しいこと言ってますが、要は面白いから! そしてその材料をもとに自分の中で消化したり寝かせたり発酵させたりして変化させる。そしてまたそれを外に表現する。

インプットとアウトプットの循環が面白い

世の中は知らないことでいっぱいだ。

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そこが人それぞれ。

私のアウトプットは、情報や、自分が見たり聞いたり思ったり感じたことを話す、ということだけれど、「感情を出す」とイコールではない。

でも友だちは、感情を思うままに表現することがアウトプット、と捉えていたように感じた。(違ったかな?) 

そうなのかぁ! 

これだからやっぱり人の話を聞くことはとても面白くて勉強になる。自分だけの狭い世界では思いもしないことを知ることは嬉しいことです。

人様の話を聞いたり読んだりすることは、考えるヒントをもらってるということですね。

 

次は「感情を出す」ことについて書きます。  

HSP関連本が増えてきた

こんにちは。今日は本の話です。

街の本屋さんに行った時、以前より「HSP」に関する本が増えたな、という印象を持ちました。

数ヶ月前は1〜2冊あるかな、くらいでしたが、今回は平台に5〜6冊ほどありました。ただし、著者はほぼ同じでしたが…。

北海道のHSP専門の臨床医をされている長沼 睦雄氏。そして、心理カウンセラーの大嶋 信頼氏。

今回見つけたものとは別で、長沼氏の本は持っていますが、温かい目線でわかりやすく書かれてあります。入門編としてよいと思う本です。

大嶋氏の本は立ち読みしたことがあります。(立ち読みですみません。笑)

独特の文章で情報量も多く、そしてなにより視点が面白く、身を入れて読まないと理解できない、と思ったことを覚えています。

ほかに、「HSC」についての本と、“ 漫画でわかる ”といったものも長沼氏著作で出ていましたので、いろんな立場の方が手に取れるよう、バラエティ豊かになればいいな、という思いです。

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「一般社会への認知」という意味では、出版物でもなんでも増えることは当事者としては嬉しいことですね。それが専門家からの発信であればなおさらです。

ネットの情報は玉石混交で、よい記事はあるのにどんどん埋もれていってしまい掘り出すことも手間がかかる。ただ今ではネットがないと個人の発信は読めない。

うーん、外からの情報を求めたり、集めたりすることには限界があるのかな? たくさん集めたからってHSPの特性項目が変わるわけではないですものね。情報収集が目的なわけでもないし。

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なんとかしたいから。

対処する方法を知りたいから。

対処するだけではなく、できることなら根本についてなんらかの気づきを得たい(それは実践方法でも、観念でもなんでもいいです)。

とにかくこの、目に見えず、同じHSP同士でも共感が難しいことも多い、この感覚について知りたい。「過度に敏感」というモノをあらゆる角度から見てみたい。

知って、そして自分で消化し、発酵させ、身の中に溶け込ませるもしくは吐き出す。

そうして自分の中での変化、またはまったく変わらないところ、それを知りたい。

結局捉えるのは私自身ですが、本からはそんな気づきを得るヒントがほしいのです。

以前よりはこうした強い欲求は薄れてきましたが、今でも知ることができるんなら知りたいです。

なぜなら、少しでも楽になるための材料がほしいから。少しでも生きやすくなりたいから。

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そんなこんなを思い巡らせていました。答えもやり方も見つけたわけではないけれど。

行きつ戻りつしながら進んでいくものだなぁ、と思います。毎日が挑戦だし、闘いだなぁと思います。

輝く日々へ向かって

こんにちは。

今日は、大切な友だちの出発の日。輝く日々へ向かってスタートを切る日。

出会ってからそれほど月日は経っていないけれど、たくさんのことに気づかせてくれる。大きなちからを感じさせてくれる。

 

心の中にきれいな水をなみなみとたたえた泉を持っている人です。 

自身でも気づかない大きな底力で、これからも伸びやかに生長してゆかれると思う。

臆せずに、思い切りパワーを振りまいていってください。弱音を吐きたい時も我慢せずに思い切り。

それを見るのが周りの人や私の喜びになる。あなたのそばに味方はいるからね。

 

そんな友だちに、エレカシの『俺たちの明日』『桜の花、舞い上がる道を』『風と共に』を贈りたい。心の中を表してくれている曲はほかにもたくさんあるけれど、まっすぐな歌詞が清々しくて大好きです。届け、心よ!

さあ  がんばろうぜ!

負けるなよ  そうさ

オマエの輝きはいつだってオレの宝物

でっかく生きようぜ!

オマエは今日もどこかで不器用にこの日々と

きっと戦ってることだろう

 …「俺たちの明日」

 

明日輝くために息も切らさず走り抜けた

過去を  未来を  自分を

遠回りしてた昨日を越えて

桜の花、舞い上がる道を

 …「桜の花、舞い上がる道を」

 

行き先は自由  飛び立て心よ

風と共に

さよなら昨日の私  思い出は懐かしいけど

今の私にこそ相応しい  輝きを  抱きしめたいのさ

 …「風と共に」

 一度きりの人生、輝きを求めてドーンと行こう!   楽しくがんばろうね。

えらぶ言葉

こんにちは。今日は言葉について気づいたことです。

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お休みの日の朝、眠っている主人を見た後、朝の用事をして1時間後くらいにまた主人を見ました。うん? ずっと同じ姿勢で眠っている。

!?エッ、ずっと同じ姿勢って、まさか死んでるんじゃないの?!

ワナワナしながら主人の手に触れる。

あっあたたかい。びっくりした。よかった。死んだかと思った。怖かった。ホッとした。

…次々といろんな感情があたまに出てきました。(ちょっとアホかと思いました? よく慌てています。)

 

手に触って主人を起こしてしまったんですが、私はその時「あ〜、びっくりした」と口に出したんですね。

主人はそれで起き抜けに「びっくりした姿を想像した」そうです。

!!なぬ!!

びっくりした
よかった
怖かった

瞬時にたくさんの言葉と感情が浮かんだのに、口に出すのに選んだ言葉が「びっくりした」だった。

本心は「安心した」「よかった」だったのに!

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本心ではない言葉が口から出ている。無意識に選んでいる。

言葉を選んで使ってるつもりになってたけど、とっさの時の言葉はまったく意識できてない。

心があたたかくなるような、気分よく、すがすがしい気持ちにさせてくれる言葉や文章を目に入れるように変化させてきた。そして、自分が使う言葉もなるべく明るい気持ちのよい言葉を選ぶようにしてきたつもりだった。

…うわ〜、表面的だった〜。まだまだだ。

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意識するって、ちからが必要だ。

今までマイナスの言葉ばかりを使い、プラスの言葉を見ないふりしてきた。人より劣ってますよ風を装って、自分のなかの安寧に逃げ込んでいた。

自分の中には、言葉にもできないようなプラスもマイナスもなんでもあるのに、つい選ぶのはマイナスの言葉。

こんなのもう、私自身がいやだ。

主人には、私が「びっくりした」姿より「安心した」姿を想像してほしい。私の笑っている姿を見てほしい。

そしてなにより私自身が笑顔でいられるような言葉を使いたい。切実にそう思う。

身体を流れるきれいな水

こんにちは。

最近、息苦しくないですか?

この息苦しいは、ほんとに「息がしづらい」という意味です。

 

息苦しいのは「湿気」が一因だそうです。

湿度の高い日が続いて身体に悪影響となった時、体内では何が起きているのか?

身体の中を流れる水分は、本来はとてもきれいなものだそうです。身体のすみずみまでうるおいや栄養をいきわたらせる役割です。

それなのに湿気によって、ベタベタ、ネバネバ、と粘って濁って汚くなってしまうそうです。このネバネバが、体内のあちこちにべったりくっつく。そうすると、経路が狭くなってしまい、きれいな水分が流れにくくなる。

空気の通り道である鼻やのどもふさがれる感じがするので(実際にふさがれてる状態)、それで息苦しい。

なんとな〜く身体で感じていてわかったような気になってたことが、実際にそうだったと知って、あたまの電球が光りました💡ぴかーん☆

 

そして、身体の中を流れる水分はきれいなもの、これは知らなかった。というより意識したことがなかった。

私たちの体内を流れてる水はみずみずしく、栄養もたっぷりで、清らかなんですね。

自分の中の水はきれいだ、って思ったら、何だか褒められたような気分で嬉しくなりませんか? (^-^) そんなきれいな水が流れてるなんて、人間ってすごいな〜。 

はじめの一歩

こんにちは。

先日、” 養生 ”(漢方)について勉強中とお話しましたが、ちょっと発見があって面白かったので書きます。

「漢方の病因論」として、「内傷(七情)」(ないしょう・しちじょう)というものがあります。

 

内傷は体内・自分の内から起こるもので、七情とは七種類の感情の動きのことをいいます。

感情の動きが急激だったり、長く続いて、「過剰」となった時に、健康を害する要因となってしまうことをいいます。

七情には、「怒・喜・思・悲・憂・恐・驚」の七つがあります。それぞれ漢方でいう「対応する臓腑」があり、その臓腑の「気・エネルギー」が「七情」によって侵されると病気になる、という考え方です。

怒 → 気が上がる

喜 → 気が緩む

思 → 気を結ぶ、気がつまる

悲・憂 → 気が沈む、気が消える

恐 → 気が下がる

驚 → 気が乱れる

漢方をご存じない方も、なんとなくイメージできるのではないでしょうか?

怒り心頭に発す、といえば、頭から湯気を出して怒っている、血圧も急上昇、みたいなイメージが湧きますよね^^

この「」というのが言葉にしづらく、目に見えないものなのでわかりづらいと感じていたのですが、七情については、「気」を「声」や「身体(筋肉)の動き」に置き換えるとわかりやすい!ということに気づいたのです。

すなわち・・・

→気が上がる→ 声が上ずる。肩もいかってきて、頭からカッカと怒気が上がる感じ。

→気が緩む→ 声や身体がゆるむしまりがなくなったりフワフワしたりソワソワしたり、喜んでとび跳ねたりするので落ち着かない

→気を結ぶ・気がつまる→ 思い悩み過ぎて声がつまる・出ないぐっとこらえる感覚。身体も固まってぎゅっとなっている感じ。

悲・憂→気が消える・気が沈む→ 意気消沈声は小さくかすれ、消えるよう。身体も肩が下がって沈んでいる感じ。

→気が下がる→ 恐れるとしゃがみこむ腰が抜ける感覚。声も出づらくなる。

→気が乱れる→あわてふためく。声も乱れる。身体もガクガクとぎこちない動きになる、ふるえる感じ。

 

いかがでしょうか^^

対応する臓腑(五臓といいます)の「気」がまっさきに影響を受けるのですが、たとえば「思」であれば、対応するのは「脾・胃」といい、食べ物の消化吸収を担う臓器です。そのため症状として食欲不振になったり消化がうまくいかない、という状態になります。

そしていずれの七情も、対応する五臓とともに「心」という臓腑に影響します

」(しん)とは、血(けつ。血液だけでなく、栄養の源をいいます)を巡らせるとともに、精神活動(精神・意識・思考)を担っています

そのため、「思」(思い悩み過ぎ)は、「脾」「胃」とともに「心」にも影響します。

そうすると食欲不振プラス、動悸がしたり、集中力がなくなったり、不安感を持ったり、物忘れをしたり、眠れなくなったりとまったく「気持ちが落ち着かない」状態になる

対応する五臓に加えて、「心」のケアも必須になります。

さらに、「心」はほかの臓腑の機能もコントロールしているので、「心」が弱ると違うところにも影響してしまいます。それぞれの臓腑は、そのつながりの強弱はあるもののひとつだけで動いているわけではないので、ここだけ治せばいい、というだけでは済みません。

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「声」や「身体の動き」に置き換えるとわかりやすい、ということを発見したとだけ言うつもりが止まらなくなってきました。

漢方って、肉体のことだけではないんですね。こころや意識・思考についても身体の一部として捉えて考える

そして、逆も考えられるんですよね。

「脾」「胃」が弱ると思い悩みやすくなる。

「怒」に対応する五臓は「肝」といいますが、「肝」が弱ると怒りっぽくなる

「喜」に対応するのは「心」ですが、精神がどっしりと落ち着くためには体内の「血」が必要です。その血が足りなくなると、「心ここにあらず」な状態になります。血そのものが足りない = 貧血、だったりすると、頭にも血がいかずふわふわした感じになります。落ち着いてものを考えたりもしにくくなる。

さらに、「心」がコントロールする「血」を貯蔵しているのは「肝」という臓器です。「心」が弱って「血」が足りなくなってしまったら、「肝」もあわせてケアし、貯蔵量を増やすこと。すなわち、「血」の材料を摂り入れること。

・・・

ますます止まらなくなってまいりました。

私はまだスタート地点にも立てていないくらいの素人で、いまは暗記するだけで手一杯ですが、知れば知るほど目が開く感覚です。それぞれの臓腑のはたらき、感情の動き、そのほか季節、年齢、性差、生活環境などが互いに影響し合っている。

漢方は、「人」を見て、診ることができるんですね。その人のオーダーメイドで考えていけるところが、西洋医学とまったく違っています。

同じ症状でも、体質が違えば治し方も違う。

住む土地柄によって、出やすい症状や病気が違う。

季節や年齢で、気をつけることも違う。

これらって、考えれば「違って当たり前」のことなんですけど、意識しなければ流してしまうことでもありますね。

漢方を知ると、生活全般でいろんなことを試したくなるし、原因と結果のつながりがわかった時にとっても面白い!

なるほどなるほどなるほど~! ってなります。^^

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いやはや、まだ試験勉強中なのですが^^ お付き合いありがとうございます。

 

にごる言葉に親近感

こんにちは。

エレファントカシマシさんのライブに行ってから、ようやく今までに出ているCDを入手しあらためて聴き始めているのですが、宮本さんがライブで「エレファントカシマシ、いろんなタイプの曲があると思うんで」と言われていた通り、曲の振り幅が大きくて。

 

オールタイムベスト盤のあと、手初めに『DEAD OR ALIVE』を買い、Yちゃんに『俺の道』を借り「めっちゃいいわ!」と驚き、『ココロに花を』『明日に向かって走れ』『STARTING OVER』を入手し立て続けに聴いていますよp(^_^)q

……やっぱりアルバムによって曲の世界観の振り幅が大きいですね。どこを自分の基点にしたらいいかな(^-^)

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  (あえての裏面)

エレカシさんといえば、宮本さんのキャラクターが突出しているので、つい面白いからそちらに注目しておりましたが、ひとつひとつの曲を聴いてみると、割合聴きやすいものが多いのですね。

いやあの(^-^; 、意外に感じたのは、若い時のキャラクターを見ると、怖そうなところとひどく繊細なところ、傷だらけになってもその傷口をむきだしのままにしているようで痛々しく感じて、この人は笑わないし笑えないんじゃないか、と思っていたのです。

歳を経て、傷口を隠すすべを少しは見つけられていったのか、若干安心して見られるようになりましたが。

そしてすべて聴いたわけじゃありませんが、今のところダントツで好きなのは『俺の道』です! 

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実はうちは夫婦でハマっています。
主人は、一球入魂型、と言えばいいのか、気に入った数曲を何度も何度も何度も聴く。そしてちょっとずつ増やす。
私は、まずは網羅したい、と全部ザーッと聴いて、そこから気に入ったものを絞って繰り返し聴く。


主人は、あの箇所でのあの楽器がどうの、ファルセットはこの部分だ、みたいな細かな違いを楽しんでいる。
私は、音楽にも楽器にも詳しくないので細かな違いはわからないけど、通して流れるうねりや響きや勢いを楽しむ。

それぞれで、面白いですね(^-^)

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そして表題の「にごる言葉」ですが・・・

私はつい「自転車」を「じんしゃ」と言ってしまうのですが。

そしたら、エレカシの宮本さんも『Baby自転車』で「じんしゃ」と言ってました。あ、言う人いるんだ、とちょっとホッとしました。

そして、宮本さんと同じく、私も「いのしらこうえん」と言うと思います。(『リッスントゥザミュージック』)  

ほんの小さな共通点に、親近感が湧きました。

 

 YちゃんCD貸してくれてありがとう!!

いよいよ『ツイン・ピークス』

こんにちは。 

ツイン・ピークス』始まりますね。

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(画像はお借りしました)

ずっとずっと待ってました。

私のデヴィッド・リンチ好きは、年季入ってます。(まぁただ好きな期間が長いだけとも言いますが…)

 

ツイン・ピークス』を学生時に見て、その世界観に魅かれて『イレイザーヘッド』を見て(どちらもビデオです、ビデオ懐かしい)、なんじゃコリャ!!と思ってからずっとファンです。

90年代以降の日本に来た映画『ロスト・ハイウェイ』『マルホランド・ドライブ』『インランド・エンパイア』を映画館に観に行きました。いつも割と空いてるところがリンチだなと感じます。

たぶん誰も付き合ってくれないと思って一人で行ってましたが、一人で正解!  この世界を味わう(理解は不可能なので)には、一人の時間がどうしても必要です。

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今まさにWOWOWで第1話を特別公開中です。

ツイン・ピークス The Return』第1章 

http://news.mynavi.jp/ad/2017/entertainment/wowow/sp_r/

早速観ました。そうそうこれこれ、この世界。おなじみのリンチの世界です。懐かしい部分もあったけれど、新たな謎がたくさん出てきて気になってしょうがない。

リンチ作品は、もうなんなのかわからないままに引きずり込まれる。画面に映るすべてが妖しく疑わしく感じる。普段見過ごすモノや場所、色や音、表情や動き、光も影も、すべてに意味を持たせておいて、大小取り混ぜて散らばせる。毒々しい色合いで耳触りな音で、こちらの気を引く。訳のわからないそれらの中には、でもとても美しく純粋ななにかが隠れているので、それを見つけたくなる。

お借りした画像を見ると、クーパー捜査官も、オードリーも元気そうですね。さすがに歳を重ねてます。

さらに『マルホランド・ドライブ』で主演だったナオミ・ワッツや、『蝿の王』の時の少年姿が好きだったバルサザール・ゲティ(『ロスト・ハイウェイ』に出演)なども出演予定だそうです。

 

マルホランド・ドライブ』のキャッチコピーは「わたしのあたまはどうかしている」でした。映画を観てうなずきました。まったく理解できないまま映画館を後にして、ようやく最近になって解説しているサイトを読んで、そういう意味だったのか!  とわかった次第です。その間15年以上。15年以上もの間、わたしのあたまの片隅にはその世界がありました。理解は二の次で、ただリンチの世界に酔うことが心地よく楽しいのです。そしてそんな心地にさせてくれるのはリンチ以外にいません。簡単に理解させてくれるなんてリンチではない。デヴィッド・リンチはこうでなくっちゃ。

 

放映がとても楽しみですね!でもうちにはテレビがないので見れないんですけどね。ははは!(泣)