ことりのように

旦那さんと文鳥とオカメインコと暮らしています。日々のこと、思うこと。ことりのように自由にはばたいていきたいです

地震

 

今朝、7:58

ぐわんっというような、身体を突き飛ばされたような衝撃と揺れ。

揺れた時間は短かった。

 

東北の大地震の時は、大阪の都心部のビル23階にいた。あの時の揺れは長く長く、焦れるほど長く続いた。当地の被害も恐ろしいものだった。

 

今朝は職場である鍼灸整骨院にいた。朝8時から開院するため、準備に追われていた時だった。

横向きにゆらゆら揺れるというよりは、縦向きの衝撃を感じた。棚の上に置いていたものがバラバラッと落ちる。丈の高い植木の鉢が割れた。

出勤途中だった通院患者さんが飛び込んで来た。先生が閉じ込め防止のため扉を開けたと同時だった。先生と患者さんの3人で、揺れが収まってもしばらくそのまましゃがんでいた。

何が起こったのかわからなかった。しかし強い恐怖を感じて、「死にたくない!」と動揺し、ギュッと体に力が入った。

テレビがなかったので外がどういう状況かわからなかったが、すぐに商店街の役員の方が現時点の付近の状態を伝えに来てくれた。ネットでの情報も流れ始めた。

近くにお住いの患者さんも、様子を見に来てくれた。

私は落ち着かず、とりあえずできるルーティン作業を終わらせて、今日予約されている患者さんに電話をざっとかけ始めたが、午前中はほぼつながらず、とにかくかけ続けようと焦る気持ちだった。

浮き足立ち、肩が上がり、息が浅い。血圧が上がっている感じ。あとでドッと疲れが出るだろう、と思った。

震度1くらいの余震が短期間に起こっていたが、自分の血圧が上がってめまいのようにふらつくのか、本当の地震なのかわからなくなった。

数人の患者さんと電話が通じ、無事かどうか確認すると、食器が全滅した、とか、冷蔵庫の扉も開いた、とか、2階の部屋はものが散乱している、といった状況のようだった。

そうしているうち、妹、母、友人から確認のメールが届いた。自分がメールすることは頭から飛んでいた。慌てて返事をして、私も主人にメールをした。自宅は家具が倒れかかって、本や雑貨が落ちたようだ。食器も数枚割れたらしい。主人は出勤前で家にいてくれたので、私が帰る頃にはあらかた片付けてくれていた。

小鳥たちの様子が気になっていたが、文鳥は驚いて吐いた、と聞いた。プルプルッと首を振って吐いたそうだ。吐くことなど初めてだから、ものすごく怖かったんだろう。主人がいてくれて本当によかった。

昼までの勤務を終えて家に戻る途中、外壁が崩れて落ちたクリニックや、酒瓶が割れてカゴに入れて片付けていたコンビニ、コンクリートがめくれている道、道路はいつも以上に多い車の列、消防のサイレン、止まないヘリコプターの音、空気自体がざわついていた。

家に戻り、片付けをしたら、強烈な眠気と疲労感がきた。

不安と焦りで情報を得るための行動も空まわりしている。それでも、SNSはテレビよりよほど役に立ち、非常に助かっている。

関西の人々は、阪神淡路大震災を経験している方も多いからか、今できることをして、割合と落ち着いているように思える。

あの経験の前後では、どの人も“細胞が一気に入れ替わったように”変化したように思う。同じ人なんだけれど、質が変容した、というのか、考え方や生き方、行動のための基準などが大きく変わったように思う。

 

今日は昼から雨の予報だったのがどうにかもってくれたけれど、明日は降り出すようだ。

どうかこのまま被害が広がらず収まってほしい。

 

こちらは無事です。

どうぞ気をつけてください。

私の目

目が悪いことが、不便でもあり、コンプレックスでもある。

 

小学5年生の頃から視力が下がりはじめ、今では裸眼で0.01くらいの近眼で、最近は老眼も出て、しかも疲れやすくなってきました。

近眼だけど老眼だから、頼みの綱だった近くまで見えにくくなってきて、

「どこかちょうどいいところでピントが合ってくれないかなー」と都合のいいことを思うものの、そうは問屋が卸さないですね、見えません。

 

小学生からメガネをかけたり外したり。

高校生になってコンタクトをするようになったけれど、目にはよくなかったなと今では思うほど、疲れるし痛いし、眼球に傷が入ったりしてました。

コンタクトはしんどくなって、30代になってからはもっぱらメガネになりました。

度が強いので、メガネとの境で見え方の落差が激しく、ちょっとの段差でもおそろしいくらいの怖さを感じます。

そんな近眼生活、ずっとずっと「不便」「イヤ」「苦しい」「つらい」という気持ちで過ごしてきました。

でも今日は、それだけではないことに気がついたのです。

 

夜、飛行機の見える公園に行って、メガネを外してぼうっと滑走路を眺めていました。

滑走路や街に、いろんな色の灯りが点々とともっているのを眺めると、それぞれがぼやぁっと広がって見えます。

赤、緑、黄色、白、オレンジ、青…

滑走路に並んでついている、キャンディみたいな、宝石みたいないろんな色の灯りが、とてもきれいな雪の結晶の形に見えたのです。

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色とりどりの雪の結晶みたいなきれいな灯りを見ることができた。

そう思ったら、毎日毎日酷使しているにもかかわらず、ものすごく働いてくれている目に非常に申し訳なく思いました。

そして、目に頼りすぎている毎日なのに、目をいたわったりすることをまったく考えてなかったな、と反省です。気がつくのが遅すぎる。

 

目が悪いことは、不便であり、コンプレックスだった。

でも代わりのきかないものすごく大事なものだってことにようやく気がついたようです。

コンプレックスなんて、感じる必要はなかった。

あんなにきれいなものを見せてくれる私の目は、これっきりしかない。大切で大切で、大切なんだ。

シャボン玉石けん「香害」についての広告

シャボン玉石けんから、

「香害」についての広告がホームページにアップされました。

https://www.shabon.com/kougai/

 

集合住宅や電車などの公共の乗り物、学校やスーパー、病院など多くの人の集まる場所、どんなところでも当てはまること。

人間の「想像力」「意識」「思う・考える」が進化・深化することを願う。

 

最近の押し売り

最近の押し売りセールス

玄関先までお願いします」って言うようになった。

なぜそっちの都合で「出てあげないといけない」んだろうか。

こういうの、適当にやり過ごせなくて、むかっ腹が立つ。

なぜ腹が立つんだろう?

 

セールスは、いらないものを無理矢理売るために、一方的に自分の売り口上を言うため、言いたいことを言うため、にやってきますね。

それが、インフラである電力会社やらガス会社やらを騙っていても、押し付けるセールスには変わりない。

「あなたのため」という嘘をついて、押し付ける。

「おトクです」「みんなやってます」なんていう煽り文句をぶら下げて、さも「いいことお伝えしてます!」的な猫なで声で。

 

あなたのため、家族のため、社会のため。

本当に「私のため」なんて、よそのもんが考えてくれるわけない。利益で動く企業なんですもんね。

こちらからすると「いやそれはあなた、自分のためにやってるだけ」なわけですね。

玄関先までお願いします、って、まったくお願いされてない態度で言われてもカチンとくるだけ。でもまぁ押し売りって昔っからなくならないんですよねぇコレが。サザエさんの漫画にも出てきますもんね。

 

そう、そんなもんをカサにきて親切ヅラして押しつけてくることそのものにも腹が立つんですが、それだけでない、

距離感を狂わせ、ズカズカと入ってくる態度に怒りと恐怖と拒否感と嫌悪感を感じるのです。気持ち悪い。

これは境界を無理矢理越えて来ようとする気味悪さなんでしょう。

こちらに利益なんて一切ない押し売りは「玄関先」で帰ってもらいましょう。

玄関は、魑魅魍魎との唯一の境界線

蹴破るのは無理でも、ピッキングなんかではひとたまりもないような玄関。それでも玄関があってよかった。自分の身は自分で守れるよう、鍵かけてチェーンかけておくのも安全を得るためには必要なことだって心底思いました。

「玄関先」での攻防戦。

やつらは攻略方法をもっと考えないと「玄関先」から奥へは入れない。

入れるか入れないかはこちらの都合、こちらの判断、こちらの気分、などなど、こちらサイドで決めていい!

境界線を侵すヤカラは断固拒否してもいい。

**

最近の口上でよく耳にしており、でも気持ち悪い違和感を感じていたこの「玄関先までお願いします」の一言。

ただのハヤりかなぁと思っていたのですが攻略できないからこその「玄関先までお願いします」なんですね。

**

自分と他人との境界線、と一緒なんだ、と考えさせられました。

なんだかんだ押しつけてくる人には、こちらの都合、判断、気分、好き嫌い、で入れるか入れないかを決めていいのだ、とあらためて思いました。

ちょっとずつちょっとずつ

初めてお会いした時から、1ヶ月経ち、2ヶ月経ち、、、数ヶ月して、その人の体調がよくなり、自然な笑顔が出て、言葉も明るくなり…、

そんな変化を目の当たりにした時の、じんわりとした嬉しさと安堵を感じられることは、今まで知らなかった世界だなぁ。

数ヶ月に亘る先生の治療もあってそんな変化を遂げられているのですが、でももちろんそれだけではない。

ご本人の意識や行動なしには変化はない。

ご本人がちょっとずつちょっとずつ進んで、身体が楽になったことで気分よく過ごす時が多くなって、今、楽しく暮らしていけているなら、それはなによりのことですね。

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気持ちに無理せず、素直に身体や心を大切にされている方は、それほど滞りなく楽になっていかれるのだろうなぁ、と、あちこち痛む私は思います。

どうしたって、身体の動かし方なんかのクセは抜けないし、心の思い込みもあるし、意識はなかなか組み替えられないし。でも、今ないものより、今あるものやできていることに気づくと、あっ、私でもこんなに楽しく生きてるんだ、とハッとするのです。

そんな時に、私は私の身体にありがとうと思う。ずっとつきあってくれてありがとう。

 

『心が弱ったときのツボストレッチ』

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心が弱ったときのツボストレッチ』

なんかおもしろそうだったので買いました。

メンタルの不調に? どういうこと? と思って見ると、

⚫︎イライラ

⚫︎不安

⚫︎緊張

⚫︎眠れない

といった「ストレスといえば」的なものの他に、

⚫︎さみしい

⚫︎むなしい

⚫︎余裕がない

⚫︎気分が高ぶる

⚫︎くやしい

⚫︎苦しい 

⚫︎恐ろしい

などの項目があり、それぞれそうなっている時の「体の状態」も簡単な絵とともに書かれています。

心の状態身体の状態として見たらどうなっているのか? がわかると、不調を治すためにまず身体をどうしたらいいかがわかり、メンタル不調だけに囚われなくなる

心の不調はなにも悩みごとや心配ごとだけからくるものではなくて、身体の姿勢が悪かったり呼吸がうまくできていなかったりすることで心に影響していることもままあるのですよね。

心が弱いから、とか、ストレスが多いから、とか思い悩んだり、自分を責めたりしてメンタルの不調に陥ると考えがちですが、身体が冷えていたり固まっていたりすることで、気づかないうちに心も冷えたり固まったりするんですよね。

ツボ押し、などというと、素人だし難しいかな?と思いましたが、この本、かなりざっくりしています。

身体中はツボだらけと言ってもいいほどツボはあちこちにあります。だから、厳密にココ!と探さなくていい。

要は自分が気持ちよければいいわけですね。押すだけではなくさすったり揉んだり、これも自由自在。回数も自由。

ずいぶん気がラクです。

今日は快晴で気温も27度くらいまで上がりました。

高気圧だと低気圧のときよりは身体が軽く感じて楽なので助かるのですが、気温がぐんぐん上がった今日は、まだ暑さに慣れていない身体が「のぼせ」状態です。

のぼせ=身体の上部にエネルギーが溜まった状態なため、気が高ぶって頭がよく回る、回りすぎて空回りもする状態だった私。目も使いすぎて冴えてしまい熱くなっています。身体の内部が熱を持って、顔や目が痒くなっています。

交感神経が働きすぎていて、夜になってもなかなか副交感神経に切り替わらない感じ。

このままでは眠れなくなりそうと思ったので、ゆっくりめの入浴、ツボストレッチ、氷枕で冷やす、などなどの手を打ちました。

その結果、氷枕が効きました(^^;  少し呼吸も落ち着いて、眠りに入れそうです。

こんな風に自分で身体の手当てができるって、楽しいことですね。いやでもこんなことしてないで早く寝よう。

正しさ以外の世界

最近よく思う。

正しさは人を傷つけるんだなぁって。

私も今まで正しいか正しくないかという判断基準で考え行動していたところはおおいにあった。大切な価値観だと思っていた。

最近になって、いやそれでは誰も救えないし人を追い込むだけでなんにもならない、と思うようになった。

最近になって、ようやく、正しさをふりかざすことの幼稚さ、せまさ、自分で考えないずるさを感じるようになってきた。

最近になって、やっと、正しさ以外の世界の方が豊かで広がりがある、と思うようになった。

友人に、したつもりがないけれどアドバイスしたと受け止められ、ものすごく反省した。アドバイスなんて誰も求めてない。みんな、答えは自分の中にしかない。

いくら「私は〜と思う」「私はこうしてみたら〜だった」という言い方をして、けして「あなたのために」なんて言ってないと言い張っても、相手には余計な押しつけになってしまった。

その言葉たちは、熱意をもって渡した言葉でも、包むようにそっと渡した言葉でも、相手には届かないひとりよがりのものになる。

ひとつの言葉でも、捉え方も感じ方もみんな違う。だから私は私の言葉で表すしかないのだけれど、できたら、誤解のないよう、平易で、簡潔に、あたたかな言葉使いをしたい。

勝手な思い込みの正しさはいらないけれど、「言葉の正しさ」は、大事にしたい。私の大切なことのひとつとしたい。

これから生きるなら、正しさ以外の世界で、正しさ以外の価値基準をもって生きたい。