ことりのように

旦那さんと文鳥とオカメインコと暮らしています。日々のこと、思うこと。ことりのように自由にはばたいていきたいです

眠りにいいらしい?

さっき記事で読んだ。

「眠りに効く身近な食材3選!」というような題だったので、どれどれ?と読んでいくと、

コーヒー

ふんふん、香りがリラックス効果…、なるほど、では次は?

玉ねぎ

えっ!?けっこう刺激的では?これも香り成分に効果あり…なるほど…。イマイチ納得いかないけど…、じゃあもう1つは?

セロリ

うっそーん!!なんで?

セロリ嫌いやのに!成分的に…とかどうでもいいわ!スープにかけらが入っていても察知するくらい嫌やのに無理無理!

 

コーヒーはさておき、枕元に玉ねぎセロリが並んでたら悪夢見るわ!!

あとでもう一回読み直そう、と一旦閉じ、ふたたび検索したがなぜか見つからない…私のまぼろし??

私の本質に気づいてしまった

 

私は真面目で几帳面だと思われている。きっちりしている、とか言われることもある。

もしかしたらそんなとこもあるかもしれない、とか自分で錯覚しそうになってたけど、違ったぞ!

私はズボラで面倒くさがりなんだった!そしてだいぶぼんやりしている。この先なんにもせずにのんびりとぼーっとしていたいという野望を持っている。

 

早くのんびりしたいから作業をさっさと終え、早くのんびりしたいから手順をわかりやすく整え、早くのんびりしたいから工夫や改善に余念がない。

これが終わったらのんびりするぞー!と常に思いながら仕事や家事やもろもろのことをしているのです。

 

約束の時間より早めに着くように準備するのも、早く着いてホッと一息ついて自分を保ちたいから。慌てて駆け込むと自分がパニックになるからだ。

明日出かける時に慌てないように、前日から持ちものや着るものの準備をする。

そうしておくとあとはゆっくり休むだけ。あ〜準備してなかった〜と焦らずにすむからだ。

ものの置き場所をざっくりでも決めておくのも、そうしておいた方が考えずに取ることができて楽だからだ。

 

な〜んだ、私って几帳面でもきっちりしてるんでもないんだ。

ただただのんびり、ゆっくりしたい、がベースにあるんだね。それが私の本質なんだ。ぜんぜん逆だった。ははは、愉快愉快。

 

痛いのは一体「誰」?

 

夜中ちょっと雨が降ったらしく、朝見ると地面が濡れていた。

くもり空で、これからまた降るのかもしれない。少し肌寒い。首もとからひんやりした空気が入ってくる。

そういう天気の時はやっぱり頭部が重い。

見えにくいものを力を込めて見つめていて、あまり続けると酔ったようなめまいが起こりそうな時があるけど、そんなふうに目元が張って、凝っている感覚。頭の中をぎゅっと締め付けられるような感じがする。

今のこの頭の痛みを説明しようとして、人にわかってもらうように説明するのはどうにもやっぱり難しいとよく思う。

人によって痛みの感覚や表す言葉も違う。だから私が〇〇と言っても、人は△△と捉えるかもしれない。

 

そして、たとえば血管、たとえば脳、たとえば頭蓋骨、それぞれの「立場」で感覚を捉えようとすると、それぞれが違うことを言う。

血管なら、膨張する。

脳なら、その膨張した血管に押される。もしくは自分も膨らんでいるから頭蓋骨に当たる。

頭蓋骨なら、脳がぎゅうぎゅう押してくる。

それぞれの「立場」に立つと、痛みを説明する言葉がまったく変わるんだ。

では一体「誰」が痛いの?

 

血管からすると、膨張してたくさん血液を流そうと思ってるのに膨らんだ脳が邪魔してるから痛み発生。かもしれないし、

脳からすると、血管が膨張するから圧迫されて痛み発生。かもしれないし、

頭蓋骨からすると、脳が膨らんでどんどん押してくるから痛み発生。かもしれない。

 

三者の言い分だけでなく、他の要因もある。

さっき朝ごはんを食べたから、胃に血液が集まって頭方面はあまり流れなくなってるかもしれない。すると広がった血管にあまり血が行かず、血行が悪くなっている。

血行が悪くなると、上部にある頭だけでなく首や肩にも血が流れにくくなって、酸素や栄養が行かない。冷える。固まる。張る。痛み発生。

今ブログを書くことで余計に目元が張ってきた。痛み発生。いやしかしこれは眼球が張ってるの?目元の皮膚が張ってるの?それとも首のコリが目の痛みに影響してるの?どれ?

痛いって言ってるのは一体「誰」? 

 

それぞれが痛いって言ってると思ってるけど、だいたい頭蓋骨が痛いって感じるのかな。血管もそうだな。そしたら結局は統括する脳が判断してるってこと?

いやいや細胞は身体中にあるんだから、それぞれの細胞が痛いって感じることだってあるでしょう。

足の指を打ったのに、ひじが痛いとかないでしょう。お腹が痛いのにふくらはぎが原因とかないでしょう。

あれが…、これが…、、、、

 

…なんて暴走を続けるうちに、空は晴れ、地面も乾き、気圧も落ち着きました。

でも頭痛はやまない。

 

“絶対”って思わなくなった

 

歳をとってきて心底よかったと思う自分の変化は“絶対”がなくなってきたこと。

絶対のあとには「こうあるべき」「すべき」がたいがい続く。強い語気だ。そして“絶対”と“べき”で、二重に不自由になってる。

不自由だし窮屈だし、自分の小ささやせまさを露呈していてみっともない。

若い(幼い)時はちょっとしょうがない。経験もない知識もない、小さな世界で生きているから想像力も乏しい。潔癖でもある。だからなんでも自分だけのものさしで測って、決めつける。

不安だから。確たるものが自分にないから、外に求める。絶対こうだよね。絶対そうするべきだと思う。絶対、絶対。なんやねん、絶対って。。かっこわるい。

中年になって、そういう枷から自由になって、どんなこともあり得るし、どんなことも起こり得るし、どんなふうでもいいやん、と思えるようになった。

“いい加減”っていいな。とっても楽しい。

みうらじゅんの効用

 

みうらじゅんが好きなんです。いえ、がっちり好きなんではないけど、昔からずっと気になる存在です。

昔からずっと「サブカルの帝王」だと思ってたのです。

でも違った。

むしろサブカルみうらじゅんを追いかけてる! 

順序が逆だ。そういったカテゴリーには入らない人なんだ。

 

30代の時東京タワーに昇って、展望台のところのお土産コーナーに、みうらじゅんグッズが並んでたんです。よくわからないものがいっぱいで、ぜんぜん欲しくもならないけど、ついついじっくり見てしまう。

みうらじゅんってなにやってる人なんだろう? なんでもやる人だなぁと思って、雑誌やネットでみうらじゅんという文字を見るとついつい覗き見するような感覚で待ち望んでました。

長髪で、大きめの色の濃いサングラスをかけていたら自動的にみうらじゅんだと認識するようになり、ついにはゴスペラーズの人も、浜省も、鈴木雅之も、みうらじゅんとの差異が曖昧になるくらいになって、頭の崩壊が起きています。目もかすんでるようです。

なんでこんなに気になるんだろう?

みうらじゅん独特の世界、独特の感覚、先見の明みたいなものへの憧れがある。 

そして、好きなことを好きだと誰はばからず言い、好きなまま興味の向くままに進んでいたら、きっと自分が満足する、ということを教えてくれてる感じがするからかなぁ。

みうらじゅんはきっと、いつでも自然に息をしているんだ、と想像すると、そんな人がいてくれることにホッとして、勇気をもらえる。持っていることで安心する薬のような効用です。

 

言葉にならないこともある

 

生きるってすごいことだ。

先日のこと、年配の女性がごく個人的なことを話してくださった。

「私、病気をたくさん持ってるけど、最近になって、今日も生きてるのかぁっていう心境になってきたわ。そんな風に思うようになるなんて思わなかった。」

「そうですよね、生きているだけで、息をしているだけですごいことだって思います。」

「えっ?! あなたはまだ若いのに、そんな死生観を持ってるの。そういった考えを持つと、しんどいでしょう?」

「はい、しんどいです。でも、これしかできなかったのと、今はこれでよかったと思ってます。」

ほかにも、年齢を重ねて身体が思うように動かないことへのもどかしさや苦しさを話してくださった。

私も行く道だ。

息をすることができて、食べることができて、思い悩むことができて、腹を立てることができて、眠ることができて。

知らない間に、髪も伸び、爪も伸び、肌で空気の移り変わりを感じ、話すことができ、音楽を聴けて、青空も雨の日も空を見ることができる。

私は言葉が好きで、思うこと感じることを言葉にしたい、という欲をもっているけれど、どうしたって言葉にならないこともあることを知っている。それを知っていることは私を正気にさせる。なんでもできるわけじゃない。でもできることもある、という勇気を出せる。

生きることというのは、私に、ゆだねることを知らしめてくれる。

ただ生きているだけで、すごいことなんだ。

人にかける言葉はあったかく明るく優しいほうがいい

 

人にかける言葉は、あったかくて明るくて優しいほうがいい。

だってそれはぜんぶ自分に返ってくるから。

人に言っているようで、自分がいちばんその言葉を言ってほしいんだと思う。

もちろんグチったっていいんだ。ドス黒い言葉が出たっていいんだ。

どっちもあってあたりまえ、正しい・間違い、善悪、そんなもんはどうでもいいんだ。

あっ、今の私は「正しい」で動いてるな、とわかったらしめたもの、それもありだし、責める対象である人(他人だったり自分だったり)も、その状態でありなのです。

ずるくて、狭量で、浅はかで、だけど それを自分なりによい方向に変えていけるのも自分だから、自分を信じてあげよう。

今日の私は頭痛と眼痛がひどく、ちょっと動いてもズキッと脈打つような痛みが突き刺さる。薬を飲んでも治まらない。眠れない。

たまになることだから、以前は無理して病院に行って脳の検査までしたけど、結果なんの異常も見つからなかった。

今まで受診した医者たちは、目の前の私ではなく机上の画面データを見てばかり。要らない偏頭痛の資料をプリントして早く帰れと言わんばかり。医者ってなんなんだ。

すがるような気持ちで原因を知りたいと言っているのに、受け止めてくれるようには感じられなかったから、もうその辺の医者は信用しない、となった。信用するのはまず自分の身体だと思った。

季節的要因、天気、気圧、冷え、食べもの、最近の生活習慣、最近の気持ちの変化はどんな風だったか…

ちょっとした変化をできるだけ見逃さないようにして(見逃すけど)、そしてなるべく自分の身体を責めないようにして、感じてあげたいと思うようになった。

いつかは医者にお世話になるだろう。でも、半分以上は自分の身体と心が治していくものだと思う。

それまで、自分を信用する練習だ。今の自分を受け入れる練習。身体に感謝する練習。痛みは苦しいけど、この痛みは私のものだ。手助けはしてもらうけど、人に任せるわけにはいかない。