ことりのように

旦那さんと文鳥とオカメインコと暮らしています。日々のこと、思うこと。ことりのように自由にはばたいていきたいです

自分でいることを受け止める

自分を客観的に見ることって、できますか?

いくら発見があっても、それに気づけた私はすごい、と言ったとしても、たった一言のその「すごい」以前に何十倍何百倍もダメ出ししてますよね〜、自分に。自分にダメ出しするのは他人じゃない、自分。

自分のしていることを客観視できてないからだと思うのですが、人と比べて私なんてまだまだ、と言ってしまう。

その比べる人も勝手に設定した「なんかすごい人」で、実在しない理想の人、みたいなものなんですよね。

冷静に考えてこうだ、とか、客観的に見て、とか言ってたのが恥ずかしいくらいに、自分自身のことは見えてません。

客観的に見られたら、自分ができたことは認められると思う。できてないことは責めるのではなくて次へつなげる改善点、反省点だと捉えられると思う。

ものさしが他者。といっても勝手に作り上げた「なんかすごい人ものさし」で測るから、いつまでたっても自分を信じてあげられない。

私の一番の味方は私なのに。私を守ってあげられるのは私なのに。

私のために今日も身体を動かしてくれてるのは私だ。息ができて、ご飯が食べられて、笑えて、泣けて、すごいことしてる。私にとってすごいことをしている。

あと何年生きられるかわからないけど、最後までつきあってくれるのは自分自身。

なにかを始めたりやめたり、進んだり休んだり、困ったり迷ったり、悩んだりすることぜんぶ、私が決めていい。

自分自身でいることは、苦しいことじゃない。私であることを受け止めたい。

「相手優先・状況優先」問題は根深い

朝起きてすぐにすること。

ストーブを点ける、カーテンを開ける、お湯を沸かし朝ご飯の支度をする、小鳥たちの水や餌を変える…

今朝、気づきました。

朝起きてすぐにすることが、ほぼ「環境を整える」ことだった。

自分のことは後回しにして、まず部屋を暖めたり、明るい光を入れたくてカーテンを開けたり空気の入れ替えをしたり、コーヒーを飲むためのお湯を沸かしたり、旦那さんの朝ご飯やお弁当を用意したり、小鳥たちを起こしたり、そういったことを最優先にしていた。

「暮らす環境を整えること」「居る場所を心地よくすること」

はじめにこれらをすることが、当たり前の動きになっていた。して当然だと思っていた。して当然なので、朝早くから予定がある時は逆算して起きる時間を決めていた

私、人や状況をずっと優先してたんだ! 無意識で。習慣で。マイルールで。うわー、根深いことなんだ、と気づきました。

心地よく居られる場所(環境)を整えることは、良い悪いでもないし当然といえば当然なことかもしれないけれど、自分の身支度もしないうちにそっち最優先にするというのは、別にしなくてもいいことなんじゃないの? 私ばかりがしなくてもいいんじゃないの?

うちは大人2人暮らしだし、それぞれがそれぞれ自分のことを先にしてもいいはずなのに。

おそらくは、「環境を整える」「状況を優先する」ことが自分にとって大切だと思い込むことが以前あって、習慣や自分のルールや価値観になったのかもしれないなぁ。

ときどき、朝の支度をいつも通りしている時、自分のことを先にしている旦那さんを見て、ほんの少しモヤっとすることがあった。なんでやらへんの。

あぁ〜そうか! 私は、お母さん的な動きで「やってあげてる」のになんで手伝わないの、とか感じていた。そう感じたらモヤっとするしイラッとするわ。

私だけがなんでせなあかんの、と思うときは、私がそれを楽しめてないから。強制されているように感じて、心が納得できてないから、させられてる感を持ってしまう。したくないわけではない、できないわけでもない。でも、して当然なことでもない。

今の私にとっては、当然と思ってしてきたことが合わなくなってるんだな。自分で決めてきたルールだけど、それに違和感を感じているんだな。

環境を整えること、居る場所を心地よくすることは、今の私にとっても大切なこと。大切なことだから私の望むようにするしたくないときはしない自分で選べばいいんだな。

今回気づいたのは小さなことではあるけれど、でも今までまったく意識したことがなかったことだった。

身体に染み込んだ、疑うこともしないような動きや習慣。このほんのひとつひとつ、気づいて拾って見直してあげることができたのが自分でも驚きだったし、気づいた今の自分はえらい!と感じられた出来事だった。

して当然だと捉えることから、してもいい・しなくてもいいと選ぶことへ、変化した。自分で選択できるって、自由だ!

これからももっと自分の動きに目を向けて、昔からの窮屈な習慣や価値観を見直して、自分で選択できるようにしていきたい。

いちばん頼りになるのは

いったん信じてみた。その続きです。

いろんな人の言ういろんなことをいったん信じてみた。そしてできそうなことから行動した。行動して体験すると、ふむふむこういうことか、とわかる。ふむふむ、そしてまた体験する。

そんなことを繰り返していると、突如、もうお腹いっぱい、という状態になる。そしたらいったん休む。またはなんだかだるく頭痛もするかも、みたいな状態になる。そしたら休む。

進むスピードは自分が決めたい。どんなに遅くたって、焦ったって、進めないものは進めない。納得しないと進みたくない。人と比べて遅いかもしれないけど、そんなの知るか。私は私。

行動し体験したことでできたことや身になったことは必ずある。気づいたこともある。人より少ないかもしれない。でもそれが私なんだ。

求められるスピードに乗れないことは、恥ずかしいし辛い。情けない。それでも自分のペースで確実にものにするのが私なんだ。

こうした方がいいよ、早道だよ、という助言も耳に届かない。頑固に跳ね除けて聞かない。あまりいいことではないかもしれないけど、私は私。今はごめん、合わせられない。合わせる余裕ができたらしてみるわ。

みんなにいい顔して、みんなに優しくして、みんなの和を乱したくなんてないけど、周りが見えなくてひきつった顔をしていることだってある。

進むスピードは遅く、得たものも少なく、また以前の自分に戻ろうとする自分がいて、一進一退。誰よりも自分がもどかしく感じている。

 

自分にいちばんのダメ出しをするのは自分だけど、最終的にいちばん頼りになるのも自分なんだ。だから自分の意見を尊重する。周りと合わなくても、間違っている方法でも。

いったん信じてみた

いろんな人がいろんなことを言っている話。つづきです。

はえいや、という気持ちでいったん信じてみたんです。自分の声もわからない状態だったから。

善悪、正しい正しくない、好き嫌い、そんな自分の基準もよくわからなくなっていました。どこかから借りてきた「世間的には〜、一般常識では〜、といった思想」をそのまんま鵜呑みにして、これが合ってる、と思い込んでいました。

それに対していやだなんてことも思わないくらい、従うべきフツーのルールだ、とか思ってました。従っておけばラクだし、自分は正しい相手が間違ってる、と公正明大に言えますもんね。

ガッチリ信じ込んで私は間違ってない、と思っていたけど、でもちょっと待て待て、それ本当? 私の思うことなんて、そんな大層なもの? 必死にしがみついておくもの?

そして、世間がとか、親がとか、みんながとか、本当にそんなものいるの? 自分で吟味せずただ流されているし、しかもそんな理想の人間みたいなもの、どこにもいないぞ。ちゃんちゃらおかしい。

怖かったです。自分のガッチリした理想ルールに疑いを持つのは。

ちょっとぐらい揺れたって、ルールがガラッと変わったってどうってことないのに、そのルールを持っていることで自分を守っていたんです。

自分が変わることや、今までのキャラクターを脱ぐことは、怖かった。

いろんな人が言っている「手法」を試してみました。いろんな人のブログも読んでみました。

たくさん読むと、その人の書き方や言いたいことが積み重なって理解できるようになりました。そうしていくうち、内容が私には合わないとか、言うことはいいけど余計な文章が多くて読みづらい、と離れたものもあります。また、乱暴な書き方をしている人の文章はいくら素晴らしいことを言っていても、心にまったく届きません。

こうしたブログや自己啓発の本などは、通過点に過ぎないのでしょうね。必要な時に自分の中を通り過ぎていく。

あくまでも、自分にとって心地よい、と思えることを取り入れていけばいいのだと思います。人がいいと言っているから自分にもよいとは限らないし、自分中心に判断してよい。

しかし、自分の基準を持つってなんて難しいんでしょう。自分の判断に、自分の人生に責任を持つ、という覚悟をきめなくちゃなりません。自分を取り戻して生きるって、パワーがかかります。

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まだ手探りだし、進まないなぁって思うこともしばしばです。けれど、螺旋階段を上るように成長し進んでいるんだ、と自分を信用して日々を過ごしています。

自分で選んで自分で決めるって、とても厳しいし楽しい。

でも、生きてるって感じがします。

秋晴れ

いつのまにか紅葉していたメタセコイア

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ちょっと暗く写ってしまいましたが、葉っぱは朝日を受けるとレンガ色に光って見えます。

忙しくして、目の前のことしか見えてなかったから変化に気がつかなかった。

空を見ると、こんなに広くて大きいのに。

のどに違和感が出て、あ、これはいけない、と感じ、今の症状に合う薬はどれか?と市販の漢方薬を自分なりに調べて服用してみました。本当にそれが効いたかはわからなかったのですが(笑)、自分で選んだ、ということに満足です。

ちなみに、のどが痛い・のどが乾く・頭痛あり・寒気なし・筋肉のこわばりは少しだけ・発汗なし、で選んだのは、クラシエ「銀翹散(ギンギョウサン)」です。

少しの白湯に溶かしてゆっくり飲むと、のどの炎症や痛みがすーっとひきました。こんなすぐにひいてくれるんだ、とびっくり。自分で人体実験して納得しました。(おいしくはなかった)

先日、マヌカハニーも入手したので、小指の爪くらいの量を毎朝食べています。免疫力アップを目指して!(しかしマヌカハニーは高いですね…^^; )効くといいな。

みなさまも風邪にお気をつけて!

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エッセンスが残る

いろんな方々がいろんなところで言っていること。

最近、あっみんな同じこと言ってるんだ、と気づいた。

その時々に読んで、なんだか心に引っかかったこと。そうだ、と思ったこと、耳に痛いな、と思ったこと。詳細を忘れてしまっても、気になったところがなんとなく自分の中にとどまる。

自分の中にそれぞれのエッセンスが残る。

その時自分の言葉にならなくても、残しておこうと無理して言葉にしなくても、時間が経てば、自分の身になっている。

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ずっと心理や意識の物語(様々な方々が語る言葉や記事)を読んでいると、味方ができたような気持ちになる。
心に馴染むような、言えなかったことを言い表してもらったような安堵感。知らなかったことを知った驚きや発見。私もそうしてみたい、と願う気持ち。

もちろん書いている人により、「?」と思う記述もあるので、自分と合うか合わないか、なのだけれど。受け入れたくないなら、自分の声に従った方がいい。

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言葉って大切だな。

自分の身になる言葉なら、やっぱり心地よい言葉を内に入れていきたい。

自分を守るために、心地悪くなる言葉を見ない聞かないようにした。

テレビをなくしたことは私には有意義だった。いらない映像・音・色…。その場に縛り付けられることもなくなり時間もできた。(でもお笑いを見て、頭を空っぽにして大笑いする機会も減ってしまったので、ちょっとだけ残念)

充分満たされ余裕ができたら、少々嫌な言葉でも、「受け入れるか」「流すか」「拒否するか」を選べるように少しずつなってきた。

いったんシャットアウトすることが、私にはとても重要だった。アクセルとブレーキ両方を踏みながら、がんばってない自分はダメだと思い込み、休むなんて贅沢だと走り続けてしまうタイプの私には、自分自身からの責めに加えて、外部の情報を見続け、聞き続けることは、自分に対し非常に残酷な仕打ちだった。

自分で自分を守ることをしてこなかった私は、自分の叫びを人からの責めだと捉え、自身を追い込むばかりだった。

自分を守ったり手当てしたりなんてことをずっと知らなかったから、今もそういうところはなくなっていないけれど。

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今も、たくさんの言葉や物語が私の中にある。自分の言葉になるのを、私は待っている。

私が選んで、近づいて、つかまえた言葉のエッセンスが、私自身の言葉になるのを待つ。

たくさんの言葉を濾過したり、発酵させたりしてるんだと思っている。もどかしい時間だけど私には必要な時間です。

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たくさんの方のたくさんの文章を読んできて、ご紹介したいけどしきれない、そんな中、最近拝見したカウンセラーさんの記事です。

思考で感情を抑えることが習い性になっている私に、ヒントをもらいました。

『根本裕幸オフィシャルブログ』「本当は○○した方がいいのに、私は△△だ」は自己否定に他なりません。

https://nemotohiroyuki.jp/everyday-psychology/21961

欲と直感

こんにちは。

直感を無視して欲に走ると結局うまくいかなかった、ということありませんか?

40歳近くなってから、欲得で判断したり理屈で動くと最終的に望まない結果になるなぁと感じていました。

ちょっとしたことですが、飲食店に入って、「ん? なんかいやな感じがするな」とよくわからないけど感じてるのに、お腹が空いてるから、おいしそうなメニューがあったから、安いから、などなど、外的要因や理屈で考えてその場にいると、たいがいトラブルに巻き込まれます。

タバコの煙や匂いが強く流れてきたり、周りのお客さんがイライラして怒ってるところを見たり、とてもうるさかったり、店員さんの態度が悪かったり。どうにも居心地が悪い。

主観的なものなので、ほかの人に当てはまるかはわからないし、主観的に判断(好き嫌いとか)しているだけなのかもしれません。そして全部が全部ではなく、我慢できる時もあります。体調が悪い時は直感が働かなくてドツボにはまる時もあります。

主人も同じことを言います。一緒に出かけて、特に行きたいわけではないのに「せっかくだから」行ってみようとか、なんらかの欲が働くと、結局あとですごく疲れたり気分が悪くなったり、時間がかかり過ぎたりとロクなことがありません。

これって、自分の声、無視してますよね。

自分以外に、自分を守ったり満足させてあげられる人やものごとがあるのでしょうか。

自分が熱が出てしんどかったとしたら、たとえ準備してたとしてもわざわざ出かけたりはしない。身体で考えるとわかりやすいですよね。

それを理解したので、お店など、変だと感じるところに出くわしたら、すみやかに離れることにしました。

いやだと心が感じてるのにそのまま居続けても、好転することはない。

以前いた職場のことです。一番初めの面接の日程調整の段階で「な〜んかおかしいな、変なことする会社だな」と感じていたのですが、離職期間が開くのも不安だし他に受けているところもないから、と気持ちを無視して流して受け、いざ働き始めたら、そこに行ったことをすぐに後悔しました。

しかしその時は、自分の直感なんてまったく「意識の外」だったので、また「私ができてないからだ」とか自分が至らないせいにして、冷静に周りの状況を観察することもなく、我慢を続け、自分にムチ打ってました。

働くことはもちろん無駄ではなかった。得たことも多かったし、少しでも成長できた。でも、起こることすべてを自分のせいにして自分を抑え込んで痛めつけることとは違う。それはいらない。

押さえつけていた結果、今までの自分では考えられないような退職の仕方をしました。けれど、もうこれで自分を押さえつけなくていい!と自分の心が大きく跳ね、喜びました。

このことをきっかけに、自分のことを観察するようになり、徐々に気持ちを押し殺すことをやめ、なにより自分のことを認め、信じられるようになっていきました。

私は私の直感を信じてあげるんだ。私を守るのは私だから。